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2016年7月24日

「行いの伴う信仰」ヤコブ2:14-26
                   唐澤 健太 牧師 (国立のぞみ教会)

 「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(17節)。私たちの信仰は生きている信仰でしょうか。それとも「役に立たない」、「死んだ」信仰でしょうか。
 ヤコブにとって「行いの伴う信仰」は、重要なテーマでした。ヤコブの教会には「神は唯一だ」と信仰を告白し、神を礼拝しながら、「事欠いている」兄弟姉妹たちの必要に具体的には応えず、口先だけの信仰が横行していました。(15-16節)。その状況においてヤコブは「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」(18節)と言うのです。
 信仰生活において、聖書を読み、祈り、礼拝を大切にすることは基本であり、重要なことです。しかし、その「信仰」が、一人一人の生活にどのようにあらわされているのかが問題です。信仰が信仰者の生き方とどのように関わっているのかが問われるのです。信仰は子どもが算数の問題を解くように、答えを出すこと求められるのではなく、「御言葉を行う」(1:22)こと、御言葉に「応える」ことが求められるのです。
 イエス様の語られた「よきサマリア人のたとえ」(ルカ10:25以下)で、主イエスは質問をしてきた律法の専門家に対して、「正しい答えだ、それを実行しなさい」と言われました。神を愛すること、隣人を愛することを「実行する」ことを、主イエスは譬え話を通してお語りになりました。
 「右手に聖書、左手に新聞」と20世紀最大の神学者と評されたカール・バルトは言いました。神の言葉は、この世の出来事と無関係に語られるのではないという意味でしょう。私たちは聖書を読み、新聞を読む。新聞を読み、聖書を読む。私たちは神の言葉に聴き、「いま、ここで」何が起こっているのかを新聞通して知ります。私たちの歴史の中で起こっているただ中で、神の言葉に耳を傾ける。それが「右手に聖書、左手に新聞」の心でしょう。クリスチャンが、今おこっていることに無関心で、聖書だけでは困ります。聖書も読まないで新聞だけ読むクリスチャンも信用なりません。どっちがかけても、不健康な信仰だといえるでしょう。
 「神は唯一」と告白することは、申命記6:4に記される「聞け、イスラエル。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」を意味します。そして、「主を愛する」ことは、具体的には、隣人を愛するということに結実するのです。「神を愛し、隣人を愛する」ことを私たちの信仰としてどう表していくのかが、いま教会の信仰として問われていることです。
 先週、沖縄の高江でヘリパットの建設工事が強行されました。4月の合同退修会にお招きした金井牧師を始め、教会関係者も含めて座り込みで抵抗している人々がいました。100人の市民に対して数百人の機動隊が本土から送り込まれ、人びとを暴力的に排除しました。「弱い者いじめ」以外の何物でもないことがいま私たちの国で平気で行われています。よきサマリア人のたとえで追い剥ぎに襲われ、傷つき倒れている姿がここにあるように思います。
 沖縄の平良修先生に「東京の牧師として覚えておいてほしい。沖縄を見ずして、教会の宣教を考えたら見誤りますよ」とかつて言われた言葉が魚の小骨が喉にささっているように私の心にある。兄弟が困窮している時に、「『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」(16節)という御言葉が私の心に迫るのです。
 「私たちが何もしないでいて神にすべてのことをして欲しいと望むのは、信仰ではなく迷信である、ということを知らなければならない。」(M.L.キング牧師)私たちが何もしないでいて、着るものが与えられ、温かい食べ物が空から降ってくるのではありません。そこで、具体的に着るものを用意し、温かい食べ物を用意する手が必要なのです。平和を祈ることも、すべてを神がやってくれるってことではありません。神様にすべてのことをやってほしいと望むのは、信仰ではなく迷信なのです。
 もちろん、行いが私たちの救いの条件ではありません。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3:28)。しかし、信仰による義というのは、「信仰において行いはいらない」って教えではありません。パウロは、みずからをうち叩いても自らを服従させようとしています。肉に従うのではなく、霊に従って生きることを求めた人です。
 「私たちがイエスのアイデンティティを私たち自身のものとして受け入れ『私たちは現代の生けるキリスト』ということ、これが霊的な生活の大きな課題です」(ヘンリー・ナウエン)。主イエスの生き方を私たちの生き方としていくことです。言葉をかえれば、「キリストの心をこころとして生きる」ということです。私たちはなお愛の欠ける者です。従い切ることのできない欠けたる者たちです。しかし、「赦された罪人」として大胆に私たちの手や足を主にささげ、用いていただきたい。いま、平和を作り出す、愛の業を行う「手」、「足」を主が必要とされているのですから!
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by higacoch | 2016-07-30 16:35 | ヤコブ

