カテゴリ:詩篇( 6 )

2015年8月2日

 「礼拝に来て、見なさい」 詩編66編1~20 ヨハネによる福音書1章43~51
                                         濵崎 孝 牧師

 神殿での礼拝用讃美歌として整えられた詩編66編は、今から2千何百年も前の詩です。それどころか、この信仰の詩人は、さらに遠い昔の出来事を詠っています。そんな古い詩を読み、大昔の出来事を手繰り寄せている教会の礼拝は、懐古趣味でしょうか……。いいえ、キリスト教会の礼拝堂で展開されているのは、聖霊なる神さまのご支配とお導きによって生起している聖なる出来事です。言わば死んでいた人が甦り、希望をもって人間らしく生き始めることを目の当たりにするような大いなる出来事なのです。そして、そうであればこそ、命がけで礼拝に出席している人々も見出されるのです。
 例えば、聖書・讃美歌と共に吸入器を携えて来る友もいます。喘息の発作に対処するためです。舌下錠を持って来る人もいますが、それは心臓発作のリスクをかかえているからです。他にも、命がけで礼拝に出席している人たちがいますね。礼拝堂と爆弾、銃の乱射……。テロやヘイトクライム(憎悪犯罪)の不安がある中で、必死に礼拝をささげている人々もいるのです。なぜ命がけで礼拝をささげるのですか?そうする価値が礼拝にはあるからです。
 6節の「それゆえ、我らは神を喜び祝った」は、詩の流れから言えば、「それゆえ、彼らは神を喜び祝った」ではないでしょうか……。でも詩人は、彼の時代からは何百年も前の出来事を、今まさに自分たちが体験したかのように「我らは」と語ったのです。そして、こういうことが、聖霊のご支配の下で進められる教会の礼拝で生起していることなのです。遥か遠い昔の出来事が現在化され、その真に恐るべき出来事の恵みがリアルに新しく受けとりなおされた……。9節は、礼拝で手繰り寄せた大昔の出来事が、神殿の礼拝者たちの魂に生き生きと祈りの路づくりを進める力をもたらしたことを語っています。ですから、これは懐古でもノスタルジアでも温故知新でもフラッシュバックでもありません。そういうものを超えた神の出来事なのです。私どもは何の幸いか、毎週礼拝堂でこういう真に得難い出来事に参与しているのです。
 17世紀の画家レンブラントの作品に、「キリスト昇架」(十字架上げ)というのがあります。キリストが十字架に磔になった出来事を描いたものですが、イエスさまの足下を観るとベレー帽を被った人がいます。これは、レンブラントの自画像だと指摘されています。レンブラントに霊感が与えられ、1600年前のキリストの出来事が想起されると、その創作活動の今に現在化されたのではないでしょうか……。そして、そのような現在化の出来事は、「あなたもそこにいたのか」という讃美歌(306番)にも見出されます。そのアフロ・アメリカン・スピリチュアルの歌詞の終わりには、「ああ、いま思いだすと/深い深い愛に/わたしはふるえてくる」という感動が言い表されています。2千年も前の十字架の出来事が、今まさにここでの出来事になり、感謝が溢れ、お祝いしないではいられなくなる……。そういう聖なる現実が繰り返し生起しているのが主日礼拝なのです。
 そこで、5節の「来て、神の御業を仰げ」を新改訂標準訳という英訳聖書で読むと、Come and seeです。「来て、見なさい」という呼びかけ……。これは、ヨハネによる福音書でフィリポがナタナエルに語りかけた言葉と同じで、それもまたCome and seeです。そして、この「来なさい、そして見なさい」は、主イエスさまもご自身に従った人たちに語りかけました。こうして私どもは、福音書の「来て、見なさい」という呼びかけは、「主日礼拝に来て、見なさい」という呼びかけとしても聴くことが出来るということに気づくのです。
 ヨハネ1章50節には、次のように記されていましたね。「イエスは(ナタナエルに)答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』」……そうなのです! 死の力にさえ勝利された復活の主イエスさまが働いている主日礼拝では、信じないではいられないような神のドラマを見るのであり、信実に主日礼拝を重ねて行く礼拝者には、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」というスケールの大きい祝福が約束されているのです。
 皆さん、私どもはたった70年の時の経過で、決して忘れてはいけない過去を忘却し、大切な意味を持つ歴史の出来事を永久に消し去ろうとする言わば滅びの現実化が見出される時代のキリスト者です。ですから、この時代の隣人に向かって、「教会の礼拝に来てください。そして神の出来事を見てください」と呼びかける意味はとても大きいのです。そして、主日礼拝を大切に守り続ける私どもが、主イエスさまの祝福に与り、心から神さまをお祝いする出来事をあかしして行くことは、真に人間らしいことなのです。 
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by higacoch | 2015-08-08 16:51 | 詩篇

