カテゴリ:ヨハネの手紙( 3 )

2016年3月20日

「罪を除くために現れた方」  イザヤ書35:1-10、Ⅰヨハネ3:1-10
 

 現代のカトリック教会は1962年から65年まで行われた第二バチカン公会議の決議によって大改革しました。礼拝をラテン語からそれぞれの国の言葉で捧げるようになり、また教会を上からではなく下から、つまり教皇からではなく信徒から考えるようになりました。ですから、カトリック教会の「教会憲章」の第1章「教会の秘儀について」に続いて、第2章に「神の民について」の教えがあります。
 さて、今朝の聖書箇所の「神の子たち」はカトリック教会が示している「神の民」に通じるものです。ただ、今朝の箇所には「神の子たち」ばかりではなく、「神の子」という言葉も出てきます。普通でしたら、「神の子たち」の一人が「神の子」となります。信徒の方々を「神の子たち」と呼び、一人である「神の子」は、当然信徒の一人を表すのです。ですが、ここでの「神の子」には、二つが考えられています。一つは「信徒」で、もう一つは「イエス・キリスト」です。具体的に言いますと、1節、2節の「神の子」は信徒を、8節のは、イエス様を表しています。このような表現はほかにもあります。たとえば、「人の子」。あるところは、人間の子を表し、あるところは、イエス様を表します。このように同じ言葉で別々の人物を表しているので、気をつけて読まなければなりません。同じ人物だと思い込んで読むとよく解らなくなり、あるいは大きな誤解をしていくことになります。
その点を注意深く読みましょう。1、2節で「天の父なる神様が、どれほどわたしたち(神の子たち)を愛してくださるか、考えなさい。」とヨハネは言っています。こうしたことから、皆さん、一人ひとりは「神の子」なのです。神様がそう呼んでくださっているのです。「大事な、大切な、神様の子、私の子です」と語り掛けてくださっているのです。ただ世の中の人たちは、私たちが「神の子」とされていることを知りません。なぜなら、父なる神様を知らないからです。自分の努力の結果ではなく、神様の憐みによって、神の子とされているのです。ですが、皆さんが、将来どうなっていくのか、今ははっきりとは示されてはいません。それが解るのは、御子イエス様が再び来られる時です。その時にはイエス様に似たものとなるとヨハネは教えています。
 ここ3節までは解ります。しかし、4節以降が解らなくなります。それは私たちの罪の問題が語られているからです。6節には「御子の内に、いつもいる人は皆、罪を犯しません。」とあります。私は、全く罪を犯さないのか、自分を振り返って考えてみると、そうではありません。神様が私を見られたなら、言葉においても、行いにおいても、自己中心的な言動をして罪を犯していると私自身思います。説教壇から、「私たちは洗礼を受けて全く罪を犯さない者になったと云うのではなく、洗礼を受けても以前と同じように罪を犯してしまうわたしたちです。現在も、将来も罪を犯す、私たちです」と語ってきました。ですから、この6節の言葉が解りませんでした。そこで説教の準備が止まってしまいました。そのような中で、祈り、黙想して求めました。すると、同じヨハネの言葉が示されました。カトリック教会の第二バチカン公会議の重要な御言葉、罪の告白の言葉を思い起こしました。具体的には、この手紙の1章10節です。カトリック教会は、この言葉を自分たちの罪の告白の重要な言葉として挙げています。第二バチカン公会議の公文書にこうあります。教会憲章 第2章 エキュメニズム(教会一致運動)の実践についてという項目の中に「心の回心」という項目があり、次のように言っています。「真実な意味でのエキュメニズムは、内的な回心なしにはあり得ない。・・・聖ヨハネの証言は、一致に反する罪にも当てはまる。『罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽りものとすることであり、神の言葉は、わたしたちの内にはありません。』(10節)。従って、われわれは謙虚な祈りをもって、自分に負い目のある人をゆるしているように、神と分かれた兄弟とにゆるしを求める」とあります。まさに、カトリック教会が自らの犯した罪を悔い改めて、新しい歩みを始めているのです。罪の悔い改めが諸教会との和解の出発の原点だったのです。やっと私は6節の「御子の内に、いつもいる人は皆、罪を犯しません。」が解り始めました。これは信仰者に根源に与えられたものについて語っていることなのです。根源的にキリスト者は罪を犯さない者だということです。
 キリストを信じる教会は、 御子がこの世に来られたのはまさに、「この世の人の罪を除くために現れました。」(5節)を深く受け止め、御子イエス様が救い主キリストであると信じることができたのです。キリスト者は根源的に、サタンの子ではなく、神の子とされているとヨハネは言っているのです。伝道者パウロの言葉でいえば「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」(コリント二5:17)なのです。本質的に、キリスト者は罪を犯しませんが、現実的には罪を犯してしまいます。ヨハネは、ここで、あなたがたは皆、神の子として生まれていることを忘れないで欲しい、しっかりと心の奥に刻んで欲しいと言っているのです。あなたがたは、神の子として生まれているのだから、互いに、主なる兄弟姉妹を愛しなさいと勧めているのです。このことを受け止めて生きていって欲しいと。そのように、あなた方は、神様から愛されて生かされているのだからと。
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by higacoch | 2016-03-26 17:12 | ヨハネの手紙

