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2008年7月27日

「 キリストによる和解 」  詩編 98:1-3、 コロサイ1:15-20  香月 茂 牧師

 先週の月曜日、教会学校の夏期学校で子どもたちと共に多摩動物公園にでかけました。動物を見ながら、上野動物園で飼育を何十年もした方が書いた本を思い出していました。その方が動物園では子ども達に珍しい動物を見せ、楽しんでもらうためだけに動物を飼育しているのではない、表に現れないが、絶滅に瀕している動物たちの飼育をもしていると書かれていました。このことを知った時、私はとても驚かされました。現代は人間の勝手な動物の乱獲や自然破壊で動物たちの生存が脅かされ、絶滅に瀕している種が実に多いことを知らされます。

 今朝の聖書箇所で、パウロははっきりと言い切っています。「万物は、御子のために造られた」さらに「すべてのものは御子によって支えられている」と。すべては御子の手の中に治められ、支えられていて、決して人の手によって人の知恵によって支えられているのではありません。そして、神は「御子の十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」と言っています。
ここで注目したいのは、神は御子の十字架の血によって、地にあるもの、天にあるもの、万物を御自分と和解させられたと言っています。御子の血による贖いが人間だけのためだと言っていません。御子の贖いはスケールがもっと大きく、私たちの理解を超えるものであり、万物との和解を与えたものであります。ですから神様の愛は人間だけ注がれているのではありません。神が創造された動植物たち、また被造物にも注がれているということです。人間が犯した罪は、神と人間との関係を壊してしまっただけではなく、人間以外のすべての被造物にも影響を及ばし、人間と自然との関係をも壊してしまったということも含んでいたと考えられるのです。

 5年前牧師会で、公害の原点と言われた足尾銅山の鉱毒事件で先頭に立って戦った田中正造氏のことを学ぶために、佐野市郷土博物館に出掛けました。彼は聖書を熱心に読み、苦しむ人々の側に立ち、公害の元凶の会社を、また公害に取り組まない政府を訴え続けました。彼は公害問題ではその時代よりも、一歩も二歩も先んじていたのです。彼が残した有名な言葉は「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破(やぶ)らず、人を殺さざるべし」と。まさに彼は公害の原点を突いているのです。
 神が御子によって被造物と和解して下さったことを受け止めるのなら、私たちは御子イエス・キリストに従う者として、被造物と共に、神をほめたたえて生きる者でありたい。それは、自然を壊し、環境を汚染してしまう歩みではなく、被造物と共に生きることです。私たちの小さな歩みであっても、神の栄光を現し、神をほめ讃えて神が創造された世界を、守って生きる者でありたい。
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by higacoch | 2008-07-27 21:19 | コロサイ

2008年7月20日

「 神さまの家に住む私たち 」  詩編100:1~5、ヘブライ 3:1~6 
                                      香月 茂 牧師


 今朝の聖書箇所に4回も出てきます「神の家」、これは教会だと思われる方が多いと思いますが、ここでの「神の家」はもっと大きな意味を含んでいます。「神の家」の「神の」というのは、4節にもありますように「万物を創造された」神であります。そして「家」というのは、ギリシア語で「オイコス」と言いますが、この言葉は、単なる家の内側、限定された人々を意味するものではありません。もっと大きな意味を持ち、部族、民族をも意味し、さらに世界の人々、人類の意味をも含んでいます。またそれだけではなく、神様が創造された世界、全世界という意味もあります。こうしたことから、現代では「神の家」は、神が創造された世界、そこに住む生き物、さらにその自然環境をも含んで、理解されるようになりました。またこの言葉は、最近言われている「エコロジー」という言葉の語源でもあります。これは「オイコス」と物事の論理であるギリシア語の「ロギア」とが合成されてできた言葉で、「創造された世界の秩序」といった意味がエコロジーにはあります。

 聖書には、神様が全てを創造されたこと、その万物は神様の秩序の中に治められているという視点があります。ですから「神の家」は、信仰者の人々を意味するだけではなく、特に現代では、動植物も自然も神様の御手の中に治められていると言うことで、環境問題の中で取り上げられたりします。私たちは、神様の視点、神様がこの世界を創造された秩序の中に生きるようにされているのです。ただ、これまで教会は「神の家」を狭く理解してきて、創造された世界で起こっていたことに、関心を持とうとせず、またそうした出来事を神様の視点で理解しようともしませんでした。そうした世界とは関係がないかのように考えてきました。

 また創世記の1章28節に、神が人間に言われた「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」との言葉から、地上の支配権が人間に与えられていると受け止めて、自分たち人間の有益性のみを考え、自然を壊し、生態系を破壊して来た面があるのです。こうした人間の罪の行為をやっと最近になって気付き、もう一度、聖書の言葉を読み直して、聖書の真理の言葉に聞くようになってきました。

 私たちは、この現代に、神の民として、「神の家」に住む者として、生きています。神の家に住むわたしたちの使命として、どんなに小さな事でも、創造されたもの、その秩序を保つように、執り成しの祈りをし、そのための行動をして行きたいものです。この世界は神様の創造物であり、決して偶然に存在しているのではないのですから。神様の御心で創造され、御心の中に治められているのですから。御心に沿う歩みをしていきましょう。
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by higacoch | 2008-07-20 21:08 | ヘブライ

