カテゴリ:ローマ( 28 )

2016年3月27日

 「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」 
                          出エジプト14:15-22、ローマ6:3-11
                              
 皆さんと共に、イースター主日礼拝をささげることができたこと、心から嬉しく、神様に感謝します。最近では日本でも少しずつイースターが知られてきているのを感じます。これは一面では嬉しいのですが、クリスマスと同じように、お祭り気分で過ごすだけになってしまうのではと心配でもあります。
 それよりは、キリストを知っている人、私も含めて、受難週にイエス様の受難を覚えて、自らの罪を悔い改め、祈りの時をもつということが少なくなってきているように思えます。苦しいことやつらいことを避けたがる私たちになってきているのではないでしょうか。それにつれてイースターの喜び、イエス様の死からの復活に対する喜びが薄らいできているように思えます。主の十字架の苦しみの意味、それに対する感謝も解りにくくなってきているように思えるのです。このままでは、教会の内側の切実な問題となってくるし、外に向かってもイエス様の復活の喜びを伝えられなくなるでしょう。伝道の停滞、そして減少につながっていくでしょう。このことを考えると、私たちがキリストから頂いた恵みを、もう一度、しっかりと受け止めなければなりません。なぜならキリストの恵みは、すべての人に与えられているのですから、先に救われた者はそれを伝える務めが与えられているのですから。キリストの復活の喜びを伝えることができるのは、教会以外にはないのです。小さくても教会(わたしたち)が伝えていかなくてはなりません。
 さて、今朝与えられた箇所には「キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きる」(ローマ6章)とあります。これは、私たちの死の時に、キリストと共に死に、キリストと共に生きると語られているのではありません。ここには将来の死や復活のことが語られているのではなく、過去の一回限りの洗礼の出来事に集中して語られていて、この洗礼において「キリストによる出来事」が示されています。それがよく解るのが「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるようになりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から、復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるため」(4節)とあります。ここに示されたように、わたしたちは洗礼の時にキリストによって死んで、キリストによって新しい命を与えられ、生かされているのです。
 信仰者が「キリストと共に死んだ」というのは、別の言葉でいえば、以前の生き方を捨て、その生き方に別れを告げたということなのです。そして、「キリストと共に生きる」というのは、キリストによって救われ、新しい命に生きると云うことであり、キリストによって神の子とされ、その身分を与えられて生きていくということです。もはや、キリストの恵みが消えることはありません。キリストの恵みのないところで生きることではないのです。洗礼と共に、キリストのものとされているのですから。
 ローマの教会に集まる人たちの中には、「神様の恵みをたくさん頂くためには、以前の罪人として生きる方がいい」(1節)と言いだしている人がいたのでしょう。これに対して、パウロは「断固、そうではない」「どうして、なおも罪の中に生きることができましょうか」と強く否定しました。「キリストが十字架で死んでくださったのは、あなたがたの救いのために死なれたのであり、キリストが復活して生きられたのは、キリストがあなた方の罪を贖ってくださったことの証拠なのです。以前に戻って、神様の恵みをもっと頂くというのなら、それはキリストをもう一度十字架にかけて殺すことであり、父なる神が為してくださった救いを全く受け止めていないことです。」「キリストは、ただ一度、罪に対して死なれたことであり、そのたった一度で、わたしたちの罪の贖いを成就してくださった。」とパウロは言いたいのです。復活されたキリストを信じて洗礼を受けた者が、キリストと共に新しく生かされ、しかも常に新しい命に生きるようにされているのです。パウロは最後に結論として「自分は罪に死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(11節)と言っています。
 わたしたちも、キリストがただの一度、わたしたちの罪の贖いのために、自らの命をささげてくださったことを、しっかり心に受け止めて、洗礼を受けているのですから、新しい命に生きていく者となれるようにと祈り求めていきましょう。以前に洗礼を受け、信仰生活に慣れきってしまい、常に新しく生きることを忘れがちになっているのなら、聖霊を頂くようにと祈り、聖霊によって新しくされることを求めて生きていきましょう。
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by higacoch | 2016-03-31 15:33 | ローマ

