カテゴリ:ルカ( 71 )

2017年5月28日

5月28日 「心を開かれて」       イザヤ書26:1-6、ルカ24:44-49
                            関 伸子 牧師 
  
 この朝与えられている聖書の言葉は、ルカによる福音書第24章の44節以下です。ある注解書を書いている人が、こういうふうに書き始めていました。「主が甦られた日の夜……」。私はハッとしました。この第24章は、1節から一貫して、同じ日の出来事を語っているということを、私はその時、十分に自覚していなかったのです。
 ずいぶん長い一日でした。当然、もう夜も更けている。あたりは、すっかり寝静まっている。その静かな夜更けに、主イエスが、み言葉を語りつづけられる。主イエスと食卓を囲みながら主の言葉に耳を傾ける弟子たちの姿を思い浮かべます。これは、その日一日の出来事の終わりであると共に、新しい夜明けへの備えでした。
 キリストが、甦ってくださった。食卓を共にしてくださった。み言葉を語ってくださった。ここに教会の礼拝の姿があります。この朝、私たちも聖書を読み、礼拝をささげます。45節に、「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とルカは書いています。こころを開く。それがまず大切なことです。しかも、それをしていてくださるのは主ご自身です。
 「聖書を悟らせるために」。悟るというのは、ああ、そうだ、と納得するということです。聞いて、開いたこころの中にみ言葉が入り込んでくる。主イエスは、ここで、ご自分が語っていることは、何も今初めてのことではないと言われます。「わたしが以前あなたがたと一緒にいた自分に話して聞かせた言葉は」と言われたのです。けれども、それが弟子たちのものにならなかった。弟子たちのこころを捕らえ、根をおろしていなかった。弟子たちのこころが、まだ開かれていなかったのです。
 「心を開く」と訳されている、この「心」という言葉は、ふつう日本語で翻訳する時には「理性」と訳される。理性と訳すと、少々難解となるので、「心」と訳したのでしょうか。福音書の中でこの言葉が用いられるのはここだけです。理性とは何か。まず基本的な意味は理解力です。聖書が語っている神の救いについてはわからなければいけない。それほどに、こころを開くことができるはずです。主ご自身が、私たちのうちに住むためにです。そのように、こころを開かれて、初めて、新しい時に備えることができるのです。
 皆さん自身がいつも願うことは、自分の生活が新しくなることでしょう。その新しくなるということは、自分がこころを開くということです。理解をすることができるようになるということです。
 こころを開くとは、どういうことなのでしょうか。横須賀線の衣笠に、衣笠病院というキリスト者の営む病院があり、そこで勤務されていた小児科の医師だった方から聞いた話を思い出します。神学校の教授が、学生の有志を連れて、この衣笠病院を訪問しました。牧師になると、病んでいる方を訪ねるということは、とても大事なことになる。だからせめて、一度だけでも体験させておきたいと思ったのでしょう。ある婦人を訪ねさせられた男性の神学生がいた。予めお医者さんから説明があった。「この方は癌で、もう直る見込みはない方です。そのことをよくおぼえておくように」。若い神学生は途方に暮れた。病室に入っても何を言っていいのかわからないのです。とにかく聖書を抱えて行った。非常によく覚えているのは、とにかく、とまどっていた神学生に、そのご婦人のほうからこう言われた。「あなたはもうすぐ神学校を出て牧師になるんですって?」「はい」。「あなたのためにお祈りしましょう」。そこで祈りをしていただいて、半ばすごすご、半ば、やれやれというような思いもあって戻った。病んでいる方の最初の訪問としては大失敗だと本人は思っている。戻ってから正直にその報告をした。そうしたら病院づきの牧師の方も神学校の教授も、「それは、よかった」と言われました。その方は、自分はもう、いつ召されるかわからない者だということを、祈りの中でも明確に告げられた。だが、その病気にこころを占領されず、神学生のために祈る。祈って励まして、送り出さなければいけないと思われたのでしょう。その婦人には、自分のことではなくて、この若い神学生のために、こころを開く思いが神から与えられたのです。病む者に、その病にだけ思いを集中させ、自分がどんなに惨めか、どんなに苦しいかということだけに思いを至らせるのではなくて、そのような時にも、他者のために祈るこころに生きさせる。主が、そのようにしてこころを開いてくださった。
 自分のことにかまけていたら、こころは開かれない。主イエスは、聖書がわかるように、あなたがたのこころを開くと言われ、46節からこう語られました。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。
 主イエスは、弟子たちの頑ななこころに向かって言われる。イエスご自身が死んで甦られること。そして、その主の事実に基づいて罪の赦しが与えられる。罪の赦しを得るために人びとのこころに悔い改めが起こるのです。
 罪人である私たちに、こころを開いておられる主イエスを見ることが大切です。私たち自身が、自分を理解していると思っているよりも、もっと深く私たちを理解し、受け入れ、私たちを、神の子としてくださる主イエスのみわざを知ることが大切です。そこで立つのです
みなさん、一人ひとりの中で、夢ではない事実として、神の子としての生活が始まる。大切なこと、それは神によって心を開いていただくということです。主の言葉をよく知る。そして、あの時の弟子たちと同じように、これから私たちは証し人として立ちます。自分もまた、こころを開き続けて、神がこころを開いていてくださることを証しする生活を始めることができるのです。お祈りいたします。
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by higacoch | 2017-05-29 09:59 | ルカ

