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2008年10月26日

 「終わりこそ始まりだ」 マタイ 28:16-20     
                        荒瀬 牧彦 牧師 (めぐみ教会 牧師)

 
 指揮者の小澤征爾さんが、若き日にNHK交響楽団の楽員にボイコットされて日本にいられなくなった“小澤事件”を振り返って、実はそれが自分が本物の指揮者になるための重要な原点だったと言っています。「あん時はわからなかったんだけどさ、今ならそう言えるよね。長いことそんなふうには考えられなかったけどね。でもある時さ、わかったんだよね」。
 重大な事柄に直面する時、人間にはその前面しか見えないので、圧倒され、絶望してしまいそうになります。でもそれを乗り越えた地点まで行くことができたなら、振り返って全体像を眺め、その真の意味を知ることができるのですね。「もうだめだ」と思ったところで終わるか否か。それが分岐点です。
 ガリラヤの山の上で、復活したイエス様が弟子たちに宣教を命ずる場面。弟子たちは「イエスに会い、ひれ伏した」のですが、「しかし、疑う者もいた」のです。主イエスが捕らえられた時には師を見捨てて逃げ去り、その上、復活された主に呼ばれて、生きておられる主を目の前にしてもなお「疑う者もいた」という不肖の弟子たち。しかし、それでもなお、イエスは彼らのことをあきらめていませんでした。弟子たちは十字架刑の時点で「すべて終わった」と思っていたことでしょう。しかしそれは終点ではなく、弟子たちにとっての始点だったのです。
 私たちは弱い者です。すぐに匙を投げてしまいます。自分のことも、人のことも。しかしそんな私たちのことをあきらめないイエスがおられます。そして私たちが「もうだめだ」と思った地点で「さあ始めるぞ」と言って下さるのです。そして「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束のうちに私たちを据えて下さいます。
 ガーナの難民キャンプのリベリア人キリスト者の集会で、日本の自殺者増加の問題を話した時、一人の兄弟に叱責されました。彼はエレミヤ書31章を開いて「あなたの未来には希望がある」という御言葉を指して、「なぜ日本でこれを教えないのか」と私に迫るのです。彼も仲間たちも将来への具体的見通しや好条件は何もありませんでしたが、しかし希望は強く持っていました。彼らは本当に神さまと共に生きているのだと、はっきりとわかりました。
 キリストにある私たちにとっての最大の資源、それは希望です。なんでも早く見切りをつけて早く切り捨てて生き残る。それがあたかも善であるかのように言われる時代にあって、私たちは「あきらめない」というメッセージを言葉と行動をもって発するものであり続けたいと思います。
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by higacoch | 2008-10-31 17:01 | マタイ

2008年10月19日

「神の御業が現れるため」 
  エゼキエル18:14-20 ヨハネ福音書 9:1-12,35-41   香月 茂 牧師

 
 目が見えない人がそうなったのは、罪のせいだという社会通念が日本にもあります。こうした考えがイエス様の時代のユダヤにもあったということがこの箇所からよく解ります。
 弟子たちが「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」とイエス様に質問しました。彼らの関心事は「誰が」罪を犯したかです。深く考えると弟子たちも、この人が目が見えないことは罪を犯したせいだと思っているということです。これが前提となって「誰ですか」となっています。こうした考えは、本人は勿論その家族にも及んでいきます。「誰が」罪を犯したから、この人はこうなったのだろうと。その家族も、周りから疑いの目で見られ、蔑むような扱いを受けたりするでしょう。また先代までさかのぼり、犯人捜しになったりします。
 この問いへのイエス様の答えは二つに分けて考えた方が解りやすいでしょう。第一は、弟子たちの関心事であった「誰ですか」に対する答えです。イエス様は本人でも両親でもないとはっきりと答えられました。第二の点、これこそイエス様が言われたかったことですが、目が見えないのは罪のせいではないということです。罪と障害との因果関係の考えをきっぱりと否定されました。それから、イエス様は弟子たちやみんなも想像もつかないびっくりするようなことを言われました。「この人が目が見えないのは、神の業がこの人に現れるため」と。まさに、これは神様からの祝福の宣言です。罪があったとか、罪があるとかではない、彼に神の御業が現れるためだと宣言されたのです。神様があなたを用いて、神様の業をなすために、あなたを生かし用いられる、目が見えないのは、罪のせいではなく、御業のためだと。結果ではなく目的のため、裁きではなく祝福のためと言われたのです。ここでイエス様が、目が不自由な人について語られていますが、目だけではなく、他の障害を抱えた人にも通じることです。
 世の中には障害者に対して、まだまだ罪のせいだと言って責め立てる人がいます。あたかも自分たちが知っているかのように裁く人がいます。イエス様が罪を犯したからではないとはっきりと言われているのにその言葉を受け入れられないのです。そうした人たちにイエス様は言われました。「私がこの世に来たのは裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と。これは自分が見えると主張している者にとってはきびしい裁きの言葉です。
 私は知らされています。目が見えないで生きてきた人たちが、この箇所から生きる力を頂く方がどんなに多いことか。実際、肉体の目は見えないままですが、確かに、神様にあって見えているものがあり、生きる力を頂いて生きておられるのです。
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by higacoch | 2008-10-26 16:07 | ヨハネ福音書

