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2008年9月28日

「神の平安の内に死ぬ」  詩編121:1-8、Ⅰコリント 15:50-58 
                                     香月 茂 牧師


 私たちはいずれ天に召される者であります。それが何時か、どのようにその日を迎えるかは解りません。突然か、ある程度推測できる日か、どちらにしても誰もがその日を迎えます。そのように必ず誰にも訪れる死を直視しようとする動きが最近は多くなってきました。特に、キリスト教では死を縁起が悪いものとして考えませんので、死を取り上げて、死について考えようとしている人たちが多くいます。特に、カトリックの神父であり、上智大学の教授でもあるA.デーケン氏はよく知られています。この方はドイツ人、戦前の生まれで、少年時代に戦争を体験し、爆撃機による砲撃で死を間近に感じる体験をされた方です。日本に関心を持ち、そして来日され、死について考えようと「死の準備教育」を提唱、「死生学」の講座を持ち、学生たち、市民たちに教えて早やもう30年以上も経ちました。
 皆さんもご存知だと思うのですが、キューブラ・ロスという女性は、「死ぬ瞬間」という本を著しました。死を間近にした末期患者200人、一人一人に面接し、まとめて、死を前にした患者が辿る心理的な5段階のプロセスを紹介しました。しかしこうした5段階に対して、デーケン氏はご自身の体験を踏まえながら、もうひとつあると提唱しておられます。それが最後の段階「期待と希望」だと言われます。この段階は、信仰を持つ患者の場合は、永遠性への「期待と希望」という段階に達することが多いと言われます。それは死に勝る命を積極的に待ち望みながら、平安のうちに死を迎える、平安の内に死ぬということであります。
 私も牧師としての体験で、一人の姉妹の方を今朝はお話しさせて頂きたいのです。その姉妹は実に平安の中で天に召されました。姉妹は高齢になって教会に来られるようになり、洗礼を受けられました。その頃には難病のパーキンソン病によって、すでに歩きにくくなっておられました。今から25年位前ですので今のようによい薬はありません。姉妹は、年毎に足、手、顔の筋肉が硬直していき、歩行も会話も食事も難しくなっていきました。自宅から入院となり、最後の頃は顔の表情もできなくなりました。しかし、瞬きによるコミュニケーションができました。私は姉妹の愛唱讃美歌を歌い、1度の瞬きで確認し、詩編23編を読んで、2度の瞬きで確認し、最後に、確かに解っておられると確信してお祈りをしました。祈りの後、3度の瞬きをしっかりされ、その目から涙が溢れていました。それからしばらくして天に召されていかれました。私は神様にある平安を見せて頂き、平安の確かさを教えられました。
 私たちは召されて、どこに行くのか、闇なのか、空なる所なのかではなく、確かな場所、イエス様が約束されている場所に行くのです。この約束によって、身を委ねることで平安が与えられています。最後に、遺族の方々の上に、主の豊かな慰めがありますようにお祈り致します。
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by higacoch | 2008-09-28 17:15 | コリント

