カテゴリ:テモテ( 8 )

2016年12月4日

「どんな時にも御言葉を伝えなさい」エレミヤ36:1-3 テモテ二4:1-8
                          香月 茂 牧師

 皆様と共に礼拝を守ってきて10年、時が経つのは早いもので、今日が実質、ここの牧師として語る最後の説教と考えてもいいでしょう。この時に、私が最後に皆さんにお伝えしたいことは「御言葉を宣べ伝えなさい。」ということです。
 パウロは、テモテに言います。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」と。パウロの自分の知識や、これまでに得た人生処世訓ではありません。自分の知恵の言葉でも、偉大な預言者の言葉でもありません。主イエス様に集中して、主イエス様の言葉や祈りの言葉です。今、私も、私の後を継いでくださる関先生にお伝えしたいのです。そして、関先生から皆さんに伝えて欲しいのです。「時が良くても、悪くても御言葉を宣べ伝えなさい。」と。主の御言葉であって、私たちの言葉でも、教会の言葉でもありません。
 では、良い時、悪い時とは、何時でしょうか。伝道するのに、時の良し悪しがあるのでしょうか。皆さんは、伝道するのに、どんな時代が良いのか、悪いのかと問われたなら、どう答えるでしょうか。多くの人は、迫害などがない時が良い時代で、迫害が激しい時代は悪い時代と考えると思います。私もそう思っていました。しかし、教会の歴史を見ていくとそうとは言えません。否、むしろ反対のように思えます。迫害がなくなった時代、教会はどんどん多くなり、権力を持ち始めました。国々の王よりも力が強くなり、彼らを支配するようになりました。そうなった時、教会は御言葉を伝えるよりも御言葉を解釈するようになりました。御言葉に仕えるよりも御言葉を支配するようになり、教会が御言葉よりも上に立ち、人々にお説教するようになりました。そうなって、教会は御言葉を伝えなくなり、教会にとって都合のいい言葉を伝えました。もともと、わたしたちが良い時、悪い時と考えるのは、私たちの価値基準によってであり、それが神様の判断基準に沿っているのか、解りません。むしろ、人間の価値基準で決めつけてしまっているのです。こうしたことを鑑みると、そう簡単ではありません。何時がいい時か、悪い時か、解らなくなります。何時が伝道に適している時なのか解りません。だったら、むしろ伝道を控えた方がいいのでしょうか。そうではありません。パウロは、私たちにとっての良い時、悪い時が解ることが大切だとは言っていません。大切なのは「御言葉を宣べ伝えなさい」です。何時がいい時か、悪い時か、解らなくてもいいのです。どんな時にも「御言葉を伝えなさい」と教えているのです。パウロは「伝える」ということを命じています。なぜなら、教会においても人間的な面が、どうしても生じてくるからです。
 では、「伝えなさい」を強調して「伝えれば、いいのです。」となったら、またそれも問題です。隣人が、聞こうと聞くまいと語りっぱなし、相手を無視して、一方的に伝えればいいというものではありません。そこには、祈りの心がなければなりません。隣人に対する愛がなければなりません。新宿駅や渋谷駅などで、拡声器を背負って大音響で「悔い改めなさい。悔い改めなければ地獄に落ちる」と語り、人々を脅しているのは御言葉を伝えているとはいえません。伝えるのではなく、脅しています。伝えるのというのは、愛が必要なのです。パウロが人に福音を伝えるために、「その人に仕える者になった」という奉仕の心を持たなければなりません。このように愛と奉仕の心をもって伝えていかなければなりません。
 パウロは、愛する弟子、テモテに「御言葉を宣べ伝えなさい。」と命じていますが、パウロの趣旨からいうと、テモテだけに命じたのではありません。テモテは若き伝道者でしたが、伝道者だけに命じておられるのではなく、教会の誰にでも命じているものと受け止めます。
 さらにもう一つ、時の良し悪しを私たちの時代とか、外の環境で考えましたが、これは私たちの内側においても考えなければなりません。つまり、わたしたちがどんな状況なのか、どんな状態なのかということです。パウロは、フィリピの教会にあてた手紙を牢屋の中から書きました。その手紙の中には、「今は福音を宣べ伝えることができないので、残念だ」と書いてはいません。否、むしろ福音が宣べ伝えられていると喜んで手紙を書きました。またパウロは、多くの苦難・災難に会いました。そうした時は、伝道できないと嘆いたのではありません。そうではなく、個人的には伝道が難しい状況と言えるときにも伝道に励んでいます。
 今朝の箇所で、パウロは、「わたしは、世を去る時が近づきました。」と言っています。この言葉から、ここはパウロの遺言説教とも言われています。私の場合は、もうすぐ教会を離れて、新たな伝道の地に出掛けます。ここを離れます。ですから、大事なことを伝えたかったのです。御言葉を伝えることは何よりも大事なのですから。私は、皆さんに、繰り返して言いますが、「社会が、自分自身が、どんな時でも、御言葉を宣べ伝えなさい。」と。このことを私自身も求め、皆さんにも求めていって欲しいと願います。
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by higacoch | 2016-12-10 19:24 | テモテ

