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2009年5月31日

「神の偉大な業を語る」    ヨエル書3:1-5、 使徒言行録 2:1-21

  教会とは、ギリシア語でエックレシアと言います。この言葉は、「エック」と「クレシア」との合成語であり、「共に呼び集められた者たち」という意味があります。ペンテコステは、教会の誕生日です。イエス様の約束通りに、この日に、弟子たちに聖霊が注がれました。その聖霊は、弟子たちにまとめて注がれたのではなく、炎のような舌が現れて、分かれ、一人一人に注がれました。聖霊は個別的に働いていると言えるでしょう。実際、弟子たちは外国語を語り出しましたが、皆が同じ外国語を語り出したのではありません。一人一人は、各々違った外国語を語り出しました。こうして言えることは、ペトロにはペトロの働きが、ヨハネにはヨハネの働きが与えられたということです。同じ働きを与えられたのではなく、個別的な働き、その弟子に固有な働きが与えられたということなのです。しかし、弟子たちが話した内容は唯一、イエス・キリストの出来事でありました。イエス・キリストによって現された神の偉大な業、すべての人の罪を贖う十字架と復活の出来事でした。それを聞いた人々は心動かされ、イエス様を救い主として信じて受け入れ、その日に洗礼を受けました。こうして信仰者の群れが起こされ、教会が建て上げられていきました。
 ペンテコステの出来事で神の偉大な業が語られて、教会が建てられたということは、教会がその神の偉大な業を知らせていくことが何よりも大事だということです。教会が神の偉大な業を伝えるのを、よい時期を考えたりして、その時にすればいいというのではありません。周りの状況が良くなってからとか、あるいは教会がある力をつけてからというのではなく、いつでも伝えるべき事なのです。もし教会がそうしなければ、教会は教会ではなくなってしまうでしょう。
 教会は神の力である聖霊を頂いて、イエス・キリストによる神の偉大な業を語って行かなければなりません。それは神様から呼び集められた者たちの使命であり、一人一人はその務めに召し出されて生かされているのです。私たち一人一人も神様の偉大な業を今日も伝えていきましょう。
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by higacoch | 2009-05-31 15:36 | 使徒言行録

2009年5月24日

「 うちがわへ 」 申命記 30:11-14、マルコ福音書 3:20-35
                          荒瀬牧彦牧師(めぐみ教会牧師)

        
  この聖書(よいほん)のことばを
 うちがわからみいりたいものだ
 ひとつひとつのことばを
 わたしのからだの手や足や
 鼻や耳や そして眼のようにかんじたいものだ
 ことばのうちがわへはいりこみたい       (八木重吉)

 福音書で、主イエスのガリラヤ宣教の記事を読んでいくと、主イエスがガリラヤの苦しむ人々の現実の中にずんずんと突き進んでいったという印象を受けます。ご立派な宗教家や指導者たちは、「悪霊につかれた人」などには関わろうとしなかったのですが、主イエスは深く関わっていくのです。そして、それゆえに「あいつは悪霊の頭ベルゼブルの力であんなことをしている」というひどい中傷を浴びることになるのですが、それでもイエスは逃げようとしませんでした。そして、主イエスに従う弟子たちも、人々の現実の中へと入り、「食事をする暇もないほど」になっていました。大変なことです。でも、それこそが「うちがわからみいる」経験だったのです。
 反対に、「身内の者」や「エルサレムから下ってきた律法学者」は、ただ外側から眺めて、的外れの批判をするだけでした。それは要するに、自分の保身をはかっているだけのことだったのです。主イエスの母や兄弟たちも同じです。彼らの問題点を端的に現わしているのが、「外に立ち」という言葉です。主イエスが神の言葉を語っている「家の中」に入って、他の人々と一緒にみことばを聴こうとはしなかったのです。
「わたしの母、兄弟とはだれか」とは冷たい言葉のようです。でも、それは拒否ではなく、神の家族となることへの招きだったのではないでしょうか。<さあ中に入って神の言葉を聞いてください。神の国がここに来ているのです。>
 イエス様はいつも「当事者」として渦中に立っておられます。そして、出会う人たちにも、神の出来事の「当事者」となることを求められるのです。中へと踏み込まないと、聖書の真意はわからないのです。神の御業はわからないのです。ああ本当に、「ことばのうちがわへはいりこみたい」。
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by higacoch | 2009-05-30 15:41 | マルコ