2015年6月14日

 「約束されたこと」   詩編16:7-11、Ⅰヨハネ2:21-25 
 
 私が聖書に触れるようになったきっかけは、大学である先生に出会ったことからです。その先生は、ドイツ語と哲学の先生でした。先生のお宅で行われていた「読書会」に出席するようになり、多くの哲学書を読みました。その先生がカンバーランド長老教会の成瀬教会の長老であったがゆえに、いつしか教会に導かれて、聖書を読むようになりました。
 そんなある日の礼拝後に、一人の信徒からショッキングな言葉を聞きました。その人は「真理は一つだ。聖書に記されている真理だけが、真理であって、その以外にはない」というのです。私は聖書が言う真理は否定しませんが、それ以外の宗教的、科学的な真理はないし、そういう「真理」という言葉の使い方は間違っているという主張には、今もってついていけません。科学的な真理が、自分の人生を支える根拠であるとは決して思ってはいませんが、科学的な分野やそれ以外の分野でも真理と言う言葉を使っていいと思っています。だからといって聖書の真理と科学的な真理とは、ごちゃまぜにするつもりはありません。誤解がないようにいうならば、人がいかに生きていくのか、人として生きて行く真実、真理は、聖書がわたしたちに示し、語っていると堅く信じています。つまり、信仰者として、聖書の真理に聞き、生きると言うことが大事だと信じています。
 さて、今朝与えられた聖書箇所には「あなたがたは、皆、真理を知っています。」とあります。そう言われて、皆さんはどう思われるでしょうか。そうかなあと、考え込む人がいらっしゃるでしょう。皆さんの中には、「私は、そうではない。私は、真理を知っていない」と言われる方もいるでしょう。私は、これも、そうだと思います。私たちは、真理を知っていません。であるなら、今朝の聖書の言葉が間違っているのでしょうか。いえ、間違っていません。それでは、良く解らないと、皆さんは言われるでしょう。そうです。よくよく自分の頭で考えても、良く解りません。ただ私たち信仰者が、「真理を知っています」と言う時、知っておかなければならないことがあります。それは、自分の知識や知恵で知っているのではないということです。「知っている」のではなく、「知らされている」から知っているのです。聖書的に言うのなら、聖霊の導きによって知らされて、知っているのです。
 こうしたことを踏まえながら、ヨハネがこの手紙で語っていることは、知らされていながら、知らない人がいると言いたいのです。そうした人を反キリストに惑わされた人たちだと言います。この世に、キリストに反対する人があちこちに現れて「キリストは救い主ではない」と言っていました。そうした反キリストの言葉に動かされて、キリストから離れていく人が出てきていました。ここで言われている真理を知らない人、それは反キリストです。こうした人はイエス様をキリストであると認めないばかりか、御父とイエス様との関係をも認めない人でした。現代もこうした人たちはいます。聖書の話を聞き、キリストの言葉を聞いてもイエス様がキリストであると認めないのです。
 ヨハネは「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたのうちに、いつもあるならば、あなた方も御子の内に、また御父の内に、いつもいるでしょう。」と書いています。ここでの「いる」と訳されている言葉は、「つながっている」とも訳せる言葉です。それはイエス様が説教されたヨハネ福音書15章の「ぶどうの木」の譬えと同じ意味です。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは、何もできないからである。」と同じです。
 初めから聞いていたことが、心の内にいつもあるなら、あなたは、御子の内に、御父の内にいて、実を結ぶことができます。この実こそが、御子が約束してくださった永遠の命なのです。この命は不老長寿の命とか、永遠に生き続ける命ではありません。この命は、神から与えられた救いの喜びに満ちた命であり、希望の命であり、神様と共にある命なのです。この命を私たちは約束されているのです。
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by higacoch | 2015-06-20 17:02 | ヨハネの手紙