2017年2月26日

「しかし、お言葉ですから」       イザヤ書55:8-13、ルカ5:1-11
                     国立のぞみ教会牧師 唐澤健太

 今朝、みなさんはどんな朝を気持ちで迎えたでしょう。春の日差しを感じる朝日の中で晴れやかな気持ちで目覚めた方がいるでしょう。しかし、また新しい朝を迎えても課題を抱え、動揺の中で、重苦しい朝を迎えた方もいるかもしれません。
 ペトロの召命物語として知られているルカ5章には、同じ朝でも全く違う朝を過ごしている人たちの姿がありました。 
 ある人たちは、ゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖)の湖畔に立っているイエス様のところに、「神の言葉を聞こう」と押しかけています。その辺りで評判になり始めていたイエス様の教え、言葉を「神の言葉」として聞こうと迫っていく。人々の熱気や、活気を感じます。
 それとは対照的に、ペトロたち漁師は「網を洗っていた」とあります。夜通し漁をした漁師たちが、後片付けをしていたわけです。人々が熱心にイエス様のところに押し寄せているのとは、対照的。何だか群衆の熱気の蚊帳の外にいるように漁師たちは「網を洗っている」。神の言葉を聞く群衆たちから微妙な距離があるように感じます。
 しかも、この日の漁は、さんざんだったようで、「夜通し苦労したけども、何もとれなかった」のです。ペトロたちは、一晩中、小さな舟の上で、小さな松明を掲げながら、暗闇の中で、何度も、何度も、網を投げて、引き上げる。一生懸命やった。でも「何もとれない」。そのうち、朝日が登り始め、朝になる。朝になると魚は深くに潜ってしまい、捕りづらくなったそうです。ペトロは恨めしい思いでこの日の朝日を見つめたのではないかと思います。失意と、疲労と、そして睡魔に襲われながら、ペトロたちは「網を洗っていた」のでしょう。それがこの日ペトロが迎えた朝でした。
 そんな時に、ペトロはイエス様に声をかけられたのです。
 そんなペトロをイエス様はご覧になった。ペトロではなく、イエス様がごらんになった。そして「舟を出してくれ」。渋々だったに違いありません。ペトロはしゅうとめの高い熱を癒やしてもらった義理を感じたのかもしれません(ルカ4:38以下)。いずれにせよ、聞く気などなかった「神の言葉」をペトロは図らずもイエス様と同じ舟に乗り、特等席で聞くはめになったのです。
 どんな話をイエス様がされたのかは分かりませんが、イエス様の話が終わります。ようやく家に帰れる。そう思った矢先にイエス様はペトロに「沖に漕ぎ出して編みを降ろし、漁をしなさい」と命じられました。 
 主イエスの命令はとんでもない提案です。非常識な提案です。日が昇った日中は漁には不向きというのが漁師たちの経験上の常識でした。しかも、この日は夜通し苦労した挙句、何もとれないという経験をした朝です。「冗談じゃない」、「勘弁してほしい。せっかく網を洗ったのに……」。そんな声が漁師たちから漏れてもおかしくはありません。
 しかし、人間の知識、体験、常識の延長線上からは決して出てこない「言葉」が神の言葉(1節)として、ペトロたちの徒労の現実に迫り、挑戦してきたのです。神の言葉は、神の言葉のゆえに、人には思いもよらない言葉として飛び込んでくるのです。
 「しかし、お言葉ですから」とペトロは応答し、網を降ろしました。「お言葉ですから」。ここに御言葉に従う信仰があります。信仰は、私たちの知識でも、常識でも、経験ではなく、御言葉に対する決断です。私たちがよくすることは、御言葉に対して決断することではなく、御言葉を判断することではないでしょうか。自分の考え、経験に対して、社会の常識、人の言葉に照らして「御言葉を判断する」。この御言葉は私たちが受け止められ、聞くことができるか、この御言葉は今でも通用するか、常識的か。この御言葉は利にかなっているか。私たちが聞ける言葉だけ、ありがたく頂戴します。それ以外は、ご遠慮願います。そのように私たちは、御言葉を判断する。しかし、大事なことは、「御言葉に対する決断」であることを今日のペトロの姿は私たちに示しているのです。
 「しかし、あなたの言葉ですから」と決断していく。そして、御言葉に従う時、神の出来事が起こるのです。御言葉に従う時に、私たちは、神の出来事を経験する。「光あれ」と言われたら光があったように、神の言葉は出来事を起こす力をもつ言葉です。だから、御言葉を受け止め、御言葉に従う時、そこには必ず出来事が起こるのです。
 ペトロたちが経験したのは、経験したことのない「大漁の奇跡」でした。自分たちの常識では考えられない、しかし、ただ「お言葉どおりに」と従ったところに神の出来事があることを、従った者たちは経験しました。御言葉は人からもらったり、聞いたり、見たりするだけでは力になりません。御言葉に従って生活をする時に、わたしたちは、「御言葉の力」を経験するのです(「種を蒔く人のたとえ」マタイ13:1-23)。
 御言葉の力を経験したペトロは、罪を告白し、イエスを主と告白しました。主イエスは、そのペトロに「人間をとる漁師」という新しい使命を与えました。徒労の中で迎えた朝は一生忘れることのない「召命の日」となりました。
 ペトロの一日を私たちは「礼拝」を通して追体験するものです。徒労の中で迎える朝にも、主は言葉をかけて続けてくださいます。その言葉は「愚かな言葉」に聞こえることがあるかもしれません。しかし、「お言葉ですから」と聞き従うとき、私たちは新しく主を知り、新しい使命に生き始めることを経験するのです。
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by higacoch | 2017-02-27 08:19 | ルカ