2016年2月7日

「人間の罪」    詩編86:11-13、ローマ1:18-25

 今朝は、わたしたちのカンバーランド長老キリスト教会の設立記念主日礼拝日です。いつも礼拝の中での「信仰告白」は「使徒信条」を告白していますが、今朝は、私たちの「信仰告白」の一つの条文をもって告白します。それは、2.06条項です。
 私たちの信仰告白は、人間の罪をどのように告白しているでしょうか。第2章にまとめて書かれていて「人類は神との関係を破る」とあります。つまり、人は神様から頂いた自由を誤って自分勝手に使ったと告白しています。2.03では「人類の最初の親たちは、神に、より頼むことを拒み、自ら好んで従順を捨て、創造の目的である神との交わりを破壊した。彼らは、その存在のすべての面において罪に傾くものとなった」続いて2.04には「アダムとエバがしたように、すべての人々は神に逆らい、神との正しい関係を失い、罪と死との奴隷になっている。この状態がすべての罪深い態度や行為の源になっている。」とあります。
 ここでは、罪の原因、結果、そして傾向性が告白されています。「すべての人々は神に逆らい、神との正しい関係を失い、罪と死との奴隷になっている。」と。これは過去のこととして、以前は「罪と死との奴隷になっていた」と告白しているのではありません。これは今も罪を犯すということです。キリストを信じる前だけでなく、信じた後でさえ罪を犯すのです。人間の罪は、人と比べて深く知ることではありません。より深く知るには、人と比べてではなく、神を知ることによって自らの罪を知らされ、さらにキリストを知ることによって己の罪をさらに深く知らされます。イエス・キリストを知らなければ、罪も知らないし、さらに、イエス様の十字架の意味も、また十字架の上での死も、さらにイエス様の復活をも知り得ないのです。復活を知るということは、自分の救いが与えられていることを知ることなのです。救いは、キリストを信じることによってのみ与えられるのであり、キリストを信じて生きていくことが、何よりも大事であります。その信仰は過去の恵みとして生きるのではなく、現在進行形で生きていくことが大事なことです。それはキリストがあなたに、今も救いを与えて下さっているからです。
 イエス様がわたしの救い主であるといまだ知らない人と、信仰によって知らされている人との違いは、決定的な違いであります。それは、わたしたちの人間社会の側からみれば、それほどの違いがないように思われるかもしれませんが、神様の側からみれば、決定的な違いがあるのです。
 今朝、与えられている聖書の箇所は、どうも難しい言葉がつづられていて、理解しにくいと感じる方が多いのです。そこで皆さんにも解るように、今日はマザーテレサの言葉を通しながら、聖書が語る「人の罪」を考えていきたいと思います。マザーテレサが始めた修道会の名前は「神の愛の宣教師たち」であります。この修道会では、貧しい人の中の最も貧しい人に仕えることを大切にして、神様の愛を宣教しています。つまり極貧の人に仕える愛を以って、神様の愛を宣教していると言っていいでしょう。昨年、渡辺兄弟が私たちの教会に入会された際、小冊子に皆さんからの祝詞を書いて頂きました。その小冊子が、マザーテレサの言葉集であり、そのタイトルは「ほほえみ」でした。その中に、「この世でいちばん美しいことは、神様が私たちを愛してくださるように、わたしたちも互いに愛することです。わたしたちが、この世にいるのもこの目的のためです。」とあります。神様がご自分を愛するのではなく、私たち(他者)を愛して下さったように、私たちも他者(隣人)を愛し、互いに愛し合うことが求められているのです。しかし、私たちは自己中心で、自分を愛することに集中してしまいます。神様の言葉に従わず、別のものを信頼(信仰)するのです。ここに罪があります。
 神様は、独り子イエス様を、この世に遣わして、人とのかかわりを持ちました。そして、御子イエス様は、すべての人のために御自ら自分の命を捧げられました。こうして、イエス様は、私たちを愛して下さいました。そのようなイエス様から、離れていってしまうことは、わたしたちの信仰告白にありますように、罪を犯す傾向にあるということです。そしてイエス様の愛の行為の反対をするということは、罪を犯しているということです。つまり、人を愛さないで自分だけを愛しているなら、それは罪を犯していると私は思います。これは誤解がないように、加えて言わなければなりませんが、行動をしていない人は、罪を犯しているということではありません。行動しなくても人を愛することはできます。それは人のために祈るということです。また次のことも言わなければなりません。愛の不足は、罪ではないと。小さな、わずかな愛があれば、それは罪ではないと。愛というのは、小さいとか、少ないとか、で計られるものではありません。ある人が、あんたの愛は少ないと、自分の計りで、裁くことはできません。私たちの信仰告白に、「神との正しい関係を失い、罪と死との奴隷になっている。」(2.04)とあります。そのようにならないために、神との関係を失わないように、神を見上げて、信仰の道を歩んで行こうではありませんか。そのためにも、御言葉を聞きつつ、礼拝を守って歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2016-02-13 17:42 | ローマ