2009年5月17日

  「種まき」      イザヤ書6:8-13, マルコ福音書4:1-20

 昨日、中会行事の平和講演会が行われました。講師は村上伸先生で、裁判員制度が始まるにあたって「死刑をどう考えるか」というテーマで学びました。旧約聖書では、モーセの十戒で「殺してはならない」と教えているが、同時に「同害復讐法」が適用され、死刑を認め、執行していたということ。それに対して、新約聖書の主イエス様の教え(マタイ5:21~)は同害復讐を認めず、むしろ相手を赦し、和解することを教えています。この教えを初代のキリスト者たちは受けいれて生きるように努めましたが、キリスト教がローマ帝国の公認宗教となってから支配者の宗教となって、主の御言葉に聞かなくなり、国家秩序の観点から戦争、異民族征服、魔女狩りなどを正当化していき、死刑を神の名の下に実行していくようになったと村上先生は話されました。こうしたことを思い起こしながら、イエス様の御言葉を聞き続けることの大切さを、改めて教えられました。
 イエス様は「種まき」のたとえ話で御言葉を聞いて受け入れ、御言葉によって生きることを教えておられます。種には命があります。イエス様は、種にまつわるたとえ話をよくされました。「天国はからし種に似ている」とか、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とか語られています。
 種は神の言葉です。種は、ここに書かれているように蒔かれる場所によって、それが育つのか、涸れるのかに分かれてしまうというのではありません。そうした受動的な面だけがここで理解されるだけなら、イエス様が言おうとされたことを十分に理解していないと思います。種には、積極的な面が大いにあると思うのです。つまり、種の運命が蒔かれる場所によって決まるのではなく、種は神の言葉ですから、蒔かれたところを耕すことができるのではないでしょうか。種が蒔かれた場所を開墾する、そこが良くない石地であっても、その種が持つ力を十分に受け止めるのなら、その種が蒔かれた所は、少しづつ耕され、良い地になっていくでしょう。 
教会は、種まきをしていくのです。どんな時代であっても、どんな社会の価値観が変わっても種まきをしていくのです。その種には命があるのですから、それを蒔くのです。 
 私たちも御言葉を蒔かなければなりません。教会の周りだけではなく、私たちの心の中にも蒔かなければなりません。そうでないと何時しか私たちの心も道ばたになるし、石地になるし、茨の地になってしまい、種が育たない、種によって耕かされることもなくなってしまうでしょう。御言葉は一度、聞けばいいと言うのではなく、常に聞いて受け入れていくことが必要です。私たちも御言葉によって育てられるし、御言葉の実りを実らせることもできるのです。御言葉を、内に、外に蒔いていきましょう。
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by higacoch | 2009-05-23 19:35 | マルコ

2009年5月3日

 「和解の言葉を委ねられた教会」  イザヤ書43:19-20、コリントⅡ 5:16-21
 
 先週、三教会合同退修会が滝乃川学園で行われました。講師は並木浩一先生で創世記からお話し下さり、聖書の人間創造物語は特権者の物語ではなく、一般の人間が論じられていて、特権者や神々の奴隷としての人間が描かれているのでもないと話されました。聖書は特別な人間の誕生に関心を持っていた英雄物語ではなく、一般の人間、個としての人間そのものに関心がある人間物語だということでした。
 こうした点は、旧約聖書だけではなく、新約聖書にも見られ、特にイエス様のたとえ話の中には顕著であります。こうしたことは伝道者パウロもそうです。パウロは以前、律法学者でありましたが、キリストによって変えられていき、キリストを知るがゆえに、そうした地位も知識も糞土のように思っていると語っています。つまり、価値をそこに置いていませんでした。
 パウロは言いました。「キリストと結ばれる人は、誰でも新しく創造された者なのです」と。キリストと結ばれ、新しく創造された者とは、特権階級の人ではありません。パウロが言っていますように「誰でも」であり、人、一般の人であります。つまり、人間の側には何の条件もありません。ただ、キリストの恵みであるキリストの救いを受け入れた者、その人なら「誰でも」、新しく創造された者だというのです。一人一人がキリストに繋がることで、新しくされるのです。キリストに結ばれることによって、誰でもが新しく創造されるのです。これは、神からによるものであって、神はキリストを通して私たちを御自分と和解させて下さったと言っています。そしてさらに、神様の側からそうされたのは私たちが和解のために奉仕するためだと言っています。パウロは、キリストの使者とされたと言うのです。では、わたしたちだけが神と和解させて頂いたのでしょうか。私たちだけが、特別な和解を頂いたのでしょうか。そうではありません。
 その点、パウロは注意深く語っています。18節に「神はキリストを通して、私たちを、御自分と和解させ」と語り、19節でも同じように「神は、キリストによって、世を、御自分と和解させ」と繰り返すように言っていますが、よく見ると18節は、「私たちを」ですが、19節では「世を」御自分と和解させと言っています。最初に「私たちを」、そのすぐ後に「世を」と言っています。ですから私たちだけが和解させて頂いた者ではありません。世も和解させられたのです。でもこの出来事を世の人々は知っていません。だからキリストによる和解を伝える務めが私たちに与えられていて、それはキリストに結ばれた人は誰にでも与えられているのです。わたしたちとはキリストの体なる教会であり、この和解を人々に知らせる特別な人がいるのではなく、一人一人なのです。神様が私たちをキリストの和解のために召し出されているのですから、キリストによる和解を伝えていきましょう。
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by higacoch | 2009-05-09 19:06 | コリント