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2009年3月29日

「子どもたちを招き、祝福」
              サムエル記上 1:26-28, マルコ福音書 10:13-16


 今朝の新約の聖書箇所の後半は、微笑ましい情景であります。イエス様が子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたとあります。しかし、その直前はそんな情景とは、全く正反対の情景です。それは、弟子たちがきつい表情で幼子を連れてきた人々(親たち)を叱り飛ばしていたのです。そうした弟子の怒りのようすを、イエス様は「見て」今度はイエス様が弟子たちを叱り飛ばされました。そうしてからイエス様は、言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国は、このようなものたちのものである。はっきりと言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決して入ることができない」と。 「わたしのところに」であります。このことで、イエス様は子どもたちを招いておられることが解ります。積極的に「わたしのところ連れて来なさい」と。その点、弟子たちは全く正反対のことをしています。来させていなかったのです。否、来させないのではなく、来た者でさえ追い返していたのです。弟子たちはイエス様が願っておられることがよく解っていませんでした。当時、子どもは価値の低い者と考えら、小さい者として扱われました。弟子たちはそうした価値観で子どもたちを排除したのです。しかし、イエス様は、違っていました。子どもたちは、価値のある者であると、はっきりと弟子たちに教えておられるのです。「小さい者が私の所に来た時には、妨げてはならない。小さい者も私の所に来させなさい」。「神の国は、このような人々たちのものであるから」と。  
 イエス様は、さらに「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。これは子どものように、素直にイエス様を受け入れる人でなければ、神の国に入ることができないということです。こうしたことで、神の国は小さい者たちが招かれていて、そうした人たちのものなのだと教えられておられます。
 このことを教会もしっかりと聞かなければなりません。教会は子どもたちを、小さい者たちを受け入れていかなければなりません。決して妨げてはならないのです。教会は、弟子たちの思いで建て上げるのではなく、イエス様の御旨に添うように建て上げていかなければなりません。イエス様は、子ども達を抱き上げ、手を置いて祝福されたのです。教会もイエス様に喜ばれるように子ども達を招いて子ども達を祝福して行かなければなりません。
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by higacoch | 2009-03-31 10:07 | マルコ

2009年3月22日

「証人にするために」  使徒言行録 26:12-18  
                     唐澤 健太 牧師(国立のぞみ教会 牧師)


 使徒言行録26章は復活の主が、「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」(16節)とパウロに対して直接派遣命令を告げていることが特徴的である。だから26章に記されるパウロの物語は回心と召命が一体となったパウロの「召命物語」と言える。
 パウロは、「サウル、サウル」と主から呼びかけられた。この部分は3回の回心物語すべてに共通している。それだけパウロにとって重要な呼びかけであったということだ。パウロはイエスの姿が、光輝いて見えたとは言わず、あくまでも「語りかける声を聞」いたのだ。そしてその語りかける言葉はパウロを派遣する言葉となり、それがこの晩年においても彼を立たせているのだ。
 主からの語りかけにこそ驚くべき天からの、上からの業がある。迫害者がキリストに仕える「奉仕者」、キリストを宣べ伝える「証人」へと変えられる。主イエスとの出会いはそのような出来事であるということである。キリストの言葉を聞くことによって変えられる。それこそがパウロの根本的な信仰体験だった。「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。私たちが誰の言葉を聞くのか。それは私たちの人生において決定的な事柄となる。パウロにとってキリストの言葉との出会いは、彼のその後をそれこそ180度転換させるものであった。そして今もそのようなキリストの言葉との出会いは私たちのうえに起こる。
 キリストの語りかけを受ける上で大切にしたいのが聖書の言葉に聴くということである。聖書は「広い畑」のようなものだ。本当に不思議な言葉との出会いがある。それこそ備えられていた言葉。私たちの歩みを照らす言葉との出会いがある。それこそ一年の中で一つでも自分を根底から変革するような言葉と出会うことが出来たならそれはこの上ない喜びではないか。そういう言葉との出会いを求めて聖書に向き合おうではないか。
 私の人生も「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハネ6:27)のキリストの言葉に捕らえられ、「さあ、立て。ここから出かけよう」(14:31)と主イエスの言葉に促されて、献身を決意した。すべての人が牧師になるわけではない。それこそパウロが教会を体にたとえて語ったように色々な働きがある。しかし、共通することはキリストの体を形作ること。その一部であること。それは一人一人に固有の奉仕、そして証しがあるということだ!
 奉仕や証は、それは何か元気いっぱいに奉仕ができるとか、恵の証しをいっぱいできるということではない。そうではなくて、キリストに捕らえられて生きている、キリストにあって生きている歩みそのものが証しである。今日、宮井伝道師の按手が行われるが、私たちも洗礼に授かった時に按手を受けたのだ。あれは選ばれ、証し人としての任命の按手でもあるのだ。私たち一人一人が復活の主の証し人として召されているのである。
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by higacoch | 2009-03-28 15:20 | 使徒言行録