2017年1月15日

先週の説教「恐れるな、小さな群れよ」ヨシュア1:1-9、ルカ12:22-34
                    唐澤健太牧師(国立のぞみ教会)
 「恐れるな」。聖書は、「恐れるな」という神の言葉に満ちています。クリスマスの時によく読まれるマリアの物語においてその言葉は語りかけられました。マリアの妊娠を知ったヨセフにも「恐れるな」という天使の声が夢で告げられました。ガリラヤで漁師であったペトロは、「恐れるな。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と招かれ、イエス様の弟子になりました。嵐の舟の中で弟子たちは、なぜ怖がるのか、と主イエスへの信仰を問われました。「怖がることはない」、「恐れるな」と繰り返し、繰り返し神様が御声をかけておられることは、それだけ、私たちが簡単に恐れにとりつかれてしまうからでしょう。
 ヨシュアは、偉大な指導者モーセの後を引き継ぐことになりました。ヨシュアには、うろたえて、おののいてしまう、「恐れ」がありました。40年の荒野の旅は、ちょっとしたことで、群れは分裂しそうになりました。エジプトに帰りたいと言い出す者がいました。勝手に金の子牛を作ってしまう時もありました。イスラエルの人々を約束の地に導くためにモーセがどれだけ苦労してきたかをヨシュアだってきっと知っていたはずです。この群れを導いくことが自分にできるだろうか。その働きを自分ができるのだろうか。そのようないう恐れがあったでしょう。
 目の前にはヨルダン川が流れています。この時期は春の借り入れの時期で、雪解け水でヨルダン川は非常に増水し、堤を超えそうなほどでした(ヨシュア記3章参照)。そんな川をどうやって渡るのか。たとえ渡ったとしても、まだ足を踏み入れたことのない、約束の地へいよいよ入っていく。そこはどんな土地で、どんな人がすんでいるのか。よい関係ができるのか。争いになるのか。心配、不安、恐れがヨシュアの中にあったに違いありません。
 そのようなヨシュアに主は、「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」との約束を与えてくださいました。ヨシュアは約束の地を目指して進むことが求められたのです。
 教会は約束の地を目指して荒野を旅したイスラエルの民のように、この世の荒野を旅しながら、神の約束の地、神の国を目指して旅する民です。イエス様は人々に神の国が近づいたことを教え、人々と共に生き、人々をいやし、神様の力があなたがたの間にあることを告げられました。イエス様が告げられた神の国の実現を、「御国を来たらせたまえ」と祈り、神の国を待ち望む群れ、それが私たちの教会です。私たちの世界は、まことに困難な時代を迎えています。愛と憐れみが支配する神の国とは程遠い世界が急速に広がっています。愛が冷める終わりの時代(マタイ24:12)のように思えます。神の国を目指す私たちの前に激流のヨルダン川が横切っているようです。
 その中で東小金井教会は牧師が交代する時を迎えました。新しいリーダーが立てられます。関先生の中に「恐れ」があるでしょう。また東小金井教会の皆さんも新しい時代を迎える中で、「恐れ」があるでしょう。課題の前に、私たちはいささか小さすぎるのではないか。「恐れ」を覚えてしまいます。
 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。主イエスは弟子たちに語られました。主イエスの働き、主イエスの宣教を引き継いだ弟子たちは繰り返し恐れにとりつかれました。主を信じる群れ、教会もたびたび恐れました。しかし、教会は「恐れるな」との主の御言葉を聞き、支えられ、生かされるのです。
 だから、私たちがなすべきことは、その主の約束を信じることです。そして、神がヨシュアに語られたように、「ただ強く、大いに雄々しくあって、左にも右にもそれず、ただ主の命じられたことを果たす」のです。「神さまが喜んで神の国」をくださるのでから、ただ神の国を求めて歩むのです。東小金井教会がこれまでしてきたように心から主を礼拝し、主を証しし、「神を愛し、自分を愛するように、隣人を愛する」主の律法にまっすぐに従うのです。
 恐れることがあっても、「恐れるな」という主の声を聞き、神の国を目指して進みましょう。「平凡でいい。ひたむきに生きよう」(藤沢周平)。その時に、ヨルダン川が不思議な形でせき止められ、進むべき道がひらかれたように、私たちの教会の歩みにも神の備えて下さる道が開かれるのです。
 そして、何より忘れてはならないのは、荒野のイスラエルの民を導いたのは、神ご自身であったことです。昼は雲の柱で、夜は柱が、民の先頭を離れることはなかったのです! 預言者イザヤも「あなたたちの先に進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの主」(イザヤ52:12)と記しています。
 恐れることはありません。私たちに先立って主が進んで下さるのです。そして私たちのしんがりも主なる神が守っていてくださるのです。だから恐れること無く、新しい牧師と共に、私たちは、神が与えて下さる約束の地を目指して、神の国を目指して、ひたむきに歩みましょう。喜んで神さまはそれをくださるのですから! 「恐れるな。小さな群れよ」。
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by higacoch | 2017-01-18 22:14 | ルカ

