カテゴリ:ヘブライ( 11 )

2016年9月25日

「与えられた恵みに目を向けて」 詩編31:22-25、ヘブライ11:20-26
                            香月 茂

 今年も皆様と共に、召天者記念礼拝を捧げることができたことを大変嬉しく思っています。私は今年で定年を迎え、今年の12月末日をもって、この教会を退きます。来年からは、関先生が牧師としてご奉仕してくださいます。ですので、今回で皆様と共に礼拝を捧げるのは最後となりました。
 私はこれまでの人生で、今年ほど自分の死を考えさせられる年はありませんでした。定年を迎えたからではありません。そうではなく、いつものように一般健康診断を受け、その結果胃に大きな影が見つかり、その後、別の病院での精密検査によって、悪性腫瘍と解りました。そのことで自分もいずれ死ぬのだと考えさせられました。死ぬということは解っていたのですが、死が近くにあると自覚させられた思いです。私は神様を信じています。ですから、手術後、どうなるか、死ぬのか、まだ生かされるのか、そのことだけに心が囚われてはいません。それよりは上を見て、神様を信じて、これらを受け止め、自分の身がどのようになろうとも、神様に目を向けて、神様に喜んで頂けることを求めて生きていきたいと思っています。ただ弱く欲の深い私ですから、神様を悲しませてしまうことが多くあると思いますが、でも神様を見上げて歩んでいきたいと願っています。
 さて、今朝、与えられました箇所にイサク、ヤコブ、エサウ、モーセの名前が記されていますが、これらの人たちはみな亡くなった人たちで、旧約聖書の創世記、出エジプト記という文書に記されています。しかし、ここには簡単に彼らの名前が書かれているだけですが、今朝の箇所を簡単にまとめて説明しますと、アブラハムの子どもたち、孫などは、アブラハムが、神様を信じて生きていったように、その子らも孫たちも神様を信じて生きていったと言いたいのです。
 さて、皆さんにとって、信仰というのは、どのようなものなのでしょうか。信仰というのは、信じることです。信じることとは、解ることとか、理解できるというとは違います。自分にとって分かり切れない部分があっても、自分の身をゆだねて生きるという面があります。こうした解り切れていないものがあっても、信じるという生き方は、他方危険な面があります。それは一種の賭けのようなところがあるからです。日本では「いわしの頭も信心から」と信じる人を揶揄する言葉があります。また実際、何かを、誰かを、信じ込むことは、危険ですし、騙されてしまうことがあったりします。信じ込んで、気づいたら、自分の全財産が、ほとんど吸い取られたとか、人生が狂わされたということにもなりかねません。だから、私は牧師で矛盾するようですが、「宗教には気をつけなさい。」と言ったりします。
 最後にまとめて語りたいのですが、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。どうしてかと言いますと、聖書には、神様を信じて踏み出した最初の人物だと言われているからです。ある日アブラハムの前に、神様が現れて「私が示す地に向かって出発しなさい。」と命じられます。彼はその時75歳、新しい人生に踏み出すには、もう年を取りすぎています。今でいうなら後期高齢者です。体も頭も衰えるばかりです。そのような年でしたから、彼は悩んだと思います。「まだ若い時ならいいが、今はもう老いの坂道をくだる年なのだからと。もう無理」と結論づけて、神様の呼びかけに、答えなかったのではありません。悩んだ挙句、神様に賭けたのです。神様を信じて歩み始めたのです。その後、アブラハムはずっと模範生の歩みをしたのではありません。嘘をついたり、人を騙したりしますが、最終的には、神様に立ち返ることを繰り返しながら、神様を信じて生きていき、死にました。その子孫たちは立派な善い行いをして生きていったかと言いますと、そうではありません。むしろ、悪賢く、欲張りな面を持ちながら生きていきますが、やはり、神様を捨てはしていません。罪深いのですが、神様に悔い改めて生きていったのです。こうした彼らを、総じて「信仰によって」という言葉で、今朝の聖書個所は言い表していっています。短い箇所にもかかわらず、5回も「信仰によって」とありますし、聖書を広げていらっしゃる方は、その前後の箇所にも、この言葉をもっと見つけることができるでしょう。彼らは、善い人間ではなかったけれども、信仰をもって生きていったと言っているのです。
 では、どうして、善い人間ではなかったのに、信仰をもって生きたのでしょうか。それは逆です。善い人間ではなかったからこそ、そんな罪人を憐れんで、愛して下さった救い主イエス様を信じたのです。私たちを憐れんで、私たちが救われるようにと、身代わりとして死んでくださったイエス様の救いに、身をゆだねて、イエス様を見上げて、生きていったのです。こうした彼らが、イエス様を信じていったように、だから、皆さんも信仰によって生きていって欲しいと願っているのです。皆様の上にも、イエス様の豊かな恵みが注がれていることを信じています。それゆえに、イエス様から与えられた恵みに目を向け、さらに天に上げられた時の恵みを見上げて、人生を歩んでいって頂きたいと願います。
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by higacoch | 2016-09-30 16:24 | ヘブライ

