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2008年8月31日

「分かち合って」  列王記下 7:1-20, マタイ福音書15:32-39 
                                   香月 茂 牧師


 今朝の旧約聖書箇所の背景は、イスラエルの国に飢饉が襲い、食糧不足の上に、外国と戦争を始め、敵の軍勢に包囲され、極限の飢餓状況となっていました。母親がわが子の人肉を食べるという恐ろしい状態でした。その中で神の人エリシャが信じがたい預言を語りました。それは「明日の今頃、上等の小麦粉、大麦が安価で売られる」というものでした。これを聞いた王の仕え人は信じようとはしませんでした。王も人々も同様でした。しかし、神は働いておられたのです。

 神は、その日の夕べに轟音を響かせ、城を包囲した敵に大きな恐怖心を与えました。軍事大国エジプトと近隣の諸王の援軍が大軍を連ねてやってきたと思わせたのです。そこで、敵は夜にもかかわらず慌てて取る物もとりあえず、一目散に逃げていきました。翌朝、神は重い皮膚病の人たちを敵陣に導きました。彼らはそこで食糧にありつき、それを自分たちで山分けをせず、飢餓状態で苦しむ人々に知らせました。こうしてエリシャが言った預言は成就しました。彼らは人一倍、飢餓の苦しみを知っていたからこそ、神に導かれて共に分かち合うことしたのでしょう。

 さて今朝の新約聖書箇所では、イエス様は人々に対して憐れみをもって行動されています。人々を空腹のままで解散させたくないと思われました。そこで弟子たちに「パンはいくつあるのか」と尋ね、弟子たちは「七つ。それに、小さい魚が少しばかり」と応えました。この答えにはこんなに大勢の人たちに対して、少ししかないという諦めがあります。しかしイエス様は手渡された七つのパンと魚を受け取り、神様に感謝の祈りを捧げ、パンと魚を裂き、それらを、弟子たちを通して人々に渡していきました。こうして人々は食べることができました。ここでイエス様はある人たちには多く、またある人たちには少なく渡されたのではありません。皆が食べて満腹したとあります。誰かが不満を訴えたということはありません。イエス様はすべての人々に分け与えておられます。

 「七つのパン、少しの小さな魚」は、実際少ない量です。何らかの自然災害で食糧が十分に収穫できないことがあります。そうなった時、一部の人が食糧を独り占めしようとすれば、ますます他方では少なくなり、飢餓状況を引き起こします。少量の食糧が飢餓を生み出すのではなく、人の独占欲が生み出すのです。飢餓は人間の生き方の問題なのです。
ここで大切なことを教えられます。イエス様がなされているように、分かちあうこと、独り占めをするのではなく、共に預かるのです。自分だけが満腹すればいいと言うのではありません。自分の家族が、グループが、国が、ではありません。分かちあうことの大切さを知らされます。これは食糧だけのことではなく、与えられたものを分かち合うこと、これは隣人のことを思い、隣人を愛することです。イエス様がそうされたように、私たちもそのように導かれています。
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by higacoch | 2008-08-31 22:21 | 列王記

2008年8月24日

「正しい裁き」  列王記上21:1-24、マタイ福音書14:1-12  香月 茂 牧師

 人は欲張りです。他人がもっていて、自分が持っていなければ欲しがります。モーセの十戒の最後に「隣人のものを一切欲してはならない」とあります。

 今朝の箇所に記されているアハブ王もそうでした。王は隣人の所有するぶどう畑が欲しくなり、代替地か売却かと持ちかけましたが、その持ち主は「この土地は売れない」ときっぱりと断りました。手に入れることができないと解った王は、機嫌を損ねて宮殿に帰ってきました。すると妻イサベラは「この国を支配しているのはあなたです。私が奪って上げましょう」と言い、早速偽証人を立てて、持ち主を追い詰め、彼が大きな罪を犯したことにして、殺させてしまいました。こうして王はぶどう園を手に入れようとしました。すると、王の前に預言者エリヤが立ちはだかり、王に向かって「あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものするのか」と糾弾しましたが、王は罪を悔い改めず、さらに罪を犯し続け、神の裁きを受けました。アハブ王と同じように、ヘロデ王も預言者ヨハネによって自分の罪を糾弾されましたが、ヨハネの言葉に耳を傾けようとはせず、ヨハネを殺しています。権力をもつ王は傲慢になり、自分の欲しいものを力づくで隣人から奪っていきます。これは王だけでなく、軍事力を持ち、傲慢になる国においてもそうです。かつて日本も隣国のものが欲しくなり、日本も韓国、朝鮮、中国や東南アジア地域の国を侵略し、国を奪うという大きな罪を犯しました。アハブ王、イサベラが犯した罪を神は知っておられます。それゆえ、神はアハブ王の前に預言者を遣わし、王が罪を悔い改めて、罪の赦しを請い、その後罪を犯さないようにと導こうとされているのです。日本も罪を悔い改め、二度と侵略戦争をすることがないようにしていかなければなりません。もし悔い改めず、罪の道を進むなら、神は裁きを下されるでしょう。神が罪を糾弾されるのは、悔い改めて神の道へと歩んで欲しいからです。