2009年3月15日

「奉仕のために立てられた人」   申命記10:12-22、使徒言行録6:1-7

 教会には、いろいろな人たちが導かれます。学生、会社員、保母、主婦、年配の方、また幼い頃から教会に通っていた人、あるいは高齢になってから教会に来られた人、職業の違い、教会に来たきっかけの違い、それは千差万別です。しかしそうした一人一人は、神様が導かれた方々です。
 最初に誕生したキリスト教会はメンバーがどんどん増えていきました。そのメンバーの中で同じユダヤ人であるやもめに対し、その人がギリシア語を話すのか、あるいはヘブライ語を話すのかによって、不公平が生じていました。地元優先主義ともいえますが、ヘブライ語を話す人がより多くの食糧を配給されていたのです。ギリシア語を話すということは、外国で生まれ、生活した人たちだったでしょう。
 そこで、主の弟子たちが教会の皆を呼び集めて話し合いをし、その解決の方策を探りました。現代でいえば、教会員総会のようなものでしょう。その話し合いで、教会がまず何よりも大切にしなければならないことは福音宣教であることが確認され、それから配給問題を解決するための検討がなされました。そして、そのための働き手を立てることにしました。その担当者は、霊と知恵に満ちた評判のよい人でしたが、ただ単に人気のある人ではありません。ここで、霊に満ちたと言われているのは、信仰深いと言いかえてもいいでしょう。ですから、信仰深く、知恵に満ち、また皆から尊敬されている人、7人を選ぶことになりました。そして選ばれた人に按手をしてその職務に就かせました。その後、教会は神の言葉がますます広められていき、弟子の数も非常に増えていきました。
 教会の中で立てられる者、彼らは、皆を支配する者ではなく、仕える者であります。主イエス様ご自身も「わたしが、この世に来たのは、仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われました。教会の役員は、人に仕えるために選ばれているのです。教会で立てられた人は、人に命じ、人を従わせる者ではなく、人を愛し、人に仕える者なのです。
 もちろん、そうした仕える人のために、皆が祈って仕えなくてはなりません。互いに仕えあってキリストに喜ばれる歩みをすることができるのです。そのようにして、この世に対してもキリストの愛を示し、証しできるようになっていくのです。
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by higacoch | 2009-03-21 17:19 | 使徒言行録