2016年1月24日

「正しい者の生き方」 イザヤ書9:1-6、ローマ1:8-17

 2018年には新しい聖書翻訳が出版されます。お手許の「新共同訳聖書」から「標準訳聖書」という名になると言われています。福音派と呼ばれている教会で読まれている新改訳聖書も2017年9月に新しい聖書翻訳が出版予定です。このように時代が進むと聖書も新しい翻訳が出されます。ほぼ35年から40年間ごとに聖書が翻訳されます。新しい聖書翻訳が出ることを、皆さんはどう思い、どう受け止めておられるでしょうか。時代と共に言葉が変わりますから、昔の言葉では若い人に通じなかったり、以前はいい意味だったのに、今は、どちらかというとあまりいい意味ではなくなったりして言葉の意味も変わったりします。また人を差別するような言葉は、相応しくないということもあります。そうした面で、聖書翻訳が出版されるのは良いことだと思っています。今使用している新共同訳聖書は、共同と言われるように、カトリックとプロテスタントと共同で翻訳し、出版されました。これは、良いことだと私は思っています。
 そのように、新しい聖書翻訳の聖書が出た時、皆さんはどう思われるのでしょうか。新しい翻訳の聖書を読まなければとまじめに考えておられる人もおられるでしょう。しかし私は無理に新しい翻訳を読まなければならないと考えなくても良いと思っています。新しい聖書の言葉に慣れず、覚えきれないのなら、むしろ古くていいのではないでしょうか。皆さんの中には、若い頃「文語訳」を読んでいたから、これがいいという人もいるでしょう。その訳で御言葉を暗記しているならそれでいいと思います。ただ私は説教者として、教会がイエス様の福音を知らせていくために、次の時代の人への信仰の継承ということを考えて、特に若者たちに知らせていくためには「新共同訳」の聖書の方がいいだろうと思いますので、「新共同訳」から説教しています。
 しかし、前の聖書翻訳の言葉と新しい翻訳の言葉との違いがあって、どうしても以前の聖書の言葉が良かったと思うものがあります。またその逆もありますが、今朝与えられたローマの信徒への手紙の1章17節は、口語訳が良いと思います。口語訳では「信仰による義人は生きる」とありました。ところが、新共同訳聖書は「正しい者は信仰によって生きる」とあります。私は現在、新共同訳の御言葉で説教していますので、そこから取って説教題を「正しい者の生き方」としましたが、実を言うと、前の口語訳の言葉から「義人の生き方」にしたかったのです。皆さんに「正しい者」とはどんな人なのかを深く知ってほしいからです。
 ここの「正しい者」は、倫理的な正しさに生きている人ではありません。ここは「信仰によって義とされた人」(アブラハムは信仰によって義とされました。創世記15:7参照)を表しています。そうでないと、この後の3、4、5章に語られている「義について」「義とされたアブラハム」へとつながりません。また口語訳では3章10節が「義人はいない。一人もいない」とありますが、新共同訳では「正しい者はいない。一人もいない。」となっています。こうなるとパウロが言う「義人」の意味が、十分に伝わりません。なぜなら、義人の義というのは、特別な意味を含んでいるからです。その後の3章21節から26節には「 今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」あります。
 ここには、パウロが伝えたかった「神の義」「信仰による義」によって、義人が語られています。皆さんには、ここの「正しい者」は倫理的な「良い人、善人」ではなく、「神の憐みを頂いた者」という意味であることを覚えて頂きたいのです。神が私たちを憐み、神が私たちのために御子イエス様を送って下さり、そのイエス様が、私たちの罪を負って、私たちの身代わりとして、自らの命を捧げて死んでくださいました。その神の義によって解放された人のことを義人というのです。ですから、義人、正しい者は、「信仰によって生きる」のです。そして「生きる」というのは、信仰から信仰へと生きていくことなのです。わたしたちもイエス様を信じつつ生きていきましょう。
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by higacoch | 2016-01-30 17:01 | ローマ

2016年1月10日

 「神に献げなさい」  詩編2:1-12、ローマの信徒への手紙 6:12-23
                               
 新しい年2016年を迎えて、第二の主日になりました。わたしたちの教会は、ここ数年、この第二の主日礼拝を伝道主日礼拝として、外部からの先生や教職志願者を招いて、伝道を意識した礼拝を捧げています。
 さて、正月と言えば、日本では初詣です。多くの人が神社、お寺に出かけます。初詣で関東地方での人気のベスト3は、明治神宮、川崎大師平間寺、成田山新勝寺です。この近くでとは、京王線府中駅近くの大國魂神社であります。そうした初詣で、多くの人がするのが、お賽銭です。神様に、仏様に、お賽銭をします。
 お賽銭も日本人特有の縁起担ぎがありますから、5円を投げ入れる人は「今年もご縁がありますように」とか、10円を捧げる人は2枚の5円を重ねることで「かさねがさねにご縁がありますように」とか、15円を捧げる人は、「十分にご縁がありますように」また5円硬貨を3枚にして「三重にご縁がありますように」とか捧げます。こうした神社やお寺に捧げられるお賽銭と、教会で捧げられる献金には、決定的な違いがあります。お賽銭の目的は祈願です。「ご縁がありますよう」にと願われているのは「お金」「合格」「縁談」などです。それに対して、献金は祈願の捧げものではありません。「神様、ありがとうございます。今年も一年を始めることができました。こうして健康が与えられ、生かされていることを感謝します」と感謝の思いで捧げます。祈願か、感謝か、これは決定的に違うのです。どう違うのかと言いますと、祈願はあくまで自己中心的で、自己幸福追求型です。それに対して教会は「神様、ありがとうございます。」感謝なのです。こうした祈願と感謝の違いは、正月だけではありません。私はカウンセリングを学んで思うのですが、これが人間の人格形成に影を落とします。というのは、人がお金を出す時、そのお金にはその人の祈願がつきまとうと言うことです。お金を出す時、それが自分にとって、後々、儲かること、幸福になること、利益になることが前提条件なのです。それが期待できなかったり、何のお返しもないと思われたらお金を出しません。出す以上は損をしないと考え、常に自分にとっての損得が条件です。つまり出すなら、損にならないことが鉄則です。初詣のお賽銭によって、お金による脳の神経細胞のシナプスに回路ができ、それが主要な回路となって形造られていくのです。こうなると、お金でもっと儲けてやろうとなって、その人の人格形成に大きく作用するのです。この形成は不幸です。なぜなら、その人は人を見て、自分のために、その人を利用することになるからです。これはまさに自己中心的な考えであり、相手の幸福を考えるより、まず自分の幸福を常に求めるようになります。そこには相手を思いやることが想像できなくなっていきます。人に親切にすることも、心の奥では見返りを願ってするようになるのです。
 これに対して教会は「ありがとう」感謝です。それは、神様の恵みの先行性によって生きる姿勢です。神様は、わたしたちが気づこうと気づくまいと、一方的に先に恵みを与えてくださいました。神様の独り子なるイエス様を与えてくださり、イエス様もわたしたちを一方的に愛してくださいました。イエス様は、良い教えや病人を癒し、死んだ者を生き帰らせました。それだけではありません。否、それ以上に自分のいのちをも惜しまず、いのちを捧げて愛してくださいました。ですから、これに気づかされた者は神様に感謝の捧げもの(献金)をするのです。自分の精一杯の感謝を表します。「週報」にも書かれてありますように「主への感謝と献身のしるし」です。礼拝では、お金を捧げますが、それは、お金以上の「わたし」を捧げて(献身)いるのです。お金で済ましておこうと言うのではなく、ご自身を捧げていることなのです。だから、縁起を担いで、今日はこれくらいにしておこうというものではありません。まず、神様に、「ありがとう」を表すのです。
 最後になりましたが、今朝、与えられた箇所に、パウロは3回、「献げること」を勧めています。13節に、「死者の中から生き返った者として、自分自身を義のための道具として神に献げなさい。」と語っています。このことは、とても大事なことです。イエス様の救いにあずかる前、私たちは死んでいたのです。それが自分中心的な考え方、生き方であり、それは神の前に罪を犯していることであり、その罪ある生活は、結局のところ死だからです。そうした中から救い出してくださったのが主イエス様なのです。こうしたことで解るのは、わたしたちの人生は、神様に救われて、神様のために生きていくように導かれているということです。これは、イエス様がわたしたちを死から生かし、わたしたちを用いて、神様の栄光を表そうとされていることなのです。だから、神様に自らを捧げて、今年も生きていきましょう。
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by higacoch | 2016-01-16 16:23 | ローマ