2016年3月13日

「命の冠を頂く」    詩編91:1-16、ヤコブへの手紙1:12-18

 今年の1月31日に、あさひ伝道所が伝道教会になるというお祝いの式が行われました。この伝道教会は週日、フレンドシップあさひとしてデイサービスを行い、もう一つのスポーツデイサービスを行っています。そして主日には礼拝を捧げています。こうした活動をしながら、年に2回のニュースレターを発行しています。
 そのニュースレターに実に感動する証しが載っています。最新号には、日本中会の事業からNPO法人への移行作業をしていて大変な苦労があるとのこと、その苦労を鈴木先生は、この苦労を「世俗の効率主義ではなく、信仰という視点から受け止める力が与えられ、これも神様の何らかの御計画のうちにある、この道こそが神の私たちに備えられた最善の道。主の山に備えあり。人事においても不思議に新しい出会いが与えられる」と捉えているというのです。このように先生は、神様にあっての思考や出会いを感謝して受け止め、明日に向かい希望を抱いて活動されています。私は、鈴木先生は今朝与えられたヤコブの手紙でヤコブが勧めたように、生きておられるなあと思いました。ここには神様による思考があり、出会いがあり、明日に向かって希望の道を開いていると思えるからです。12節に「試練を耐え忍ぶ人は、幸いです。」とありますが、その人は神様を愛している人、その人に約束の「命の冠」が与えられると書いています。命の冠を頂く人は、いつも成功してトップを走り、邁進した人ではありません。それとはまったく反対に、人生の途上で、立ち留まらされ、試練に苦しみ、耐えて乗り越えた人だと言っているのです。宗教改革者のカルヴァンは「ここには世の考えや人間的な感覚とは正反対のことが書かれている。すなわち、何でも意のままに手に入れられる人が幸せであると考えられるが、そうではなく、不幸や艱難に屈服しない人が幸いだと言い、神が私たちを鍛えてくださる戦いは、わたしたちの至福の助けとなる」と言っています。ここは神様が自分を愛しておられると受け止めるか否かによって、「命の冠」を頂けるか否かに分かれる境目だと私は思っています。なぜなら、ここで「試練」と訳されている言葉は全く反対の「誘惑」とも訳せるからです。自分は神に愛されていないと思う人は、ここを「誘惑」と考えがちで、他方、愛されていると考える人は「試練」と受け止めるでしょう。ヤコブははっきり、「誘惑に遭う時、誰も、神に誘惑されていると言ってはならない」と言っています。ここには「誰も」とありますから、誰一人、神があなたを誘惑しておられると言えないのです。教師であれ、牧師であれ、言ってはならないのです。神様は人を誘惑したりされないとヤコブは断言しています。むしろ、人がそれぞれ自分自身の欲望にひかれて、そそのかされて誘惑に陥るのです。神の責任ではなく、自己責任なのです。欲望がはらんで罪を生み出し、罪が熟して死を生み出します。この死は魂の死であり、望みのない状態です。
 神様は、あなた方が不幸になるように誘惑に会わせられません。ただ、これを安直に言うことはできません。自分の経験や知識から言うことはできません。全知全能の神の言葉だから言えるのです。5年前に起った東日本大震災、そして原発事故によって、多くの人がなくなり、家族、家、仕事を失い、今も苦しみと悲しみを抱えて、立ち上がれない人たちがいます。これも試練だと安易に言えません。しかし、これらのことが単に無駄なことだったとも言えません。多くの犠牲者の死や苦しみ、悲しみは、死が、決して無駄であるわけはありません。今なお、多くの人が苦しみを抱えながら生きておられますが、そうした人をも神は愛しておられ、慰めを与え、立ち上がるように力を与えておられると信じています。
 ヤコブは「御父は、御心のままに、真理の言葉によって私たちを生んでくださいました。」(18節)と言っていますように、神様は、どんな人をも御心によって、愛して生んでくださったのです。その神様は、わたしたちに試練を与えて、訓練し、成長へと導いてくださっておられます。伝道者パウロは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを知っています。」(ローマ 5:3,4)と言っています。またこうも言っています。「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備ええいてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
 神様は、あなたを愛して、試練を与えられています。私たちが神様を見上げて、その試練に打ち勝ち、乗り越えて生きていった時に、約束の「命の冠」が与えられます。わたしたちは神様から誘惑されているのではありません。そうではなく、試練を与えられているのです。ですから、しっかりと試練を耐え忍んで、信仰をもって生きていきましょう。
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by higacoch | 2016-03-19 14:29 | ヤコブ