2015年3月1日

「イエス様も試練に遭われた」    出エジプト17:1-7、ヘブライ4:14-16
                                  
 今は、レントの時です。レントは、受難節と言って、イエス様が受難を受けられた、つまり十字架に向かって苦しみの道を歩まれたこと、そして私たちの罪の贖いのために死んでくださったことを覚えて、過ごす期間のことです。その期間は、イエス様が荒れ野で40日間、断食をされたことから40日間(ただし主の日を除く)となっています。今年は先々週の水曜日2月18日からイースターの前日4月4日までです。そして、主の復活を迎えます。
 さて、この個所で語られた「試練」は、ギリシア語ではペイラゾーという言葉が使われています。この言葉には大別して二つの意味があります。一つは「試練」であり、もう一つが「誘惑」です。この二つが同じ言葉から訳されるのです。では、ここでは、どちらなのでしょうか。イエス様は、わたしたちと同様に、試練に遭われたのか、誘惑に遭われたのか、どちらなのか。考え始めていったら、よくわかりません。もう少し考えてみましょう。ある出来事を「試練」と受け止めて生きていった時、どうなるでしょうか。ある期間が過ぎてから「ああ、そうだったのか、このことのためにあの試練が遭ったのか。」「ああ、このことのために、あの苦しみがあった」と気づかされます。後になって神様の御旨が解るのです。それに対して、「誘惑」だと思い込んでいたら、どうなるのでしょうか。時がたって、自分にとって新しい苦難に出会うと「ああ、あの時自分は誘惑に堕ちてしまった。だからこんな目に遭うのだ。」と思い込んでしまいます。そして、神様から裁かれたと思い悩むのです。こうして自分で自分をしめつけてしまいます。さらに、こんなことを思う人がいるかもしれません。「俺は、バカだった。あの時、これは誘惑だと気づいていれば、こんな目には遭わなかったはずだ。あの時、もっとしっかりと気づいていればよかったのに。」と自分を情けなく思い、自分を責めるのです。こうなると、心が自分の方にのみ、向いていて、神様に向かわないのです。神様の愛が見えなくなっているのです。15節に「わたしたちと同様に、試練に遭われたのです。」誰が、遭われたのか、それは大祭司、つまりイエス様です。イエス様も、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
 このヘブライ人への手紙には、このペイラゾーという言葉が他に4か所に出てきます。そこには「誘惑」と訳されているのは、一つもありません。すべて「試練」と訳されています。そうした中から取り上げてみますと、2章18節、前節から読んでみます。「イエスは、神の御前において、憐み深い、忠実な大祭司となって、民の
罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」とあります。イエス様が試練を受けられたからこそ、試練を受けている私たちの苦しみや悲しみを知って、助けてくださいます。
 ヘブライ人への手紙の筆者アポロが言うように「わたしたちには、神の子イエスが与えられているのですから、信仰をしっかりと保とうではありませんか。」「大祭司(イエス様)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではありません。イエスは罪を犯されませんでしたが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(15節)そして伝道者パウロも言います。「神様は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることをなさらず、試練とともに、それに耐え得るように逃れる道を備えてくださる」(Ⅰコリント10:13)と。
 最後に、学びたいのです。ここでは、イエス様は神様の子どもだけれども、わたしたちと同じように試練に遭われたと言っています。人間的な苦しみや悲しみや痛みを何も経験されずに、生きていかれたのではありません。否、むしろ、わたしたち以上に、大変な試練に遭われました。それは、預言者イザヤが53章で記しているように、イエス様は、人々に軽蔑され、見捨てられ、多くの痛みを受け、人々からは、神の裁きを受けているから、苦しんでいると言われ、そして、ついには、殺されていきました。これは、私たちが味わう試練どころではありません。それ以上のもっと大きな苦難でした。命まで取られるものだったからです。しかし、イエス様の試練を通して、復活という勝利が与えられました。ここに人間の罪を赦して生かしたいという神様の御旨が示されています。イエス様の十字架の死と復活は、神の愛による大勝利でした。
 イエス様は自らの命を捧げて、わたしたちの罪の赦しを為して下さいました。今レントの時、このことを覚え自らの罪を悔い改めて、祈りを捧げてイエス様に感謝して過ごしていきましょう。
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by higacoch | 2015-03-06 11:07 | ヘブライ