2008年10月12日

「物で幸せになるだろうか」   ルカ福音書 19:1~10    生島 陸伸 牧師
                                     (日本中会 牧師)


 1~3節―この物語はイエス様が、エルサレムの都に上る途中、エリコの町で起きた出来事です。エリコの街は大きな町なので収税所が置かれていた。ザアカイはその頭で金持だった。
 この税金はローマ政府に納めるものですから、ユダヤ人に嫌われた。徴税人は神様も、名誉も、民族の誇りも捨て、金儲けだけを考える人と見られていた。ザアカイという名は「清い人」、「神は覚えておられた」という意味です。両親がこの子が「清い人」であるように、「神に覚えられる子」であるように、と願ってこの名をつけたに違いない。しかし名前とは違う人生を歩いてきた。
 ザアカイは望みの通りに金持ちになった。お金ですべてが買える。立派な家に住み、ご馳走を食べ、楽しむ事が出来た。しかし彼の心は孤独だった。同族からは嫌われ、神からも見放される生活になっていた。イエス様に出会うまで、人生はこういうものと思っていた。
 イエス様がこの町を通ると聞いて、ザアカイはこの人に興味を持った。ザアカイは人を引きつけるイエス様を見たいと思った。
 不思議な力がこの金の亡者に働いていた。彼は背が低くて通る人の姿を見る事が出来なかった。でも去ることが出来なかった。
 4~7節―ザアカイは先回りしてイチジク桑の木に登った。やがてイエス様は弟子たちと一緒に近づかれ、木の下まで来て上を見上げて「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は是非あなたの家に泊まりたい」と言われた。自分の名を呼んだ。是非泊まりたいと言われた。感激したザアカイは「喜んでイエス様を迎えた」。罪人のままのザアカイの中にイエス様は入って行かれ、泊まられた。
 当時の常識家は、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と非難した。暗黒の中にいる罪人にイエス様を見たいと思いを起こさせ、その人の生活に入り込んで、救いの恵みをくださる。
 イエス様が、ザアカイの生活に入り込むと、ザアカイの心に変化が現れて「私の財産の半分を貧しい人々に施します。騙し取ったりしていたら、4倍にして返します。」と喜びを表明している。
 すべての人に救いの手が差し伸べられている見本を見る。現在の人間社会に主の救いが及ぶと新しい事が起きる事が示されている。
 無条件に救いが与えられるのは独り子の贖いがあるからです。その事を信じてイエス様に出会う工夫をしよう。教会の頭であるお方が、教会の中におられ、出会うことを望んでおられる。              
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by higacoch | 2008-10-18 14:38 | ルカ

2008年10月5日

「生と死に伴われる主」  詩編 118:1~9、ローマ 8:31~39 
                                   香月 茂 牧師


 今朝の箇所で伝道者パウロは「もし神が私たちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できますか」と語り掛けています。ここには、パウロの確信があります。それは、「神様が私たちの味方だ」という確信です。このことは今朝の旧約聖書の詩編作者もそうです。「主は、わたしの味方、わたしの助けとなってくださる」との確信を持っています。そうした確信から、さらに大胆にパウロは「死も、命も、・・現在のものも、未来のものも、・・私たちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない」と言っています。パウロがこういう確信のベースになっているのは、キリスト・イエスが執り成して下さるからだと言うのです。
私は2年間牧会から離れ、介護職員として老人保健施設で働いてきました。そして多くの認知症の方々と接してきました。そして今も週に二日、介護の仕事をしています。皆さんもご存知だと思いますが、認知症の方々は物忘れが増え、そして時間、空間、人間と、三つの間(マ)と言いますか、サンマが解らなくなってきます。まずは時間、時が解らなくなってきます。認知症を知るための調査書(長谷川式)の第一問は「今日は、何年の、何月、何日ですか」です。また自分の年齢も解らなくなります。次は空間、場所が解りません。家に居るのに「今から家に帰る」と言ったりします。そして三番目に人間、実にこれが大変です。娘、息子が解らなくなってきます。「あんた、誰?」となります。相手が、自分の娘なのか、息子なのか、職員なのかが解らなくなってきます。こうなると、結局は、娘、息子もただの人、周りの人となっていくのです。
 パウロは言います。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」これは反語で、つまり「だれも、キリストの愛からわたしたちを切り離すことはできない」ということです。また続けて、「艱難も苦しみも・・、どんなこともキリストの愛から切り離すことはできない」と言っています。ですから認知症になったとしても、神の愛からわたしたちを引き離すことはできません。認知症になるとサンマの問題が生じます。そして人間関係だけではなく、神様との関係もあやふやになってきます。しかしキリストの愛から切り離されることはないのです。認知症でこちらが、神様との関係が解らなくなっても問題ないのです。なぜなら、神様との関係は、私たちが最後までしっかりと関係を持つことによってではなく、私たちを愛して下さる方、キリストによって成り立っているからです。
 私たちが、たとえ認知症になったとしても、神様との関係が解らなくなったとしても、キリストの愛から引き離されることはないのです。神様が私たちを愛して関係を持ち続けて下さいます。ですから、こう言えるのです。たとえどんな状態であっても「神様に生かされている私たちだ」と。
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by higacoch | 2008-10-05 17:23 | ローマ