2014年10月12日

 「 人を分け隔てするな 」     詩編 73:27-28、ヤコブ 2:1-9  
                                
 人間社会では人が人を分け隔てして、いろいろな問題が生じています。学校、職場、諸々の団体ではいじめがあり、それがエスカレートして言葉や暴力による虐待が生じています。さらに出生や民族の違いなどで差別が顕在化していくと、大きな社会問題を起こしたりします。最近の民族的差別のヘイトスピーチもそうです。私は9月13日に早稲田奉仕園にあるスコットホールに出かけてきました。そこで「90年前、ここスコットホールで何があったか」をテーマに集会があり、「東京で起きた朝鮮人虐殺事件―目撃証言を中心に」と題して西崎雅夫氏が講演して下さいました。内容は今から91年前に関東大震災が起こり、多くの朝鮮人、中国人が虐殺されました。その1年後の9月13日に虐殺された人たちの追悼集会がスコットホールで行われるはずでした。しかし、その日警察隊100人が会場に押し寄せ、中止命令を出して集会を強制解散させました。関東大震災時の虐殺事件を覆い隠すためでした。関東大震災の当日、崩壊した家々に「朝鮮人が火をつけた」、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」と等のうわさが広がり、多くの朝鮮人、中国人が殺されたという歴史的事実がありました。それを隠し続けるために強制解散させたのです。日本の役所などには虐殺に関する文書等の資料は一切残されていません。このように民族的差別がエスカレートすると悲劇的な事件が起きてしまいます。
 こうした差別は障がいを持った人たちにも及んでいます。知的障がい者、身体障がい者、精神障がい者の上にも。私の友人に視覚障がい者の牧師がいますが、現在日本盲人キリスト教伝道協議会の議長をしていますが、その彼が協議会の機関誌「信仰」に次のような記事を書いていました。「従来の考え方の特徴は、『障害』は障がい者が負っている問題なので、障がい者個人の責任で問題に対応し、リハビリなどの努力で障がいを克服することが期待されている。この背後には、正常とか普通といった分類による『障害』の考え方があります。」とありました。こうしたことを考えてみますと、人間は人と自分とを区別し、分け隔てを生み出す心をもっているのです。こうした考え方の奥にあるものは、相手よりも自分が上だと思いたい心であり、無意識のうちに上から目線で人を見下しがちです。人は根深い差別心を持っています。こうしたことは私たち自身も気を付けなければなりません。
 ヤコブは言っています。「聖書に従って、隣人を自分のように愛しなさいというもっとも尊い律法を実行しているなら、それは結構だが、しかし、人を分け隔ててしているなら、あなたがたは罪を犯すことになるし、律法に置いて違反者と断定されます」と。隣人を自分のように愛するにしても、その隣人を、ある限定した人と考えるなら、それは律法が示している教えではないと言いたいのです。具体的に言うのなら、お金持ちだけを隣人とみなし、貧しい者たちを隣人の枠内に入れずに排除しているなら、どんなに隣人を自分のように愛していると言っても、それでは律法には違反していると言いたいのです。このように、自分の都合のいいように、選んで、律法を解釈しているなら、それは神の御旨ではありません。「人を分け隔てして人を見るなら、あなたは神から裁かれるのだから気をつけなさい」と勧告しています。ある人には、憐れみをかけ、別の人には、憐れみをかけないような分け隔てをして生きるような人は、裁かれます。そのような生き方はではなく、キリストがすべての人を愛し、憐れみをかけて下さったように、あなたがたも人に憐れみをかけなさい。そうしたところに、キリスト者の生き方があるとヤコブは言いたいのです。人を分け隔てて生きる人は、教会内にもいます。そうした人に、あなたはイエス・キリストを信じて救われたのですから、イエス・キリストを思い起こして欲しいというのです。ただ単なる道徳的に、倫理的に勧めているのではありません。
 人間社会には、人が人を分け隔てして、いろいろな問題が生じています。「イエス・キリストを信じているあなたがたは、そうした分け隔てをしてはいけない。」主イエス様は、すべての人を受け入れて、すべての人を愛して、すべての人の罪を赦そうと、命をかけて死んで下さったではありませんか。イエス様は、金持ちの人たちだけとか、健常者のためだけに、死なれたのではありません。すべての人のために、死なれました。ヤコブは、さらに「神は、世の貧しい人たちを、あえて、選ばれたのだ」とさえ言いきっています。わたしたちは、信仰者として、主の愛を、主の救いを知る者として、人間の考えだけで、人を見るのではなく、イエス・キリストを通して、見るべきだということです。それは、あなたも主イエス様に愛された一人であるように、目の前の人も主に愛された人だと見るべきなのです。キリストを見上げ、キリストに愛された自分として、キリストを通して相手をも見ていく歩みをしていきましょう。それは教会内だけではなく、遣わされた所で出会う隣人に対してもです。
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by higacoch | 2014-10-17 09:39 | ヤコブ