2013年10月6日

「信仰による生涯」  詩編26:1-12、ヘブライ11:23-28 
                             
 今朝与えられたヘブライ人への手紙の箇所で何度も繰り返されているのが、「信仰によって」です。この言葉はヘブライ人への手紙に22回出てきますが、ほとんどが11章にあります。この章には創世記に記されている人物たちが記されていて、アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセが、皆、信仰によって生きていったと記しています。
 この手紙の著者は、以前はパウロと言われましたが、今では同じユダヤ人のアポロと言われています。彼は聖書に詳しく雄弁家であったと使徒言行録(18:24)に記されています。その彼が同胞のユダヤ人(ヘブライ人)に向かって、アブラハム、モーセらは、皆、信仰によって生きていったと言っているのです。創世記の記述には彼らが信仰によって生きたとはっきりは書かれていないのですが、(アブラハムに関しては、「主を信じた」(15:6)とあります)、アポロは、彼らの人生は、信仰によって生きていったと語ります。このように「信仰」を強調したのは、彼やパウロだけではありません。宗教改革を進めたルターもそうした手紙を読んで、強調しています。彼は、人は、イエス・キリストを信じることによってのみ救われると主張しました。徳と言われた善行を積み上げていって救われるのでは決してないと語り、当時のカトリック教会に対抗したのです。「神はすべての人のために御子を送り、すべての人のために、死んで下さったのだ」と語り、だから「救い主イエス・キリストを信じることによってのみ、救われる」と言ったのです。彼は、この真理を、ローマへの信徒への手紙を学んで確信するに至ったのです。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力、福音には神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現される、『正しい者は、信仰によって生きる』と書いてあるとおり」(ローマ)と。福音は信じる者すべてに与えられる神の力ですから、人間の力ではありません。神の力、そして神の義は、福音に現わされ、初めから終わりまで信仰を通してのみ実現される。だから、「正しい者は信仰によって生きる」と主張したのです。こうして宗教改革の合い言葉、「信仰のみ」となりました。
 ルターは、ある説教で、こんなことを語っています。「都エルサレムに入って来られる方は、あなたがたを裁いて、黄泉に突き落とすために、来られるのではありません。この世の王も皇帝も裁判官も、栽いて、殺すために来ます。これがこの世の権威の務めであり、神が彼らにお委ねになったものだからです。しかし、この方は、王であり、裁くために、来られたのではなく、助け、罪からの救い、罪を赦すために来られました。私たちは、この方を知ることを学ぶべきですし、この方に召されているのです。私たちはこの方を受け入れ、この方の許に留まるよう、神が信仰を与えて下さいますように、アーメン」と。
 信仰によって生きるということは、アブラハム、イサク、モーセなど、そうした人物を知ればいいというのではありません。これは知識の問題ではなく、生きることの問題であり、生きることによって、為されるべきものです。それは、モーセが、その時代に生き、その時代の中で、信仰によって生きていったように、ある時は王家の跡継ぎとして生きるか、あるいは苦しむ同胞の民と共に生きるか、またエジプトの財宝によって生きるのか、キリストの天の宝によって生きるのか、判断を下す時の決定的なものとなったのです。そして、モーセは神への信仰によって、決断し、その苦難の道を選んで、神に従って生きていったのです。
 このことは、私たちにも通じるものであります。わたしたちがこの日本で生きているのは、日本人としてのキリスト者として生きていくのではありません。そうではなく、キリスト者としての日本人として生きていくのです。こうしたことは、日本の国益のためとか、日本を中心として考えて、生きるのではなく、キリスト者として、主イエス・キリストが言われたように「神の国と神の義を求めて生きていく」ことです。今、日本は、安倍政権のもとで、憲法を改正し、集団的自衛権を行使できるようにしていこうとしています。こうした歩みは、戦争への道に通じるものであり、決して平和をつくり出していくものではありません。国際貢献という美名のもとに、アメリカに従っての国造りをしているのであって、神の望まれる平和を創り出そうとはしていないのです。信仰によって生きる、それは、私たちの身近な生活においても、また国の行く末を考える時においても、しっかりと選び抜くために大切なことなのです。それぞれの歩みの中で、私たちもしっかりと、キリスト者としての歩み、行動規範である「信仰によって」の歩みを、小さな歩みであっても、為していきたい。それこそが、信仰による生涯なのです。アブラハムやモーセはいつも完全に神に従った訳ではなく、失敗も多くありました。私たちもそうです。しかし、アブラハムやモーセがそうしたように、神様のもとに立ちかえって、信仰の生涯を歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2013-10-12 17:24 | ヘブライ

2013年9月8日

「ただ一度」  出エジプト12:21-27、ヘブライ9:23-28 
                             
 今朝は、説教題を「ただ一度」とつけました。私たちは、「ただ一度」では気が済まず、もう一回、いやもう一回と繰り返すことがよくあります。子どものゲームや大人のパチンコなどがそうでしょう。しかしこの「ただ一度」はそうではなく、唯一の一度だけで、すべてが現れ、すべてが成就したという「ただ一度」なのです。
 この「ただ一度」は、今朝のヘブライ人の手紙の短い箇所に、26節、27節、28節と三度も連続して出てきます。26節と28節の「ただ一度」はキリストがわたしたちに行って下さった神様の出来事を現わしています。まとめて言うと、「キリストが、ただ一度、身を献げられた」、キリストが十字架で身を献げて死んで下さったことなのです。わたしたちの罪のために、わたしたちの罪の赦しのために、死んで下さいました。それをヘブライ人への手紙を書いたアポロが強調しているのです。集中して「ただ一度」を繰り返して、ヘブライ人、つまりユダヤ人にこの「ただ一度」を知って欲しいと願いました。
 どうしてなのでしょうか。それは、「ただ一度」の反対の言葉は、「何度も」「何回も」です。ユダヤ人にとっては何度も、何回もが当たり前でした。特に罪の赦しについてはです。一年に一回、大祭司が神殿の一番奥にある至聖所に入って、ユダヤの民の罪の赦しのためのささげものをすることになっていました。毎年一回ですが、これはよく考えますと、毎年、毎年、繰り返されています。また祭司は、個人の罪の赦しのためのささげものとして、毎日のように、神殿の中にある祭壇に動物のいけにえをささげていました。毎日、毎年繰り返されてやっと罪が赦されると考えていました。このようなユダヤ人には「一度だけ」で罪が赦されるということは信じられませんでした。そんなユダヤ人に向かって、パウロと同様、伝道者であったアポロは、「ただ一度」のキリストの罪の赦しの出来事、イエス・キリストの十字架の出来事を語ったのです。神は「ただ一度」だけで、人々の罪の赦しを成し遂げて下さったのだ、だから、繰り返さなくていい。毎年、罪の赦しのために、捧げることをしなくていいというのです。
 では、ユダヤには、こうした「一度だけ」というのが、なかったのでしょうか。よく考えますとありました。それが今朝与えられました旧約聖書の箇所です。ここにはユダヤ人の出エジプトの時の経験が書かれていますが、この命の救いの出来事を思い起こし、特別な祭りとして祝っているのが「過ぎ越しの祭り」です。これは、ユダヤ民族に与えられた一度だけの救いの出来事です。このことをすべてのユダヤ人たちは、想起し、記念として祭りを行います。現代でも祝われているのです。
 しかし救いの出来事が、イエス・キリストにおいて、起こりました。それはユダヤ民族だけの救いではなく、全人類に救いをもたらす出来事でした。イエス・キリストの血が、すべての人たちの救いためにささげられたのです、「ただ一度」。この一度だけで人々の罪の赦しが成就されたのでした。何度か繰り返されて、積み上げていって頂点に達するものではありませんでした。この一度だけが、救いの成就の出来事だったのです。
イエス様の出来事は、全人類の救いの成就ですから、こうも言えます。「あなたもイエス・キリストに愛されています。」教会に来て、礼拝を守り、洗礼を受けた者だけが愛されているのではありません。まだイエス・キリストを知らない人も愛されていますから、伝道者パウロやアポロは大胆に、トルコ人、ギリシア人、イタリア人に「ただ一度」のキリストの十字架の救いを伝えたのです。
 これは、私たちにも通じます。私たちもパウロのように、イエス様のことを知らない人にも知らせることができるのです。否、伝えないといけないのです。神は、私たちを愛されました。ヨハネの手紙一4章9節に「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。」とあります。そして神様は「ただ一度」だけの十字架の贖いによって、わたしたちの罪の赦しを成就されました。このイエス様による救いを知らされている「わたしたち」は、救いの福音を伝えるようにと、この世に遣わされています。私たちも隣人に、「あなたも神様から愛されたし、愛されている」と伝えていきましょう。
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by higacoch | 2013-09-14 18:19 | ヘブライ