2016年11月20日

「主の言葉は成る」 イザヤ書55:6~11、ルカ1:26~45
                            荒瀬 正彦 牧師

 降誕前節は私たちが御子の誕生を待ち望む季節ですが、しかし御子の降誕は一直線に十字架に繋がるものであれば、むしろ「待っている」のは私たちではなく神様の方が私たちを待っておられるのではないかと思います。では神様は私たちの何を待っておられるのか。神様は、私たちが神様の招きに対して応答することを待っておられるのです。
 イザヤ書55章11節は「わたしの口から出るわたしの言葉は、空しくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むところを成し遂げ、わたしが与えた任務を果たす」と言われます。キリストなるイエス様の誕生は正にその宣言が歴史の上に成就された時でありました。イザヤ書55章の1節から6節までを要約して言えば「この世のものは一時の空腹を満たすことは出来るかもしれないが、あなたの全部を本当に生かすことは出来ない。そんなもののためにあなたは一生を費やすのか。わたしに耳を傾けて真実の命を得るようにしなさい」と言っております。
 苦しみが長く続くとき人は迷います。闇があまりに深いとき人はさすらい始めます。そして神への信仰を失い、人と人との信頼が失われ、共に生きる道から離れてしまう。そして己の道、自分だけの思いの中にのめり込んでしまう。6節の言葉はそんな者たちへの呼び掛けです。生命への招きです。己の道、己の思いを捨てることを躊躇っては真実のものを得ることは出来ない。だから捨てなさい、と。11節は神の言葉は必ず実現する、神が与えた使命を必ず果たす、と力強く言うのです。
 今朝はイザヤ書と同時にルカ1章46節以下を読みました。村娘マリアの所に天使が現れ「恵まれた女よ、主があなたと共におられる。あなたは神の子イエスを生む」と告げました。マリアは答えます。「お言葉が、わたしの上に真実に成就しますように」。答えた後でマリアは急に不安になってきた。マリアは急いで従姉エリサベトの許に向かいました。エリサベトもまた神のお告げで洗礼者ヨハネをその胎に宿していたのです。マリアはこの不思議と不安を心から分かり合える者同士で語り合い、祈りたかったのでしょう。エリサベトはすべてを分ってくれ、心から喜んで呉れました。そして言いました。「主が仰たことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」。
 エリサベトの祝福と慰めの言葉を聞いた時、マリアの心は震えました。今、神の恵みを味わっている人が目に見える存在としてそこに居る。共に手を取り合っている。エリサベトの言葉を聞いてマリアの心に歌が生まれ、彼女は賛歌を歌います。
 今朝、私たちは教会に集って来ました。そこで交わす「シャローム」の挨拶には深い思いが秘められています。マリアとエリサベトの挨拶と同じ挨拶を交すのです。
 「あなたは神様の恵みを受けています。私も恵みを受けてここに来ました。あなたの知っている喜びを私も知っています。信じることが出来るあなたは幸せです。私も幸せです。私たちに語られる神の言葉は、神ご自身の手によって必ず成就するものです。おめでとう。」
 私たちの教会にも、多くの悲しみや不安や生活の戦いがあります。あの人にも、この人にも人知れぬ問題があるかも知れない。だがその問題をどうして上げることも出来ない。しかし、一緒に歌うことは出来ます。祈ることは出来ます。心を開き聖霊の導きを受けて歌い祈ることは出来るのです。
 『忘れないで』と言う歌があります。その2番で「だけどいつか激しい嵐が、君の微笑みを吹き消す。だからいつも離さないで、胸の中のみ言葉を」と歌います。生きていればいつかは嵐に遭う。そうすれば微笑みも希望の火も消えてしまう、と言うのです。消えてしまった火を、私たちには燃やすことが出来ない。ではそれっきりなのか。いいえ、もう一度燃え立たせることが出来る。「胸の中のみ言葉を離さなければ良いのだ」と。神様がその言葉を覚えていて約束を果たされる。神の言葉が微笑みの灯を、希望の火を、再び燃え立たせて呉れる。主の言葉は必ず使命を果たして戻るのです。主の言葉は必ず成る。神の真実と誠実はイエス・キリストの出来事の中に成就したのです。そのことを覚え、信頼して、感謝したいと思います。  
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by higacoch | 2016-11-26 18:00 | ルカ

2016年2月21日

「信仰が無くならないように」    ルカ22:31−34
                                  唐澤 健太 牧師(国立のぞみ)

 誰もが一度や二度、いや何度も信仰生活を送る中で自分の信仰が揺さぶられる経験をしたことがあると思います。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31節)。なぜ神様はサタンの願いなどを受け入れてしまうのかと思いますが、これは弟子たちが経験する現実そのもと言えるでしょう。キリスト者として信仰生活を送るとき、サタンに「ふるいにかけられ」、神様から心が離れていく出来事、「信仰の危機」があるのです。
 ペトロは試みにあったとしても「覚悟しております」と答えました。「牢に入っても死んでもよい」とまで彼は言いました。権力者たちと主イエスの間に日に日に緊張が高まっていくのをペトロもよく知っていたことでしょう。このまま行けば、投獄や最悪は死をも覚悟しなければならないとペトロは感じていたのでしょう。ペトロは本気でした。しかし、ペトロの覚悟は、その日のうちにもろくも崩れ落ちてしまったことを私たちは知っています。ペトロは自らの覚悟、勇気、力がすべて打ち砕かれてしまう信仰の挫折を経験したのです。
 信仰生活は、いつも穏やかなクルージングを楽しむような世界ではありません。私たちの人生は、平穏にいつも穏やかに日々が過ぎていくことなどありえません。時にはその船が沈みそうになる、人生の危機的な状況を迎える時がある。その時に、私たちの信仰が試されるというか、ふるいにかけられるような経験を私たちもします。
 思いがけず病になったり、自分が思うように道がなかなか開けない。行き詰まりを覚える中で、神様に心を向けることから離れてしまう時が、私たちの信仰生活の中にあります。
 ある方が以前、思いがけない試練を経験されたことを打ち空けてくださいました。様々な人間関係の中で苦しい経験をされ、その御自分の感情を含めて話して下さった。随分と長い時間、お話をして、最後に祈りましょうと言って短く祈りをささげました。「アーメン」と祈りを結んだ後に、その方が、「先生、祈るってことをすっかり忘れていました」とポツリと言われました。「長年クリスチャンをやっていて、まさか自分が祈ることを忘れるようなことを経験するなんて……。自分がクリスチャンであるのは当たり前だと思っていたのに、神様とか、祈るってことさえ、ここ最近は忘れていました」と告白されたのです。
 この一人の信仰者の経験は、私たちの経験でしょう。自分の覚悟とか、自分の力、自分の勇気、そのようなものは、平穏な時は「大丈夫!」と自信を持って言えるかもしれませんが、いざ試練の中に叩き込まれ、「ふるい」にかけあれるといとも簡単に飛んでなくなってしまう。私たちの信仰は、もろいものです。
 もし私たちの信仰が、私たちの覚悟、私たちの気の持ちよう次第だったとするなら、こんな不安定な、不確かなものはありません。
 「しかし、わたしはあなたたちのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32節)。イエス様はペトロが信仰が無くなってしまう経験を知っておられる。私たちが信仰の危機を経験することを知っておられる。だから、主イエスはペトロのために祈ったと言われたのです。私たちはサタンのふるいにかけられ、祈る気力さえ失ってしまう時があります。聖書を読むことに心がまったく向かない時を経験します。神を礼拝する思いにならない時があります。しかし、主イエスが私たちのために祈っていてくださる。この主イエスのとりなしの祈りに、私たちの信仰は支えられているのです。
 私が伝道師に任職される時、荒瀬牧師が説教の中で「あなたの後ろ盾は主御自身です」と語られたことを今でもはっきりと覚えています。伝道者の歩みは決して平坦じゃない。自分の力のなさや、時には自分の信仰が揺さぶられなくなってしまうような試練も経験するかもしれない。だけども、「主が後ろ盾である」ことを忘れないように。
 信仰者にとっても同じです。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」(Ⅱテモテ2:13)。たとえ私たちが主の手を離してしまっても、主はその手を私たちから離すことはないのです。たとえ自分には信仰が無い、と感じたとしても大丈夫。主イエスが、私たちの信仰が無くならないようにとりなし、祈っていてくださるから。その主イエスの祈りが、私たちに希望を与えてくれるのです。
 自らの覚悟などあっという間に消え失せてしまうような私たちのためになおも祈り、愛し、赦してくださるキリストの真実に信頼すること、それこそが信仰なのです。私たちの信仰は、私たちが自分の力でつかみ取った何かではありあせん。「私たちが」ではなく、「神が」私たちを選び、愛してくださった。それが私たちの信仰の始まりです。私たちの信仰は神の賜物に他なりません。
 ペトロのために祈られた祈りは、いまも私たちのためにささげられる主イエスの祈りです。私たちが「もう信仰をうしなってしまった」というところで、あなたのために祈った! そう言われる主イエスの祈りが私たちの信仰を支えてくださるのです。
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by higacoch | 2016-02-27 17:54 | ルカ