2014年8月31日

 「御言葉を行う人」     詩編119:37-80、 ヤコブの手紙1:19-27
                              
 私は、今朝の説教題にしましたが、「御言葉を行う人」、皆さんにそのようになって欲しいのです。22節に「 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」とあります。
 ここで22節をじっくりと読みますと、前提として、神様が御言葉を通して、今も働いて下さっているということです。そして「神様の働きかけを無視して、自分を欺いて聞くだけで終わる者になってはいけません。」神様は私たちに語りかけておられます。そうした神様の語りかけ、働きかけなど自分にはないと言って、あるものをないとしてしまうことが欺いていることです。
 御言葉を聞くだけで終わる人は、「鏡に自分の顔を写して眺めている人に似ている。そしてその鏡の前から立ち去ると、その顔がどのようなものであったのか、すぐにわすれてしまいます。」とあります。ここの鏡を御言葉と読んでみると解ってきます。御言葉を聞くだけの人は、御言葉に自分の顔を写して眺めても、その御言葉から離れると、自分の顔がどのようなものであったのか忘れてしまうのです。さらにいうなら、御言葉に触れ、御言葉を読んだり聞いたりしていると、自分の姿が、自分のことがわかってきます。自分の性格、特徴、さらに自分の内にある、弱さ、もろさ、悪、罪が解ってくる。しかし、そのまま眺めているだけでは、いつしか慣れ切り、飽きてしまいます。そして御言葉から離れていき、御言葉によって示された真理が薄らいでいき、いつしか忘れてしまうのです。いつしか御言葉も忘れてしまい、元の黙阿弥となってしまいます。こうなると不幸です。それに対して、御言葉に示された真理に動かされて、小さくくても行動をする人は幸いです。なぜなら、御言葉に示された真理に動かされることは、聖書の御言葉を聞き、そして行動へて導かれます。信仰というのは、まず聞くことから始まります。
 しかし、わたしたちは聞いているようで聞いていない面があります。聞くよりも、話すことが多いし、話すことが先になりがちです。よくよく考えてみると、なかなか聖書の御言葉に聞こうとしていません。それはわたしたちが日頃、生活していることからもわかるのではないでしょうか。誰かと話をする時「聞いて、聞いて」と連発し、相手の言うことを聞くよりは、相手に聞かせることが多いのです。
 しかし、聞きっぱなしでは成長しません。聞き、そして御言葉によって生きること、行動すること、そこに成長の第一歩があります。神様は、聞いてそこに留まることを求めておられません。失敗しても御言葉のベクトルに従って生きることが大切なのです。失敗したなら、また悔い改めて、戻って行けばいいのです。失敗はしないとは、わたしたちには断言できません。むしろ、失敗するのが、わたしたちです。わたしたちの中には完全な人はいません。失敗しながら、成長していきます。それは神様がわたしたち一人一人をご存知であり、愛して下さって、御言葉を与え、御言葉に生きていくように、導いておられるからです。そこに成長があり、幸いがあります。
 信仰者であったヤコブは言います。「神様の言葉を聞いて実践する人になりなさい」と。信仰によって、御言葉を信じて生きようとする人には、試練があります。ヤコブはこの前の所で試練について語っています。1章12節では「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」と言っています。普通、試練というのは、つらいこと、苦しいこと、いやなことです。どうして、試練にあって耐え忍ぶことが幸せなのでしょうか。試練にあってどうしてこんな目に遭わないといけないのかと不満をいう人がいます。そして神様をもう信じないと言って神様から離れるたりします。神様への疑いを持って、信仰から離れていくのです。こうしたことから考えると、試練とは一歩間違えるとつまずきの石です。しかし、この試練と言う言葉の原語は、「試練」と同時に「誘惑」の意味も兼ね備えています。試練が誘惑ともなります。ですがヤコブは言っています。「神様は人を誘惑したりなさらない、むしろ、人はそれぞれ、自分の欲望にひかれ、そそのかされて誘惑に陥るのです。」(14節)と。神様は、わたしたちを愛しておられ、成長を願っておられます。ですから、試練があるのです。試練は御言葉を聞いて、生きようとする時に会います。そうでない時には会いません。その時、神様はあなたを見捨てようとされているのではなく、あなたを成長させ、幸いを与えようとされています。このことを覚えていて頂きたい。だからこそ、御言葉を行う人となって欲しいのです。小さな歩みであっても、一歩一歩、御言葉に生きていって欲しいのです。そこに神様から与えられる幸いが、あるからです。
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by higacoch | 2014-08-31 17:40 | ヤコブ