2014年3月16日

 「神を知る人とは」  詩編140:2-8、ヨハネの手紙一 4:1-6
                              
 今朝は、説教題を「神を知る人とは」と掲げました。与えられた聖書箇所の6節に「わたしたちは神の属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。」とあります。ですから、神を知る人とは、わたしたちに耳を傾ける人、わたしたちに耳を傾けない者は、神を知らない人だと言うのです。私たちとは、信仰者です。
 ここで「神の知る」とは「知る」「知らない」という知識として、事実を知っているとか、数学の公式を知っているとかと、言う類のものではありません。聖書には知識として知っている意味で使われている所もありますが、ここは、そうした意味ではなのです。ヨハネ福音書17章3節に「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。ここで、父なる神とイエス・キリストを知ること、これが永遠の命だと言われていて、「交わり」を意味しています。父なる神とイエス・キリストとの交わりに生きることが永遠の命なのです。
 こうしたことで、今朝の「神を知る」は、神との霊の関わりを語っているのです。1節に「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出てきているから。」とあります。
 私は霊についてよく本を出している「幸福の科学」の創始者、総裁である大川隆法氏は、偽善者の一人だと思っています。大川氏は1981年に霊の力を受けたと言い、1986年に「幸福の科学」という宗教団体を創設しました。これまでの28年間の活動で、著書を649冊出版しています。単純計算すると1カ月にほぼ2冊を書き続けるということになります。そんな中で多いのが「誰々の霊言」という本です。たとえば「モーゼの霊言」「織田信長の霊言」「太閤秀吉の霊言」とか、最近では「黒田官兵衛の霊言」といったものもありますし、「イエス・キリストの霊示集」もあります。このように霊に関する本をたくさん出し、大川氏はあたかも霊界の世界に生き、霊界の人物と会話ができるような口ぶりです。私は、どうしても大川氏を信用できません。この人の霊の言葉は神様からの霊ではなく、人間の霊だと思っています。
 今朝の手紙を書いたヨハネは、はっきりと「イエス・キリストが肉となって来られたと言うことを公に言い表す霊はすべて神様から出たもの」と言っています。
 イエス様は、私たちと同じ人間(肉となった)になられました。そして地上をわたしたちと同じように歩まれ、私たちと共に歩まれました。だから、イエス様は人間の痛みを知り、苦しみを味わい、地上の悲しみを経験されました。しかも人々に仕えられる方としてではなく、仕える方として、かつ徹底的に仕えるものとして歩まれ、十字架の上で死んで下さいました。その死はイエス様が罪を犯し、その刑罰によって死刑にされたのではありません。そうではなく、すべての人の罪を背負い、その罪の赦しのために自らの命さえも捧げられたのです。1人1人が、それを受け止め、イエス様を私の救い主と信じることによって救われました。この救いの出来事を教えて下さる霊が真実の霊であり、神様からの霊です。もしイエス様のことを知らせない霊なら、それは真理の霊ではあり得ません。偽りの霊です。イエス・キリストの救いを知らせる霊は、信仰者を神の子だと言います。信仰者は、神によって生かされているからです。こうして神を知る人とは、神様に属する者とされ、神の言葉に耳を傾けて聴く人であり、かつ神との、イエス・キリストと交わりをして生きる人たちです。また神を知る人とは、神の愛を知り、その愛によって生かされている人たちです。だからヨハネは、神の愛を語るのです。その愛は、わたしたちの罪を償ういけにえとして死ぬことではっきりと現わされました。こうして神の愛がわたしたちすべてにささげられたのです。そして私たち(信仰者)を永遠の命に生かします。これはずっと生き続けることができるという不滅の命ではありません。罪赦され、生かされ、神とイエス・キリストとの交わりによって与えられる命です。この命の交わりよって、魂の最も深い所から、その人が生かされます。神の愛に生かされて、隣人を愛して生きようとしている人こそが、神を知る人なのです。

                             
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by higacoch | 2014-03-22 17:33 | ヨハネの手紙