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2009年1月25日

「イエス様に学ぶ生き方」  詩編 34:18-34, マタイ福音書 11:25-30

 私が高校生の頃、親父が私に「人生というのは、重い荷物を背負って遠い道を行くようなものだ」と諭してくれたことがあります。この言葉は徳川家康の言葉です。親父は子沢山で、九人の子を育てました。そして自らの人生訓として「重い荷物を背負って、行くがごとし」と私に伝えたかったのでしょう。その点イエス様は「人生、重い荷物を背負って耐えて生きていくようなもの、がんばれよ」と言われたのでしょうか。そうではありません。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言って招かれました。
 イエス様の言葉は、こう言い換えてもいいと思うのです。「今、疲れている者は疲れたままでいいのです。そのままで私のもとに来なさい、今、重荷を負って苦労している者、その苦労しているままで私のもとに来なさい」と。何か今よりは少しマシになってからとか、何か自分でも納得がいくようになってからとか、そう思って先送りしていないでしょうか、そうして、イエス様の言葉を素直に受け入れようとしていないのではないだろうか。イエス様は言われたのです。「疲れた者、今、疲れてどうしようもない者、そのままで近づいていいのだよ。そのままで私のもとに来なさい。そんなにかっこをつけなくていいんだよ。今、疲れているままでいいんだ。私のもとに来なさい」と。人生に疲れたままで、人生に失敗し、傷ついたままで、挫折したままで、至らないままでいいんだ。そのままで私のもとに来なさいと招いておられるのです。そして「私は、あなたを受け入れます。私は、柔和で、謙遜な者だから」とおっしゃっているのです。柔和というのは、高ぶることをしないということです。威張りちらし、自分は何でも知っている、だから、いつでも聞きなさい、私の所に来なさい、と言われているのではないのです。
 イエス様は「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、安らぎが与えられる、わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」とおっしゃいました。重荷がなくなってしまうのではありません。イエス様は「わたしの荷は軽い」と言われたのです。そして、「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」と。ここに「くびき」とあります。くびきは一対の家畜の首にかける道具であります。それを掛けると一対の家畜の歩みが同じ呼吸となり、二頭は一つの心になり、共に歩くことができるのです。「わたしのくびき」とありますから、イエス様が一緒に歩いて下さるのです。そして「わたしに学びなさい」と言われました。学ぶという日本語は「まねび」からきていると言われますが、それは「まねる」ということなのです。学ぶ中でまねることが大事なのです。イエス様を信じて、イエス様から学んで生きていって欲しいのです。
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by higacoch | 2009-01-28 19:00 | マタイ

2009年1月18日

「愛する務めを託されて」    レビ記19:17-18 ヨハネ福音書21:15-19

 キリスト教は愛の宗教だとよく言われます。また多くの人に暗唱されている言葉に「神は愛なり」という聖句があります。そして聖書は愛について多く語っています。しかし聖書には「愛する」と言う言葉が大別して二つあり、一つは神の愛、もう一つが人間の愛です。この二つが、今朝のイエス様とペトロのやり取りの中に語られています。
 イエス様はペトロに「私を(神の愛で)愛しますか」と尋ねられました。それに対し、ペトロは「はい、私は(人間の愛で)愛します」と応えています。これが二度繰り返され、三度目には、イエス様がペトロに寄り添うように、人間の愛で愛しますかと尋ねられています。こうした中にイエス様の愛を感じます。また、ペトロがどうしても人間の愛によってしか応えられなかった心の奥には、三度イエス様を裏切った自らの弱さを知っていたからだと思います。そうであったからこそ、ペトロはイエス様に応えるたびに「あなたがご存知です」と付け加えて応えています。イエス様はそんなペトロを受け止めながら、ペトロの答えを聞いてから、愛すること、それがペトロにはよく解らなかったので、具体的なこととして「小羊を飼い、養いなさい」と教えて下さっているのでしょう。
 イエス様が求められているような愛の応答ができない、限界を持っているペトロ、こうしたことはペトロだけの問題ではありません。他の弟子たちにも共通したことであります。そしてそれは私たちでも同じなのです。しかし、そんなペトロをイエス様は受け止められているのです。そんなペトロを愛されています。それは、また私たちにも言えることです。イエス様は信仰者を育て養うことをもって、愛する務めをして欲しいと願われました。どうしても弟子のリーダー格であったペトロに、この愛の務めを託したかったからです。ペトロに伝えられたように、他の弟子たち、また私たちにも愛する務めがイエス様によって託されています。
 イエス様はこのようにしてペトロを生かし、用いられました。私たちも失敗することが多いのですが、イエス様がペトロに「わたしを愛していますか」と問い掛けて、生かされて用いられたように、私たちをも生かして用いて下さるのです。ここにおいて、私たちは生きていくのです。イエス様に生かされて、愛する務めを託された者として、それぞれの遣わされた場所で生きていきましょう。
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by higacoch | 2009-01-24 14:56 | ヨハネ福音書