2012年11月11日

 「行いを生み出す信仰」 
             詩編105:1-15、ヤコブの手紙 2:14-26

                               
 当時の教会の中に自分は信仰を持っていると言いながら、身近な隣人を助けようとしない人たちがいたのでしょう。そうした人たちにヤコブは警告をしています。信仰によって生み出されるものによって生きようとしない者に、「あなたがたの信仰は今は生きていない、死んだも同然だ」と言っています。
 さて、信仰と言えば、皆さんかたの中には、宗教改革者マルチン・ルターを思い起こされる方がおられるでしょう。ルターは言いました。「信仰のみ。」「信仰によって義とされる。」「信仰によって正しいとされる」と。ルターは「人が救われるのは、信じることによってなのだ」と強調しましたが、それは当時のカトリック教会に対抗して語った言葉でした。カトリック教会は、「人は、善い行いをすることによって徳を積み、その徳が積まれることによって、上へ上へと上がっていき、そして人が神様に喜ばれるような所に達して、救われる」と教えました。善い行いが救いには必要なんだとカトリック教会は言っていたのに対して、ルターは、「救われるには、善い行いを積むことによってではなく、イエス・キリストを信じることで救われる」と強調しました。しかしだからと言って、信仰のみで、善い行いは無くていいと言ったのではありません。ルターが信じていたことは、アウグスブルク信仰告白の中に表わされています。その第20条には、信仰と善い行いとの関係についての条文があります。その中に「私たちの救い主イエス様を信じる時、その信仰によってのみ善い行いは生じるのです」とあります。もう少し説明しますと、善い行いは、救いの条件ではない。善い行いをすることによって救われていくのではなく、救われたことによって、その喜び、感謝によって生み出されるのだと言っています。救われた喜びの結果として生まれてくる行いこそが、善い行いなのだと言ったのです。救われるための行いではありません。~のための行いではなく、~の結果、~によって生み出されるものです。
 さて、ヤコブはアブラハムの信仰によっての行いを語り、また異邦人の女性のラハブの信仰から生み出された行いを語っています。こうした行いを思い巡らしていましたら、一冊の本を私は思い出しました。それは『それでもなお、人を愛しなさい』という本です。この本は、マザー・テレサにも影響を与え、感動させた本です。この本の副題には「人生の意味を見つけるための逆説の10カ条」とあります。この10カ条のうち、8つをマザー・テレサは取り上げて語りました。パソコンのネットで「マザー・テレサの名言」として検索すれば、そのトップに出てきます。その題は「それでも」というものです。この本の著者ケント・キース氏はアメリカのYMCA(キリスト教青年会)のリーダーの働きをしました。ケント氏の心にはキリストの救いの確信があり、キリストによって生かされている信仰が土台にあると私は思います。そして、信仰から生み出される歩み、つまり信仰から生み出される行いを勧めているのです。これは信仰の生き死に関連したことです。もし隣人に善いことをして、その隣人がよい反応を示さなかったからといって、そこでやめるのなら、その人の心は隣人からの善い反応を期待していたことになります。それはイエス様が私たちを愛されたことによる感謝と喜びの信仰から生み出されたものではないことになります。同様な事柄は教会にも時々あります。イエス様のため、教会のためにと言っていながら、周りを見て、他の教会員があまりしていないように感じられる、そうなると奉仕をやめたくなる、その奉仕はどうなのでしょうか。信仰から生み出されているものなのか、別のものから生み出されているものなのか、問うてみるのは大事なことではないでしょうか。今朝の箇所で言われているように自分は信仰を持っているという者が行いを伴わなかったり、あるいは別の思いからの行いであったりするなら、神様から問われていくのではないでしょうか。
 エルサレムの教会を守りながら、かつ教会内に起こる不信仰の思い、また今朝の箇所の後にも書いてありますが、人間的な誇りや高ぶりを持つ者に、「そのような高ぶりは悪いことだ」とヤコブは断言しています。ヤコブは、あくまで信仰から生み出されるものによっての行いを勧めています。そうでないと、人間的な思いが先になり、教会内の問題となっていくでしょう。私たちも礼拝後に大切な教会員総会を行い、来年度の活動計画を審議し、検討しますが、信仰から生まれるものによって教会の働きを内外に示すものでありたいものです。新しい年も主のみ心を求めて信仰によって生み出されるものによって歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2012-11-12 22:14 | ヤコブ