2008年9月21日

「人を人として」   イザヤ43:3-4, フィレモン8-22   香月 茂 牧師 

 ここ数年、格差社会、ワーキング・プアとか新しい貧困層の人たちのことが言われ、働く人たちの雇用の問題が取りざたされています。特に非正社員である、契約社員、派遣労働者の雇用条件が悪く、いくら頑張って働いても貧困から脱出できない、将来の希望を持てないとかで、社会的な問題となっています。こうした労働者への冷遇が今も現実にあり、ひどい扱いを受けている人が多くいます。
 さて、今朝与えられた聖書箇所は伝道者パウロが個人的にフィレモンに宛てて書いた手紙です。「オネシモを赦し、迎え入れて欲しい。フィレモン、お願いします。」という手紙なのです。本文から解りますが、フィレモンとオネシモの関係は、主人と奴隷の関係です。そのオネシモが主人のお金を盗み、逃亡したようです。
 オネシモがどのようにして奴隷となったのかは解りませんが、当時ギリシャやローマ社会では、奴隷は主人の所有物であり、家畜やモノのように考えられていたのです。ですから主人がそれをどうしようが、主人に任されていたのです。現代の視点で考えると、人間としての権利、人権など、少しも考えられていません。そうした中でイスラエル社会では、奴隷に関する考え方や扱いとは違いがありました。それは、もともとイスラエルの人々が、奴隷であったということに由来していました。それは旧約聖書の出エジプト記を読めば、すぐに解ります。(出エジプト記20:1-2,申命記 15:12-18参照)
 パウロは、必死の思いでフィレモンに頼んでいます。それは本文にもありますが、「自分は年を取ってしまい弱ってきているが、自筆でこの手紙を書いています」とあり、それ程心を込めてお願いしています。パウロの必死な願いが伝わってきます。「オネシモのことで頼みがある。彼は、以前は、あなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と言って、以前のオネシモではないのだ、彼は変わったのだと、そして、今は素晴らしい人になっていると言っています。今の彼を見て欲しい、そして、受け入れて欲しいと言っています。
 さらに、こんなことも書いています。「彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが、彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」と。ここには人間を超えた神様のご計画があって、神様が働いてそうされたのではないかと言っています。つまり神様が、あなたを愛し、オネシモを愛して、祝福の計画を持って、こうしたことをなされたのではないかと示唆しています。パウロはさらに言います。このパウロの言葉に今朝は注目したいのです。「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として、一人の人間として」と言っています。
 主人と奴隷、命令と服従、そうした上下関係ではなく、主にある兄弟として、愛し合う、共に生きる関係として、オネシモを受け入れて欲しいと願うのです。こうした主にある関係を、パウロはここで始めて説いて教えたわけではありません。パウロの他の手紙にも、この世の社会的な秩序を優先しない、それを超えた、主にある関係を述べています。よく知られているのは、ガラテヤの信徒への手紙の3章26節以降です。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と言っています。パウロがこう言う背景には、当時、奴隷の人たちが多くキリストの福音を信じて、キリスト者になっていたということがあります。そうした奴隷のキリスト者と自由人の人たちと交わりを持ち、共に礼拝を守ったりしていました。パウロは、他の手紙にも書いていますが、身分の低い人が多く救われたと言っています。
 私たちの現代社会においては、人が人として扱われない、人としての尊厳が無視されるような扱いを受けることがあります。最初に、お話しした雇用関係に置いても不当に扱われることがあります。私たちの人間の歴史は、人権の獲得の歴史でもあるといってもいいでしょう。戦後の1948年には国連で「世界人権宣言」が採択されました。その翌年には、人身売買の禁止、さらに難民の地位の確立、婦人の参政権の条約など、いろいろな人権が認められていきました。しかしながら、職場における雇用関係で、人として不当に扱われることがいまだにしばしばあります。そうした中で、格差社会が作られ、ワーキング・プアの人たちがいて苦しんでいます。また個人と個人の関係でも、相手を人として見ようとせずに、その人よりも上に立ち、相手を自分に従わせようとします。こうした関係は、上下関係を作っていて、主従関係であり、決して主にある兄弟姉妹の関係ではありません。
 パウロは、罪を犯した奴隷オネシモを、ただ赦し、受け入れて欲しいと願っているわけではありません。互いが今やキリストを信じる者として、信仰をもって生きる者として、勧めているのです。それはキリストによって新しい関係がそこに与えられ、キリストによる関係、キリストによる一つである関係、それは相手を奴隷としてではなく、人として愛する隣人として見、そして共に生きる人として、仕える生き方なのです。キリストの愛を受けた者は、キリストによって新しい隣人との関係に生かされ、人を人として見て、共に生きるように求められています。それをパウロは、求めたのです。そして、私たちも求められているのです。
 イエス・キリストを信じるとは、人を人として、愛する関係として生きるように求められています。イエス様は弟子たちに言われました。「私は、あなたがたを僕、奴隷とは呼ばない。私はあなたがたを友と呼ぶ。あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るように。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」と。
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by higacoch | 2008-09-21 17:00 | フィレモン

2008年9月14日

「神様の愛の導き」 イザヤ書35:1-10,ルカ福音書14:15-24  香月 茂 牧師

 このたとえ話では、主人は父なる神様です。神様は、一人一人を愛して下さっており、その一人一人に大宴会に来て欲しいと願っておられます。しかし人々はその招待をことごとく断っていきました。ここに断った3人が記されていますが、この3つのタイプに分けられるように思えるのです。最初の人は「ねばなりません」と言って断りました。「忙しくて、これをしなければならないので、行けません」と言うわけです。次に、2番目の人は、「行く所です。」と言って断りました。今まさに用事のために行動中なのです。ですから、それを止めてまでして、行くことはできませんとのことです。最後の3番目の人は「したばかりです」と言って断りました。三人が三様、理由を並べて断っています。こうして神の国の宴会に出席しようとはしませんでした。これはイエス様の救いを受け止めようとはしなかったということです。こうした人々は、自分たちの生き方に自信をもっていた人たちで、神様からの救いの恵みを必要と考えなかった人たちです。

