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2009年2月22日

「神のものとなった民」    詩編98:1-9, ペトロの手紙 一 2:1-10

 今朝の新約聖書箇所を読みますと、いつでも次男のことを思い起こします。次男は未熟児で生まれ、すぐに救急車で北里大学病院未熟児センターに運ばれました。未熟な点は三つ。一つは自力呼吸、第二は体温調整。第三は自力で母乳が飲めない。病院からは「母乳には免疫が入っていますから、どうしても母乳を飲ませて下さい。量の問題ではなく、混じりけのない母乳をわずかでも飲ませてください」と言われました。こうしたことから「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」を読むと未熟児の息子のことを思い出すのです。
 さて、ペトロは「霊の乳を慕い求めなさい」と言っていますが、「霊の乳」とは具体的に、何を表しているのでしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんにとって母乳が不可欠なものであるように、生まれたばかりの信仰者が生きる上でなくてはならないもの、霊の乳は主の言葉なのです。
 悪意、偽り、偽善等、これらは人の言葉であり、これらは「草のようなもので枯れ」ます。しかし、主の言葉は枯れてなくなるのではありません。永遠に変わることがないのです。人の言葉は時代と共に変わります。しかし、イエス様の言葉は変わらない、永遠に変わらないのです。
 ペトロが強調して語るのは「あなたがたは、憐れみを受けた」ということ。こうしたことを浮き彫りにするために、ペトロは対比する言葉をもって語るのです。それは「かつて」と「今」、「以前」と「今」です。あなたがたは、「かつては、神の民ではなかった」でも、「今は、神の民」、「以前は、憐れみを受けなかった」でも「今は憐れみを受けている」と。そして、「あなたがたは、選ばれた民、神のものとなった民だ」。そうなったのは、あなたがたを光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるため、つまりイエス様の救いの業を広く伝えるためなのだと言うのです。
 皆さんもよく思い起こして欲しい。以前はどうだったか。以前はイエス様を知らず、イエス様を捨てていたのです。しかし神様の一方的な憐れみによって、今や神のものとされ、神の民としてイエス様の救いの業を広く伝える者とされています。神様があなたを救い、救いの業を伝えるようにとしてくださっているのです。
 私たちにとって大事なことは、過去の自分を深く見つめることではなく、神様の恵みを受け止めて、神様に応答して生きていくことなのです。私という小さな者であっても、神様の救いの業を伝えること、まだ知らない方々に知らせることなのです。なぜなら、それが、神様があなたを救い、あなたを通して為そうとしておられたことだからなのですから。
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by higacoch | 2009-02-27 13:26 | ペトロ

2009年2月15日

「愛に根ざす交わりの共同体」   詩編100:1-5, エフェソ 3:14-21

 信仰者にとって祈りは大切であります。パウロもよく祈り、そして執り成しの祈りをしたことでしょう。今朝の箇所は彼が教会の人たちのために執り成しの祈りをしている所です。
 彼は、まず教会の人たちの「内なる人」(信仰によって生きようとする心)が強められますようにと祈ります。そして、その心の内に「キリストを住まわせ、キリストの愛に根ざして、その愛にしっかりと立つ者としてくださるように」と父なる神に祈り、そうして「彼らが、キリストの愛によって交わりをし、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さに感動して、神様の豊かさに満たされるように」と執り成しの祈りを献げています。こうして教会の人たちが「愛に根ざす交わり共同体」となるようにと祈っています。
 教会の中である問題が生じ、その解決のために「あの人さえいなければ、うまくいく」というような論理が幅を利かせてくるとしたなら、それはパウロが願った「愛に根ざす交わりの共同体」から、ますます離れていき、キリストの教会でなくなります。教会は、イエス・キリストの尊い命の犠牲によって、神様と人との交わりが回復されたことを知り、その恵みに生かされているところであります。つまり、イエス・キリストによって赦されて、交わりが与えられたことを知らされている所なのです。そこに生かされている者たちは、キリストの愛に根ざして、共に生きることが望まれています。教会形成というのは、教会の交わりの中に、キリストの愛が形作られるように求められているのです。それは、キリストの愛に根ざして、交わりをなし、形成されていかなければなりません。
 イエス様も弟子たちに言われました。「わたしは、あなたがたに、新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ福音書14:34,35)と。
私たちは欠けの多い者であります。私たちはいろんな性質や性格、違いを持った者ですが、キリストの愛に生かされていることを覚え、互いに受け入れ、赦し合い、愛に根ざす交わりを求めて歩んで、キリストの愛を証しつつ、祈り求めていきましょう。
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by higacoch | 2009-02-21 19:06 | エフェソ