2013年9月22日

「共にいてくださる」  詩編23:1-6、ヨハネ福音書14:1-3
                           
 私は神学校を卒業して23年牧師として仕えた後、2年間老人保健施設で介護職員として働きました。その後も高齢者施設でパートの仕事を3年して介護福祉士の資格を取得しました。そして現在、教会でデイ・サービスを行っています。こうしたことから「婦人の友」社から原稿を依頼されて高齢者のことを書きました。特に認知症のことを書かせて頂きました。その時、高齢者の認知症はサンマの問題だと書きました。サンマと言っても秋の味覚の秋刀魚ではありません。サンマと言うのは三つの「間」のことで、時間、空間、人間の三つです。最初は「時」です。介護関係で認知症を調べる長谷川式認知症診断テストというものがあります。その最初の質問は「お年は、おいくつですか。」、次が「今日は、何年の、何月、何日ですか?」と時間的なことを聞きます。自分が何歳なのか、今日が何年、何月、何日なのか、解らなくなります。次は空間の問題で、先程の長谷川式でも、第三問で「ここはどこですか」と聞きます。今、自分がどこにいるのか、解らなくなります。老人の徘徊問題がとりざたされていましたが、それは自宅等へ帰りたいとの願いから、施設を出て家へ帰る道を探すのですが、道が解らないのです。その結果として、徘徊していると言われてしまいます。次は人間です。これは自身の子どもも解らなくなってきます。最初は解りますが、だんだん解らなくなってきます。そして、ある日、実の娘に対して、「あなた、だーれ?」「施設の方?」となります。このように認知症になると、三間がおかしくなってきます。 
 また、昨今の高齢者問題として考えたいのは、孤独、そして孤独死です。今では一人暮らしは若年、壮年の独身者よりも高齢者の一人暮らしが多いのです。人は、誰しも一人で生まれ、そして一人で死んでいくのです。人生のどこかで孤独を感じることがあるでしょう。それがいつなのか、それは人によって違うと思います。
 そのような中で、ぜひ、今朝与えられている聖書の言葉を思い起こして頂きたい。詩編23篇、この箇所は多くのキリスト者に愛されている聖書の箇所の一つです。私も高齢者の方を訪問した際には必ずと言っていい程ここを読みます。この詩編は神様が私たちを見守って下さり、訓練し、育てて下さり、何よりも共にいて下さると歌われています。1節の「主」は神様です。羊はわたしたちです。4節には、「死のかげの谷をゆく時も、私は災いを恐れない。あなたが私とともにいて下さる。」これを、もっと身近にいうのなら、「神様が、どんな時も共にいる」という確信からの言葉なのです。神様が「共にいて下さる。」皆さんは、ご存知でしょうか。クリスマスの時にイエス様の誕生をお祝い致します。そのイエス様の別名はインマヌエルと言います。このインマヌエルとは、「神様が私たちと共にいて下さる」という意味なのです。
 先程、私は「婦人の友」に認知症のことを書きましたとお話ししました。実はその最後の部分をお話ししていませんでした。それは私たちにとって最も切実な問題があったからです。三間の問題として三番目に人間の問題がある、親子の関係も解らなくなると話しました。しかしこれはもっと考えると、人間の関係だけでなく、神様との関係も解らなくなるということなのです。若い時、教会に熱心だった母、認知症になって娘の私のことも解らなくなってしまった。それと同様、神様のことも解らなくなってきてしまいます。母にとって神様ってなんだったのだろうか、認知症になって私のことも解らないように、神様のことも解らないようだと思われるかもしれません。実際、神様のかの字も言わなくなった信仰者もいらっしゃいます。もう聖書の言葉も神様に祈る言葉もちっとも口にのぼることはない人もいます。そのような人を私たち人間の側からみれば、元の黙阿弥ではないか、結局、何にもならなかったと言われてしまうことがあります。
 しかし、覚えて頂きたいのです。認知症の人がそうなったとしても、神様まで認知症になられるのではありません。神様は詩編23編で歌われているように共にいて下さいます。たとえ私たちは神様が解らなくなっても、神様は私たちを見捨てたりされません。新約聖書のローマの信徒への手紙8章で「死も、命も、現在のものも、未来のものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことができない」とあります。ここには認知症も含まれています。だからその人がたとえ認知症となって神様のことが解らなくなったとしても、神様の愛から切り離されることはないのです。
 ですから、天に先に召された人は神様と共におられると信じています。また私たちが天に召された時も、天国でイエス様が私たちと共にいて下さると信じます。召された方がたが、神様と共におられることを確信して、神様に感謝して祈りましょう。また私たち自身も、たとえどんなことがあっても、死を迎えても、神様が共にいて下さっていることを信じて、イエス様を見上げて、今生かされている人生を歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2013-09-28 17:57 | 詩篇