2016年1月3日

「与えられた賜物をどうするのか」 申命記26:10-11、ローマ12:6-8
 
 皆様、あけましておめでとうございます。新しい年の最初の主日に、皆様と共に礼拝を捧げることができたことを、心から嬉しく思います。今年2016年は、教会標語として「恵みによって仕える」を掲げました。また主題聖句として「与えられた恵みによって、それぞれが異なった賜物を持っています」を選びました。今年は神様の恵みを覚え、小さな歩みの中で、仕えることを実施していきたいと祈り願っています。
 さて、二日前の元旦礼拝で、わたしたちの教会のカテキズム(教理問答書)から「恵みとは何か」という問いとその答え「恵みとは、すべての人への神の贈り物です。わたしたちを創造し、わたしたちを慈しみ、たとえ、その資格がなくても、わたしたちを子と呼び、それが神の決意されたことなのです。」を紹介しました。「恵みとは、すべての人への神の贈り物」であり、そうした神からの最大の贈り物は、わたしたちの救い主、イエス様だと学びました。
 今日は、それに続けて学びます。皆様の中には、「賜物」と「タラントン」を同じもののように受け止めておられる方がいらっしゃるようです。しかしこの二つは違います。タラントンは日本語訳になっていず、ギリシア語のタラントンをそのまま用いています。これは「タレント」の原語で、日本語に訳すと「才能」等と訳されます。この言葉が出てくるのは、新約聖書のマタイ福音書のみ(それ以外にはヨハネ黙示録に1回)です。それ以外の使徒行伝やパウロの手紙などには一切でてきません。それに対して賜物と言う言葉は、逆に「タラントン」が出てこない箇所に出てきます。(ヨハネ福音書に1回のみ出てきます。)つまり、使徒言行録からパウロの手紙に多く出てきます。詳しく見てみますと、弟子たちに聖霊が注がれたペンテコステの出来事の後に出てきます。二つの言葉の意味をまとめますと、タラントンは生まれながらにして与えられた能力であるのに対して、賜物は天賦の才能ではなく、ある働きの中で、特に教会の中での働きの中で、その人に与えられた力と言えます。先天的なものではなく、後天的なもので、聖霊なる神様から与えられたものとして考えられます。そして、聖霊によって与えられた賜物が、どのような場所で用いられているのかを調べてみますと、それは教会との関わりの中で用いられています。
 また、賜物はギリシア語ではカリスマと言います。この言葉は私たちの生活の中でも聞く言葉です。「あの人は、カリスマ性がある」とか「カリスマに富んだ人だ」という風にです。またネットには「あなたもカリスマ性を身につけることができる」という歌い文句の本が出ているとありました。カリスマの意味を調べてみますと「カリスマとは、超人間的・非日常的な、資質・能力。英雄・預言者・教祖などに見られる、民衆をひきつけ心酔させる力」とありました。何か、集中して身につけることができるような感じですが、そうではありません。聖書の中の賜物―カリスマは、特に教会の活動の中で語られていて、聖霊によって与えられた賜物で、実利的な仕事や趣味で発揮されるためのものではありません。パウロが言いますように、教会の活動のために与えられる力であり、具体的に言うのなら、パウロが、今朝の箇所で語っています預言する力、奉仕する力、教える力、勧める力、施しをする力、指導する力、慈善をする力です。キリストの体なる教会の成長のために働く力、それぞれのキリストの体に仕える働きであり、それぞれの奉仕力といったところでしょう。このように単独ではなく各人が組み合わされての仕える力なのです。教会の成長のためにというのは、教会員の増加とか献金収入の額のアップ、教会の勢力の増強ではありません。教会の中で、弱い人、小さい人が大事にされ、その人を中心として作り上げられるキリストの体の成長なのです。パウロの言葉を借りれば「キリストの体の分裂が起らず、各部分が互いに配慮し合っていることです。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(Ⅰコリント12:25,26)ということです。つまり、教会の一人一人が大切にされる愛が実践されているキリストの体になることなのです。人間的な数字の増加ではなく、交わりの愛の深化なのです。
 今朝の説教題である「与えられた賜物をどうするのか」という問いへの答えは、キリストの体なる教会の霊的な成長のために用いることです。自分のために、自己中心の考えによって賜物を用いるのではなく、キリストのために、キリスト中心の信仰によって用いるのです。賜物をキリストの体なる教会の成長のために用いるのです。
 今朝、この後に長老の按手・就任式を行いますが、一人の姉妹に聖霊が与えられたのは、教会の人に仕える働きのためなのですから、その長老の就任を共に喜びたいと思います。今年は、それぞれが頂いている賜物を活かしていく歩みを祈りつつ、小さな歩みをしていきましょう。
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by higacoch | 2016-01-09 16:29 | ローマ