2012年7月8日

「信仰と生活」   ヤコブ1:1-8          生島 陸伸 牧師
 
 東小金井教会の皆さんと一緒に礼拝出来ることを嬉しく思います。
 今日は、使徒パウロの手紙とは少し違う手紙から豊かな恵みを頂きたいと準備して来ました。ヤコブの手紙1章1~8節です。
 この手紙から数えて7つの手紙を聖書学者は「公同の手紙」と呼びます。新約聖書の手紙は21ありますが、そのうち13は使徒パウロの手紙です。ヘブライ人への手紙も以前はパウロの手紙と見られていましたので、その次から7つの手紙のことを「公同の手紙」と言われます。
 パウロの手紙にはあて先が教会、または個人の名前がはっきり書かれています。ローマとかコリントとか、テモテとか。「公同の手紙」は、信徒全体に宛てた手紙と見られることから「公同の手紙」と言われます。
 歴史的にはこの手紙を新約聖書に入れるかどうかと議論の多かった手紙です。
理由は2つ、1)イエス様の出来事の内容がほとんど記されていない。
2)「信仰によって救われる」というキリスト教本来の信仰と違う「行いによって義とされる」という内容が書かれている。
「2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」。と書いています。(ローマ4:8 B「「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。」とある。)
 これらの事で、この手紙を聖書の中に入れることにかなりの異論があった、ということです。その疑問も分かります。今日の個所を学んで見ましょう。
 この手紙の著者は1節で「ヤコブ」と書いています。ヤコブと言う名前は新約聖書にいくつか出てくるので推測がなされているのですが、使徒のヤコブは初めの頃に殉教の死を遂げています(使徒12:1)。それで、この著者はイエス様の弟のヤコブが書いたものだと伝えられています。
 イエス様の在世中、お母さんと兄弟達は、イエス様の活動が理解出来なかったと思われます。(マルコ3:31~35)多分身内の者でしたら、やはり、その当時の町や、国の指導者、祭司、律法学者たちがイエス様の活動を非難していたのですから、心配して連れ帰そうとしたのは仕方のない事だったと思います。
 しかし、使徒言行録のはじめを見ますと、イエス様の昇天後、弟子達はイエス様が勧められた言葉に従ってエルサレムで10日間、熱心に祈りました。その中に、お母さんと兄弟たちも参加していたと記されています。
使徒言行録の「1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」、また使徒言行録12:17。15:13。21:18--。などで、ヤコブがエルサレムの教会の中心にいたことが分かります。
 ヤコブは律法を忠実に守っていたので、「義人ヤコブ」と言われた程でしたから、ヤコブを見て、ユダヤ人たちが大勢キリスト教に入ったという記録があるようです。パウロが異邦人伝道に大きな働きをしたように、ヤコブもユダヤ人伝道に欠かせない働きをしていたと思われます。
 今日の御言葉の学びに入りましょう。
 「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」
使徒パウロの場合は、「キリスト・イエスの僕」と自己紹介で書いています。(ローマ1:1。フィリピ1:1など。)
 ヤコブの場合は、「神と主イエス・キリストの僕」と書き出しています。
創世記から黙示録までを正典として認めている教会に取りまして、「神とイエス・キリストの僕」と言いましても、「キリスト・イエスの僕」と言いましても、同じことなのですが、ヤコブはエルサレム教会の働き人として、表現の違いが出ていると思われます。多分ユダヤ教からキリスト教に入る人たちには、このような表現をするヤコブの存在は大きかったと思います。
 「僕」は奴隷と言う言葉です。この言葉は、二つの意味があります。
1)主人に完全に服従する。と言う意味で使われている。それは、初代教会で作られた考え方ではありません。イエス様がご自身と天の父の関係を語られた中にその源を見る事が出来ます。まずヨハネ5:19―「イエスは彼らに言われた「はっきり言っておく、子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事も出来ない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されたからである」。もう一つ7:16「イエスはお答えになった「わたしの教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである」と語られています。イエス様は父なる神様に従われていたと分かります。
 それが生活と密着していた。一番分かりやすい出来事がゲッセマネの祈りです。マルコ14:36―「アッパ父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願う事でなく、御心に適うことが行われますように。」と3度祈られたと記されています。 完全に父に従う姿を見る事が出来ます。
2)もう一つは、旧約時代から神に召された預言者や族長たちを意味する言葉です。創世記26:24-「その夜、主が現われて言われた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。わが僕アブラハムのゆえに」ここでも、『わが僕アブラハムのゆえに』となっています。
