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2009年10月25日

「神から与えられた性」 イザヤ書43:1-7, マタイ福音書5:27-30
 
 姦淫とは、何なのか。女性に対して、みだらな思いを抱くこと、ここでイエス様は、行為だけではなく、思いをもって見ることも姦淫だと言われています。情欲をもって見ることは、相手を人格ある尊厳ある存在として見ていないのです。自分の欲望の対象として見ていて、欲求を満たす者として見ています。自分に必要なものではなく、欲しいもの、自らの欲を満たすものとしています。
 今朝の旧約聖書イザヤ書43章4節には、神様が人をどう思い、どう見ておられるかが示されています。そこには、神様が「わたしの目には、あなたは価高く、貴く、あなたを愛している」とあります。神様はあなたを価値ある者、貴い存在として見、愛しておられます。神様がそうであるのに私たちが人に対して、男性が女性に対して、欲の対象として見るということは神様の思いから離れてしまっているということです。相手をただ欲望の対象として見、そうあつかうことは決して神様に喜ばれることではありません。そのことをイエス様は人々に教えたかったのです。
 旧約の時代、女性の地位はとても低いもので、妻は夫の所有物のような財産と考えられ、夫の役に立ち、夫の要求や欲望を満たし、世継ぎの子を産み、その子を育てるもののように考えられていました。妻が夫の要求や欲望を満たせない時、夫は安易に離縁状を妻に突きつけ家から追い出したのです。新約の時代も同様な面がありました。ですから、イエス様は、離婚についての戒めを語りつつ、結婚の意義を語られました。(マタイ19章参照)一方的な離縁状は男性の身勝手な面の現れでした。その点、イエス様は安易に離縁状を渡すことも、情欲をもって女性を見ることも姦淫だと教えて、女性を物として見るのではなく、共に生き、互いに助け合い、仕え合う人であると教えられました。イエス様がここで姦淫の問題を鋭く問うておられるのは、人が人をどのように見るか、どのように受け止めて、生きようとするのかが問われているのです。現代は逆も言えます。女性が男性をただ性の遊びや楽しみのようにしてしまうとか、性を商品化してしまうとか、これらも同様の姦淫の罪であり、相手の存在を貴い価値ある存在として見ていないのです。ですから、イエス様は、性の問題で姦淫を取り上げながら、性を遊びとか、商売とかで身勝手に理解し、行動することを戒めながら、本来の神様から与えられた性、それを教えて結婚の意義を説かれたのです。
 性の問題で、若い人は、本当に悩み苦しむことでしょう。神様から与えられた性を神様に喜ばれるものとして行かなければなりません。身勝手な性の欲情にかられることは相手の価値ある貴い存在を無視したものであり、神様から離れた方向へと向かうことです。神様から与えられた性に生きると言うことは、それは神様によって結び合わされた結婚によって、共に生き、仕え合い、結び合わされる生き方なのです。そこに相手に対する尊敬、親切、誠実、愛があるのです。
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by higacoch | 2009-10-31 21:40 | マタイ