2015年11月22日

 「御利益あるんですか」  1 テモテ 6:1-12
                               荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)

 「キリスト教は御利益がない。だから有り難い」という老牧師のことばを、昔ある本で読みました。宗教というのは信じる人の益のため、という考え方が強い日本の精神風土においては、これはまったく馬鹿げた言葉に聞こえるかもしれません。「御利益がない」などと威張っている宗教団体に誰がいくものか、ということになるかもしれません。しかし、「御利益がないから有り難い」というのは、福音の核心をついている名言かもしれないと思うのです。実際、この「有り・難さ」がわからない限り、キリストにとどまることはないでしょう。教会は「いのちを捨てる者が得る」という「有り・難い」十字架の逆説に立っているのですから、もしもこのような福音の持つ逆説性を捨ててしまって、直接的な見返り(御利益)追求路線に走るなら、最も大切なものを失うことになっていまいます。それこそが教会の危機です。
 テモテへの手紙は、当時の教会を襲いつつあった危機について触れています。
<キリストの健全な言葉に従わない者がおり、ねたみや争いが生まれている。そういうことは、精神が腐り、真理に背を向け、「信心を利得の道と考える者の間で起こる」のだ。信心に励むことと、富を得たいという野心が結びついてしまっている。>
 純粋だった思いも、一度それが利得と結びついてしまったら、富の誘惑が支配的になってしまう。それが人間の必然です。現代のキリスト教においても、経済的成功を神の祝福と同定する「繁栄の福音prosperity gospel」の誘惑は強いのです。(それを説く巨大教会には人が集まってきます。)人の道というのは、お金という動機によって容易に狂わされてしまうという現実は我々はこの世で嫌というほど目にしていますが、それは教会もまた例外ではないのです。

 しかし、テモテへの手紙は悲しき事実を語って終わるのではありません。それをはるかに上回る喜びの真実をも語っています。そこのところを読み落としてはなりません。どういうことかというと、「利得」というものにまったく異なる光をあてるのです。
 6節「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」。
信心は利得を得るためのものではありません。しかし信心は「大きな利得の道」なのです。「利得」でなく「大きな利得」というところがミソ。(老牧師の「御利益がないから有り難い」という名言はここから生まれたのかもしれませんね。)
 クリスチャンになったからといって、この世で厚遇を得るわけではありません。むしろ損することのほうが多いかもしれません。
 <でもそれがなんだろう。食べる物と着る物が与えられているのだからそれで十分ではないか。そんなことより、私は神の愛という至上の「大利得」を得たのだ。神が私のために御子を与えてくださった。御子は十字架によって命を与えてくださった。神の愛が私を包んでいる。それが誰も奪うことのできない宝である!>

