カテゴリ:フィリピ( 9 )

2017年4月30日

「重要なことを見分ける」      列王記上3:4-1、フィリピ1:3-11
                      めぐみ教会牧師 荒瀬牧彦

 今日の説教題は、めぐみ教会2017年度の主題をそのまま持ってきました。主題聖句はフィリピの1章9-10節。「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」

 めぐみ教会は今年「みことば手帖」というのを作って、毎月一つずつ暗誦する聖句を印刷したシールを貼っていくようにしているのですが――「おくすり手帖」をモデルにしました!――いちばん初めに皆で暗誦したのが、この聖句なのです。共同の働きを共にする東小金井教会の皆さんにも、ぜひこの祈りを分かちあって頂きたいと思い、この箇所を今日の説教テキストとしました。この祈りは、すべてのキリスト者、すべての人間が暗誦して日々祈る価値のある祈りであると思います。

 フィリピの教会に書いたこの手紙で、パウロは「自分は今監禁されているが心配しないでほしい。むしろこの事は福音の前進に役立っているのだ」と伝えようとしています。愛するフィリピの信徒たちは、自分たちの指導者である人が獄中に囚われていることで心配しているでしょうが、しかし、惑わされることなく事柄の本質を見てほしいと願っているのです。そこで、彼がフィリピの人たちのために祈る祈りは、「何が本当に重要であるかを見分けられるように」となりました。
 
 旧約聖書の列王記上3章には、若くして父ダビデから王位を継承したソロモンの祈りが記されています。彼は夢の中で、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と神に告げられました。その時彼が願い求めたのは、「善と悪を判断し、正しい裁きができるように、聞き分ける心を与えてください」ということです。父のようなカリスマや、戦争の勝利や、神殿建設の費用や材料を求める祈りではなく、正しく見分けられるようになる力を求めたのです。「主はソロモンのこの願いをお喜びになった」と列王記は記しています。

 反対に、大事なことを見分けられなかった人たちも聖書には多く出てきます。イエスのもとに「永遠の命を得るにはどうしたらよいか」を尋ねにきた金持ちの青年もそうです。彼は自分の財産を手もとに保持することのほうが大事だと思えて、イエスに従っていく――永遠の命を生きる――機会を逃してしまいました。網を置いてイエスの招きにすぐに従ったシモンたちは、ガリラヤ湖畔で呼びかけられたあの時、「今、自分に最も重要なのはこれだ」とわかったのでしょう。金持ちの青年と対照的です。

 「善いサマリア人の譬え」で考えてみましょう。傷つき倒れている人の傍らを最初に通った祭司、また次に通りかかったレビ人は、自分の仕事のことを考えたのでしょう。「この人を助けたら、自分はどうなるか」。その結果、何もせずに立ち去ることを選択したのです。三番目に来たサマリア人は、「この人を助けなかったら、この人はどうなるか」を考えたのでしょう。すぐにこの人の救護にあたり最善を尽くしました。三人のうち誰が「本当に重要なこと」を選んだのかは明らかでしょう。
見分けるために必要なのは知識や計算だけではないとわかります。結局、愛が決め手なのです。だからパウロは「愛がますます豊かになり」と祈っています。神さまへの愛、隣人への愛なしに、本当に重要なことは見分けられないのです。
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by higacoch | 2017-04-30 18:46 | フィリピ