 この聖書箇所で解ることは、神は権力の側にはおられない、力を振るい、力で人を抑え、欲望に任せて生きる者の側にはおらないということです。むしろ、そうした権力者によって虐げられている人、弱い人たちの側におられる、このことを知らなければなりません。イエス様は神様の裁きのことを譬えで教えられました。マタイ福音書25章にありますが、そこでイエス様は大事なことを教えておられます。「はっきりと言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことだ」と。弱く、小さい者に仕えることは、私に仕えた事だと。そうした小さい者に仕える者を祝福されるのです。私たちはどちら側に立って生きるのかが問われています。神様の御旨にそって生きようとするのなら、神様に従わなければならない。神様は、正しい裁きをなされる。それゆえに、この世の権力、力で人を強い、人から奪うような生き方ではなく、弱く虐げられている人たちの側に立って、人に仕えて共に生きるように神様は私たちを導いておられるのです。
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by higacoch | 2008-08-24 22:19 | 列王記

2008年8月17日

「剣ではなく鎌を」  ミカ書4:1-8、マタイ福音書5:9  香月 茂 牧師

 平和のスポーツの祭典であるオリンピックが2008年に開催と言うことで8にこだわり、8月8日現地時間8時に開会式が開始されました。しかし、皮肉にも同日、グルジア内の南オセチア自治州でグルジア軍とロシア軍との戦闘も開始され、翌日の朝日新聞朝刊の第1面には「北京五輪開幕」と「ロシアがグルジア爆撃」との見出しが並んで載っていました。戦争というのは人間の罪によって引き起こされるものです。自治州の豊富な地下資源(金、鉛など)の利権争奪がからんでいるのでしょう。軍事的な介入をしてまでもその地域を支配したい両国は、武力でその目的を果たそうとしたのです。
 グルジアに南オセチア自治州があるように、中国もウイグルやチベット自治区があります。中国もそうした自治区に対して軍による鎮圧をしています。20世紀は戦争の世紀と言われましたが、21世紀になっても、いつ、どこで戦争が勃発するか、その危険をはらんだ地域が地球上に幾つもあります。そうした地域を今も国家が武力で抑え、軍事力で封じているところがあるのです。

 今朝与えられたミカ書の箇所は、平和のメッセージでは重要な箇所であり、同じ預言がイザヤ書にも、ヨエル書にもあります。そしてこの言葉は現在、ニューヨークの国連本部のロビーの壁面に刻まれており、これは世界平和の預言として知られています。
ミカは農村出身の預言者でした。彼が活躍した時代にはユダヤの国は南北に別れていて、北の国は軍事大国アッシリアによって侵略され、滅ぼされました。南の国もその軍事大国に従属することでかろうじて生き延びていました。そのような強大な軍事国家の脅威の許で、前途に希望も光も見出せないような状況にあったのです。しかしながら、こうした破局的な状況を見据えながらも、預言者ミカは大胆に「終わりの日」の約束が確かな希望であることを語っています。

 ミカは、主なる神は多くの民の争いを裁かれる、それがどんなに遠くの国々であっても、どんなに軍事的に強い国であってもその国を裁かれると語っています。そして、神は終わりの日に、人々が剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とすると預言しています。アジア太平洋戦争の時、日本はまさにその逆をしました。家庭にある鍋や釜など金属製の生活用品を国民に供出するように強い、人を殺すための戦闘機や銃を作っていきました。しかし、神様が最終的に勝利して創り上げられる神の国は、力によるのではありません。武力によって人を押さえ込み、服従させてしまうのではなく、足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び集めると約束されているように、弱い者、虐げられた者を集めて、生き残る者として下さるということです。そこには剣や槍は必要ではなく、むしろ鋤や鎌が必要なのです。それらによって共に生きるためです。

 日本が再び鍋や釜を剣や槍に作り替えることがないようにしていかなければなりません。預言者ミカが語った平和の道、剣を鎌に変えていく道をしっかりと歩まなければならないのです。これこそが平和を創り出す歩みであり、神に喜ばれる歩みだからです。
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by higacoch | 2008-08-19 22:20 | ミカ

2008年8月10日

『 虹と十字架 』   創世記 9:1~17、エフェソ 2:11~22
                     古畑 和彦 牧師(日本中会主事)


 神は、大洪水の後でノアを通して人類と「二度と洪水によって滅ぼさない」という契約をたてました。神が望んでいるのは人類の滅びではなく、「生きる」ことでした。神は「あなたの人生には滅びはない」、だから心配しないで「生きなさい」というのです。この契約のしるしが虹でした。

