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2009年8月30日

「悲しむ人々は幸い」 マタイによる福音書 5:4    
                      唐澤健太牧師 (国立のぞみ教会 牧師)
 
 
 青年時代に失恋し涙を流している時に友人が祈りの中で、「悲しむ人々は幸いである」と冒頭で祈ってくれた。私を励ますために祈ってくれたのは分かったし、その心はありがたかった。しかし、心をかき乱される思いがしたのを覚えている。「悲しむ」という言葉には「死別の悲しみ」を意味するギリシア語が使われている。それは私たちの経験する最も深い悲しみである。もし深い悲しみの中でうめいている人を前に「幸いなるかな、悲しんでいる人は」と言い放ったとしたら、それは怒りさえ引き起こしかねない非常識な言葉となるだろう。
 しかし、主イエスは「非常識」な言葉を語れたのだ。それはなぜだろうか。その問いが心にずっと引っかかっていたが、ある時「それは、悲しむ人々が現実に、目の前にいるからだよ」と語りかけられたように思った。
 私たちは少しでも悲しみの少ない世界、人生を望む。しかし、現実には、そこここに人間の悲しみがある。私たちの中にも悲しむ時がある。その悲しみのただ中で「幸い」を告げられることに怒りを覚えることもある。だが、その深い痛みを伴うような悲しみの中で「幸い」を必要とするのも確かではないか。私たちは「悲しむ人々は不幸である」というこの世界の常識だけでは生き切れない色々な悲しみを背負って生きているのだ。だからイエス様が「悲しむ人々は幸いだ」、「祝福あれ、悲しむ人々に」と言われたのはまさに神の救いの宣言であり、悲しむ人々をそのままにして置かれないという神様の想い表れなのである。
 重度の「しょうがい」を抱えながら、瞬きを使って詩を詠んだ水野源三さんの詩に「主よなぜですか」という題の詩がある。源三さんの母上が天に召された時のことを詠んだものだ。「主よ、なぜですか。父につづいて 母までも み国にめされたのですか/涙があふれて 主よ 主よと ただ呼ぶだけで つぎの言葉でてきません。主よ あなたも わたしと一緒に 泣いて下さるのですか」。
 聖書の中で最も短い節は、英語だと二語だと言う。“Jesus wept”「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)。弟ラザロが死に「主よ、どうしてここにいてくれなかったのですか!」とマリアとマルタはイエス様に泣きながら詰め寄った時に、イエス様は皆が泣いているのを見て、「涙を流された」のである。イエス様は誰よりもその深い悲しみを知ってくださる方なのだ。「涙は神がおわかりになる言葉なのです」(ゴードン・ジェイソン)。
 流す涙を受け止められ、その涙が虚しく流れるのではないことを知った者は、幸いである。主の言葉はそのように私たちに響いてくるのだ。そして、そのことを知った者は、自分の涙に新しい涙を加える。「 泣く者と共に泣きなさい 」( ローマ12:15)。主イエスが涙を流されたように、私たちも悲しむ人々と共に涙をし、そしてそこで主イエスにある幸いを分かち合うようにと召されているのである。
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by higacoch | 2009-08-31 19:44 | マタイ

2009年8月30日

「正義と公平」  イザヤ書 11:1-10, マタイ福音書 5:9

 預言者イザヤの時代、ユダヤの国は南北に分かれていて、イザヤは主に南ユダ国で活躍しました。南ユダ国の王が軍事大国アッシリア帝国に頼ろうとした時、イザヤは神のみに信頼し、静かにしていなさいと進言しました。しかし王はアッシリアに頼って国の安寧を求めました。そして一時的には滅亡を免れるのですが、その後の新たな軍事大国バビロニア帝国によって滅ぼされてしまいます。これがユダヤの歴史の中で「バビロン捕囚」と言われるものです。このバビロニア帝国も後にペルシャ帝国に、ペルシャ帝国はマケドニアのアレキサンダー大王によって滅ばされていきます。武力をもって隣国を侵略した大国は、武力によって滅ばされていきました。これは主イエス様が「剣を取る者は、剣で滅びる」と言われた通りなのです。剣をもって平和を創り出すことはできません。
 ここにはイザヤが神から与えられた幻が二つ記されています。一つは1~5節、もう一つが6~9節です。この箇所のまとめとして小見出しに「平和の王」とあり、6節以降の幻がそれを良く表しています。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれらを導く。・・・。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」と。人間の世界も、獣の世界も、弱肉強食の世界であり、相手を餌食としてしまう世界の中に生きている私たちにとっては信じられない世界です。軍事大国が次々に周辺国家を侵略し、隣国を蹂躙していた時代に活躍したイザヤにとっても信じがたい光景でした。しかし、この光景が神から預言者イザヤに与えられたのです。ここには神による平和が示されています。イエス様が「平和を創り出す者は、幸いだ。彼らは神の子と呼ばれる」と言われたのですから、どんなに小さな一歩、遠い道のりであっても祈り求めていくべきだと信じます。相手に軍事力で恐怖を与え、防御のためには必要悪だと、軍備を持ち、増強し続けるのは、戦いはなくても平和への道ではありません。
 預言者イザヤが与えられたもう一つの幻は、一つの切り株からひとつの芽が出てきたというものです。切り倒される木は、南ユダ国が滅びるということです。しかし、やがてその切り株から一つの芽が出て、それが育ち、若枝となる。その若枝は主の霊に満たされている。この若枝こそ主イエス様であり、弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人を公平に弁護する方であります。イエス様はナザレの会堂で言われました「主の霊が、わたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたから・・・」と。主イエス様はこの罪の世界に神の正義と公平を表して下さいました。弱い人も貧しい人も共に生きることができる、そこにこそ正義と公平があるのです。
 神は私たちを愛して神の民として、私たちが真の平和が創り出していくように導かれていることを覚えたいものです。
 
