カテゴリ:ヨハネ黙示録( 2 )

2016年1月17日

 「使命は何か」   エゼキエル3:1-3、ヨハネ黙示録10:8-11
                            
 今朝の聖書の箇所は、旧約聖書も新約聖書も珍しい箇所です。珍しいというのは説教の箇所として、あまり取り上げられないということです。私の記録帳で調べてみますと、ヨハネ黙示録はここ東小金井教会に赴任して初めてです。私が牧師になってから32年ほど経つのですが、この間に、このヨハネ黙示録の箇所を取り上げて説教したのは、5、6回位だろうと思います。宗教改革者マルチン・ルターもカルヴァンもこの書に関しては注解書を出していません。この書は黙示であって良く解らず、読む人によって、いろいろな解釈が生まれます。この書を独自の解釈をして多くの異端が生まれました。モルモン教、エホバの証人、統一協会などです。
 私は、今朝の説教の題を「使命は何か」としました。使命とは、辞書で調べてみますと、「与えられた任務」とありました。そうですが、私は「使命とは、いのちを使う所だ」と捕えます。この命、誰しもが生きています。そして神様を信じている人は生かされている命と捉えます。その生かされた命を使う所はどこかを学びたいのです。
 今朝与えられました旧約、新約の箇所で、共通している言葉がいくつかあります。「巻物」は3回ずつ、「食べる」は旧約4回、新約3回です。他にも、口が2回ずつ、腹も胃袋を腹と考えると、これも2回ずつです。こうしたことから、巻物を口から食べ、腹の中に入れるということが共通して書かれています。では、この「巻物を食べる」ということはどのような意味なのか、誰から渡されたのかを考えてみます。まず巻物は、旧約では神様が、新約では、天使が与えていて、どちらも人間が与えてくれたものではありません、神、天使と違いますが、これは神様が与えて下さったと考えていいでしょう。つまり、神様が、与えてくださり、それを食べなさいと命じておられるのです。巻物とは、当時の書物で、現代のように一枚一枚となっていませんが、今わたしたちが持っている聖書と同じように考えてもいいのです。聖書の言葉をかみしめて食べるということです。
 ここまで来ると、大体のことが解ってきます。旧約時代の預言者エゼキエルは、神様から「この巻物を食べなさい」と命じられ、新約時代のヨハネも神様から「巻物を食べなさい」と命じられています。これは、御言葉を聞く、頂くと同じです。しかも口で食べて、腹まで入れるということは、単に食べるだけではなく、しっかりと食べて消化しなさいと命じておられるのです。こうした時、その御言葉が、どんな味なのか、甘いか、苦いか、そのようなことまでも語っています。甘いなら、食べやすく、苦いなら食べたくないということでしょうか。ですが、神は、預言者エゼキエルに、そしてヨハネに「食べなさい。そして、しっかりと消化しなさい」と命じておられるのです。
 ここに、使命が見えてきます。まず、御言葉を食べなければなりません。ただ食べればいいというのではありません。しっかりと食べる、そうすると、御言葉の味が解り、甘いと感じ、その後、それが胃袋に入って消化される時、苦いと感じる、これは、何を黙示しているのでしょうか。消化されるということは、本来の食物が含んでいる栄養素が吸収されるということです。食物が御言葉であるなら、御言葉が本来、含んでいる栄養素真理は何か。御言葉が含んでいるもの、それは福音、イエス様の救いの福音です。その福音が消化されるということは、どういうことなのでしょう。人の体で言いますと、体全体のための栄養が、それぞれの臓器、筋肉、脳、その活動に必要なものが、それぞれの所に運ばれるのです。そして運ばれたものによって人の体は活動していきます。話す、歌う、聞く、知る、考える、歩くという活動ができるようになっていくのです。ですから、御言葉が消化されるなら、活動を生み出すのです。預言者エゼキエルもヨハネも、福音を頂き、福音を伝えていくことが活動なのです。胃袋に入った福音を伝道する時には苦労が尽きません。消化されて、万歳とはならない、むしろ苦しみがあります。ですが、これが使命なのです。これは牧師、宣教師、神父だけの使命ではありません。
 御言葉は、牧師、宣教師、神父だけのものではありません。御言葉が示す福音はすべての人のためです。ですから皆さん方にも通じることです。御言葉を頂く者は、使命が与えられて、いのちを使うのです。小さくてもいいのです。福音を伝えていくという所でいのちを使いましょう。
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by higacoch | 2016-01-23 16:25 | ヨハネ黙示録