 信心は「満ち足りることを知る者には」大きな利得の道です。「満ち足りるを知る」とはどういうことでしょう。少しのものでつましく生きなさいということでしょうか。そうではありません。若い頃は肉を食らい酒をたらくふ飲んだが、最近は野菜だけで十分になった、ということでしょうか。違います。それはただの加齢です。そういうことではなくて、<これが私の道である、これが私のいのちである、ここに私の人生がある>と思い定める、ということです。<ここに私のすべてを満たすものがある、この道を歩めばよい。>そういうものと出会ったがゆえに、もう他のものに目移りしないということです。<これでいく、これが道だ>と思い定めているということです。

 主イエスのもとにやってきた金持ちの議員(ルカ18章)は、持っている財産を貧しい人たちに施して、手に何も持たないで従っておいで、というイエスの招きに従うことができませんでした。イエスの「おいで!」、それこそが永遠の命だったのに!彼は小さな利得は失わず、その手に握り続けることができたかもしれませんが、それよりはるかに大きな利得に背を向けてしまいました。
 「満ち足りるを知る」とは、神は必ず自分に最善を与えてくださると信じること。もっと利得をと絶えず欲に駆られ、満たされぬまま不安を抱え続けて過ごすのではありません。<神は自分に最善最適最高のものを与えてくださっている。ここに私の道がある。>そう思い定めている者にとっては、信心は(皮肉でも理屈でもなく実体験として)「大きな利得の道」なのです。<あれがなくて悔しい、これがなくて悲しい>と愚痴りながら過ごす人生ではなくて、「こんなに良いものを与えてくださって有り難うございます」と感謝して過ごす人生をイエスは与えてくださるのです。
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by higacoch | 2015-11-28 16:54 | テモテ

2014年10月5日

「金銭を追い求めると」   アモス8:4-7、テモテへの手紙一 6:2c~10
                                
 私が神学校に入ってすぐの頃、戦前、戦中、戦後を生きてこられた先生が「私の神様への願いはこれです。」と教えて下さった聖書の言葉は「 むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。 飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。」(箴言30:8-9)というものでした。忘れることができません。お金がなくて食べるのに窮する生活をされたのでしょう。
 イエス様もお金のことではこんなことを言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイ19:23,24)と。当時、ユダヤの国の家畜の中で、一番大きなものはラクダでした。そのラクダが針の穴を通るより、金持ちが天の国に入る方が、もっと難しいと言われているのです。そして「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)ともいわれています。つまり神様に仕え、お金に仕えるという二刀流はできないと言うことです。イエス様が、神に匹敵するものとして上げられているものが、お金なのです。それほど、人はお金の誘惑に陥りやすいのです。
 今朝の箇所から学びたい。ここでパウロは「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。」と言っています。お金の欲望、それを持ち続ける人は、滅亡と破滅に落ちていく。つまり、お金の盲者になれば、その道は破滅です。さらに「金銭の欲は、すべての悪の根です。」、「金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」とパウロは言っています。金銭欲にかられての歩みは信仰の道からそれていき、さまざまなひどい苦しみの道へ迷い込んでいくことになると言うのです。
 ここでパウロは、金持ちになろうとする者、金を人生の目的にして生きている者に注目していて、お金持ちに注目して言ってはいません。あくまでお金持ちになろうとしている強欲な人に言っているのです。パウロの時代にも強欲は大きな問題でした。だから若きテモテに個人的な手紙で書いています。「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないから。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」と。ここには大きな利得の道と語られていますが、ちょっと解りにくいのです。普通、利得と言ったら、金儲けをすると考えがちですが、ここでは満ち足りることを知っている人たちだと言っています。それは無欲だからだと言うのです。では、どこに利得の道があるのでしょうか。それは強欲な者が、欲張って、さらにお金が欲しいと願う。そして誘惑、罠、有害なことなどを体験する、そうなれば、お金を守ろうと躍起になる。心労で不眠になり、体調不良を起こす。でもお金のためだと、背負い込んで苦労する。そのうち病気になったりしてしまう。そして病院通いをし、治療代、薬代とお金がかかっていきます。このように強欲な者は案外損をしているのです。それに対して、満ち足りることを知る人、主にあって無欲な人は、大きな視点から見ると、意外に損することが少なく、利を得ています。利を得ていると言ってもお金を得ているのではありません。自分の健康、人からの信頼などを得、それ以上に神からの祝福を頂いているのです。
 パウロが言うように、人は金銭を追い求めるうちに、信仰から迷い出ていきます。金銭を追い求めているうちに、迷い込み、自滅のみちへと進んでいってしまいます。ですから、金銭を追い求めているなら、それに早く気付くべきです。しかし人から言われても気づきにくいものです。礼拝を通して、神様の言葉を心から聴き、深く受け止めることによってはじめて気づかされます。強欲な道を離れることによってではなく、神様に近づいて、悔い改めて生きることによって気づくことができます。悪の根を摘み取る事が出来るのは、主イエス様ですから、その言葉に従って生きていかねばなりません。小さくても主の言葉に従って歩んでいきましょう。そこには真実の利得があり、神の祝福があるのですから。
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by higacoch | 2014-10-11 09:36 | テモテ