2015年12月6日

「隠されていた計画」 イザヤ59:12-20、ローマ16:25-27
                              
 今からもう40年も前のことですが、よく覚えています。神学校に入学した年のある授業で、一つの宿題が出ました。「来週までに、『わたしの福音』という題で、レポートを書いてくるように」。「わたしの福音」この宿題に私は四苦八苦しました。そんな中で同級生の一人は、「わたしの福音」というテーマは、誤解を生むので良くないと、長々と批判を書きました。「福音」とは、聖書の「キリストの福音」以外にはないのだから、「わたし」という個人の福音はない、このタイトルは誤解を生むというものでした。今朝の聖書箇所を見ますと彼の批判が的確であったと解ります。パウロは「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教」(25節)と言っています。まさに、「わたしの福音は、イエス・キリストについての宣教、これ以外にはない」と言っています。パウロが書いた手紙は、15章で終わっているという説があり、後の16章は他の人物か、ある集団(教会)が付け加えたものではないかと言われます。しかし、私はそう思いません。パウロは、手紙を書き終わってしまいましたが、どうしても付け加えたかったのです。それが16章のお世話になった友への挨拶であり、どうしても最後の最後に言いたかったことを書いたのです、「福音はイエス・キリストの福音なんだ」と。
 パウロはこの福音は、「世々に渡って隠されていた。」と言っています。では、完全に隠されていたかと言いますと、そうではありません。神は、時代時代に、神の言葉を告げる預言者を遣わし、彼らは神の言葉を語りました。そうした中で、隠された神の計画が知らされていきました。ですが、人々は預言者の言葉を聞かず、彼らを迫害し、牢屋に入れ、殺害したりしました。こうしたことで、福音の預言が隠されてしまう結果となりました。しかし、歴史の中で預言者の言葉が編集され、「聖書」(旧約聖書)が編纂されました。こうして神の言葉が読まれるようになり、預言されていたメシア出現が再び知らされていきました。イザヤ、エレミヤの預言です。そして預言の言葉通りに、イエス・キリストが誕生されました。こうした歩みは、神からの行動であり、人間の側の動きではありません、父なる神の一方的な思いがあり、神の愛が現わされたのであり、まさに啓示なのです。
 このことはヨハネ第一の手紙4章9節以下に記されています。「 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」。
 だから、パウロは言うのです。「今や」神の計画は現わされ、すべての異邦人に知られるようになりました、と。この福音は、ユダヤ人だけのものではありません。ギリシア人もローマ人も、さらに地球に住んでいるすべての人に、知らされるべき福音なのです。このイエス・キリストの福音から漏れる人はいません。すべての人が救いの対象です。どんな人も、どんな肌の色も、障がい者も、病気の人もです。
こうしたことを教えられる時、わたしたちは、神の一方的な導きにより、神の恵みを頂いていることが解ります。神に導かれ、イエス・キリストの福音を聞き、イエス・キリストの救いを、先に知らされています。イエス・キリストの福音を聞いても心に受け入れられない人がいます。また一度もイエス・キリストの福音を聞いていない人もいます。そうであるなら、わたしたちは、先に救われ、イエス・キリストの福音を知り、生かされていることを覚えて、そうした人たちにイエス・キリストの福音を知らせていく務めがあるのです。このことを覚えて、隣人に仕えて、福音を伝えていきましょう。
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by higacoch | 2015-12-12 12:38 | ローマ