 列王記上8:56にソロモンの祝福の祈りの中でこのように出てきます。
-「約束なさったとおりに、その民イスラエルに安住の地を与えて下さった主はたたえられますように。その僕モーセによって告げられた主の恵みの言葉は、一つとして空しいものではなかった」と。「その僕モーセによって」と書かれています。
 「神の僕」とは、神様に忠実な僕です。神の選ばれた偉大な指導者を意味しています。
 ヤコブも「神と主イエス・キリストの僕」と自己紹介しています。奴隷のように神とイエス様に従うと言う事です。
 手紙の宛先は、「離散している12部族の人たちに挨拶いたします」。
この個所が、この手紙全体の特色を示す大切なところだと思います。「離散している12部族の人たち」これは、世界に散っている神の民たちへと言う意味です。
 大抵の民族は国が滅びて、働ける人たちが捕らわれて連れて行かれますとその民族は消えるのですが、ユダヤ民族はバビロンに滅ぼされても消えなかった。12部族という言葉は、父祖ヤコブから生まれた子供たち12人が、始祖になって12部族が出来上がったのです。飢饉のために、この家族は息子のヨセフを頼って、エジプトに避難して一人一人の家族が大きくなって12部族となった。そして、モーセによって連れ出されて、アブラハムに約束された地に帰ってきた。その途中で、神と特別の関係を結んだ祝福された民族、それが12部族。
 この王国は、神様に背きまして国が滅びますが、50年後に帰国が許された。その時、ユダヤに帰らずに世界に散っていった人たちがいた。その人たちを「離散している人たち」と呼んだのです。しかし、彼らは律法に忠実であるために、奴隷として使うには不便で多くは自由が与えられたと言われます。それらの人たちは、町々で栄え、シナゴク(会堂)を建てて、聖書を教え、信仰を保っていたと言われています。
 彼らはアブラハムの神を捨てませんでした。この人たちはキリストの福音を聴くのに、大変良い条件を備えていた。集会の場所があり、旧約信仰の土台が出来ており、その当時は、ローマがヨーロッパ全土を支配していたので旅券なしで自由に世界中を行き来する事が出来た。
 このように12部族と言いますと、アブラハムからの民族、イスラエルを意味していましたが、彼らは預言者たちが預言した神の独り子、救い主が来られた時、自分たちが負いきれなかったモーセ律法を言い訳に使って、救いへの招きを拒絶しました。
 使徒たちと信徒たちによって、ユダヤ人もそれ以外の民族も救いに導かれました。この救われた人たち、世界中に散っている新しいイスラエルに挨拶する、と書き出しています。
 そして、この手紙を書いた頃には多分初代のクリスチャンの燃えるような熱心な時代が過ぎようとしていた。信仰が言葉だけになって、生活と離れた状態になっていた、と推察されるのです。
 しかも、かってはキリスト教の擁護者であったローマの官憲が次第にキリスト教迫害に転じる様子が見えてきつつある世界情勢も踏まえ、もう一度キリスト信仰が、生活から遊離するのでなく生活の土台となって、どんな出来事に出会っても、本来イエス様の愛の麗しさを生活の土台として、行動が保てるようにと書かれたのが、この手紙ではないかと思うのです。
 長々とその時代の背景を話しましたが、その背景をわきまえて、この手紙を読まないと、パウロの手紙と矛盾するように思えるからです。
 2-4節―「わたしの兄弟たち、いろいろの試練に出会うときは、この上ない喜びとしなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」
 「信仰を持つと、神様が一緒にいることになるので、この世の生活ではお金が儲かり、楽しい生活が出来る。」とヤコブは書いていません。むしろ、いろいろの試練に出会う、信仰が試される時の受け取り方を示しています。
 世の中が悪いから、こうなったのだと嘆くのでは困ります。相手が悪いから私も同じようにするというのでもおかしい。私の個性だから、人を押しのけ目立つ事をするのは仕方がない、嫌なものは嫌、と言うのも主の僕の生き方ではない。それでは主の栄光は輝かないことになります。
使徒パウロも同じように書いています。ローマの手紙5:3で「苦難を誇りとします。わたしたちは知っています。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」と。
 ヤコブは、「試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」と書いている。試練を我慢しているとストレスになります。その解消法は『この上ない喜びと、思う、方法を見出すことです。多分ヤコブも、しばしばそのような苦難に出会ったのでしょう。試練を喜ぶ、使徒パウロは「苦難は忍耐を忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」と書いていますが、成長に欠かせないものです。先取りして、喜ぶことです。
 イエス様の人生は、決して楽しく、気楽なものではありませんでしたが、イエス様の人生は魅力のある最高の人生でした。イエス様がかかった十字架は最悪の死刑の道具です。現在では、多くの女性がぶら下げている。愛の象徴として、魅力があると、悲惨なことを連想するはずのものも愛のしるしになる。驚きです。