2013年7月21日

「あなたは愛されている」  詩編94:12-15、ヘブライ12:3-13
                              
 6月30日に小金井市宣教75周年を記念して一致祈祷会が日本キリスト教団小金井教会で行われました。礼拝が終わって茶話会の時、佐藤岩雄先生のお連れ合いの鶴子さんのお父さん、鈴木英治牧師がこられて、ご自身が著された本「聖書におけるスポーツと福音」を下さいました。
 新約の時代は、新約聖書がギリシャ語で書かれていますように、ギリシャ文化の影響を受けていました。ギリシャと言ったら、古代オリンピックのスポーツを思い起すことができますし、スポーツが盛んでした。こうした競技に関連したことをパウロも手紙の中で書いています。
 「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」(Ⅰコリ9:24~)
 さて、今朝の聖書箇所であるヘブライ人への手紙にも「競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。当時、一般の人たちもスポーツに関心があったようです。そして今朝の箇所に何度も出てくる言葉があります。それは5節にある「鍛錬」です。調べてみると、7節、8節、11節と、短い中にも4回も出てくるのです。
 この言葉は「体育教師」と関係した言葉です。現代的に言うのなら、スポーツの専門職のコーチです。そしてこの言葉には肉体的な訓練を指導するというだけではなく、精神的な訓練や家庭での養育の意味もあります。ヘブライの手紙を書いたアポロは、ここでギリシャのスポーツ訓練と重ねて信仰のことを語っています。ここでのコーチは人ではありません。神様です。神様が指導して下さり、訓練を与えて下さっていると言いたいのです。聖書を良く見ますと、5節、6節は、カッコの中に入れられていますから、旧約聖書、箴言3章11、12節の引用です。そこには「 わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。 かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる」とあります。ここには、はっきりと神様の懲らしめがある、と言っています。霊の父なる神様が、あなたのことを、あなた以上に知っていて下さり、あなたのために懲らしめを与えておられる。それは神様があなたをしごいて、いじわるされているのではありません。そうではなく、その鍛錬であなたを育てようとされているのです。あなたのためにです。神様の名誉のためではなく、あなた自身の成長のためにされているのです。だから、この手紙を書いたアポロは言うのです。「鍛錬を軽んじるな。それは主の懲らしめだと。懲らしめられて、力を落とすな。それは神様から出ているのだ」と。
 最近、コーチによる体罰、つまり暴力行為が問題になりました。暴力だけではなく、暴言もあり、さらにネグレクトの問題もあります。コーチによる体罰の問題、「しごきという名の暴力」であり、そこには上下の支配関係しかなく、選手の成長にはつながりません。
 アポロは言うのです。あなたがたは、主の勧告を忘れてはいけない。
「主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」
肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」
 そのように鍛錬はあなたの成長のためなのです。だから確かに言えます。主はあなたを愛しておられます。鍛錬を与えて、そしてすぐではないかもしれませんが、あなたに信仰による成長を与えて下さいます。懲らしめがあるからといって、あなたを見捨てておられるのではありません。否、むしろ、あなたを愛しておられるからこそ、あなたに関わって下さっているのです。
 鍛錬と言うのは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられたことによって、実を結ばせます。私もこの年になって、そうだったと思えることがたくさんあります。神様は、あなたを愛しておられる。だから、主の訓練を軽んじないように、否、むしろ祈り求めて、忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエス様を見つめながら。あなたは愛されているのだから、イエス様を見つめながら、信仰の道を歩み抜こうではありませんか。
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by higacoch | 2013-07-27 14:27 | ヘブライ