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by higacoch | 2009-08-31 19:41 | イザヤ書

2009年8月16日

「戦争を引き起こすもの」   イザヤ書 5:1-7、 ヨハネの手紙一 3:15

 戦後64年が経ちました。生き証人が少なくなってきていますが、戦争を風化させてはなりません。戦争の残虐さや悲惨さを次の世代に伝えていかなければなりません。
 今年も広島と長崎で平和宣言が為されました。どちらもアメリカ大統領オバマ氏が「核兵器のない世界を目指す」と宣言したことを取り上げました。核保有国の中で超大国であるアメリカが核兵器廃絶に向けてようやく最初の一歩を踏み出した歴史的な瞬間でした。しかし、その翌月には北朝鮮が2回目の核実験を強行しました。悲しい現実であります。64年前の原爆よりももっと強力な爆弾が、この地上には数え切れない程に保有されています。こうした核爆弾を人間が戦争のために創り出したのです。
 今朝の旧約聖書のイザヤ書に、人間たちの争い、流血が記されていますが、ここは、預言者イザヤによって、神の嘆きと人間の罪への糾弾が為されている箇所であります。神は「わたしは、あなたがたである良いぶどうの木を良い地に植え育てたのに、あなたがたは良い実を結ばず、酸っぱい実を付けた」と言われるのです。あなたがたは独占欲に駆られ、貧しい人々の土地を奪い、自分の財産を殖やして悪を重ね、争いが起こり、流血が為されていると。
 かつて、日本は、アジアを侵略する時、大東亜共栄圏を作ろう、ヨーロッパの国々の植民地支配からアジアの諸民族を解放し、共に栄えていこうと打ち上げ、解放者日本のイメージを大々的に広めていきました。しかし、実はアジア諸国を侵略し、土地を奪い、その民の名を奪い、神社参拝を強制し、天皇のための兵隊になるように皇国臣民になるように教育していきました。
 人が欲に駆られ、隣人のものを奪い取る時、そこに争いが生じ流血が起こります。国が隣国を奪い襲う時、戦争となっていきます。戦争を引き起こすもの、それは人間の罪です。神は人間の罪を糾弾されました。
 預言者イザヤは、神の嘆きと人間の罪の糾弾だけを伝えたのではありません。そんな罪深い人間をも救う神の計画をも伝えました。それが7章に記されているイエス・キリストの誕生です。平和の王として地上に来られたイエス・キリストは言われました。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と。私たちは戦争ではなく、平和を創り出すことを求められているのです。
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by higacoch | 2009-08-22 18:01 | イザヤ書