2009年1月11日

「神への希望」    詩編50:14-15, ヘブライ 11:1-16

 今年は毎月の第二主日を伝道礼拝として献げます。私はここ東小金井に来てから3年が経とうとしています。早いものです。ここに来てすぐ、JR中央線は人身事故が実に多いのだなあと強く感じました。日本ではこの10年は自殺者が年間3万人は下らないと言われますが、交通事故で亡くなる方よりずっと多いのです。自殺防止のために長年、良い活動をしてきた「いのちの電話」等もありますが、今ピンチの時を迎えています。自殺志向の深刻な相談の割合は10年前の3倍にも増えているのですが、相談員不足で対応しきれていません。昨年から経済危機による深刻な雇用不安から、さらに自殺が増える恐れがあると言われていますが、こうした時代だからこそもっとキリスト者の働きが求められているのだと思います。
 今朝、与えられました聖書箇所には「信仰によって、信仰によって」と繰り返して出てきます。その最初の1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」とあります。ここでは見えないけれども、信仰によって、生きていくことの大切さを教えているのです。その後に数人の信仰者が記されていますが、彼らは、信仰によって生きていきました。神様は信仰をもって生きる者を求められるし、そうした人を喜ばれます。神様は私たちの目には見えませんが確かにおられ、今も働いて下さっています。ノアも、アブラハムも、信仰によって生きていきました。ですから伝道者パウロは、信仰をもって生き抜き、こう言い切ったのです。「神様は、万事を益として下さる」と。信仰がなくて生きるということは、神様の恵みを本当には知ることができずに生きることともいえます。パウロは神様の恵みを知っていたので、本当に慰めに満ちた言葉を語っています。「神は、あらゆる苦難に際して、わたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神から頂くこの慰めによって、あらゆる苦難の中に人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて、わたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れているからです。・・・神は・・・死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」とコリントの教会への手紙で言っています。このようにパウロは自分を頼りにしているのではなく、神様を信頼し、神様に希望を抱いて生きているのです。
 神様を求めておられる方に、ぜひ神様を見上げて歩んでいって頂きたい。私たちを救ってくださったイエス・キリストを信じて、信仰の道へと歩み出して欲しいのです。
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by higacoch | 2009-01-16 18:40 | ヘブライ

2009年1月4日

「隣人と共に福音にあずかるため」    詩編96:1-3,Ⅰコリント9:19-23
 
 今年東小金井教会では「主と隣人に仕えよう」を標語に掲げ、奉仕を進めていこうとしています。具体的には、今年から教会デイサービスを始めて、そうした方面でも奉仕していきたいと願っています。
 さて、元旦の朝、NHKの番組に出ていた看護師さんがフローレンス・ナイチンゲールから大きな影響を受けたとのことで、ナイチンゲールの働きを紹介していました。「看護婦の母」と言われ、クリミア戦争で傷病兵の看護にあたった看護婦たちのリーダーとして献身的な働きをした女性です。その後、看護婦の育成・指導に大きな働きをしました。彼女はあくまで神に仕えるということを望み、その実践として看護の働きをして隣人に仕えようとしたのでした。
 さて、今朝の箇所でパウロは次のように言っています。「すべての人に対して、すべてのものになりました。何とかして、何人かでも救うためです」と。そして、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と覚悟を語っています。
 パウロという人は、イエス・キリストに出会う前は、キリスト者を迫害する者でした。そのパウロがキリストのゆえに迫害する者から迫害される者(伝道者)となっていったのです。伝道する時の彼の姿勢は「私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になった」というものでした。当時、人の世話をすることは奴隷の仕事だと考え、人々は人の世話をすることを嫌いました。ただ世話をする相手が偉大な人(預言者、教師、将軍)であれば、その奉仕は価値あるものと考えたのです。ですから、世話する相手によって価値が計られていました。しかし、パウロはそうは考えませんでした。相手によって奉仕の価値があるとかないとか言っているのではなく、奉仕そのものの価値を認めています。誰に仕えるのか、その相手を選んでいるのではありません。
 パウロは言うのです。そうするのは、「私は、自由からする」のだと。打算でではなく、またその相手に恐怖を覚えているから、しないと怖いからするとかではないのです。また誰かから命令されたから、あの人に仕えるのだとかいうのでもありません。そうではなく、自らの思いで、何らの束縛からではなく、自由からするのだと。まさに、ここにキリスト者の自由があります。自由の思いから、相手に向かうのです。そのように動かされるというものなのです。
 わたしたちも、それぞれの所で、隣人と共に福音にあずかれるように、隣人の救いを願って、隣人に仕える歩みを、求めていきましょう。共に福音にあずかる方が一人でも起こされるれるようにと歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2009-01-10 22:09 | コリント