2014年3月23日

「神の言葉はつながれてはいない」  
            イザヤ書63:7-14、テモテ二 2:8-13
                                
 先週の水曜日の午後、アメリカの伝道運営協議会の総主事であるイーディス姉を迎えて、三教会の特別集会が国立のぞみ教会で行われました。その会でイーディスさんは今アメリカの教会で少しずつ取り入れられてきた黙想の実践方法を紹介してくださいました。これはラビリンス(「迷路」の意)と呼ばれ、迷路の道を歩きながら黙想するのです。聖書の御言葉を深く味わうためのもので、一人でも教会でもできます。今回は詩篇119編1節から16節までを1人1節ずつ読み、黙想しました。これはカトリックや聖公会の教会で行われている祈りの道、特に、レントの時に行われるヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれているイエス様の十字架への道を辿りながら、祈りの巡礼をするものと同じようなものだと思いました。
 さて、今朝の聖書の箇所で、伝道者パウロが若き伝道者テモテに対して、手紙を送り、改めて福音を伝えているところです。パウロは「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」と言っています。つまり、イエス・キリストのことを、しっかりと思い巡らしてほしい、さらに言うと、イエス・キリストのみに集中して欲しいということです。「福音はイエス・キリストがダビデの子孫であり、死者の中から復活された方だと言うこと、この福音のために私は犯罪人のようにつながれています。」と。そう言いつつ、彼がもっとも言いたかったことは、「しかし、神の言葉は、つながれていない」と言うことでした。当時パウロ自身はつながれていて獄の中でした。以前も獄中生活を強いられ、そうした中で手紙を書きました。それが獄中書簡と言われている、エフェソ、フィリピ、コロサイ、ピレモンの手紙です。しかし、このテモテへの第二の手紙も獄中から出されたもので、パウロが殺される直前の手紙だと考えられています。ですから、パウロの遺書と考えてもいいのです。
 さて、パウロと同様「神の言葉は決してつながれてはいない」と説教し、権力者と闘った人がいます。それは、マルティン・ニーメラーという人で、ナチスのヒットラーと闘いました。彼は強制収容所で説教しました。その説教集のタイトルが『されど、神の言は繋がれたるにあらず』です。死の危険を犯して語った6つの説教が収められていて、キリストの誕生、シメオンの歌、死に勝利した復活のいのちの希望などを説教しています。
 パウロはここでテモテに「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」と、書いています。このことはわたしたちにも語られていることです。この個所で、私たちが気になるのは、12節の後半です。そこには「キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。」とあります。私たちは信仰生活の中でキリストを否むことはないのでしょうか。いや、あります。否む自分がいると思って苦しむ。パウロもこうした苦しみを味わったでしょう。しかし、「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことはできないからである」と書いています。「わたしたちが誠実でなくても」ということは、「わたしたちが不誠実だ」ということです。何がわたしたちの不誠実でしょうか。 それはキリストを否むこと、これは罪です。だからといってキリストはわたしたちを見捨てられるでしょうか。私はあなたを知らない、と言われるのでしょうか。キリストは憐れみ深く、わたしたちを愛される方です。途中で愛想を尽かして、関係を断たれる方ではありません。キリストは御自身を欺くことができません。愛なる方ですから、見捨てることができないのです。「知らない」と言われません。キリストは、常に、真実であられます。わたしたちが不誠実であっても、キリストは真実であり、わたしたちを愛してくださいます。神様は愛なる方だからです。十字架の上でわたしたちを愛し、わたしたちの罪をゆるして下さいました。
 だからパウロは最後にテモテに、キリストに集中し、福音を語って欲しいと言っています。福音を語り、神の言葉を語って欲しかった、このことは私たちにも望まれています。どんな時代になっても福音を示す神の言葉を語っていかなければなりません。なぜなら、神の言葉は繋がれてはいないのですから。
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by higacoch | 2014-03-29 18:25 | テモテ