2009年8月9日

「弱き者を救い出す」    詩編121:1-8、ルカ福音書18:1-8 

 いよいよ裁判員制度による裁判が始まりました。中会女性大会が行われた5月21日がスタートの日でありましたが、その最初の公判が東京の地方裁判所で行われ、その様子が逐次細かくニュースで取り上げられていました。 
 さて、今朝与えられました聖書箇所にも裁判官が出てきます。この裁判官は不正な裁判官と言われています。イエス様は不正な裁判官を取り上げて何を語ろうとされたのでしょうか。それは「気を落とさずに祈らなければならないことを教えるため」でした。こうしたことを思いはかると弟子たちは気を落としそうな状態であったのでしょう。だからイエス様が譬えを話されました。ここで執拗に裁判を求めたのは一人のやもめでした。
 当時のユダヤではやもめは社会的な弱者でした。女性の証言は有効と認められませんでしたし、しかも彼女のために弁護して証言してくれる男性、つまり夫はいませんでしたから、非常に不利な立場におかれていたのです。このことを裁判官は知っていましたし、だから最初うるさいと感じても取り合ってくれず、そのうちに諦めるだろうと目論んでいました。しかし、やもめは引き下がりませんでした。そのしつこさにさすがの裁判官も根を上げます。彼女のしつこさに閉口した裁判官はこう言っています。「わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」と。この「さんざんな目に遭わす」という言葉の元の意味は、「目の下を打って青黒いアザを付ける」という意味で、それほどやもめは執拗に願ったのです。
 イエス様は言われました。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は昼も夜も叫び求めている者のために裁きを行わず、何時までも放っておかれることがあろうか」と。そして、続けて「神は速やかに裁いてくださる」と。不正な裁判官でさえ願い続ける時には動く、ましてや神は弱い者の叫びを聞いて下さるのだから、祈り続けよ、と弟子たちに教えられたのです。
 神は、弱き者の叫びを聞いて下さいます。イスラエル民がエジプトで奴隷として苦しめられていた時、神はモーセに言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえに、わたしは降っていき、エジプト人の手から彼らを救い出し」と。イエス様も、神は弱き者のために「裁きを行わず、いつまでもほうっておかれることはありません」と言われています。イエス様自身も人間となられ、弱い私たちを憐れみ、命を賭けて愛して下さり、救い出して下さったのです。それはイエス様の十字架の死と復活によって解ります。求道中の方々に、イエス様の愛をしっかりと受け止めて、信仰の道を歩み出して頂きたい。イエス様は世を裁くためだけに来られたのではなく、イエス様によって世が、あなたが、救われるために来られたのですから。
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by higacoch | 2009-08-15 19:36 | ルカ

2009年8月2日

「隣人となる」     申命記6:4-7、ルカ福音書10:25-37

 今朝の説教題は「隣人となる」ですが、先日、本屋さんでNHKラジオ放送テキスト「イエスのたとえ話を読む」の中に「隣人になる」という題で話が載っていたのを見つけました。「カトリック生活」(月刊誌7月号)でも「隣人になる」という特集を組んでいるのを知り、早速どちらも取り寄せて読みました。この譬え話は中高生には、よく知られ愛され親しまれているものだということです。夏のキャンプの寸劇ではよく取り上げられ、多くの若者たちがここから「人に親切にすること」が大切だと受け止めるのだそうです。
 今朝の聖書箇所で律法学者が最初、イエス様に尋ねたのは「わたしの隣人とは、誰ですか」でした。彼の関心は「誰が隣人なのか」であり、隣人という枠に入る人は誰なのかと問うているのです。ですが、イエス様はこの問いに応じて答えておられません。イエス様は枠を決めて隣人愛を考えることができなかったからです。
 ここでの、律法学者の問題は、二つあります。一つは、彼らが聖書をどう読んでいたか、と言うこと。イエス様は彼に問われました。「あなたは、それをどう読んでいるのか」と。聖書をどう読むか、自分の側から読んでいくのか。それとも、神が語られている言葉として聞いて読んでいくのか。これには大きな違いがあります。彼の中には律法学者として伝統的な律法の教え(枠内の知識)があり、その教えが先にありました。ですからかえって神が語られる言葉を聞くことができなかったのです。もう一つは、隣人の理解の問題です。これも既存の理解が彼にありました。隣人の枠を決め、その枠をもって隣人を考える理解です。しかし、イエス様は、そうではありませんでした。隣人とは、ある決められた枠内にいる人ではなく、苦しみ、悲しんでいる人と出会う時、その人は自分にとって見知らぬ人であっても、あなたの生き方として、あなたがその人の隣人となるのかどうかが問われることだったのです。だからイエス様は「誰が、その人の隣人になったか」と問われたのです。そして、律法学者が「その人を助けた人です」と答えた時に、「あなたも同じようにしなさい」と教えられました。それは、あなたも「隣人となりなさい」なのです。
 ですからこの箇所は、単に「人に親切にしなさい」と教えているのではありません。親切ではなく、愛の問題なのです。隣人を愛するということであり、それはその人の隣人となる、その人に近づき、その人のために仕えることなのです。
 このことを教えられたイエス様は、教えただけではありませんでした。私たちのために自らの命をも捧げて神の愛を表して下さり、私たちの「隣人となって下さった」のです。
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by higacoch | 2009-08-08 13:42 | ルカ