2009年3月8日

 「神の祝福にあずかる」  ゼカリヤ書 8:1-8, ルカ福音書 2:22-38

 注解書によるとイエス様の時代の人々の寿命はとても短いものでした。人々の死亡率は30歳までに75%、50歳までにほとんどの人が亡くなっていただろうとありました。私は改めて驚かされました。聖書は、長寿は神様の祝福だと教え、箴言には「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」(16:31)とあります。また祝福の約束としても記されています。(申命記4:40参照)
 さて、今朝与えられましたゼカリヤ書の8章にはイスラエルの回復の象徴としてこう記されています。「万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には再び、老爺、老婆が座すようになる。それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして」(4節)。イスラエルの歴史の中で、最も苦しく厳しい時代は、民がバビロンに連行されていった捕囚時代でした。彼らにとって神聖な場所、神殿は壊され、民族の信仰や誇りは奪い取られ、高齢者から若者、子どもたちに至るまで、あらゆる人々が辱めを受け無惨にも命をも奪われていきました。老人は剣にかかって殺され、長老たちは敬われず、町の門の集いから姿を消していきました。それが、かつて滅ばされた都に、再び神の祝福がもたらされ、高齢者の男女が、安らいで過ごすと示されています。こうした回復のメッセージは、イザヤ書にも預言されています。
 このような高齢者がエルサレムの神殿の庭にいたことを、今朝のルカ福音者は示しています。ここには、生まれたばかりのイエス様が神殿に連れて来られた時にいた二人の高齢者、シメオンとアンナが記されています。この二人がエルサレムの庭で過ごしていたことが解ります。シメオンはお告げの通り、救い主イエス様にお会いすることができ、祝福されて生涯を全うすることができました。アンナも神殿から離れずに84歳になるまで忠実に信仰生活を守り、主イエス様に出会うことができたのです。
 高齢期には体が衰えてくるのですが、それを超えた神様からの祝福を頂いているのです。それはその年齢まで神様の御守りと支えがあったからであり、「今あるのは神様の恵み」によるのだということです。私たち夫婦は一人娘を亡くして教えられました。それは、誕生日を迎えて、○歳になったと言うのではなく、○年間生かされてきたということであり、その年齢は神様によって生かされてきた年数だと言うことです。
 年を重ねて教会にこられ、礼拝を守っておられる方、救いを求めてこられている方々が、ぜひイエスと出会って、イエス様の救いを受け入れていって頂きたい。神様が礼拝へと導いて、長寿の祝福とともに救いの祝福を与えようと導いて下さっていると信じています。
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by higacoch | 2009-03-14 18:31 | ルカ

2009年3月1日

「人の知恵によってではなく、神の力によって」
               エレミヤ書9:22-23, コリント一 1:18-2:5


 聖書はイエス・キリストの救いの出来事を啓示しています。この出来事、十字架の出来事は、人間の知恵によって、知り得るものではありません。パウロが言うように、神の霊と力によらなければ、知り得ないのです。
 パウロは、はっきりと言っています。「神は、世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は、自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは、神の知恵にかなっています」と。パウロが言うように、人間の知恵で神を知ろうとしても知ることはできなかった。知ろうとしなかったのではなく、知ろうとしても知ることができなかったのです。人間の意志の問題ではなく、能力の問題です。人間の能力では、神を知ることができないのです。このことは神様の御心にかなっていました。
 神様は、人間の知恵で神様を知ることをできなくされ、イエス様を信じることができなくされました。それは信仰者が誰も自分の知恵を誇ることはできないようにするためでした。救いも信仰も神様から与えられたものだからです。つまり一方的な神様からの恵みなのです。
 イエス様の十字架の出来事は、私たちの救いのための出来事です。私たちがイエス様によって救われていると言うことは、神様の力、聖霊の導きによって知らされています。そしてイエス様を救い主として信じることができるのです。これ以外に、信じることができる道はありません。この救いの出来事が聖書に記され、明らかにされています。ですから、聖書の言葉以外に、私たちが聞くべき言葉はありません。
 だからパウロはイエス様が為して下さった救いの出来事を「教える」よりも「伝える」ことに集中していったのです。十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めて、キリストのこと以外は話さないようにしたのです。パウロは「イエス・キリストの十字架の出来事、十字架の言葉は、滅んで行く者にとって愚かなものですが、私たちに救われる者には神の力です」と言い切っています。
 私たちも神様の力によって救われたのです。パウロがイエス様の救いを伝えることに集中したように、私たちも伝えていきましょう。
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by higacoch | 2009-03-07 13:09 | コリント