2013年3月3日

「与えられる信仰と愛をもって」 詩編31:8-17、Ⅱテモテ1:6-14

 先週の金曜日(3月1日)は世界祈祷日でめぐみ教会に出かけてきました。世界祈祷日というのは、全世界のキリスト者が教派を超えて毎年定められた主題に沿って共に祈り合わせる日であります。祈りのためにパンフレットがあり、それを読んで祈りを合わせました。今年は、フランスの女性たちが取り組んでいる課題が取り上げられました。唐澤先生がネットでフランスの国内問題を調べて、今のフランスでは、移民政策が政府にとって最重要課題だと記されていたとお話して下さいましたわたしも帰ってきてから、ネットで調べましたら、本当に、問題が大きいなと知らされました。
 政府の移民政策は、制御と同化。制御は、フランスに都合のいい人を受け入れ、そうでない人は受け入れないということです。学者、研究者、優れたスポーツ選手等国益にかなった人は受け入れる、移民をあの人はNO、この人ならYESと選別するのです。次の段階としては、受け入れた移民の同化を促します。その人の宗教や文化の価値を認めず、国内の秩序や価値観に従わせ、それを拒否すると非難し、逮捕するのです。そして今から7年前の2006年5月には移民制御法案が国民議会で承認され、採択されています。
 こうしたフランスの移民政策で移民の人たちの苦しみの叫びがあります。この問題に対して旧約聖書からレビ記19章34-36節「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。」を挙げています。ここでの寄留者、それは移民の方々、そして不法移民と言われている人たちです。そして、新約聖書からはマタイ福音書25章31~40節が挙げられていました。「・・・わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に、飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸であった時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に尋ねてくれたからだ、すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしは、飢えておられるのを見て、食べ物を差し上げ、のどがかわいておられたのを見て、飲み物を差し上げたでしょうか。』・・・そこで、王は答える。『はっきりと言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ。』」と。ここは最後の審判のたとえであります。父なる神様が羊と山羊とを分けられる所です。
 レビ記にある寄留者は移民を、マタイ福音書にある旅人、これは単なる旅行者ではなく移民の人々を含んでいます。それらの人々は「わたしの兄弟(姉妹)なのだ」とそして移民にしてくれたことは「私にしてくれたこと」とイエス様は言われています。移民が祖国を離れざるを得なかった背景には、戦争、天災、気候変動による災害、経済破綻などがあります。こうした苦しみの中にいる人、外国籍の人の傍らに立ち、仲間になること、これはまさにイエス様が、徴税人や罪人と共に食事をされたりしたことに通じるのです。
 さて今朝与えられた箇所には、伝道者パウロが個人的にテモテに宛てた手紙です。彼が最後に出した手紙と言われています。彼はキリストに従って生きることで苦しみを味わうかもしれないが、それを耐え忍んでいくようにと勧めています。これは単に我慢し、耐えなさいと言っているわけではありません。6、7節で神から与えられた賜物は、臆病な霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊だと言っています。そして、神様は、永遠の昔にイエス・キリストによる救いの計画を立て、今や、キリストがこの地上に現れて救いが明らかにされたというのです。それゆえに、キリストの福音を人々に伝えるために、あなたも私も神様によって呼び出され、召された。神様はあなたに、神の力と神の愛と神の知恵による思慮分別の霊を与えて、神の子として生きるようにされているのだと。私たちが救われたのは、決して私たちの行いによって救われたのではなく、神の恵みによっているのだ、だから、あなたは決して臆病の霊を与えられたのではない。そのように臆病にならずに、キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって生きていきなさいと勧めるのです。またパウロと共に、福音のために苦しみを忍んで欲しいとも願っています。それは何よりもあなたも私も神様によって救われ、呼び出されているのだからと、語っています。だから、あなたも救いが与えられた今に生きるべきだ。キリストは私たちのために死に、新たな命を現わしてくださったのです。ここに生きることであり、まさにこれが神の国に生きること、神の民として生きることです。
 フランスのように移民を制御し、同化させていくのではなく、イエス様は、民族、文化の違いを超えて人々に救いを与えられたのです。キリストがすべての人の罪のために死んで下さったのですから、私たちの小さな歩みの中でも主を伝えて歩んでいきましょう。私たちもテモテと同じように、自分の内側に籠るような臆病な霊を神から頂いたものではなく、福音に生かされて生きるようにス様によって与えられる務めを果たしていきましょう。されていますし、それはキリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって生きることです。
 レントの時、イエス・キリストによって救われたことをしっかりと覚えて、イエス様によって与えられる務めを果たしていきましょう。
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by higacoch | 2013-03-09 17:49 | テモテ