2012年8月12日

「朝ごとに主は」  
   詩篇5:1~13、ルカ福音書 6:12~16    濵崎 孝 牧師

 私どもカンバーランド長老教会の草創の出来事を想い起こして描かれた絵(テネシー州ディクソンの森にあったマカドゥ牧師の丸太小屋)の中にcame morning と書き添えられたものがありました。私どもの教会は、特別な朝を記憶して来た教会なのです。1810年2月3~4日にかけて、マカドゥ牧師たちはあの丸太小屋で徹夜の祈りをささげました。そうして迎えた信仰の朝に、「新しい教会を形成するのが主の御心だ」という確認がなされたのでした。
 旧約聖書の詩編は、「いかに幸いなことか」という祝福の言葉から始まっています。そして、その信仰の詩人は、「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」(2節)が幸いだと語っていました。詩編第1編の信仰者の朝は、どのようなものだったのでしょうか。「昼も夜も」と表現し、朝のことは語りませんでした。しかし、詩編第5編の詩人は、「いかに幸いなことか」と祝福されるような「朝」を語っています。この信仰者は、「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。/朝ごとに、わたしは御前に訴え出てあなたを仰ぎ望みます。」と祈っているのです。この聖句は、前の口語訳聖書では、「主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。/わたしは朝ごとにあなたのために/いけにえを備えて待ち望みます。」という祈りになっていました。つまり新共同訳聖書のような祈願ではなく、主なる神さまから朝ごとの祈りに耳を傾けていただいたという恵みの体験から語られた信頼の表明になっていたのです。そして、そういう恵みの確認が出来る神の民なら、これからも、「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください」と祈ることへ導かれるに違いありません。
 皆さん、キリスト教会にとって朝は、どういう意味をもっているのでしょうか……。私どもは、「その夜、主は、彼ら(神の民)をエジプトの国から導き出すために、寝ずの番をされた」(出エジプト記12章42節a)という慈しみ深い神さまから見守られながら夜を過ごし、朝を迎えるのです。私どもは、主なる神さまから朝を祝福されているのです。私どもは、「見よ、イスラエル(神の民)を見守る方はまどろむことなく、眠ることもない」(詩編121編4節)と教えられています。私どもは、そういう偉大で全能な神さまから目覚めを与えられ、朝を祝福されているのです。ルカによる福音書は、父なる「神に祈って夜を明かされた」イエスさまが、「朝になると弟子たちを呼び集め」たことを語っていますね。ですからキリスト者は、例えば朝ごとに主イエスさまから、「お早う、気分はどうだい……」とお声をかけていただき、微笑みかけられているのだということを信頼して良いのです。ヨハネによる福音書21章12節は、復活されたキリストのことで次のように伝えています。「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。」――そういう恵みがありますから、教会の人々の朝はしばし
ば平和であり、「ゆっくりと瞑想し祈りの言葉を並べられる……祈りのための好機」も豊かに祝福されるのです。
 ただ、詩編第5編の信仰者が語りだした「朝」は、ゆっくりと瞑想できるような朝ではなかったようです。彼は、「主よ、わたしの……つぶやきを聞き分けてください」(2節)と訴え出ているのです。彼の朝は、「助けを求めて叫ぶ声を」(3節)をあげる試練の朝だったのです。「わたしを陥れようとする者がいます」(9節)という苦難の朝……。そして、そういう朝ごとに祈りの路づくりをしたことが尊く、やがてかけがえのない意味を持ち、隣人愛に結晶して行く朝にさえなったのでした。
信仰の詩人の朝ごとのたたかいは、神殿にその場を移してもいます。8節がそれを示しています。彼は、言わば礼拝堂で迎える「朝ごとに」の大切さを体験的に知っていたのです。試練や苦難に翻弄されても、礼拝堂で迎える主日礼拝の朝がたたかいとられていれば、「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください」(9節a)といった祈りは、きっと祝福されるのです。
 苦難のただ中での「朝ごとに」でしたが、そこでしなやかにたたかい続けた詩人の祈りは、信頼の表明を結語にすることが出来ました(12~13節)。預言者的な信仰に高まった祈りの路づくり(イザヤ書33章2節を参照)……。どうか、東小金井教会の皆さんも、主イエスさまにあって、個性的な「朝ごとに」の祈りの路づくりに健闘されますように。
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by higacoch | 2012-08-18 17:47 | 詩篇