 私の場合は、試練に合う度に、私の努力で乗り越えようと頑張って失敗していました。むしろ、試練の多くは乗り越えると言う為にあるのでなく、私を造り変えるために起きている出来事のようです。どん底に落ちて、そこで、主の声に励まされ、造りかえられるのです。試練で何が変わるのでしょうか。求めること、神様に聴くことがはじまるのです。
 ここでヤコブが「信仰が試される」と書いていますが、私が今、試みの中にいることは主のご計画と信じることです。外に目を向けるのでなく、主が働いてくださって私の内に栄光が現れるように忍耐して待つのです。もう一つ大切なことは、試練と関係なく、その中でイエス様のお言葉に沿った動をすることです。この場合、主の奴隷という私を実現するのです。イエス様の愛で言葉を出し、イエス様の愛で人に仕える。それで、主の方を見上げて待つことです。不思議なことが起きます。これは主の栄光です。絶対者が私を通して不思議な事を見せようとしておられるのです。
 牧会塾が金曜日にありまして、男性と、女性に分かれた。私のところで牧師先生たちは、どのように伝道したら良いか。教会が年寄りばかりになったので、若い人に伝道する方法を教えて欲しいというのです。どう思います?。お年寄りが、御言葉で喜びが溢れるようにする事です。年寄りが若者より、もっと若々しく、喜びに溢れて生活している。年取って頑固にならないで、若者よりももっと柔軟な生き方をしている。それは、イエス様のお言葉に聴いて、従って生活すれば出来ることです。奇跡は起きる。
 嫌々ながらではなく、イエス様の十字架の御足跡に従えば感謝でしよう。
4節―「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と書かれています。
 試練の中で、試練を取り除いてください。と祈る。でも、祈っても、試練が取り除かれない、自分の望んだことが解決しない。それはイエス様が望んでいない、ことだからです。喜んで自分の願いを撤回して、主の喜ぶことを求めるのです。その御手本はイエス様がゲッセマネの園で祈った祈りです。
マルコ14:36 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
 イエス様は3度、ご自分の受難のことを語っておられますから、知っている事ですが、十字架にかかられる前日の夜、ゲッセマネの園で祈られました。そして、天の父の御心と分かったイエス様は、十字架の道を自ら進んで歩かれました。
 苦難のとき、私が頑張って苦難を取り除こうとするのです。ここが一寸注意する所です。自分で頑張ろうとすると、ストレスになる。特に教会で聖書を学んでいる人は、良いことをしようと過敏です。普通の人より高度に良くしようとするから、ストレスが強く掛かるのです。
 イエス様のゲッセマネの園でのように、分かっていても、自分の思いも祈ることです。それが安全弁なのです。4節をもう一度見てください。
4節―「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と書かれています。
 どうです、「何一つ欠けた所がないように頑張りなさい」と書いていますか。一言も言ってないでしょう。驚き。
 祈るという事は、「私を変えてください。あなたの喜ぶことが出来る私にしてください」と祈るのです。イエス様はマタイ11:28で「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
出来ないことがよく分かるのです。だから祈るのです。主は必ずそうしてくださると、しているのです。
 オリンピックが始まります。選手たちのトレーニングを見ますと、驚きです。良い記録がでる体になることが目的ですから、苦痛がむしろ喜びでしょう。お相撲さんが、自動車のタイヤを引いて走っている。普通の人が町でタイヤを腰につけて引っ張っていたら『馬鹿か』と言われるでしょう。
 私たちを素晴らしい人格に育てよう。根性の相当曲がった私を造り替えようとしたらこれしかないのです。醜い私を贖って、抱きかかえてくださるお方に『有難うございます』と祈るのです。平穏無事の時は、あまり熱心に祈らない。苦難を通して、天の父は、祈りの心を起させてくださるのです。そして、私を知り、苦難を恵みにする知恵をください、と祈るのです。それが5~8節です。
 「1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。 1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。 1:8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」
 神様の望む知恵をくださいと祈るのです。イエス様は十字架を背負うことを受け取りました。私はイエス様から、自分自身を憎むほどに自己愛から離れて、私の愛のように他者に仕えなさいと勧められている。
 命を捨てて、私を愛してくださったお方が一緒にいて、支えるといわれるのですから、喜んで従いましょう。
 その恵みは大きい。『綾子先生は、今、幸せだね。』と言われて、『幸せよ』と返すことが出来た。それは充実した人生です。感謝です。
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by higacoch | 2012-07-14 17:36 | ヤコブ