2009年10月18日

「叫び続ける声を聞かれる方」  エレミヤ29:11-14a, マルコ10:46-52
 
 先週「差別と日本人」という本を読みました。本の広告には「日本に真の平等は、存在しないのか。全国民、必読の日本人論」とありました。本は二人の対談集であり、一人は元衆議院議員で、部落出身の野中広務氏であり、相手はメディア等で活躍中の在日朝鮮人女性の辛淑玉さんです。二人とも差別を受けてきた人ですから、その体験は、日本人の差別感を浮き彫りしています。またさらに、日本人の国民性の問題だけに留まらず、人間の暗部の差別意識にも言及しています。
 さて、今朝の聖書の箇所に出てくるバルティマイという人物も人々から差別を受けていました。当時、盲目は神の裁きの結果だと考えられて、盲人は正式な仕事にも就けず、困窮し、乞食として生きていかざるをえませんでした。彼はエリコの町を通る人々に物乞いして生きていました。そんな彼が通り過ぎる大勢の足音を聞き、目の前で起こっていることが気になって人に聞き、イエス様がここを通って行かれたことを知らされました。すると、彼はすぐに叫んだのです。「ダビデの子、イエス様、わたしを憐れんでください」と。彼は何度も叫び続けました。周りの人が、「うるさい。黙れ。静かにしろ」と口々に彼を叱りつけたほどでした。しかし、イエス様はその叫びを聞かれ、彼を呼ばれました。彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のところにやってきました。彼が来ると、イエス様は「何をしてほしいのか」と問い掛けられました。すると彼はすぐに「眼が見えるようになりたい」と応えました。その願いを聞かれたイエス様は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。彼はこの言葉に驚いたでしょう。イエス様は「私があなたを癒して上げよう」と言われたのではありません。そうではなく、彼の願いを受け止め、そして彼が持っていたイエス様への思いをしっかりと受け止めて「あなたの信仰が、あなたを救った」と言われたからです。癒すのは私でない、あなたの信仰があなたを救ったのだと、言われているからです。
 バルティマイは差別を受けていた人でした。彼がイエス様に叫んだ時も、その彼の願いを人々が聞くのではなく、彼を叱り、黙らせようとしたのです。このように誰も彼の声を聞こうとはしませんでした。それに対してイエス様は、彼の叫びを聞き、彼を呼ばれました。そして、彼が心から願っていることを聞き、彼を癒し、彼に新しい生き方を示されました。彼は目が見えませんでした。霊的にもそうだったのです。その彼がイエス様に出会うことによって、肉体的にも霊的にも見えるようになったのです。そして、彼は自らの人生を歩み出しました。
 イエス様は叫び続ける声を聞かれるのです。人は人を差別し、ある根拠を持ち出して差別を正当化しようとします。イエス様は、バルティマイの苦悩の声を聞き、彼を癒し、救い、彼に新たな人生を与えられました。私たちも主に従う者となって、隣人の苦しみの叫びを聞き、共に生きる者となりましょう。
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by higacoch | 2009-10-24 18:12 | マルコ

2009年10月11日

『 聖霊の風の吹く時 』  エゼキエル書37:4~6、ヨハネ福音書3:1~16
                                     佐藤 岩雄 牧師

 本日、登場するニコデモという人物は、他人から見れば、とても順調に人生を歩んでいるように見えながら、その実、心の中では、なかなか人に打ち明ける事の出来ない不安をもっていたのかもしれません。イスラエルの国を代表するサンヘドリンという議会の議員であり「無垢な、けがれの無い」という名前をもったニコデモは、ユダヤ教の厳格な家庭に育った事が容易に想像できます。彼は、社会的地位の高い、実力もあり、尊敬も集めていた評判の良い市民と、いわば上流階級を代表していると言って良いかもしれません。
 しかし、ニコデモは、2節を見ますと「ある夜、イエスのもとに来て言った」というのです。つまり、お忍びで、人目をさけてイエスのもとにやってきたというのです。彼は夜、主イエスに会いに来たのです。そのニコデモに、イエスが語られたのは、「生まれ変わる」ということです。つまり、人生の全ての方向転換をしなければいけないような話しでした。
 聖霊は、自由に吹きます。私たちの思いを越えて、人生の方向が変えられるという事でしょう。イエスと出会うというのは、私たちの人生が変えられる出来事だと聖書は告げています。聖霊は、しかし、自由に吹くだけではありません。自由に吹く、その聖霊なる神が、教会を建てられたと聖書は、伝えています。あのペンテコステの日に、聖霊が教会をたてたと使徒言行録は伝えています。風が強い時などに、この葉が吹きだまりを作ることがあります。そのように、聖霊なる神は、至るところで吹き、そこで共同体をつくられていくのです。私が今、行く準備をしているケンタッキー州においても同じ神の業がおきています。
 私たちは、このような信仰共同体である教会がいったいどこから来て、これからどこへ行くのか、その全てを知ることはできません。しかし、聖霊は一時的なもので吹きぬけて終わるのではなく、今も、私たちを導き続けて下さるのです。
 ニコデモは、この神の導きのうちに歩み始めるという事に躊躇をもっていたようです。彼は、「どうしてそんな事がありましょうか。」と叫びました。しかし、主イエスは、そのニコデモに、人の子も、つまり、自分も上げられなければならない。それは、信じる者が永遠の命を得るためであると言われました。 主イエスは、ニコデモに、私についてきなさいと言われたのです。ニコデモの努力した延長線に神の国があるのではなく、主イエスの与えようとしておられる使命に、命に生かされることが語られています。
 主イエスキリストが、十字架に上げられ私たちの罪を赦しと復活されたことにより、私たちに、はっきりとした目当てを示してくれたのです。私たちは自分たちの殻の中にだけ閉じこもっているわけにはいきません。そこから出て、神の見せてくださる新しい世界に踏み出していくのです。主イエスは、今日も、私たちを招いて下さっています。
 「それは、信じるものが皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
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by higacoch | 2009-10-17 21:57 | ヨハネ福音書