2012年12月9日

「神様の言葉を伝えなさい。」
             エレミヤ36:1-10,テモテ二3:12~4:5

                                 
 今朝の箇所の小見出しに「最後の勧め」とあります。パウロは手紙を終える前にどうしても言っておきたいことがあったのです。テモテに対して「あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それを誰から学んだかを知っており、また自分が幼い日から聖書に親しんできたをも知っているから、この書物(聖書)は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵をあなたがたに与えることができます。」と力強く語っています。パウロはテモテにどうしても知って欲しいのです。つまり、あなたは幼い頃から聖書に親しんできていた、その聖書があなたに信仰を与え、救いに至る知恵を与えて育てて下さったと言うのです。それに続けて「聖書は、すべて神の霊の導きの下に書かれていて、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするので、有益」だと教えています。これは私、パウロがあなたを教え、正し、訓練を与えたとか、与えることができるというのではなく、神様が、あなたを教え、正し、訓練を与えてくださることをはっきりと教えています。
 「聖書は、あなたに与えることができる。」聖書の言葉が、神様の働き、それは聖霊の働きですが、その聖霊の働きがあって、与えられるのです。聖書そのものも、聖霊によって導かれて、人が用いられて、書かれたものです。人が書いたものですが、その著者の考えによる勧めの言葉ではなく、神の御旨による言葉です。そして書かれた聖書の言葉が、聖霊の働きによって神の言葉になっていくのです。そこに、目には見えなくても、神様は働いて下さっているのです。この神様の働きがあることをしっかりと知らなければならないとパウロは言いたいのです。
 また、聖書の言葉が神の言葉となるということは、人が聖書を読み、その人の知識や知恵によって神の言葉になるというのではありません。聖書の歴史、言語(ヘブル語、ギリシア語)、地理などの知識が豊かになれば、人に教え、人を戒め、誤りを正して義に導くことができるのではないのです。ですから、「聖書学者」にこうしたことはできないのです。人間の知識や知恵の為せることではありません。神様の聖霊の働きがなければできないのです。その働きを頂くためには神に祈るしかありません。ひたすら、神様に祈り、神様に働いて頂くだけです。私たちが中心ではありません。私たちの知恵だけに頼っていろいろなことをしていくべきではないのです。「三人によれば、文殊の知恵」というように、何人かが集まって、知恵を絞って、教会活動をしていくのではありません。もし教会で、祈りをせずに、教会の活動計画を立案したなら、それは教会ではありません。教会の名を借りた団体に過ぎません。神様の働き、聖霊の働き、神の霊の働きを信じないのなら、どんなに多くの人がそこに集まる大教会であっても、それはバベルの塔でしかないのです。いずれ、神様が臨んで解体されるでしょう。人間の自己傲慢な行動をする所に、神の祝福はありません。
 だから、パウロは、人間の知恵に従って活動計画を立ててはいけないと戒めるのです。人の知恵で、今は伝道に良い時期、否、悪い時期と決めて、良い時期にのみ、御言葉を伝えれば良いというのでは決してないのです。
 パウロは生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、キリストの出現とその御国を思いつつ、厳かに命じています。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても、悪くても励みなさい」と。これは単なる勧めではありません。命令です。しかもパウロは「厳かに」命じると言っています。最も大事なこととしてテモテに伝えたのです。
