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2014年11月23日

「これは何者か」       ヨブ記38章1-18節
                           荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)

 ヨブは正しい人だった。神を畏れ敬い、悪い事はせず、まっとうな生き方をしていた。そして人生うまくいっていた。事業も家庭も順調。かといって驕り高ぶらず、罪を犯しているかもしれないという自省をもっていた。実にできた人だ。サタンは腹が立って仕方がない。あれだけ恵まれていれば神に感謝もするだろうよ。ああいう奴はひどいめにあえばよい。そうしたら信仰など捨てるだろうよ。
 そんな舞台裏での仕掛けがあり、ヨブは災難に遭い始める。財産ばかりか、愛する子らを一挙に失うという悲劇。それでもヨブは神を呪うことなく、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と神礼拝を貫く。しかし更なる不幸が襲う。皮膚病に襲われたヨブの耐えがたい辛さ。しかも妻は、「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」と責める。それでもヨブは「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と節を曲げないのである。
 しかし不幸はやまず、やつれていくヨブ。遂には、私は生まれないほうが良かったかと嘆くようになる。口からは呪いがあふれてくる。そんな彼を心配してやってきた三人の友。最初の一週間は何も言えず、ただヨブと共にすわっていた彼らも、ヨブのあまりの嘆きに、諭し始める。「そんなこと言ってはいけない。あなたは神を畏れ敬う者ではないか。神だって理由なく苦しみを与えることはなさらないはずだ。何か正すべきことがあるはずだ。改めよ」と。でもヨブは納得できない。「こんなひどいことがあってよいのか。私に罪があると言わないでほしい。神よ、出てきて私に直接答えてほしい」と訴え続けるのである。
 38章。ついに旋風の中から、主なる神が現れ、ヨブに答える。「これは何者か。」あなたは誰だと言うのか。わかっていないのに理屈を重ね、神の経綸(はかりごと、計画)を暗くするとは!そう、神はヨブの訴えを放置されなかったのだ。ヨブとさしで向き合い、彼を圧倒する迫力をもって答えられる。神とはこういう御方だ。「出てこい」と怒鳴る失礼な者に、「さあ向き合おうではないか」と答えてくださるのだ。
 詰問し続けたヨブに、神は反対に問いかける。「わたしがこの世界をつくった時、あなたはどこにいたのか」。そしてマシンガンのように質問を連射する。
 わたしが大地を据えた時、お前はどこにいたのか
 お前は大地の広がりを隅々まで調べたことがあるのか。
 お前は空の星を並べられるのか。
 お前は洪水や雷雲を起こせるのか。
 烏の雛がおなかをすかせて泣く時、誰が餌を置いてやるのか。お前か。
 鷹が翼を広げて南へ飛ぶのは、誰が知恵を与えたのか。お前か。・・・
「お前はどこにいたのか」と言われても、どこにもいなかったのである。人間は創造者にあらず。烏の雛さえ養うことができない無力な被造物に過ぎない。
 ヨブを問い詰める神は、意地悪を言っているのか。否。神の「すべてわたしが創造した」という宣言は、「俺の勝手だ」という乱暴な突き離しではない。創造は気まぐれの遊びではない。神は丁寧に丹念に愛をこめて、一つ一つの被造物を世に送り出している。<あなたの知恵をこえた計画があるのだ>という宣言は、<この世界は尊い。あなたは尊い>という愛の迫りである。
 問う側から問われる側になったヨブは、神様の質問連射に、一つも肯定の返事ができない。でも何も言えないことで、納得したのである。彼は負けた。完敗したのだ。それゆえにすべてが腑に落ちたのである。
 「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。これは喜びの悔い改めである。すがすがしく、自分を退けるのである。ヨブは心から納得した。全能の神の経綸のもとに自分を置くことができたからである。
 「これは何者か。神の経綸を暗くするとは」。今、我々は、貪欲に駆られて自己破壊をしていこうとする日本社会の一員として、この言葉を聞かなければならないのではないか。
 貴重な生物が棲む美しい辺野古の海岸に、国家のエゴイズムのために基地を作ろうとしている人間たちよ。地震、津波、火山の爆発と、これだけ続けて自然の凄まじい力を知らされながら、なお、危険な原発を再稼働しようと目論んでいる人間たちよ。そんな指導者たちを支持してしまう選挙民たちよ。これは何者か。神を畏れよ。自らの小ささを知れ。
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by higacoch | 2014-11-26 10:05 | ヨブ記

2012年10月28日

「現代社会と苦難―ヨブ記から学ぶ」 
            ヨブ記 12章 22節       平山 正実 先生

 ヨブが遭遇した苦難は、自然災害、略奪者による家畜等の財産の喪失、子どもや雇い人の死、配偶者の無理解、本人の病気などであり、これらの苦難は現代人のそれと共通している。ヨブ記が普遍性をもっているのは、このような現代的な苦難に関するテーマを扱っているからである。
 ヨブが、たび重なる辛い試練の中にあって、苦しんでいるという噂を聞きつけ、彼の3人の友達がやってきて、神に代わってヨブがこんなにも辛い苦難を受けているのは、自らの罪の結果である断じる。ところが、ヨブはこのような正義と苦難を結びつける善悪二元論は、観念的議論となりやすい、もっと現実を自分の目で見る必要があると言う。ヨブは倫理的な次元での罪と神の義による裁きは認める、しかし、この考えを突きつめてゆくと完全な義人はおらず、死ぬ以外になくなる。他方、応報の論理では理解できない苦難や悲惨がこの世にはある。難病や自然災害などがそれにあてはまる。しかし、そこに神の不義があると攻撃しても、究極的には自己が“神”となるか、“自己喪失”に陥る。
 この難題について、示唆を与えるのは、ヨブ記16章21節である。この聖句を5つの翻訳(新共同訳、新改訳、フランシスコ会研究所訳、口語訳、文語訳)を比較してみると、キーワードとして、「神が、神を裁く」(新共同訳)、「裁く」「執り成す」「弁論する」「論辨する」が抽出された。
われわれが、不条理な苦難に遭遇したとき、これらのキーワードの中に、解決策が隠されているのではないかと思う。
(1)裁くということ
神の本質は、正義であると同時に愛である。正義を貫くためには裁きが必要である。
(2)とりなすこと
 神のもう一つの本質である愛が成就するためには、とりなしが必要である。
(3)弁論すること
正義のために裁くことと愛のため執り成すことを同時に成立させるためには、神と神とが争うこと。この事態 を法廷にたとえるならば、原告と被告が、弁論し合うことが必要になる。
 この三つの原理を、苦難に対する対応策としてまとめると次のようになると思う。
(1)苦難に会っている人に対しては、誰かがその苦難の代償を支払う必要がある。
(2)苦難に会っている人に対しては、解決してくれる人を探し出し、執り成しする人が必要である。
(3)苦しみの現実を弁論し合い、客観化し、どこに問題点があるか明らかにする必要がある。
この3つを完全に成就するのは神(キリスト)であり、そのことを人間に知らしめるのは聖霊である。
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by higacoch | 2012-10-31 18:57 | ヨブ記