カテゴリ:エステル記( 1 )

2010年4月18日

「勇気をもって神に従う」  エステル記4:1-17、使徒言行録5:27-32
 
 今朝の旧約聖書エステル記4章14節「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」は有名な箇所であります。ユダヤ民族の運命がかかっている極限状況の一点にエステルは立たされているのです。このような極限の立場に立たされるということは私たちにはないかも知れませんが、社会的な地位や職場で責任ある立場に立たされて、自分の決断が問われる時があったりします。またそうした立場ではなくても人生には自分の決断を迫られる時があります。そうした時、私たちの決断をただ自分の安泰のためという点で決めるというのではなく、神様ならどうされるのかを思い巡らし、祈って決めて欲しいのです。人生には本当に大きな決断を迫られることはそう多くはないでしょう。しかしどちらの道が神に従うことになるのかを祈って決めて欲しいのです。ある面では、悩んで、苦しんで、祈り求めて決めて欲しいのです。
 先週、犯罪学の研究者であり、精神科のお医者さんでクリスチャン作家でもある加賀乙彦氏の本を読みました。タイトルは『不幸な国の幸福論』ですが、「不幸の国」というのは日本のことであり、我が国での幸福論であります。加賀氏はこの本の最初で「考えない」習性が生み出す不幸を述べておられます。「考えない」という根底には、問題に直面した時にそれをどう解決していくかという内省力、しっかりと悩み抜く力が欠けているという現代人特有の問題が潜んでいると指摘しています。正しく悩めないという不幸があると。私は、この本を読みながら、悩み抜く力、それは大事なことなんだなと思いながら、こんなことを思い巡らしました。もし人が神様を知らないのなら、人生の岐路に立った時、どのように悩み、どのように考えるのだろうかと思ったのです。その時、右か左か、こちらかあちらかという時に、人は自分にとっての損得が一番の判断基準になるのかなあと思ったのです。そのようにして自分にとって得となる道を選んで自己安泰の生活を得られたとして、それが本当の幸せなのかと考えさせられました。でも本当の幸せは、生活の幸せではなく、人生の幸せなのではないだろうか、冨の生活であれ、貧の生活であれ、自分の人生は幸せだったと過ごせることではないのかと思い知らされました。もしそうなら損得で判断するのではなく、祈りの中で神様の御心を問いつつ、神様に従うことこそが人生の真実の幸せに通じるではないかと。私たちは迷い、信仰的に弱いものです。しかし、決断の時に立たされる時は大事な時であり、人生の歩みで神様が問い掛けられた時なのだと思います。その時こそ勇気をもって神に従う道を歩んでいこうではありませんか、そこに真実の道があるのですから。
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by higacoch | 2010-04-24 16:42 | エステル記