2015年8月9日

「あなたは誰を待っているのか」   ゼファニヤ3:8-13、ルカ12:35-40
                                   関 伸子 牧師 (高座教会)

 今回、東小金井教会に説教者としてお招きいただきます前に、香月先生から幾つかの資料をいただきました。その中には教会の伝道50周年記念誌が含まれていました。昨年いただきました、その記念誌を再び読み、ここで50年の長い月日に渡り、主日毎に礼拝でみ言葉が語られ、牧師や宣教師が人びとにお仕えしてこられ、またみなさんも伝道に励んでこられて、今、教会は伝道51年目の歩みをしていることを確認しました。
 今日のルカによる福音書第12章に記されている言葉、これは誰もが聞くべき言葉です。しかし直接、この主の言葉を聞いているのは弟子たちです。この弟子たちは、この後、伝道者となりました。皆それぞれ教会の柱になって生きたのです。いや、もうこの時既に、主イエスによって伝道に遣わされる経験を持った人びとです。
 35節に「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と記しています。これはとても具体的な姿です。「腰に帯を締める」。「腰に帯を締め」というのは、パレスチナの服装は割合だらっとしているものですので、腰に帯をすると動きやすくなります。聖書の他の表現で言えば、まさに腰引きからげて、自由に、どんな命令にでも応じて動くことができる備えをするということです。この言葉の意味を考えていて、私はふっとまるで赤穂浪士の討ち入り前夜みたいだなどと思ったことがありました。ただ、ここで大事なことは、そのような姿勢を取るのは、自分が攻め込むためではないのです。いよいよ明日は討ち入りだと猛り立つことではないのです。腰に帯をしめ、あかりをともして待つのです。待ち続けているのです。主人がいつ帰って来るか分からないからです。
 しかも、ここで語られている主人は、ほんとうはその家だけの主人ではないのです。すべての者の主です。道行く人たちの主でもあるのです。この主のことを語り告げながら、この主が来られることを待ち続ける自分の姿を示しながら生きる。まず第一に伝道者は、そのような者です。そのように主に仕える、主を待つあかりを高く掲げて、腰に帯をしめて、生き続けるのです。そして、その伝道者を見ている者は、その伝道者を見ている者、その伝道者を重んじている者は、自分もそれを真似するのです。
 36節によれば、この主人は、婚宴から帰ってきます。なぜ婚宴なのでしょう。なぜ、主が行き先が婚宴であることについて言及されたのか、それはよくわかりません。ただ、さまざまな想像をすることも許されるでしょう。
 たとえば、皆さんが家族が結婚の祝いに招かれている間の留守をすることにします。両親がどこかの婚礼に招かれています。自分は簡単な食事をしながら、さびしく思う。ましてここでは留守番をしているのは僕たちです。主人だけがはなやかな婚宴の席に招かれ、なぜ自分だけが粗末な食事に我慢しなければいけないのかと思ったり、自分が主人でなくて僕なのだという身分の違いを痛感するかもしれません。ついでのようですが、ここに続く45節には、こういうことが書いてあります。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことがあれば...」。
 特にこの頃の婚宴は長く続いたそうです。現在の私たちのようにホテルで2時間、3時間で終わりで帰るということではないのです。38節には、「真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」と記されているように、いつ帰ってくるかわからないのです。場合によっては、一晩中あかりを絶やさず、目覚めていなければならないかもしれなかったのです。
 ここに「僕」と訳されている言葉は文字通り奴隷を意味します。主人が奴隷に仕えているのです。主人が奴隷に食卓を用意し、もてなしているのです。このところについて書く人びとがすべて思い起こしていることがあります。それは、文体も思想も、書いている事柄もまるで違うように見えますが、ヨハネによる福音書第13章の記事です。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。そう書き始めたヨハネ福音書は、最後の食卓を弟子たちと囲んだとき、主イエスがその食事の間に立ち上って、手拭いを取って腰に巻き、弟子たちの足を洗い始められたと書きました。この食卓に着く者の足を洗う行為もまた奴隷だけがしたことです。ルカ福音書もヨハネ福音書も、全く違ったところで、違った言葉で主イエスの姿を書いていながら、この点においては全く共通した主の姿を書き残しているということ、これもまた不思議な恵みのわざです。
 教会が伝道を重んじるのは、この主の言葉を思い起こす時です。伝道者は、自分で自分を重んじるよりも、もっと深く主によって重んじられています。そのように自分が重んじられていることをよく知った時に、そこで耐える道を知り、自分を軽んじるような行為に走ることはなくなるのです。
 主イエスは一度、私たちのところに来てくださいました。十字架におつきになりました。殺されました。神はこの主イエスを甦らせてくださいました。その主イエスが、また来るとおっしゃったのです。主イエスは、だからこそ、私たちに、目を覚まし続けることをお求めになりました。目を覚まし続けて生きる教会を造るように、弟子たちにお求めになりました。いつ主イエスが来られるかわかりません。しかし、私たちは少しも心配しない。目を覚まして、喜びのあかりを掲げて主を待つことができます。この主のみ言葉に従いながら、主のみ言葉を重んじて生きる、それ故に伝道者を重んじ、自らを重んじ、他者を重んじる教会であることをもう一度、神からいただいたものとして受け止め直したいと願っています。お祈りいたします。
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by higacoch | 2015-08-15 16:12 | ルカ