2012年2月19日

『甘く、やがて苦く』 ヨハネの黙示録 10:1~11
                   古畑 和彦 牧師(日本中会主事)

 ヨハネの黙示録10章において、ヨハネは、手に「開いた小さな巻物を持って」(3節)いる1人の天使を見ました。この天使は、ヨハネに「開かれた巻物を受け取れ。…受け取って、食べてしまえ」(9節)と命じます。巻物を読んだり眺めたりするのではなく「食べてしまえ」というのです。旧約聖書エレミヤ書15章16節では「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって、呼ばれている者です」と記されています。私たちの肉体は、食物から栄養を取ります。同じように、私たちの魂は御言葉から栄養を取らなければいけません。私たちが御言葉を読まなかったり、御言葉から離れたりしたら、信仰は枯れてきます。神がわからなくなってくるのです。ですから、御言葉は、まず読まなければならないものです。しかし読むだけでもいけないのです。ここでは、さらに食べる事が求められているのです。「御言葉を食べる」というのは御言葉がその人の血となり肉となるということです。御言葉は、そういう関係を私たちに求めているのです。
 ヨハネが、10節で、その「巻物を取って食べ」ると、天使が言ったとおりに口には蜜のように甘いものでした。これは当時のイスラエルの習慣と関係があります。イスラエルでは、ヘブライ語の文字を子どもたちに教えるときに、小麦粉を練って、そこに砂糖を入れて甘くして、お菓子に文字を焼くそうです。そしてその字を上手く書けたら、子どもに御褒美としてその甘いお菓子を食べさせたということです。ですから、子どもは、言葉は口に甘いということを体験的に覚えるわけです。御言葉は確かに甘いのです。詩編19編8~11節には、「主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」とあります。エゼキエル書3章3節には、「言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」と記されています。
 しかし、ヨハネが食べた御言葉は「口には蜜のように甘かったが、食べると……腹は苦く」なりました。なぜ、口には蜜のように甘かった御言葉が、腹では苦かったのでしょうか。御言葉は、もともとは甘いものです。しかし、ヨハネはその人生の歩みで様々な悩み、苦しみを経験しました。腹において苦いという経験は、このような人生の苦難を意味しています。御言葉は、御言葉に従えさえすれば、私たちがいつでも自分の思う通りに行くとか、力が与えられるという甘い経験だけを与えるものではありません。時に、御言葉は、人生の苦難を経験させることがあります。たとえば、人生の岐路にあって右に行こうか、左に行こうかと悩むときに、人は大抵、自分にとって楽な道を選ぶものです。ところがそのようなときに、神は、私たちに御言葉を通して「たとえ、苦しくてもこちらの道を行きなさい」と導かれることが少なくありません。それに従うことは辛いことです。私など、神の言葉など聞かない方がよかった、もっと甘い楽な生活ができたのに、と思う時があります。しかし、私たちはこの苦さに耐えなければならないです。なぜならば、御言葉以外に私たちを生かすものはないからです。御言葉は、どんなに腹に苦くとも私たちを生かす「命の甘さ」を失うことはありません。
 この御言葉の苦さと甘さに生き切ることができるか、それが今日において教会が問われ、教会を造っている私たち一人一人に問われていることです。なぜならば、私たちも、今日の教会もヨハネと同じように、「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない」(11節)との命令が与えられているからです。私たちは、御言葉を語る時に、苦さを経験することがあります。家族や友人、社会から無視されたり、攻撃されたりすることがあります。自分自身の弱さや足りなさに否応なしに直面させられます。しかし、私たちは甘い御言葉で力を頂いて、その苦さに耐えることができるのです。私たちは、御言葉によってしっかり栄養を頂いて、神の御心を正しく理解して、たとえ苦難の中でもしっかり生きていくものでありたいと思います。
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by higacoch | 2012-02-21 17:57 | ヨハネ黙示録