2015年11月29日

「救いは近づいている」   詩編24:1-10、ローマ13:8-11
                            
 今日からアドベントに入ります。今日はアドベント第1主日で、クランツのろうそくの1本に火がともりました。アドベントとは、先週の週報にも書きましたが、「主が、この世に来られる」という意味で、二つの出来事を待ち望む期間です。一つはイエス・キリストが地上に来られること、イエス様が人間の姿で生まれるという出来事です。わたしたちはキリストの降誕としてお祝い致します。これが第一のアドベントであり、よく知られています。第二のアドベントは、天におられる主イエス様が、再び地上に臨まれる終わりの日を待ち望むのです。
 今朝の聖書箇所はイエス・キリストが再び来られることを待ち望む箇所です。最初に学びたいことは、信仰者の生き方です。一言でいうなら、どのような状況においても、最終的には希望を抱いて生きる生活だということです。信仰者は、将来に不安を抱えて、明日はどうなるかと心配ばかりする悲観主義者ではなく、明日に希望を抱き、終わりを見つめて、一日一日を、希望をもって生きるのです。自分の才能、社会的な地位、生活条件がどのような状態であっても、その現状に押しつぶされそうであっても、希望を失わない生き方をするのです。なぜなら、信仰者は、終わりの日のキリストの再臨を待ち望んで生きているからです。キリストが再び地上に来られると言うのは、単なる到来ではなく、わたしたちの救いの完成のために来られるのです。単に地上がどうなっていくのか、また地上の終わりを見るために来られるのではありません。終末と言うと、消えるとか、壊れていくイメージがあり、希望がなくなると思う人が多いのですが、信仰者はそうであってはなりません。キリストが来られるのは、私たちの救いを完成するために来られるのですから。聖書の原文のギリシヤ語では「終わり」と言う言葉はテロスといい、「終わり」と同時に、「完成」という意味があります。ですから、世の終わりは、世の完成と救いの完成の時なのです。イエス様によって救いが与えられましたが、未だ、救いは完成されていません。イエス様が地上に来られ、既に救いを成し遂げられましたが、未だ救いの完成には至っていない中間の時代にわたしたちは生きていると言うことです。ですから、完成に向かって、希望に向かって生きているのです。私たちはこうした時代に、主によって生かされています。信仰者の基本的な生き方は、救いが完成されるという希望によって生きているということです。しかし、終わりの日に向かっているからと、特別なことをして生活していくということではありません。完成を信じて生きていくとは、一日一日、今日の務めをしっかりと誠実に果たして生きていくことです。特別に、ある場所に集まり、共同生活をし、断食と祈りの生活に移らなければならないのではありません。日々罪を告白し、悔い改め、祈ることです。特別な捧げものをしなければならないのではありません。主の日に礼拝に集い、神様への感謝のしるしとして、喜んで、心をこめて献金するのです。このように、日々の生活で、神様を見上げながら、生きていくのです。
 11節には「救いは近づいている」とあります。わたしたちの日本では、あまり聞かれない言葉です。日本ではどちらかと言うと「救いに近い」とか「救いに近づいている」という言葉は聞きます。これは、人が修業を積んで救いに向かう歩みであり、こちら側、人間の側の理解です。しかし、パウロは「救いは近づいている」と言っています。救いが、私たちに近づいている、つまり、向こう側から、神様の方からこちらに来られる、それが迫っているという考えです。また終りの日が決まっていて、それまでの残りの日がどんどんなくなり、結果的に近づいていると言うことではありません。わたしたちには、終わりが何時なのか解りません。神がその時を用意してくださっています。20世紀の偉大な神学者であり、牧師であったカール・バルトは、キリスト教は宗教ではないと言いました。なぜなら、キリスト教は人が何らかの苦行、修業をし、精進して救いを求めて、救いの達成に向かうではなく、神が人に近づいて下さり、人の世界にやって来られたものだから、「啓示」だと言いました。啓示とは、神が、神の力で、人間の世界に来て、ご自身を表してくださることです。人でなく、神が為してくださった出来事なのです。その出来事が救いであり、今や、完成の日が近づいているのです。この確信を抱いて生きていくことが、わたしたちに求められています。
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by higacoch | 2015-11-30 19:11 | ローマ