2009年2月8日

「呼びかける神」   イザヤ書42:1-7, マルコ福音書1:16-20

 先日私たちの中会で、伝道師試験があり、教職志願者が受けました。課題は旧約聖書(エレミヤ書1章)から、説教のための学びのレポートと説教原稿を期日までに提出するというものであり、試験当日には実際に説教をして貰いました。選ばれた箇所はエレミヤの召命の箇所でありました。そこには主なる神様が、エレミヤに臨んで、呼び掛けられています。
 「わたしは、あなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と。これに対してエレミヤは怖じけてしまいます。すると、神様は「若者にすぎないと言ってはならない。・・・わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と言われています。
 ここにも示されていますように、私たちが信じる神様は私たちに呼び掛けてこられる神様なのです。私たちが願い求めて始めて、それを聞いて下さるのではなく、神様の方から私たちに近づき、呼び掛けてこられる方なのです。
私たちは、毎週、主日毎に礼拝を献げ、いつでも「信仰告白」を言い表しています。「我は、天地の創り主、全能の父なる神を信ず、我は、・・・」と。ここに、三位一体の神(父なる神・子なる神・聖霊なる神)を信ずとありますが、こうした神様は、私たちに呼び掛けてこられます。
 たとえば父なる神は、アダムに、モーセに、サムエルに、イザヤに、エレミヤに呼び掛けておられます。そこでは、「わたし」(神)と「あなた」(呼び掛けられた者)の対峙した関係があります。子なる神・イエス様もペトロに、アンデレに、ヨハネに、ヤコブに呼び掛けられ、彼らを召されました。聖霊なる神もパウロに、バルナバに呼び掛けられます。聖霊は、原文のギリシア語から言っても、「傍から呼び掛ける者」という意味なのです。
 神様は呼び掛けられます。それはその人を生かしたいからです。神様はあなたに呼び掛けられるのは、あなたを生かしたいからです。あなたが罪によって死んでいくのではなく、罪の赦しの恵みを受けて、新しくされて生きていくようにと、あなたに呼び掛けて下さいます。その神様の呼び掛けに応えて生きる時、その人は新しい歩みを始めるのです。
 あなたの人生のどこで神様が呼び掛けられるのかは解りませんが、確かに呼びかけて下さいます。その時、主の弟子たちがそうであったように、あなたもイエス様を信じて新しい歩みへと歩み出して頂きたい。求道中の方がぜひ信仰の道へと歩まれますように祈り願っています。
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by higacoch | 2009-02-14 19:00 | マルコ

2009年2月1日

「人から人へ」    詩編19:2-5、 コロサイ 1:3-8

 聖書を読みますと、時々馴染みの薄い人の名前が出てきたりします。聖書には1回ないし、2、3回しか名前が出てこない人物がとても多いのです。今朝の箇所にエパフラスという人の名前が出てきます。彼の名前はここ以外では2回です。でも彼はパウロと同様に、主にあって良い働きをしていることが、パウロの手紙から伺えます。彼は、コロサイの教会の人たちに、福音を伝え、教えました。またラオディキアやヒエラポリスの教会の人たちのためにも非常に労苦していることも記されています。2000年前の当時は本もありませんし、聖書もありませんでした。現代のような便利な道具もありません。しかし、イエス様のことが人の口を通して、また福音に生きる人を通して、伝えられました。信仰者の「証し」を通して福音が伝えられたのです。エパフラスは、このように各地へ出かけ、自ら労して福音を伝え、福音を教えました。これはエパフラスという信仰者から、まだ福音を知らない人へと福音が伝えられ、教えられたということです。まさに「人から人へ」と、福音が伝えられていったのです。(実際、彼自身も、まだ未信者の時に、ある信仰者から福音を伝えられて、教えられたということです。)
  さて、皆さんはご存知でしょうか。「新共同訳聖書」は、プロテスタントとカトリックの両教会が共同で翻訳して生み出したものですが、これを生み出す前に「共同訳聖書」(新約のみ)が出版されたことを。この聖書の翻訳に際しては、聖書をできるだけ解りやすく、読みやすくしよう、そのようにして多くの人たち(未信者)に読んで頂こうとしました。こうして聖書が読本化されました。読本化された聖書から人へ、福音が伝えられるようにという願いがあったのです。しかし、この「共同訳聖書」に対して、教会の人たちから多くの批判がなされました。実際にこの聖書を教会で用いてみると、聖書朗読、祈りの言葉等が、礼拝に適さないというのです。そこで改めて、聖書の意義、聖書翻訳が目指すもの、それは何なのかが問われたのです。そして、聖書が最も大事にされる所、それは聖書を神の言葉と信じ、受け止め、それに聞いて生きている教会ではないか、そして、聖書の言葉に生かされる者たちによって、福音は伝えられるべきではないかという結論を得たのです。福音に生かされた者(人)から人へ伝えられ(証しされ)るべきだと受け止め、大々的に翻訳しなおされて「新共同訳聖書」が生み出されたのです。(聖書の最初にある序文 参照)
 福音は、福音に生かされた者(人)が、まだ福音を聞いていない人に伝えることが大事なのです。このことは、あなたが、福音を伝える人だということです。共に福音を伝えていきましょう。
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by higacoch | 2009-02-07 18:44 | コロサイ