2011年8月7日

 『 沈黙して、ただ神に向かう 』 
 詩編 62:1~13、マルコ福音書 15:1~5  濵崎 孝 牧師


 「平和聖日」の礼拝で想い起こしたい大切なこと、それは、聖書が私どもに呼びかけている「沈黙」です(ゼファニヤ書1章7節やハバクク書2章20節などを参照)。
 詩編62編は、預言者の呼びかけに応答するかのように、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」(2節a)と言っています。この信仰の詩人は、「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。」(6a)とも詠っています。さらに、「ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた」(12)とも言い表しています。――神さまが語る「ひとつのこと」には深い意味があり、豊かな語りかけが宿っているのです。ですから、信仰の詩人は沈黙して心の耳をそばだてたのでした。
 その時、詩編の信仰者には、人間らしく生きるための闘いがあったのです。彼は、「神にわたしの救いはある。/神こそわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。/わたしは決して動揺しない。」(2b~3)と言っていますね。「わたしは決して動揺しない」というのは、切実な闘いの表現であって、彼は動揺させられていたのです。7節bにも、「わたしは動揺しない」と言い表されています。それは、「このような時にも神さまに信頼し、御力を頼みにして、私は負けない」……と、言わばそんな想いなのです(8~9参照)。
 では詩篇の信仰者は、何によって動揺させられたのでしょうか。彼を押し倒そうとするような人々がいたのです。「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。/亡きものにしようとして一団となり/人を倒れる壁、崩れる石垣とし/人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。/常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。」(4~5)……そして、10~11節の詩句が語っているのも明らかに隣人を欺く人々のことであり、暴力に依存して彼に襲いかかった人々であり、搾取を誇る人々の非道であり、力が力を生むことに心を奪われる人々の仕打ちです。そうして信仰の詩人は、非人間的な挑発を受け、自らも暴力に依存するという愚行に走る動揺に遭遇したのです。そして、その危険な動揺を静めるための最もふさわしいあり様が、「沈黙して、ただ神に向かう」ことだったのです。(読者よ悟れ)そういう祈りの路づくりの中で、詩人は真実な声を聴くことが出来たのでした(12~13)。――動揺は、それをふさわしい方法で静めないと、非人間的な力に依存することにもなるのです。ですから、詩編の信仰者は、「沈黙して、ただ神に向かう」ことにより、慈しみの力であり給う神さまから動揺を静めてもらい、人間らしい想いや人間らしい言葉、人間らしい生活を形づくって人間らしいものを隣人と分かち合う信仰生活を勝ち取ったのです(「民よ……」と呼びかけて展開される9節以下の詩句は、隣人愛の語りかけと言って良いでしょう)。
 私に旧約聖書神学を指導してくださった新屋徳治先生は、詩編62編の「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」(前の口語訳聖書では、「わが魂はもだしてただ神をまつ」)は、「生涯忘れることのできないもので……す」と証ししていらっしゃいました。「あの太平洋戦争のおり、ガダルカナルの海で乗っていた駆逐艦が沈められ、米軍の捕虜となり、私はやがてニュージーランドへと送られました。そして、かの地の捕虜収容所の中で悶々と苦悩の日々を送っていたとき、不思議な摂理で聖書にふれ、やがて信仰へとみちびかれることになりました。そうした逆境の中で、はじめてこの(詩編62編の)詩に接したわけですが、それ以後この一つの聖句が私を支え、生かしてくれるものとなったので……す。人間のはかなさ、頼むにたりないことを徹底して示された私の魂は、『もだしてただ神をまつ』という姿勢に最終の安らぎと落ち着きを見いだしました。」――これは、「沈黙して、ただ神に向かう」という詩人の祈りの路づくりから、時空を超えて届く隣人愛が紡ぎだされた証しです。
 戦争で死んだ人々の「沈黙の言葉」を、未来へつなぐことに命をかけている人がいます。まして、「倒れる壁、崩れる石垣」のようにされて動揺させられながらも、負けてはいけないとの祈りから「沈黙して、ただ神に向かう」信仰者のその沈黙の言葉を、慈しみ深い神さまはその尊い存在をかけて意味深い明日へつなげてくださるのです。どうぞ沈黙を大切にされたイエスさまにあって進める祈りの路づくりから、本当の意味で地球よりも重い人生が紡ぎだされることを信頼してください。   
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by higacoch | 2011-08-08 17:43 | 詩篇