2015年11月1日

「信仰による恵み」  詩編51:3-11、ローマ3:21-28

 10月31日 渋谷でハロウィーンの大仮装行列がありました。日本では子どもも大人も仮装をして町を練り歩く姿がよく見られるようになってきました。今や、10月31日はハロウィーンの日として覚えられていく勢いです。しかし、元々、教会では、この日は宗教改革記念日として知られた日です。この日にマルチン・ルターが、ヴィッテンベルク城にある教会の扉に張り紙をしました。有名な95ヶ条の提題と言われるものです。この日を起点としてプロテスタント教会が形成されていきました。
 ルターは、どんなことを書いたでしょうか。少しだけ紹介しますと、第1条で「われわれの主であり教師であるイエス・キリストは、『悔い改めよ』などと言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。第2条 この「悔い改め」の言葉は、秘跡としての悔い改め〔悔悛〕についてのもの―すなわち司祭の職務によって執り行われる告解と贖罪についてのもの―と理解することはできない。(真実の悔い改めは、人間の司祭にするのではなく、神御自身にすること。) 第21条で「教皇の免罪によって人間はあらゆる罰から解放されて救われると言う免償説教師はまちがっている。」と、さらに第27条で「金銭が献金箱の中へ投げ入れられてチャリンと鳴るやいなや、魂は(煉獄から)飛び出すと言う人たちは、人間〔の教え〕を説教している。」と書き、人は免罪符によって罪赦されるのではなく、イエス・キリストの十字架の贖いによって(のみ)、罪赦され、救われると訴えたのです。このことをルターは、旧約の詩編の学びとパウロの手紙によって確信させられました。
 さて、パウロは「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」(21節)と言っています。このことは重要な指摘です。これまで語ってきたこと、そして今、これまでとは全く違ったものが、人によってではなく、神によって与えられ、示されというのです。これまでは、人は律法によって生きようとしてきました。しかし「律法を守り抜いて生きる人は誰もいなかった。ただ一人もいなかった。」と聖書を通してパウロは教えられました。神に祝福され、救われる者はいなかったいとパウロは書いています。それが「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示された」と強調して語っています。これを理解するのは大変難しいのです。なぜなら、21節の最初の律法と後の律法とは違います。最初のものは「律法」そのものであり、後のものは「律法と預言者」、つまり旧約聖書を示しています。ですから、旧約聖書によって立証(預言)されて、神の義が示されたと言うことです。こうして今や、人間からではなく、神から「神の義」が示されたと言うのです。すなわち、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」です。「神の義には、何の差別もない」と。ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、ローマ人であっても、また貴族や、身分の低い人であっても、障がい者であっても、健常者であっても、人間的にどのような違いがあっても、神の義には、何ら差別はないと言っています。このことは、今のわたしたちの世界でも同様であり、神様の祝福である神の義において何ら差別はないのです。
 ルターは若い時「神の義」が嫌いでした。なぜなら「神の義」で自分も裁かれると思っていたからです。そんな彼が、旧約聖書の詩編を繰り返し学んでいる中で、神の霊によって気づかされました。神は「神の義」によって人を裁くのではなく、「神の義」(神の憐み)によって人を憐れむのだと教えられました。律法によって誰も正しい者がいない、そのままだったら、皆が滅び、救われる者は一人もいません。そのような中で、神は神の愛によって、神の義を示されたのです。それが罪人を救う神の義でした。裁くのではなく、救う「神の義」だったのです。この発見はルターの「神の義の再発見」と言われます。それまでの「神の義」の理解の正反対だったのです。ルターはこの「神の義」の発見によって、神は裁く方ではなく、救う方であると確信させられました。その「神の義」がイエス・キリストの十字架上の死と復活によって明らかにされたのです。だから、その神の救いの贖いの出来事を受け止めて、イエス・キリストを救い主だと信じて生きる者に、「神の義」が与えられて、人は救われるのです。だから今や、イエス・キリストを信じることによってのみ人は救われるのです。今や、この救いの時代となったと強調して語っているのです。
 今もそうなのです。だから、人は行いによって救われるのではなく、イエス・キリストを信じることによってのみ救われるのです。このことをしっかりと受け止めなければなりません。パウロが言う信仰による恵みは、まさに「神の義」なのです。私たちは、キリストを信じることによってのみ救われています。この救いの恵みを私たちは、先に知らされているのです。そうであるなら、まだ神の恵みである「神の義」を知らない人たちに信仰による恵みを知らせていく務めが与えられています。このことを覚え、わたしたちの隣人に、すべての救い主であるイエス・キリストを伝えていきましょう。
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by higacoch | 2015-11-07 18:07 | ローマ

2015年8月23日

「新しい生き方」   出エジプト34:4-9、ローマ7:1-6
                             
 私は8月上旬に休暇を頂き、友人から頼まれた日本盲人キリスト教伝道協議会の総会の手伝いに出かけました。二日間、視覚障害のある信仰者の方々と交わりができ、神様の恵みを頂きました。お手伝いをすることになった私は、目の見えない方々に一つの質問をしようと考えていました。前から目が不自由な方々が、一番好きな聖書箇所はヨハネ福音書9章の箇所だと聞かされていました。聖書に出てくる盲人はイエス様によって癒されて目が見えるようになりますが、総会に出てこられる方々は、イエス様に出会っても見えるようになった方はおられません。それぞれの方が、どのようにイエス様からの救いの恵みを受け止めておられるのかを聞きたかったのです。けれども、目の見えない方々の喜びに満ちた声や笑い、交わす言葉を聞きながら、何とも言えない雰囲気を感じました。みなさんイエス様の福音に生かされていると深く感じましたので、あえて聞きませんでした。ここにおられる方々は、新しく生かされている人たちだと感じました。私は目が見えますので、見えるものに何かを求めようとしますが、ここにいる人たちは、目に見えるものではなく、見えないものを見ておられる、心の目で見ておられると感じました。
 さて、今朝与えられましたローマの信徒への手紙で、パウロが「キリストの体に結ばれて」と言っていることにまず注目すべきだと思います。パウロは、ローマの教会の信徒たちに向かって「あなたがたもキリストの体に結ばれて、律法に対して、死んだ者となっている。」と言っています。つまり「復活させられたイエス・キリストのもの」とされているというのです。パウロは、自分自身も、ローマの信徒も「私たちはキリストのものとなっている」と言いきっています。それは、神に対して「実を結ぶようになるためだ」と言っています。つまり、キリストのものにされているということは、神様に対して実を結ぶようになるためだと言いたいのです。人に対して、実を結ぶようにされていません。「人」と言うのは、「自分」と言い換えてもいいでしょう。自分に対して、自分のために、ではなく、神様のために生きるためだということです。
 パウロは次のようにも指摘しています。「以前は、あなたがたは、肉に従って生きていました。それは、キリストを知らない生き方」でした。その時には律法によって生きていたということ、律法主義的な生き方をしていたということです。律法とは、モーセの十の戒めから始まり、それぞれの戒めが多くの戒めを生み出してきていて、神の戒めとして人々を拘束していました。そうした中で律法主義の生き方が生まれてきたのです。律法さえ守っていたら、神様の祝福を受けることができる、そして律法を守れない者は、裁かれて黄泉に下ると教えました。律法が救いか、滅びかの判断基準になっていったのです。そしてそれが高じて、律法学者たちが神のように裁きを申し渡すようになっていきました。こうして、律法は、裁きの律法となり、人を支配するようになったのです。神様が与えられた律法それ自体は、悪ではありませんでしたが、律法主義となっていった時、神の御旨から遠く離れていきました。人にとっては、律法があった方が、ある面では生きやすく、解りやすいのです。なぜなら、それさえ守っていれば、神の祝福にあずかれると考えるのですから、余計なことを考えなくていいのです。わたしたちもこうした基準、規則、戒めがあった方が楽に感じます。それさえクリアしていれば安心だからです。
 パウロは「以前は、キリストの救いの恵みを知らなかった。キリストの赦しの愛を知らなかった、しかし、今は、神の恵みによってキリストの愛を知らされた。そのような者は、律法によって生きるようにされていない。律法に対しては、死んだものとされている。だから、律法によって生きていく生き方ではなく、キリストによって生きる生き方をするように」と語っています。さらに「律法は書かれたもの、石の上に刻まれた文字、それは古い生き方だ」と。今や、キリストによる救いが成就され、キリストが復活し、生きておられます。だから、今も働いておられるキリストの霊に従う生き方、それが新しい生き方であり、そこにこそ、神に対して実を結ぶ歩みがあるというのです。つまり、過去に生きるのではなく、キリストによって、今を生きていく歩みこそ、新しい生き方であると教え、勧めています。
 皆さん、わたしたちもキリストに愛され、キリストによって罪を赦されているのですから、過去に生きるのではなく、明日に向かって生きていくのです。今も、生きて働かれているキリストによって生かされて、小さくても実を結ぶ歩みをしていきましょう。
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by higacoch | 2015-08-29 14:17 | ローマ