2015年5月10日

 「これらのことの証人となる」 詩篇67:2-3、ルカ24:36-53

                                     平 尚紀 教職志願者

 主イエスの十字架の処刑の後、弟子たちは、一つ所に集まって、家の戸を固く締め、鍵をかけていた。力ある指導者、新しいリーダーだと信じ、従ってきた主イエスが、思いがけない形で捕われ、処刑されてしまった。民を惑わし、ローマへの反逆を企てた者としてユダヤ人権力者の手によって、ローマの総督に引き渡され、ローマの処刑方法であった十字架刑という見せしめの形によって処刑されてしまった。その弟子たちは、共謀者として、自分達の身にも危険が及ぶのではないかという恐怖から、固く戸を閉め、息を殺してひっそりと集まっていたのです。しかし、使徒言行録を読んでみますと、この弟子たちが大胆にイエスの復活を伝え、「イエスこそキリストである。」「イエスこそ救い主・神の子である」と世界中に伝え始めたことが記されています。あんなにまで怯えていた、隠れていた弟子たちが、なぜ、それほどにまで大胆に語り出すことができたのでしょうか。

 主イエスの十字架の出来事の三日後、数人の婦人たちが墓に遺体がないことを弟子たちに告げました。そして、エマオへ向かったはずの二人の弟子が死んだはずのイエスに会った。と驚きと喜びの顔で弟子たちに告げたのです。そんなはずはない。そんなことあるわけがない。弟子たちは、戸を固く閉ざした家の中で互いに論じ合っていたのです。
 「夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」よほど怯えていたのでしょう。仕事や家族を捨ててまで従った主イエスが、思いがけない形で捕えられ、処刑されてしまった。いつ自分たちの身にも危険が及ぶか。弟子たちはそうした不安、恐怖のどん底に突き落とされたのです。恐怖だけでなく、この先どうしたら良いか分からない。先の見えない不安、真っ暗闇の状況にあったのです。
 そこに、突然、イエス御自身が彼らの真ん中に現れたのです。37節「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」すべての戸を閉め、鍵をかけ、誰も入ってくることが出来ないように、身をひそめ集まっていた。そこに突然、人が現れたのです。あまりの想定外の出来事に、度肝を抜かれた。心臓が飛び出すほど彼らは驚いたのです。彼らは、実際に見ても信じられなかったのです。それ以前に、婦人や二人の弟子たちの話を聞いても信じようとしなかった。それほどにまで彼らの心は固く閉ざしていたのです。それに対して、主イエスは、38節「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」と弟子たちを優しく戒め、39節「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。」と語っておられます。
 声を聴いて、目で見て、手で触って。耳と目と手で復活したことを弟子たちに確認させたのです。焼いた魚を食べられた。ともありますが、この表現は、弟子たちと一緒に食べたことを示す言葉でもあると考えることができます。つまり、聞いて、見て、触って、においを嗅いで、一緒に食事をした。弟子たちは五感すべてを使って、復活した主イエスを確認したのです。
 復活した主イエスは、弟子たちと40日間共におられ、これまでの宣教活動の一つひとつを説明された。主イエスの十字架と復活によって旧約聖書全体に記されている事柄すべてが実現したのだということを、弟子たちに繰り返し教えられたのです。「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とありますが、原文のギリシャ語本文を見てみますと、心を開くとありました。目という文字は入っていない。弟子たちの心を主が開かれたのです

 その日、主イエスは、弟子たちが固く閉ざした家の中に現れました。恐怖に怯える弟子たちの真ん中に立たれたのです。さらに頑なに信じようとしない弟子たちに、五感を使って復活したことを理解させた。怯える彼らを喜びで満たし、一緒に食事をし、身も心も満たしてくださった。そして理解しようとしない彼らの頑なな心を開き、聖書を悟らせてくださった。主イエスの死と、復活に隠されていた意味を改めて教えられた。神の愛と救いのご計画を示されたのです。
 怯える彼らの心の真ん中に立ち、そして安心させ、共に食事をし、聖書を悟らせ、それから「これらのことの証人」へと立ちあがらせてくださるのです。
 決して、外から無理やりこじ開けたのではないのです。
 この後、弟子たちは、聖霊に満たされ、力を受け、大胆に復活の主、救い主イエス・キリストの証人として出かけて行きました。イエス・キリストの福音、喜び、良い知らせを大胆に語り告げました。「十字架で死んだイエスが復活した。」「イエスこそ神の子だ。」「イエスこそキリストである。我々の救い主だ。」と語り出して行くのです。

 すべての戸口を固く閉ざしていた彼らが、主イエスの復活に出会い、喜びで満たされ、喜びと祝福を携えて、自ら戸口を開き、外へと全世界へと飛び出していったのです。
 心を開けてくださるのは、主イエスです。主は私たちを祝福してくださるのです。
もうすぐペンテコステです。主が約束してくださった聖霊を祈りつつ、待ち望みましょう。
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by higacoch | 2015-05-16 16:07 | ルカ

2015年4月12日

「復活を喜び祝う」      列王記上19:1-13、ルカ24:13-35
                               関 伸子 牧師(高座教会)