2013年2月17日

「賛美する者たち」  エレミヤ31:27-34、ヘブライ2:5-13

 先月28日に私たちは原田宣子姉妹を天に送りました。その原田姉が施設や病院に入院されていた時、時々教会員の方々とお見舞いに行きました。その時、いつも「主われを愛す」を賛美しました。また聖歌の「歌いつつあゆまん」も賛美しました。そして宣子姉が天に召され、葬儀の時もこれらを賛美しました。宣子姉のお姉様である淵江千代子先生から、お母様は実に熱心なクリスチャンで、子どもの頃から家族みんなでよく賛美していたとのことでした。
 賛美と言ったら、教会の礼拝ではなくてはならないものです。必ず賛美をします。賛美しない礼拝など考えられません。ではどうして礼拝で賛美をするのでしょうか。そうするようになった理由の一つが、今朝のヘブライ人への手紙の12節の言葉です。その後半に、こうあります。「集会の中であなたを賛美します」と。
 この「集会」は礼拝です。私たちにとっての主日礼拝、今まさに行っている礼拝です。もう少し丁寧に12節を最初からみますと「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します。」とあります、この12節はカッコでくくられていますので、手紙を書いた人の言葉ではありません。旧約聖書の詩編(22:32)からの引用です。しかし、この手紙の言葉は少し違っています。それは「御名」が「あなたの名」となり、「兄弟たち」が「わたしの兄弟」となっています。それはより明確に、「わたし」と「あなた」が、はっきりと浮かびあがるように書き加えられているのです。この「わたし」はイエス様であり、「あなた」は父なる神様なのです。
 歌と言ったら、いろんな歌があります。恋愛の歌、失恋の歌、悲しみの歌、故郷を思い出す歌、季節の歌など種々あります。しかし礼拝の中で歌うのはただ一つです。「あなたを賛美します。」(12節)とあるように、神様をほめたたえるのです。また「わたしも共に」とあります。わたしとはイエス様ですから、イエス様も共におられて共に賛美されているのです。この手紙では、イエス様にいろいろな呼び名を使っています。9節では、わずかな間、天使よりも「低い者とされた方」と呼んでいます。天使よりも低い、ということは、「天使ではない」ということですが、それで何を言いたいのでしょうか。それには天使とは何者であるのかが解れば、はっきりします。
 天使は肉体を持っていません。そうしたことで天使は死なない。死なないので死の恐怖もありません。肉体がないので肉体の痛み、苦しみもありませんし、解りません。ですが、イエス様が天使よりも低くなられたということは、人間になられたということです。肉体を取られたということであり、肉体が滅びる、死を味わう者になられたということです。死があるので死への恐怖心があり、肉体があるので痛み苦しみをも味わわれたということです。しかしながら、イエス様が人となられたことを信じない人々がいました。彼らはイエス様は神の子なんだから、死なないし、私たちのように苦しむこともない。そして十字架にかかられた時も、死ぬ直前に、イエス様の魂は天に挙げられたと主張したのです。だから、死んだのではないというのです。こうした理解は間違っています。
 神様のご計画では、イエス様を救いの創始者とすることでした。救いを地上で始める方、それがイエス様だったのです。そのために、神様はイエス様を天使よりも低くされ、人間とされました。こうしてイエス様が地上で救われる人を起こされたのです。このように救われた人たちが礼拝の中で、神様をほめたたえると言っています。また続けて、14節以降でこう語っています。「人々がみな血と肉を備えているように、イエスも肉体を備えられ、死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためだった」と。このようにイエス様がご自分の血と肉を供えられたことによって、死の苦しみや肉体の痛みを味わわれたと言っています。
 私たちは、今レントの時を過ごしています。イエス様が私たちのために十字架に向って歩まれたことを覚える時です。イエス様は、私たちと同じように人間として、肉体の苦しみ、死への恐怖を担って下さっいました。そして私たちのために命を賭けて死んでくださったのです。このことを深く覚えて、このレントの時を過ごしましょう。またそれと同時に、私たちの罪を赦し、神の国を作り上げていくようにと祝福して下さったのです。このことを深く受け止めて、イエス様の愛を、心から喜び、神様を賛美して歩んでいきましょう。神様から愛され、今も生かされていることを覚え、小さな歩みであっても主を賛美して生きていきましょう。主がまず私たちを憐れみ、愛して下さったのですから。    
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by higacoch | 2013-02-23 16:04 | ヘブライ