 このことはテモテだけではなく、私たちにも伝えられている、教会が為すべきことなのです。どんな時代になっても、伝道すべきであって、たとえどんなに小さな教会でも、御言葉を伝えなければなりません。神様の言葉を伝えていく、それが教会の務めであります。私たちの教会、今年の教会標語に「キリストを伝える」を上げました。御言葉の中心はイエス・キリストです。そのイエス・キリストを証している神様の言葉を、どんな時代になっても伝えていきましょう。そこに救われる人が与えられていくのですから。主に仕えて、今も、これからも、どんな時代になっても伝えて、主に仕えていきましょう。
 
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by higacoch | 2012-12-10 22:35 | テモテ

2012年11月25日

「この世に来られたのはなんのため」 
                 詩編89:20-30,Ⅰテモテ1:12-17

 
 来週からアドベントに入ります。アドベントというのは、ラテン語で「到来」といいう意味があります。この到来はキリストの到来であり、アドベントはキリストの到来を待ち望む期間です。ですから待降節と言ったりします。またアドベントは、キリストの誕生だけを待つ期間だけではなく、キリストが再び地に臨まれるという再臨を待つ期間でもあります。今朝は最初のアドベントであるキリストの誕生を覚えて学びたい。キリストである御子イエス様は地上にお生まれになられ、人の世に来られました。それはなんのためであったのでしょう。
 手紙を書いたパウロは、その目的を短くまとめて「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」と言っています。善を行い、自分の知恵や力で、救いを達成しようとする善人を救うために来られたのではない、神の戒めを遵守し、捧げものをよく捧げて、神に喜ばれることをする人を救うために来られたのでもない、自分の知恵や力ではどうすることも出来ず、どうにも救いようがない者、神に見捨てられているような人、悪いことをする罪深い者たちのために、来られたのだと。そうした者を憐れみ、そうした者を生かすために、キリストは来られたのだと強調しているのです。イエス様の十字架の死は、善人のための死ではなく、まさにどうしようもない者、罪人を憐れんで、罪人のために死んで下さったことなんだと、とパウロが語っています。
 イエス様自身は「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」と言われています。(ヨハネ福音書 10章10節)ここでの羊は私たちです。ですから、私たちがイエス様から命を頂くということ。しかも豊かに頂くのです。パウロが「命を豊かに頂くために」とは言わずに、「罪人を救うために」と言ったのが解る気がします。「救う」ということから「死」が連想されています。パウロは別の手紙(エフェソ 2:1)で、「以前、(私は)罪のために死んでいた」と言っています。「死んでいた罪人を救う」とは「生き返えられた」ということで、「死んだ者」が「生きる者」となったということです。
 パウロは、「以前、私は神を冒涜するもの、迫害する者、暴力をふるう者でした」と告白しています。彼は、以前、キリスト者であるなら、女性であれ、子どもであれ、容赦なく捕まえては獄に投げ込んでいました。彼は元々、ユダヤ教の教師であり、律法学者であり、律法に反する、惑わす教えを説く者を厳しく糾弾し、ある時は石打ちで殺したりもしました。こんな彼が復活のキリストに出会って変えられたのです。それは、キリストによって自らの罪が赦されたと深く知らされたからです。パウロは「キリストは私を生かして下さっただけでなく、私を新たな務めへと就かせて下さった」と言っています。こうしてパウロはキリストの迫害者から伝道者となったのです。
 パウロは罪赦されたとの確信が与えられ、「わたしは、罪人の中で最たるものです」と言っています。パウロの思いからすると、こんな私をキリストは憐れんで下さったと。そうです。キリストは、あなたのために、あなたの罪のために、罪人のために、死んで下さったのです。あなたの罪のため、あなたを救うために。
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by higacoch | 2012-11-26 22:26 | テモテ