 3年前の4月第2主日はイースターでした。わたしは東小金井教会でみなさまと共にイースター礼拝をささげ、祝会で駆け出しの伝道師を歓迎してくださったことをよく覚えています。今朝、復活後第一主日の礼拝を共にささげられますことを神様に感謝します。
 ルーブル美術館にあるレンブラントの「エマオ」は1648年作で、40歳代の画家が生んだ傑作です。明らかにエマオの食卓における主イエスのしぐさに、ふたりの弟子が、この方こそイエスであると知る場面。レンブラント特有の明るい光が射しています。食卓に給仕する人も描かれていますけれども、主イエスの顕現には全く無関心です。食卓が置かれている場所は明らかに教会堂の内陣です。レンブラントが属したオランダ改革派教会においては主の食卓が置かれたところです。エマオの夕食と、レンブラントの属するオランダの17世紀の礼拝堂が重く重なり合います。
 物語の構成は複雑です。33節以下の、二人の弟子がエルサレムに帰った話は、別の伝承であったかもしれないと言われています。主が甦られた日のことです。その出来事は既に知らされていた二人の弟子が登場して、エマオ村に帰ります。そして33節によると戻ってきます。その日の出来事はそこでは終わらず、36節以下の物語が続きます。何のために語られたのでしょうか。二人の「暗い顔」が変えられる話です。遮られていた日(16節)が開かられた(31節)話です。その暗い顔はなぜだったのでしょうか。
二人のうちの一人の名はクレオパであることが明らかにされています。もう一人の弟子というのは、実はクレオパの妻であったのではないかという推測もあります。エマオの村に二人の住まいがあったのです。待望の解放のメシアを信じていたのです。その意味では主イエスに近い存在でした。そのイエスが十字架につけて殺された。それも失望を生んでいたのでしょう。二人はイエスの死によって絶望していたと説明されることがあります。
 しかしそれならば、主イエスの死の直後に帰郷してもよかったのです。急所は22節以下の言葉です。「 …ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。それも聴いた通りでした。イエスは墓にはおられません。どこかで生きておられる。それはどのようにしてか。主イエスの臨在を見失っていたのです。
 それに対する答えは31節で与えられます。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」。目が開け、今まで一緒であった方が主イエスであることが分かった。しかし、そのとき、その主イエスが見えなくなった。消えたのではありません。だから主イエスの臨在を疑うことはありませんでした。「見ないのに信じる人」(ヨハネ20:29)となったのです。物語は一方で、肉眼で見ている同伴者を主イエスとして認めることができない鈍さを語りつつ、他方で、それが見えないで主イエスの臨在を信じ、喜び、エルサレムの仲間のところに帰る信仰の認識に変えられるのです。
 そして32節に「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」と記されていることも忘れてはならないことです。24節の語った心の鈍さに対応します。その鈍かった心が燃やされたとき、見えるところに依存しない霊的な確かさが与えられたのです。しかし、この燃焼は、そのときすぐにわかるようなものではなく、あとから振り返って初めて気づくような静かな、おそらくそれだけ確かな霊的な燃焼であったのです。そのような回想を語り合うとき、二人の「暗い顔」が消えていたことは改めて書く必要もない確かなことだったのでしょう。この暗さから明るさへの転換が、この物語の急所が何であるかを語るのです。
 主イエスは、その物分りの悪さを、「預言者たちの行ったことを信じられない」愚かさだと言われました。この「預言者」のなかにモーセも含まれます。律法学者もまた含まれます。だから当然「聖書全体」をイエスが説明されたことになります。エマオまでのほぼ12キロの道程を、聖書を説きつつ歩まれたのでしょう。焦点は「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」ということにかかります。
 しかし、ことはそれだけでは済まなかったのです。それだけでは、主イエスはなお依然として見知らぬ旅人に留まったのです。イエスの臨在を知るためには主と「共に泊まる」ことが必要でした。しかし、このとき、主ご自身は弟子たちのところに留まる意思はなかったようです。引き留めたのは弟子たちでした。自分たちの元にイエスを招いたのです。「無理に引き留めた」(29節)のです。
 「一緒お泊ください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」。私たちと一緒に泊まってください。この祈りが私たちの日々の祈りになることを願います。やがて、私たちが、この地上の命を終える時、なおその時、主の命にのみこまれることをこころから願います。二人の弟子、この夫婦は、主にお会いした後で、すぐに立ってエルサレムに帰ったとこの物語は更に続きます。夜、夜道です。寝るのも忘れたのです。ここへ来る時は、明るい日の光の中で、その日の光を見ることもできない暗い思いで歩いた道を、夜には彼らは光輝く思いでエルサレムに走り帰って行く。ここに、教会の姿があるのです。教会が語り継ぐ命の物語を私たちの心に刻み、ここから新しい週の旅に出て行きましょう。お祈りいたします。
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by higacoch | 2015-04-18 16:21 | ルカ

2015年1月11日

「みことばを行う人」  詩篇37:3-6、ルカ8:4-15
                                 平 尚紀 神学生
 今日の聖書の箇所は4つの種で有名な箇所ですが、前半は、大勢の群衆に対して語られたイエスの喩えが語られ、後半はその意味を質問した弟子たちに語られた喩えの説明です。つまり語られた対象者が違うことがとても重要です。前半の大勢の群衆とは、これまでのイエスの行動やうわさを耳にした人々で、痛み苦しみを覚えた人達だった。病を癒して欲しい。苦難や苦しみから自由にされたい。貧しさから解放されたい。そうした願いを持って集まった人たちでした。一方、後半の説明を聞く対象者は、イエスの教えを聞き、イエスと行動を共にした人達です。
 良い土地に種を蒔けば、多くの実がなる。このときイエス様のそばに押しかけてきた大勢の群集は、痛み苦しみ、貧しさを負って、助けや願いを持ってイエス様のそばに集まってきた人達だったのです。だからイエス様は、1粒の種が100倍もの実を結ぶという希望を人々に話されたのです。しかし、同じように種を蒔いても、受け止める土地によって、結果が大きく変わってしまう。イエス様が語られた言葉、神の国の福音を聞く姿勢によって、受け止める心によって大きく変わってしまうのです。ですから、イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と喩えの後でおっしゃられた。あなたたちの痛み苦しみはよく分かった。だから、神があなたのために用意されたよい知らせ、福音を聞きなさい。そのようにイエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で語られているのです。私たちキリスト者も、健康が守られるようにと願いつつ、毎週の礼拝に集うのですが、礼拝では、むしろ、神様が私に何を望んでおられるか。何を語ろうとしておられるのか。自分の願いはいったん置いて、神の声を聞く。神様が私に何を望んでおられるのか。どのように恵みへと導こうとされておられるのか。そのことを繰り返し聞く。それが毎週の礼拝なのです。
 後半の箇所では、弟子たちは、喩えの意味が良く分からなかった。それで、直接「どんな意味かと尋ねた」のです。よく分からないから聞きに行く。教えてほしいと繰り返し尋ねる。これこそが聞く耳のある者の姿勢です。種は神の言葉です。神の言葉は同じようにすべての人に蒔かれますが、受け入れなければ奪い取られてしまう。すぐに枯れてしまう。思い煩いや、富や誘惑が多く、実るまで成長させることが出来ない。しかし、神の言葉を聞き、受け入れ、よく守り、忍耐するならば、多くの実を結ぶ。
 「木を植えた人」という本をご存知でしょうか。たった一人の男が、孤独と戦い、精神と肉体をぎりぎりに切り詰め、荒れはてた地を、幸いの地としてよみがえらせたお話しです。イエス様は、たった一人で、孤独と闘いながら、福音の種を私たちに蒔いてくださった。そして、世界中に福音が届けられている。一粒の種の実りが100倍どころか、世界中に広がり、今も蒔き続けている。今度は私たちが受けた恵みを、忍耐して種を蒔くことが求められている。御言葉を行うことが求められている。この一年も、礼拝において神の言葉を聞きつつ、それを守り、忍耐して実りを受けましょう。
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by higacoch | 2015-01-15 10:36 | ルカ