2012年10月7日

「信仰によって生きる」 
          ヨシュア6:1-20、ヘブライ11:17-22、29-31
 
                              
 先主日は講壇交換で、荒瀬先生が説教奉仕をして下さいました。今朝はクロス礼拝で、わたしたちの教会には、めぐみ教会の二姉妹が出席して下さっています。こうした教会員の方々が互いの教会に出席し、その教会員と共に礼拝を捧げることは、わたしたちが進めていますジョイント・ミッション、共同の働きにとって、良いことだと信じています。しかも、この日は、三教会ともに、主の聖餐を頂いて、主の救いの出来事である十字架による罪の赦しを思い起こし、復活の命の希望と共に、天国での食卓に預かる者と招かれていることを覚えます。
 さて、3ヶ月ほど前に、頻繁に相談のメール交換をしていた方が、しばらくぶりにメールを下さり、「あの頃、私は罪悪感にさいなまれていて、失礼なことも書いたと思いますが、ごめんなさい」ありました。私は、その返信メールで、「私こそ、失礼なことを書いたかもしれませんから、書いていたなら、ごめんなさい」と書きましたが、その方が書いておられた「罪悪感にさいなまれて」と書かれてあったことで「罪悪感に悩まされる」ということを思いめぐらしました。「罪悪感」の反対の言葉は何だろうと考えてみました。「罪悪感」は自分はダメな、つまらない人間、罪深い人間で生きていてもしょうがない人間だと、自分で自分を責め立ててしまいます。ですからその反対は、神様が自分を愛して下さったと信じ、神様が生かして下さっていることを喜び、希望を抱いて生きることです。「喜び、望みをもって生きる」ということから、「罪悪感」の反対は「喜望感」ではないかと思い至りました。喜び、望むで「喜望」、これは私の造語ですが、この言葉を使って、相手の方に、神様を信じて「喜望感」を持って生きて行きましょう。と、イザヤ書43章4節、「わたしの目にはあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛しています。」との聖句と共に、返信メールしました。
 さて、今朝の新約聖書の箇所にも、信仰によって生きた人が記されています。この人たちは、いろいろなことがあっても、信仰によって「喜望感」を抱いて生きて行った人だと思います。
 この手紙はヘブライ人への手紙とあります。ヘブライ人とは、ユダヤ人と言ってもいいでしょう。ですから、ユダヤの国の人々、弟子たち、都エルサレムに住んでいた人々、ユダヤ教を信じている人々に向けて、「イエス様は、神様の独り子であり、救い主キリストである」ことを伝えた手紙です。また、いろいろなことが述べられていることから、もともとはいくつかの説教が編集されて作られたのではないかと言われています。
 今朝与えられた11章は、読んで頂くとすぐに解るのですが、「信仰」という言葉が、何度も出てきます。11章の小見出しにも「信仰」とあります。こうしたことも考えながら読み返しますと「信仰」が、この箇所の中心の言葉です。先ほど読みました箇所だけでも、7回も出てきます。17節「信仰によって、アブラハムは」、20節「信仰によって、イサクは」「信仰によって、ヤコブは」「信仰によって、ヨセフは」と次々に続き、最後の31節には「信仰によって、ラハブは」と結ばれています。ここに出てくるアブラハム、その子イサク、その子ヤコブ、その子ヨセフと、旧約聖書の創世記に、それぞれの物語が書かれてあります。その人物の悲しみ、苦労、人間的な失敗、兄弟間の憎しみと愛、別離と再会などが記されていますが、ユダヤ民族の系譜であり、皆ユダヤ人で、すべて男性です。男中心主義の歴史の中での主要な人物です。しかし、31節に出てくるラハブはユダヤ人ではありません。しかも女性です。さらに言いますと遊女なのです。歴史の中心人物ではないのです。ユダヤ人ではない、つまり異邦人であり、素姓の解らない女性と言っていいでしょう。そのラハブについても「信仰によって、ラハブは」と語っています。アブラハム、彼はユダヤ人から「信仰の父」と仰がれている人であり、その子イサク、孫ヤコブ、曾孫ヨセフと正当な血筋の人物をあげて、「信仰によって彼らは生きた」と言っているのです。しかし、そのすぐ後に、それとは全くつながらない異邦人の女性、しかも遊女ラハブをあげて、「彼女も信仰をもって生きた」と述べています。こうしたことから言えるのは、血筋、血統ではない、信仰によって生きることが大事なことであると言っているのです。
 イエス様も母マリアがイエス様の弟たちとやってきて、イエス様をつれもどそうとした時に言われました。「神のみ心を行う人が、私の母、私の兄弟、姉妹」と。ヨハネもヨハネ福音書で、「イエス様を信じた人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」と言っています。
 このヘブライ人への手紙は、旧約聖書に通じている人、以前はパウロが書いたと言われていましたが、最近の研究では、伝道者アポロが書いたのではないかと言われています。彼は雄弁な説教者であったと使徒言行録に記されています。またコリントの信徒への手紙にも「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」とあります。
 一人一人の人生があります。その人生に神様を信じる信仰を与えて、神様は生かして下さっているのです。神様は、一人一人が生きるように、わたしたちに御子であるイエス様を与えて、神の愛を表して下さいました。それは「わたしたちが生きるようになるため」とヨハネの手紙一の中にも書かれています。(4:9)
 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ラハブも皆、信仰をもって、生きて行きました。私たちも信仰によって生きたいものです。死に至るまで。
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by higacoch | 2012-10-13 17:19 | ヘブライ