2008年7月13日

「勇敢に語る」  使徒13:44-52   唐澤健太牧師(国立のぞみ教会 牧師)

 使徒言行録を読むと主の言葉が語られる場所で二つの反応があることを教えられる。反対し、拒絶する者たちと主の言葉を聞いて喜び、聖霊に満たされる者たちが主の言葉が語られる所にいるのだ。パウロが主の言葉を語った時もそうであったことが今日の個所からも分かるだろう。それは主の言葉が私たちの中で語られる時、譲ることのできない対立が生じることを意味している。
 私の友人は就職し、仕事をする中で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:2)という一つの聖書の言葉を心に留めて過ごしていたことを証ししてくれた。そうでないとこの世に倣い、流されてしまうと友人は感じたのだという。私たちの信仰がこの世に倣うものであるならば、主の言葉は私たちにとって一体どのような意味があるのだろうか。

 パウロが語った神の救いの御業、イエス・キリストの救い業に対して反対し、拒絶した人たちは、「心を新たにして自分を変えていただく」ことをせず、むしろ頑なに拒んだのだ。しかし、そこには喜びと賛美は生まれないのだ。大きな分かれ道がここにある。
 もう一つこの箇所で教えられることは、パウロが「勇敢に語った」ということだ。「勇敢に語る」ことは使徒言行録に記される初代教会の宣教において重要な意味を持つ。「イエスがメシアである」と宣教することは、ただ単に言葉の問題ではなく、神に選ばれたという選民意識をとらえ直すことであり、割礼を相対化し、律法からの解放を意味し、言ってみれば当時の社会の根底をひっくり返すような衝撃を持っていたのだ。だからこそパウロたちは迫害され、追い出されたのだ。しかし、まさにその時にこそ勇敢に語れるか否かが重要なことなのだ。「勇敢に語る」ことをなくした教会は、社会の中で宣教の命を失うと言っても過言ではない。戦時中、「勇敢に語る」ことをしなかった日本の教会はこの世に倣ってしまったではないか。「勇敢に語る」という言葉が、もともと「言論の自由」を表現する中で使われていたということは何かとても示唆的だ。
 神学校時代に夏期伝道実習で行った喜界島でお世話になった丸山牧師は、軍事通信施設「ゾウの檻」建設を巡って島の平和と環境を守るために長年闘っておられる。先生は、「泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)との主の言葉に生きることを決意され、様々な困難を引き受けていかれた。先生は、多くを語る方ではない。どちらかといえば非常に口数の少ない牧師だ。しかし、丸山牧師は「勇敢に語る」ことの意味を深く私に教えてくださった。

 イエス・キリストの福音には、社会に衝撃を与える力が本来あるのだ。その力が失われているとしたら、それはキリスト者の生き方に問題があるということを覚えておきたい。「言論の自由」を考えても、何かきな臭さを感じる今日にあって、イエス・キリストの言葉を「勇敢に語る」私たちでありたいものだ。
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by higacoch | 2008-07-13 21:04 | 使徒言行録

2008年7月6日

「 神への賛美 」   歴代誌上29:10-13  ローマ15:7-13  香月 茂 牧師

 私たちが祈る「主の祈り」の最後の言葉「国と力と栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり」を学びます。この頌栄の言葉はイエス様が祈るようにと教えられたものではありませんが、教会はずっとこの言葉をも加えて祈ってきました。教会の歴史の最初から、ずっと祈られてきています。教会古文書「ディダケー」(十二使徒の教訓)の中に「主の祈り」の最後の部分でこのように祈るようにと記されているのです。この文書は1世紀前にまとめられたものであると言われていますが、古代のある神学者がこの文書を新約聖書の中に加えるべきだと言った程、重要なものでした。それほど早くから、重要で欠くことのできないと考えていたのです。この頌栄の言葉は、当時の教会が創作したものではなく、歴代誌上の29章10節~13節、ダビデの祈りから取られたものだと言われています。

 イエス様は宣教の始めに「天国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と説教されました。それから、村々町々を巡り歩き、福音をのべ伝え、神の国の説教をし、大いなる神の力と神の栄光を現されました。人々はイエス様の奇跡と権威ある教えに驚嘆し、恐れました。そしてそれだけではなく、イエス様はほぼ3年間福音宣教の後に都エルサレムに来られ、命を捧げて、私たちの罪を赦し、私たちを救って下さいました。私たちの身代わりとなって苦しみ、命を献げても私たちを愛して下さった十字架の死の出来事、そして、その死からの復活を通して、神様の勝利を現して下さいました。
このことを知った弟子たちは、主が教えて下さった祈りを、どうしても「悪より救い出したまえ」で終えることができませんでした。教会は主イエス様がなして下さった救いの御業を深く受け止めた時に、信仰の表明として、御名をほめたたえずにはおれなかったのです。

 イエス様が開いて下さった御国、それは地上に現されましたが、それは未だ完成はしていません。その「未だ」の時において、主の祈りを祈るのは、主イエス様が再びこの地上に臨まれて御国を完成させて下さることを望み見ながら、祈っているのです。祈りつつ生きるのです。これは私たちの祈りであると同時に教会の祈りであり、神をほめたたえて、神を賛美して祈る祈りなのです。
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by higacoch | 2008-07-06 21:00 | 歴代誌