 招待された者が皆断り、戻ってきた僕に主人は「急いで町の広場、路地へ出掛けていって、そこにいる貧しい人々、体の不自由な人、目が不自由な人たちを、足の不自由な人を、ここに連れてきなさい」と命じ、再び遣わしています。私は、ここに神様の心持ちを感じます。神様はここで誰でもいいから連れてきなさいと命じたのではありません。はっきりと貧しい者、体や目や足の不自由な人と具体的に言っています。こうした人々は、ほとんどが貧しい人たちでした。主人は、あえてそうした人々を連れて来なさいと僕に言いつけています。そして、僕がそうした人々を連れて戻ってきて、「まだ宴会の席があります」と知らせると主人は言いました。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れてきてこの家を一杯にしてくれ」と。ここに「無理にでも」とありますが、これは強制してと言うのではなく、せきたててもと言う意味で、できるだけ連れてきて欲しいと願う主人(神様)の篤い思いが伝わってきます。そして今度は、通りや小道に行けとありますが、そうした所に住んでいる人たちは、さらに貧しい人たち、社会的にも最下層の人たちなのです。こうして最も小さい人たちをも招かれています。神様は最も小さい人たちに恵みを与えようと招いておられるということなのです。現代的な理解から言えば、格差社会の中で、見過ごされている人たちです。神様は、そうした人たちを愛しておられ、大切にされておられます。神様は、あえて、そうした人々をより一層、憐れんで、導こうとされていると思います。

 神の国の宴会では、満員御礼となって、もうこれ以上は入れませんということはありません。神様は、今も、この宴会に招いて下さっています。ですから、ぜひ求道中の方々が神様からの救いの招きを受け入れて、信仰を言い表して頂きたいのです。
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by higacoch | 2008-09-14 22:30 | ルカ

2008年9月7日

「剣を取る者は剣で滅びる」創世記9:6, マタイ福音書26:47-56 
                                     香月 茂 牧師

 
 先々週、悲しい事件がアフガニスタンで起こりました。現地との人々と共に働き、現地の人たちのために仕えて、砂漠化する農地を何とかしようと井戸を掘り、灌漑用水路を造りながら、農業指導もしていた日本のNGO、ペシャワール会のメンバーであった伊藤和也さんが銃弾に打たれて殺されたことです。このペシャワール会の活動は、今から24年前、医者の中村哲氏の医療活動を支援していく目的で始められ、その後2000年の大干魃で大打撃を受けたアフガニスタンの人々のために、食糧支援のための農業活動にも広がり、井戸を掘り続け、その数1600箇所以上にもなりました。

 9.11への報復戦争開始から7年が経った現在のアフガニスタンの政情不安定を思うと、軍事力で戦争に勝利し、力で戦争を終結させたとしても、それは決して平和作りでないと教えられます。改めてイエス様の言葉が本当だと教えられます。イエス様は、剣で立ち向かおうとした弟子に「剣を取る者は、皆剣で滅びる」と言われました。これは、「剣に対して剣」では解決はできないということです。この世界は剣である武力がものをいう世界です。その力の論理が多くの人々に通じるかも知れません。しかし、そのような人間の世界に主イエス様は来られました。そして人々に仕え、神の国の福音宣教に励んでいかれ、決して力で人を従わせようとはされませんでした。むしろ人々を憐れみ、自らの命を賭けて、人々の罪を赦す愛をもって、十字架の上で死んでいかれました。そして、その後に新しい真実の命を弟子たちや人々に現して下さったのです。ここに神の愛があらわされ、神による真実の平和が創り出されました。剣ではなく、愛をもって創り上げられました。

 ペシャワール会の現地代表の中村哲氏は、次のような信念をもって語っておられます。「平和は軍事では勝ち得られません。いたずらに農民を殺戮する外国人の対テロ戦争に対決し、一人でも多くの命を守る戦いです」と。私の手元には、ペシャワール会の最新号の機関誌がありますが、その機関誌に、殺害された伊藤和也さんらの記事もあります。そこには、農業指導で現地の農家の人々が作物を多く育てて大収穫を得たことが述べられていますが、最後に、最も大事なことは人材育成であり、今後もそのために一生懸命働いていくと述べられています。

 人が暴力に対して、暴力、剣に対して、剣と、報復をしようとする時に、イエス様が語られた「剣を取る者は、皆、剣で滅びる」をしっかりと受け止め、軍事力で、力で、本当の平和は創れないと心に刻み、イエス様の言葉に従い平和造りを小さな歩みの中でもなしていきましょう。「平和を創り出す者は幸いだ」とも言われています。(マタイ福音書5:9参照)
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by higacoch | 2008-09-07 22:24 | マタイ