 ところが、人類は「神は滅ぼさない」、それなら好き勝手に生きよう、何をしても滅びはないのだから、という生き方を選んでしまいました。神を無視して、好き勝手な自己中心の生き方を選んでしまいました。自己中心の生き方は、自分に都合の悪い人間を排除(はいじょ)していきます。あなたは私の邪魔だから「生きていなくてもいい」「生きていては迷惑だ」というメッセージを発信するのです。こうして、人間の尊厳が踏みにじられ、人と人の平和は壊されていくのです。そしてますます神を無視した生き方を続けていくことになったのです。このように罪が蔓延(まんえん)したことで、神が滅ぼさなくても、人間のほうが自滅してしまう状況になってしまいました。このようにして人は未来に希望を持つことはできなくなったのです。

 ところが、神は、実に驚くばかりの方法でこの契約を元通りにしてくださいました。エフェソの信徒への手紙2章14節から16節には、神が、十字架を通して、敵対するものを一つにし、平和を実現し、神と和解させることが記されています。神は、御自身の独り子であるイエス・キリストをこの世界にお送りくださり、人類の罪の身代わりとして十字架におつけになったのです。そのことによって、平和と希望が回復して、再び「生きていていい」「生きていなければならい」とメッセージが語られるようになったのです。そして、神と人類との間の契約、もう滅ぼさないという救いの契約が再び有効になったのです。

 ノアが虹を見て生きる希望を与えられたように、私たちは十字架によって生きる希望が与えられるのです。私たちの周りにも「生きてはいけない」「生きているな」という声が渦巻いています。しかし、私たちは十字架を見上げ「生きていていい」「生きていなければならない」と語る神の声を聞くのです。自分だけでなく、私たちと共に生きるものにも「生きていていい」「生きていなければならない」と伝えていくのです。
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by higacoch | 2008-08-10 21:58 | エフェソ

2008年8月3日

「思い悩むな、神の国を求めて生きよ」 詩編34:9-11、 ルカ12:22-35
                                       香月 茂 牧師


 今朝の箇所でイエス様は「命のことで、思い悩むな」と言われていますが、どうしても気になるのは、自ら命を絶つ自殺の問題です。日本はここ10年自殺者が3万人以上です。命のことで、生きる希望を見出せない孤立した人々がいます。生きることそれ自体に、もうだめだと悩む人がいるのです。私はこのことに心が向きます。

 イエス様は「カラスのことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神はカラスを養ってくださる。あなたがたは鳥よりもどれほど価値があることか」と言われました。神様はあなたがたに価値を見ておられ、深く愛しておられると教えておられます。イエス様は、ここで人が何かをするから、何かができるから価値があると言われているのではありません。何もできなくても、その人自身の存在に価値を見ておられるのです。

 自殺の危険の高い人は、いわば、心理的な視野狭窄の状態に追いやられてしまっていると言われます。孤立してしまい、もう自分では現実の問題をどうすることもできないと考え、もう死ぬしかないと思い込んでしまうのです。あるいは、今まで自分にとって価値があったものを失ってしまうと、もう生きていく価値がないと思い込んでしまうのです。皆さんもご存知の星野富弘氏も、クラブ指導の時に跳馬で着地に失敗して、首から下が不自由になりました。その時星野さんを襲ったのは「こんな役に立たない人間は、死んだ方がいいんだ」という悪魔の声でした。そして自殺を試みようとされました。こうした星野氏が、ある人を通して聖書を与えられ、イエス様の言葉に触れ、生きる力を頂き、そしてイエス様によって生かされていることを知ったのです。

 イエス様は弟子たちに、まずは一人一人に価値があると教えられました。そうした所から、イエス様は「神の国をもとめなさい」と勧められました。イエス様は一人一人が神を求めて生きていったらいいと考えられたのではありません。「神の国」には、「神の国の民」がいるのです。国民が一人では国とは言いません。一人で生きるのではなく、共に生きること、神様を信じて、神様にあって共に生きること、これが「神の国を求めて生きること」です。そのような生き方をイエス様は望まれました。一人で神様だけを信じていればいいという生き方は、神の国を求めて生きているのではありません。神様にあって、互いが関係を持ち、互いが関わり合って生きることが求められています。

 神の国を求めて生きる、これが教会の歩みです。教会は、どんなに小さな群れであっても、神を信じて、神の御心を求めて、共に生きようとする時、父なる神は祝福して下さいます。イエス様によって現された神の愛を受け止め、神様に愛され生かされていることを覚えて、共に生きる者でありたい。与えられた生涯を、神をほめたたえて、神様を見上げて生きていきたい。
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by higacoch | 2008-08-03 21:22 | ルカ