2012年9月23日

「天のふるさとを目指して」  ヘブライ11:8-16
              
 今年も皆様と共に、召天者記念礼拝を捧げることができ、うれしく、感謝しています。
 皆様には<召天された方々のご紹介>というリストをお渡ししています。前に置かれている写真を見ますと、生前のお姿を思い起こし、いろいろと思いだされる方もいらっしゃるでしょう。私も生前、お交わりを与えられた方々を思い出します。お一人一人は、家族にとって、親族にとって、大事な方々だったでしょう。私たちは、こうして召天者記念礼拝を捧げていますが、これは、亡くなった方々の供養とか、死を悼む追悼のためではありません。またキリスト教の葬儀も会葬者が死者の冥福を祈って行われる供養ではありません。教会では人が亡くなると、天に帰る(帰天)とか、天に召される(召天)と言い、どちらも神様の許に迎えられたと考えているからです。
 聖書には、「主は与え、主は取られたのだ、主の御名をほむべきかな」とあります。主とは神様のことです。神様が命を与え、神様が命を取られた、神様は、ほむべきかなということです。私たち人間の生も死も、神様の恵みの賜物であると覚え、私たちは生きるにしても死ぬにしても神様と共にあると信じています。わたしたちの救い主イエス様は「父なる神のお許しがなければ、スズメ一羽でも地に落ちることはない」と言われました。これはどんなに小さな命でも、父なる神と関係ないところで死ぬということはないということですから、どんな人も父なる神のお許しがなければ死ぬことがないのです。ですから、教会で行う葬儀は、神様をほめたたえる礼拝であり、葬礼拝と言います。神様を見上げて礼拝し、故人の葬り、そして会葬者への慰めを祈ります。決して死者の供養ではありません。
 ここ20年位で葬儀の形がずいぶん変化してきました。葬式が簡素化され、家族、親戚だけで行う「密葬」と呼ばれたものが、今では「家族葬」と呼ばれて、どんどん増えてきています。しかも最近の「家族葬」は一回きりで、後日に本葬があるわけではないのです。この「家族葬」という言葉はある葬儀社が1990年代に使うようになってすぐに広まっていったそうです。またさらに多くなってきているのが直葬です。これは、通夜・告別式などの儀式は行わず、自宅または病院から直接火葬場に運び、火葬にする方式です。(参考に、仏教側では、「じきそう」と言い、一般では直葬(ちょくそう)と言われているようです。)こうした葬式の簡素化は急速に浸透してきています。今や友人葬とか、自然葬とかで、新しい葬式も行われるようにもなりましたし、これまでの家の葬式から個人の葬式になってきています。私はこの傾向は進んでいくと思っています。私はこうした傾向を良くないと言おうとしているのではありません。ただ豪勢な葬式や会葬者数によって、その人の価値が計られるような葬式は本質的なものではないと思っています。葬式の規模によってでも、その人の人生の業績によってでもなく、その人の存在によって、それを見つめての葬式が行われるべきであると思うのです。時代によって、葬儀の形式が変化しても、変わらない大事なことをしっかりと受け止める葬儀を行うべきだと信じています。
 私たちは、どんな人もその命は神様から与えられた命、その人が洗礼を受けようと受けまいと、その人の存在価値を神様の目から見なければならないと信じていますし、人の死は神様が取られたことだと信じていて、神様の許である天国に召されたと信じています。だから、わたしたちが行う葬儀や記念会も亡くなった方の冥福を祈って行われる供養ではありません。
 今朝、読みました聖書の箇所には、何度も「信仰によって」と書かれています。アブラハム、その妻サラの人生が短く書かれていますが、彼らは「信仰によって」生き、そして死んだ、そして彼らは故郷、すなわち天の故郷を熱望していたとあります。私たちは誰でもこの世の地上のどこかに誕生しています。その場所が地上の故郷でしょう。しかしここで言われていることは、この世の何かに、地上の財産、地位、名誉に心を向けて生きるのではなく、神様を見上げて生きたということです。これは地上の歩みから逃避して天国だけを見つめて、生きていくというのではありません。命を与えられたように、地上での歩みを与えられたものとしてしっかりと生き抜くことです。
 神様は私たちに命を与えて下さったばかりか、私たちが人生を生き抜いていくために、神様の御子であるイエス・キリストをこの世に送り、わたしたちに神様の愛を表して下さいました。それは私たちが生きるようになるためです。ヨハネの手紙に「神は独り子を世におつかわしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪をつぐなういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあります。
 神様は人間の救いのために、イエス・キリストをこの世に与えられました。そのイエス・キリストは私たちの救いのために死んで下さいました。命をかけて私たちを愛して下さったのです。そして三日後、復活して、新しい命を表して下さいました。こうして死が終わりではないことを表して下さったのです。
 先に天に召された方々は、帰るべき所、天の故郷で、今は神様によって平安を頂き、憩われていることを信じます。
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by higacoch | 2012-09-29 16:40 | ヘブライ