2014年12月21日

「主イエスの誕生」  イザヤ7:10-14、ルカ福音書 2:1-20
                               
 皆様と共に、イエス様の誕生を喜び祝うクリスマス礼拝を捧げることができますこと、大変嬉しく思っています。さらに私たちの教会に、新しく二人の兄弟姉妹を加えて下さる神様に感謝しています。お二人は、長年わたしたちと共に礼拝を捧げ、交わりを持ってきた薗田兄弟姉妹であります。一度にご夫婦を迎えることができ、心から嬉しく思っています。
 さて今年の12月13日(土)の夕方に吉祥寺カトリック教会で市民クリスマスが行われました。そのクリスマスでは聖劇を中心に礼拝をし、私自身、羊飼いの役で出演しました。こうしたことで、当時の羊飼いについて思い巡らしました。
 彼らは人々から軽蔑されていました。汚い、臭い、けがれた奴だ、と言われました。人々から石を投げつけられることさえありました。いつしか自分たちは、価値のない人間、生まれてこなければ良かったという思いへと追い詰められていました。また安息日の規定を守らず、生活していました。羊の世話をする仕事上、羊を野原において集会に出かける事が出来なかったのです。行かないのではなく、行けなかったのです。ですがこうしたことから、彼らは神からも見捨てられた人間たちだと言われ、神様のバチが当たっているとさえ言われました。この時、ローマ皇帝アウグストゥスからの勅令が出て、人々は生まれ故郷に帰って登録をしなければなりませんでしたが、彼らは、人口調査の対象から外されていました。ローマ帝国も彼らを人の数に数えようとはしませんでした。彼らは人間の屑と見られ、扱われ、また神からも見捨てられた救いようのないと決めつけられていました。
 このような羊飼いたちに、天使が現れ、そして語り掛けました。「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町であなたがたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」と。天使は天の高い所にいて、「恐れよ」と命じたのではありません。そうではなく、天から地に近づいてきて、彼らと変わらないところにやってきて、「恐れるな」と語り掛けました。天使は、偶然、羊飼いを見つけて告げたのではありません。羊飼いが選ばれたのです。それは神が羊飼いを選んだということです。
 こうしたことから考えますと、彼らは決して神に見捨てられてはいません。否、むしろ、大事にされました。彼らに告げられたことは、人々への初めてのメッセージでした。それを考えると、天使は、「すべての民に与えられる大きな喜びを、誰よりも先にまずあなたがたに伝えます」と語り掛けたのです。だから、神は人間社会で見捨てられていた彼らを大事にし、愛しておられると言えます。天使は伝えたのです。「あなたがたのために」と。ユダヤの国のためにとか、王様のためにとか、預言者のためにとか、ではありません。「あなたのために」と。
 この羊飼いとは、現代的な視点で言えば、どんな人でしょうか。夜の仕事、あまり目立たない人、見守りをしている人、そう考えていましたら、夜勤で介護をしている人々が浮かんできました。夜勤で、一人で30人位の高齢者の方の世話をしている人、あるいは夜勤の道路工事現場で、車の誘導をしている人…。そんな方に、天使が「恐れるな、神様は、あなたを愛している、あなたは価値ある人だ、神は見捨てたりしない。あなたのために救い主が生まれた」と語り掛けたようなものです。ですから、わたしたちは社会の片隅で生きている人たちに、「あなたは、神から見捨てられてはいない」とはっきり言うことができます。
 そして、与えられた大きな喜びとは何だったでしょうか。この世で価値ある金銀、この世で出世していく知恵、才能だったでしょうか。そのような世で価値あるものではなく、「人」でした。そしてその人は、あなたを、命をもって愛して下さる方でした。その方は、あなたを愛して、あなたが真実に生きるように救って下さる方でした。たとえ、あなたが、どんなに罪深く悪い者であっても、あなたを愛し、罪を赦し、生きるようにしてくださる方でした。この方こそが救い主イエス様だったのです。この方は、あなたの無二の親友ではなく、無二の救い主でした。この方は最も低くなられ、わたしたちを愛して、最も下から救いを成就して下さった方です。だからこそ、あなたも愛されているのです。あなたの友人、知人、家族も愛されていると言えるのです。
 だから、今日、私たちは救い主の誕生を喜び、賛美するのです。ここにいらっしゃる誰もが、神様に愛されているのです。この神様の愛を受け止めて、喜び、また感謝しましょう。羊飼いたちが、自分の持ち場に戻っていく時に、喜んで救い主イエス様の誕生を伝えていったように、わたしたちも家庭で、地域で、職場で、喜んで伝えていきましょう。共に喜び、共にイエス様を見上げて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2014-12-27 10:22 | ルカ