2011年6月26日

「喜びの讃美は力なり」
詩編137:1-4 ネヘミヤ書8:9-10 コロサイ3:16-17


 先程、皆さんと讃美しました聖歌397番「遠き国や海のはて」という讃美は、J.V.マルティン氏が、1923年に作詞・作曲をしたものです。この年は大正12年、9月1日に関東大震災が起こりました。 
 彼は宣教師として日本に来られ、大阪商科大学、神戸商科大学で英語教師をしながら、宣教された方でした。日本で働かれたこともあって、日本の被災者の方々のために、この聖歌を作られました。歌詞に「遠き国や海の果て、いずこに住む民も見よ、」とあります。「なぐさめもて、かわらざる主の十字架はかがやけり」と、変わることのない、主の慰めと愛が、十字架に輝き示されていると歌われています。
 さて、今朝はユダヤの民が悲しみの中にありましたが、主なる神様によって慰められ、支えられて、生きていったことを学びたい。神様は、決して悲しみをそのままにされない。悲しむ人たちを慰めて、そのような者たちを立ち上がらせ、希望をもって生きるようにしてくださるのです。
 詩編137編には、「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。」とあります。ここでの「私たち」はユダヤの民なのです。民全体が共に泣いたのです。ユダヤはバビロン帝国という巨大軍事国によって紀元前587年に滅ばされ、都も神殿も破壊されていきました。それだけでなく、神殿の祭司たちや、宮中の人々や指導者層の多くの人たちが捕虜としてバビロンの国に連行されて行きました。そして、敵地での捕虜生活を強いられました。その時に歌われた歌なのです。抑留生活はとても辛いものでした。「バビロン人が酒の席で余興のために歌えと命じ、強いてくる」そのようにユダヤの民は、苦しみを味わっていました。讃美というのは強制されて歌えるものではありません。宴会のための慰みで歌を歌うことができるでしょうか。悲しみを抱え、辱めを受けて歌えるでしょうか。しかも神様をたたえる歌を歌えるはずがありません。2節に「竪琴は柳の木にかけた」とあります。これは竪琴を使って賛美するのを止めたと言うことで、竪琴を使っていたことを考えますと、彼らは神殿の祭司たちであり、楽隊員だったのかもしれません。
 ユダヤの民の抑留生活は長くほぼ50年間続きました。その後、神はその民を憐れんで下さり、その苦しい生活から解放して下さいました。以前にもモーセを通してエジプトから脱出させて解放してくださったように、今度は、ペルシャのキュロス王を通して解放して下さいました。ユダヤの国を滅ぼしたバビロン大帝国が、ペルシャ帝国によって滅ぼされ、そのペルシャ王がユダヤの人々の故国への帰還を赦したのです。