2010年3月28日

「とりなしの祈りをせよ」  エレミヤ書29:4-7,Ⅰテモテ2:1-7 
 
 本日はしゅろの主日、イエス様が子ろばに乗って都エルサレムに入城された日であります。イエス様の十字架への道を今朝与えられましたテモテへの手紙と重ねて考えてみたいと思います。今朝の個所には、三度も「すべての人」とあります。これはイエス様が十字架へと向かわれたことは、すべての人のためであったと言うことです。「すべての人」とは、その当時の都エルサレムの住民すべてではなく、その時代の地上の人々のすべてでもなく、その時代を越えて私たちの時代も、さらに将来も含めての人々であり、全歴史をも含み、地上のすべての人々を含むすべてなのです。ですからこれに漏れる人はいません。すべての人が対象です。こうしたことを私たちが考えてみますと、ここにいらっしゃるあなたのためにでもあるのです。信仰者であれ、求道者であれ、今日初めて礼拝に来られた人であっても、あなたのためでもあるのです。そしてあなたのご家族一人一人のためでもあるのです。
 パウロが力強く言っていることには幾つかの背景があります。まずユダヤ教では、律法を守る義人という限られた者の救いが語られ、またグノーシス主義者たちは、神秘的な知識を知る者だけの救いを語りました。しかしパウロはキリスト・イエスはすべての人の贖いとしてご自身を献げられたと言い、神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられると言い切っています。また当時ローマ皇帝は人々に皇帝崇拝を命じていました。そのような状況の下でパウロは王(皇帝)やすべての高官のために(祈りを)ささげなさいとも言っています。王(皇帝)を崇拝せよとか憎めとかというのではなく、執り成しの祈りをせよと勧めているのです。それはそうした者たちのためにもキリスト・イエスは死んでくださったのだからという根拠があったからでしょう。
 パウロの確信が与えられた者、つまり教会は、救われていない人々のために、執り成しの祈りをするという務めを神によって与えられているのです。すべての人を包む神の救いの出来事をあらゆる人々に伝えること、これが神から与えられた務めであるとパウロは確信していましたし、その確信があったからこそ、テモテにもそれを伝える使命が与えられていると言いたかったのです。テモテに言いたかったことは私たちに言われていることでもあります。私たちも神から執り成しの祈りをするように、特別な使命が与えられているのです。このことを受け止めて、日本の為政者や他の国々の為政者や、また救われていない隣人のために執り成しの祈りをして行く者でありたいものです。
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by higacoch | 2010-03-31 19:35 | テモテ