2011年1月2日

「 出発 」  創世記12:1-4、ヘブライ11:8-16

 新しい年を迎えました。この年は教会標語に掲げましたように「出発」をしようと祈り求めています。それは昨年の11月の教会員総会でお話ししました三つの出発です。
 第一は、主の日の礼拝を守り、そこで神様の御言葉を聞いて、そこから出発していくということです。一週間は主の日から始まります。この日に礼拝を捧げ、御言葉を聞き、信仰によって、小さな出発をしていくこと、これは神様が一人ひとりを送り出して下さっていることなのです。  
 第二の出発は、私たちは先に主イエス様の救いの恵みに与(あず)かった者であり、その救いの恵みを隣人に伝えるように、出発することです。人のつながりが希薄になってきている時代、寂しく孤立し、生きる希望を失ってきている人たちが多くいます。神様は御子をこの世に遣わし、神様の愛をもって私たちを愛し、救って下さいました。神様は、どんな人でも愛して下さり、どんな人をも見捨てたりされません。自分は見捨てられていると思っている人でも、イエス様はその人を愛しておられます。そのイエス様の愛を伝えなければなりません。
 第三の出発は、神の家・会堂建設に向かっての出発です。私たちは現在の人たちのためだけに生きているのではありません。教会もそうです。私たちは、次世代の人たちのためにも生きているのであって、将来のことを見据えながら、計画を立てて取り組まなければならないのです。現礼拝堂は初代の淵江先生の時代、1968年12月に完成し、築42年が経っています。建物が老朽化してきて、玄関では雨漏りがしています。これから新会堂建設まで、どれくらいの年数がかかるか解りませんし、長期計画で考えていますが、その年数は定かではありません。ただ、神の国宣教のために、私たちは次世代の信仰者のために出発しなければならないということです。
 そのような出発に対して、先主日、浜崎先生がここで説教して下さいました。先生がこれまで渋沢教会を牧会された中で、新会堂建設へ向かう「祈りの路作り」をし、そして会堂が立てられていったお話をして下さいました。このことは神様の導きだったと確信します。新会堂建設は長い道のりでありますが、この願いを神様が起こさせて下さっているのです。パウロは「神は私たちに願いを起こさせ、かつ実現へと導いて下さる方だ」と言っています。主の導きを頂き、祈り始める出発をしていきたいものです。
 さて、「出発」と訳されているギリシア語は、二つの言葉の合成語で、一つの動詞に接頭語が結合して作られた言葉です。「来る」とか「現れる」とかの動詞に、「~から出て」とか「~から離れて」という接頭語が付いているのです。従って「~から出てくる」とか「~から離れてくる」ということから、ある場所から「離れていく」、「ある場所から出ていく」ということになります。その時、ある場所、それはどんな場所かと言いますと、私たちがいる場所、今いる場所です。これは空間的な場所だけではなく、私たちが今考えていること、私たちが立っている信念と考えることもできます。そこに留まるのか、そこから出発するのか、それが問われているのです。これは礼拝で御言葉を聞く時に生じることでしょう。
 今までいる場所、今考えている所、そこに留まろうとする思い、そうしたことから考えますと、「出発」というのは、どうしても勇気が必要です。なぜなら、私たちは誰でも、今いる所、今考えていること、そこに留まった方が楽だからです。これまでに生きてきた所、自分が自分を守れるところ、ここなら何とか生きていくことができると信じているからです。そうした所から「離れていく」には、どうしても勇気が必要なのです。この勇ましく出かけようとする気持ちを奮い立たせるものは、自分の信念ではなく、神様を信じて生きようとする信仰です。
 ヘブライ人への手紙を書いた著者は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(11章1節)だと言っています。そして信仰によって生きた人物を取り上げています。聖書には、信仰によって出発し、旅をしている人々を何人も記しています。アブラハムを始め、モーセも、ヨセフとマリアもペトロもパウロもです。そしてヘブライ人への手紙には、信仰者である私たちは天のふるさとを目指して旅をしているのだと言っています。
 今年、神様に押し出されて出発を致しましょう。神が願いを起こさせ、かつ実現へと導いて下さることを信じつつ、歩んで行きましょう。信仰によって導かれてする小さな一歩の出発は、それがどんなに小さな一歩であっても、神様が私たちを通して成そうとしていることであり、神様の祝福への道を歩んでいることなのです。特に新会堂建設の歩みは、長い旅となるでしょう。そのような中で、主を見上げていてもいろいろな試練を味わうでしょう。しかし、神は私たちに耐えられない試験に会わせられることはなさらず、試練と共に、逃れる道を備えて、主の御旨を現わして下さいます。そして喜びを与えて下さることを信じます。
アブラハムが信仰によって、召し出されて出発をしたように、小さな出発を、神様を信じることによって、私たちも出発して行きましょう。
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by higacoch | 2011-01-08 16:01 | ヘブライ

2009年1月11日

「神への希望」    詩編50:14-15, ヘブライ 11:1-16

 今年は毎月の第二主日を伝道礼拝として献げます。私はここ東小金井に来てから3年が経とうとしています。早いものです。ここに来てすぐ、JR中央線は人身事故が実に多いのだなあと強く感じました。日本ではこの10年は自殺者が年間3万人は下らないと言われますが、交通事故で亡くなる方よりずっと多いのです。自殺防止のために長年、良い活動をしてきた「いのちの電話」等もありますが、今ピンチの時を迎えています。自殺志向の深刻な相談の割合は10年前の3倍にも増えているのですが、相談員不足で対応しきれていません。昨年から経済危機による深刻な雇用不安から、さらに自殺が増える恐れがあると言われていますが、こうした時代だからこそもっとキリスト者の働きが求められているのだと思います。
 今朝、与えられました聖書箇所には「信仰によって、信仰によって」と繰り返して出てきます。その最初の1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」とあります。ここでは見えないけれども、信仰によって、生きていくことの大切さを教えているのです。その後に数人の信仰者が記されていますが、彼らは、信仰によって生きていきました。神様は信仰をもって生きる者を求められるし、そうした人を喜ばれます。神様は私たちの目には見えませんが確かにおられ、今も働いて下さっています。ノアも、アブラハムも、信仰によって生きていきました。ですから伝道者パウロは、信仰をもって生き抜き、こう言い切ったのです。「神様は、万事を益として下さる」と。信仰がなくて生きるということは、神様の恵みを本当には知ることができずに生きることともいえます。パウロは神様の恵みを知っていたので、本当に慰めに満ちた言葉を語っています。「神は、あらゆる苦難に際して、わたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神から頂くこの慰めによって、あらゆる苦難の中に人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて、わたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れているからです。・・・神は・・・死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」とコリントの教会への手紙で言っています。このようにパウロは自分を頼りにしているのではなく、神様を信頼し、神様に希望を抱いて生きているのです。
 神様を求めておられる方に、ぜひ神様を見上げて歩んでいって頂きたい。私たちを救ってくださったイエス・キリストを信じて、信仰の道へと歩み出して欲しいのです。
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by higacoch | 2009-01-16 18:40 | ヘブライ