 ペルシャ王のユダヤ人解放令によって、故国に帰還する者たちがいました。(また一方では、この地にとどまる者もいたようです。)そして、故国に帰還した人々がエルサレムの城壁の再建を目指していった様子がネヘミヤ記に記されています。そして今朝のネヘミヤ記8章は、イスラエルの人々が城壁の完成を祝い、祭司エズラから律法を聞いている様子が記されています。この日は聖なる礼拝の日でした。祭司エズラは神の言葉である律法を、男も女も律法を聞いて理解することができる者たちすべてに向かって読み上げ、説明していきました。それを聞いた人々は律法を理解し、泣いてしまったとあります。彼らは、どうして泣いたのでしょうか。久しぶりに聞いたので感極まって泣いたのでしょうか。或いは城壁が完成したので嬉しくて泣いたのでしょうか。そうではありません。彼らは律法を通して自分たちの罪が指摘され、自らの罪を自覚して、そして神様の前で泣いたのです。自分自身を知り、そして泣いたのです。その様子を見て、エズラは悲しんではならない、「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源だと」と人々に言いました。そうです。都の城壁を再建出来たのです。完成に至ったことは主の恵みであります。そうであるなら、主の恵みを感謝して主をほめたたえ、主を喜び祝うことが大事です。このことをエズラは民に力強く、言いたかったのでしょう。だから、主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源だと。主を喜ぶことは、私たちの力なのだと。
 私たちは主の日に礼拝を献げ、神の言葉を聞き、そこで自分の罪を指摘され、悲しみ泣くことが求められているのでしょうか。そうではありません。罪の赦しが語られ、罪が赦されているのです。主イエス・キリストによって、罪赦されて、私たちは神に愛されているのです。主イエス様は、私たちを愛し、私たちの罪のために、命を賭けて愛して下さいました。それが主イエス様の十字架の贖いの死とその死から復活で示されているのです。
 マルティンさんが作詞作曲された賛美に「主の十字架はかがやけり」と繰り返されているように、主の十字架の愛が、悲しむ者たちに注がれています。そして復活の命が約束されています。主の日に私たちは、主が為して下さったことを受け止めて生きるようにされています。礼拝を献げるのは、わたしたちが、真理を求めて探求し続けるためだけではありません。悲しむために、礼拝に集っているのではありません。主が為して下さった救いの御業をほめたたえて生きるように、喜びの民とされているのです。
 だから、悲しんではならない。むしろ、喜びなさい、なのです。そして、エズラが言っているように、「主を喜び祝うことは、あなたたちの力の源」これは、こうも言えると思います。「主を喜び賛美するのは、私たちの力なのだ」と。賛美によって力が湧いて来るのです。
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by higacoch | 2011-06-27 17:39 | 詩篇