2015年6月7日

 「キリストの言葉を聞くこと」 申命記6:17-25、ローマ10:5-17
                             
 今朝与えられたローマの信徒への手紙の箇所は、有名です。何故かと言いますと、洗礼の時、ここ9節が取り上げられるからです。「口でイエスを主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」と牧師が語ります。それを聞いた洗礼志願者が、はっきりと自分の口で、「イエス様を信じます」と誓約するのです。あるいは、牧師が問い掛けます。「あなたは、イエスをわたしの救い主と信じますか。」それに応えて「はい」と誓います。このように口で信仰を言い表すのです。心で信じているだけでは十分ではないのです。心で信じ、口で公に告白することが、洗礼を受ける者にはなくてならないことなのです。
 今朝の箇所で、「何が言われているのか、よく解りません。」とよく質問されるのは、6、7節です。「心の中で『だれが天にのぼるのか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き下ろすことにほかならない。また『だれが底なしの淵にくだるのか』と言ってはならない。」これはキリストを死者の中から引き上げることになります。」との所です。
 最初に読みますと、多くの人が6節を「この人、あの人はどうかな、誰が天国に救われるのか」と心の中で思い巡らしたり、また7節を「誰が、神様の罰をうけて、地獄に堕ちるだろうか」と受け止めがちです。しかしここは、このような個人的な、誰が天国に迎え入れられるとか、誰が地獄に落とされるということではありません。そうではなく、イスラエルの民族の救いが関心事なのです。今朝の箇所の少し前のページには小見出しで「イスラエルの選び」とあります。だから、ここでは「イスラエル民族の救いを成し遂げるために、誰が天にのぼるのか」とか「誰が、陰府に下って、救いを成し遂げてくれるのか」と言ってはならないと言うのです。「こうしたことを問うことは、キリストを知らないからだ。知らないから、そんなことを言うのだ。」とパウロは言いたいのです。だから、あなたがたが救われるのは、キリストを知ることによってなのだと。キリストはユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、民族による区別はなく、キリストを求めているすべての人に豊かに恵みを与えて下さる方だと説教しているのです。
 ですが、キリストを知らない人たちが、呼び求めるためには、まずキリストを知らなければなりません。そのためには、誰かが知らせなければなりません。知らせるためには、知らせる人が出かけなければなりません。出かけて行って、キリストを知らせなければならないのです。福音を知らせる人は、キリストを知らせるのです。このことは、その相手の方の救い主を知らせることになるのであって、神の裁きを知らせるのではありません。その人のために救いを為してくださった方を知らせるのです。だから、「良い知らせを伝える人は、なんと美しいことか」と言われています。
 福音を伝えた時に、福音を聞く人、聞き流す人、聞こうとしない人、バカな話だと立ち去る人、それぞれでしょう。しかし、キリストの福音を聞く人は、キリストを知ることになります。知ることによって、キリストを呼び求めるようになるのです。その人が救われるために、まず何よりも大事なことは、キリストの言葉を聞くことなのです。聞くことによって、信じることが始まるからです。
 よくよく考えてみますと、私たちは神様から問われていることになるでしょう。それは、私たちはキリストの言葉を聞き、信じることができるようにされた者です。信仰者として、主の恵みをすでに頂き、救いの恵みによって生かされています。ですから、私たちは福音を聞いたことがない人に福音を宣べ伝える者とされているということです。
 イエス様が、わたしたちの罪のために、自らの全財産ではなく、自らの身を捧げて、愛してくださったことを知らない人は、救いを知らないままになります。キリストの言葉を聞き、イエス・キリストを信じ救われた者として、私たちは伝える者とされていることをしっかりと覚えたい。そして遣わされて、キリストの言葉を伝えていこうではありませんか。友人、知人、家族の救いのために、遣わされていることを覚えて、主イエス・キリストに仕えて歩んでいきましょう。まだキリストの福音を知らない人にキリストの言葉を聞いてもらうために。
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by higacoch | 2015-06-13 16:29 | ローマ