2009年10月4日

「人間の罪」  哀歌2:15, マタイ福音書27:27-31

 私が教会にきたての頃、ある勉強会で「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、ざいにんを招くためである」(マタイ9:13)と読んで、「罪人」は「ざいにん」ではなく、「つみびと」と読むと訂正されたことを思い起こします。聖書は言うのです。「義人はいない。一人もいない」と。「すべての人は罪を犯している。すべての人は罪人だ」と。聖書語句辞典によれば、罪とは神に背くこととあり、罪人は神に背いた人であり、隣人を愛さなかった人であります。
 そこで私たちの罪を考えたいのです。罪は人との比較で解るものではありません。あの人、この人の行動と比べて解るものでもありません。罪が罪として明らかになるのは、イエス様の前に立つ時であり、私たちの罪はそこに置いて最も深くあらわにされます。その点、今朝の個所は人間の罪が最も深く浮き彫りにされ、はっきりと示されている個所と言えます。旧約聖書で言うならイザヤ書53章でしょう。イエス様は私たちの罪のために苦しまれ、十字架の上で死んで下さいました。しかし本当のことは解らなかったし、十字架の周りにいた人たちにも解らなかった。それどころかイエス様を殺すことが神の御心に沿った事だとさえ思っていた。
 ローマ兵の愚弄と侮辱、巡礼者たちやユダヤの指導者たちの罵り、このように周りの者はイエス様を侮辱し、罵しり尽くしました。それに対して、イエス様は十字架の上で苦しみながら、彼らに復讐しようとされたでしょうか。こうした罵りに対して憎しみをもって罵り返されたでしょうか。そうではありません。信じられないのですが、イエス様は十字架の上でこう祈られたのです。「彼らを赦して下さい」と。彼らの「何を」赦して下さいなのでしょうか、それはまさに彼らの罪、彼らが犯している罪、この罪を赦して下さいと祈られたのです。このように父なる神に執り成しをされています。そして「彼らは自分たちのしていることがわからずにいるのですから」と。
 人間の罪がここに明らかになっています。こうした人間の罪が現代では身近な所では家庭に現れてきています。家庭内暴力、虐待、ネグレクト等に。私たちは自分の罪を知った時、その罪を見つめ、砕かれるのです。砕かれた者には、主が近くに居て下さいます。そして主が砕かれた者を救って下さいます。
人間の罪、それは決して人間が自己解決をしたのではなく、神が解決して下さり、私たちを生きるようにしてくださったのです。 ヨハネの手紙に、こうあります。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪をつぐなういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と。これほどまでもして私たちを愛し、神の愛によって生きるようにして下さったのです。人間の罪を赦して下さり、神の愛で生かして下さった救いの恵みを心から感謝して、歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2009-10-10 13:43 | マタイ