2010年9月26日

「確かなもの」    詩編90:1-17. ヘブライ2:1-9

 今朝の詩編には「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても」とあります。昔は長寿の人は多くはなく、当時ユダヤの国では40代でほとんどが亡くなっていました。そのような中で、この詩編を歌った詩人は「70年、80年生きたとしても、得るところは、労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」と、また「人生はため息のように消えうせます。」とも言っています。「眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば、花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。」読んでいて、人生、短くはかないものだと聞こえてきます。
 詩編は150編があって、そのほとんどが喜び、感謝、讃美の歌です。そうした中で、これだけが人生の意味について深く問いかけてくる詩です。この詩の表題に「神の人、モーセの詩」とあります。モーセは、エジプトで苦しむ同胞の民を助け、奴隷生活から解放して、約束の地への長い旅を導く指導者でした。モーセの詩はこの詩以外は一つもありません。この詩は実際、モーセが読んだ詩なのかは定かではありません。しかし、ずっとモーセの詩として受け止められて読まれてきました。この詩は、人生は空しいと聞こえてきます。
 また、この詩はよく葬儀で選ばれる箇所です。人生70年、80年、人生を長く生きてきた者に人生は空しかった、労苦と悲しみの人生であったが、その分、亡くなられた今は天国でゆっくりと憩っておられると語るためだけに、ここが読まれるのではありません。わたしたちはこの世で苦労するのは、現実に事実です。この世で生きる中で人に騙されたり、人から責め立てられたりして、いやなことを味わう事がよくあります。そのようなことが重なったりすると、生きていても良いことがないと思い込み、生きるのがつらくなり、人生のむなしさを感じたりします。
 この詩人も悩み、苦しみました。だからと言って、酒や何かで紛らわそうとはしなかった。人生のはかなさに襲われて苦しみました。しかしここで詩人がしたのは、呼ぶことでした。神様を呼び求めたのです。それはこの詩をよく見れば、すぐに解ります。「あなた」という言葉が多いのです。「あなた」(神)と呼んでいるのです。ああ人生は空しい、何の楽しみもないと人生に絶望して、歌っているだけではありません。彼は神様に向かって呼びかけています。最後(17節)には、神様と呼んでいます。「わたしたちの神、主の喜びが私たちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために、確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにして下さい。」と繰り返して、祈り求めています。
 この「確かなものにする」答えが、今朝の新約聖書のヘブライ人への手紙に書かれています。確かなものにするのは、人を生かす救いであります。人生の空しさに襲われ、生きる希望を見出せずにうずくまる者に、生きる力、希望を与えてくれるのは、神様です。聖書にこうあります。「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。そうでないと押し流されてしまいます。わたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初から語られ、それを聞いた人々によって、わたしたちに確かなものとして示され、さらに神も証しておられます。」とあります。
 私たちは、不安定なもの、不確かなものを抱えています。すぐに空しさを感じてしまいます。そんな私たちを神は憐れんで下さいました。そして我々のために、神の独り子であるイエス・キリストを送ってくださったのです。「神は、独り子イエス・キリストを世にお遣わしになりました。その方によってわたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちのうちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と。神は救いのために、イエス・キリストをこの世に与えられました。そのイエス・キリストは私たちの救いのために死んで下さったのです。命をかけて私たちを愛して下さったのです。それは私たちを生かすためでした。私たちはイエス・キリストの愛を知ることによって、神に愛されて、生かされていることを知るのです。私たちはひとり、この世にほうり投げられたのではありません。愛され生かされた存在なのです。確かなもの、それは、私たちが自分で摑み取るものではなく、恵みとして与えられたものなのです。へブライ人への手紙2章9節に「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」とある通りです。イエス・キリストは、すべての人のために死んで下さった、それは、あなたのためにでもあるのです。イエス・キリストの愛こそ、救いであり、この世で「確かなもの」なのです。人を生かし、生きる力と希望、愛を与えてくれるものなのです。ぜひ、この「確かなもの」をしっかりと受け止めて、イエス・キリストを信じ、見上げて生きていって欲しいのです。この「確かなもの」こそが、空しさに勝利する道なのですから。
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by higacoch | 2010-09-30 20:17 | 詩篇