2017年1月1日

「信仰の前進」 列王記上17:17-24、フィリピ3:12-16
                           関 伸子 牧師 

 今日与えられた聖句には、「兄弟たち」という言葉が出ています。1節に「わたしの兄弟たち」という言葉があり、17節には、「兄弟たち」とあり、この13節にも「兄弟たち」と書いてあります。第4章1節には、「わたしが愛し、慕っている兄弟たち」となっています。その箇所をよく読むと、それぞれ特に力をこめて、大事なことを語ろうとする時に「兄弟たち」と呼び掛けていることが分かります。
 それは、自分だけが特別なわけはないのだというのです。だから、安心しなさいという気持ちを、この言葉で表しているのです。それならば私たちも、パウロはずば抜けて偉い人だからどうにもならないと思わないで、兄弟たち、と呼んでくれていることにしたがって同じような信仰の旅をしている一人の兄弟の言葉として、これを読み、信仰の導きを得たのです。
まず第一にパウロは、「わたし自身は既に捕らえられたとは思っていません」と言っています。12節にそのことがあるのですが、ここでも、繰り返して、わたしはすでに捕らえられたとは思っていないと言うのです。
 自分はただこの一事を努めると言っているのです。信仰生活というのは本来一途なものです。ただこの一つのことだけを信じさえすれば、それでいいと言われることは、私たちにとっては大きな慰めであり、また力です。パウロは、後ろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ生きていくことだと言うのです。
 私たちは後ろのものと言うとただ過去のことだけ思います。しかし、じつは、後ろのものというのは、本当は、罪のことではないでしょうか。なぜかと言えば、私たちの後ろのものというのは、いつも悔みをもって私たちに迫ってくるからです。私たち人間の生活は、ある意味では、過去の生活によってつくりあげられたものでしょう。できればもう一度やり直したいと思うようなことのたくさんある過去を、どうしたら忘れることができるかということです。
 先ほど、列王記上の話を読みました。この話はそのことについて大事なことを教えてくれています。預言者エリヤが追放されてあちらこちらを逃げてまわるのです。そしてあるやもめのところに身を隠していた時の話です。預言者の力によって、この家では粉も油も一度もなくなったことがありませんでした。したがって、エリヤとやもめと子どもとは何不自由なく暮らして行くことができたのです。ところが、そのうちに子どもが病気になって死んだのです。そうすると、今、読んだ18節に、「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と言いました。自分の子どもが死んだのは自分の罪のせいだ、とやもめはすぐ考えたのでしょう。やもめがどんな生活をしていたかよく分かりません。
 罪というものは消しようがないのです。しかし、神によって罪が赦された時にはじめて自分の罪を消すことができるのです。そのようにして自分の罪が赦され、失敗の多い過去の生活が感謝に帰られていくならば私たちは罪からまぬがれ過去から逃げることができるのです。
 ところが、後ろのものを忘れるだけでは、実は救われた生活にはならないということです。後ろのものを忘れても、新しい気持ちを持って、前に進ませるものがなければならないのです。ただ、前に進んでいくのではなくて、まるで乗り出すようにして前進していくことです。
 そうすると、聖書の中で言っている前の方というのは、少なくとも神の方角だということが間違いないのです。神のお喜びになる人生を歩むことが、実は前に向かって進んで行くということだと思います。成功、不成功を言えばそれは自分の目指した目標に達することができたということではなくて、神が喜んでくださる生活に自分は歩いて行くことができ、時に自分も本当に安心することができるということではないでしょうか。
 さて、このように読んでふと気がつくことは、フィリピの信徒への手紙第3章4節から、パウロは自然に自分の生涯のことを語ってきて、14節で、自分の生涯を語ることが終わっているということです。したがって、これは、一種の自叙伝です。信仰の立場からというのは、キリストと自分との関係ということです。私たちの生涯というのは、いつでもだれかとの関係から、本当の値打ちが分かるものです。あの人の生涯は社会に役立ったとか、あるいは家族のために役に立ったということでもわかるのです。それならば、キリストとの関係から自分の生活のことを書いた、自叙伝だと言ってもいいかもしれません。しかし、自叙伝とは言っても、まだ終わっていないのです。それは、これを書いている時にパウロがまだ生きていたとか死んでいないとかいうことではなくて、キリストとの関係が永遠だということであり、いつまでも続くのです。いつまでも、神がキリストによってくださるご褒美を目指して、後ろのものを忘れ、前のものに向かって、激しく進んで行く、実に壮烈な競争であるかもしれません。しかし、人との競争ではなくて、自分の罪との競争であり、それに勝つ生活です。ヘブライ人の信徒への手紙第12章のはじめに書いてあることは、この競争をよく表している、と思います。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびたただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。
 このように、私たちは、自分の罪と競走し、それに勝つ生活をこの一年の歩みを通してさせていただきたいと願います。お祈りします。
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by higacoch | 2017-01-07 15:53 | フィリピ

2015年10月11日

「生きるとは」 ヨブ記 42:1-6、フィリピの信徒への手紙 1:12-30
                              
 人生、生きているといろんなことが起ります。想定されたことはある面では驚きませんが、想定外のことが起れば「えっ!!どうして」と驚いてしまいます。それが良い出来事なら嬉しいのですが、その逆だった場合、自分は不幸だと思ってしまいます。そしてわたしの人生は不運なものだと思い込んでしまうのです。
 私は、2年前の7月11日、東八道路上で高齢者の方が脇見運伝して道路の縁石にぶつかり、その反動で車が二車線の中央に直角に止まってしまって後続車を堰止めてしまいました。それで私はその方に声を掛けて、事故車の後ろに回り、左足で踏ん張って車を押して動かそうと力を入れました。するとその瞬間、不気味な音とともに左足のアキレス腱を断裂してしまいました。これは私にとって全く想定外の出来事でした。こうした想定外の出来事は誰にでも起ります。伝道者パウロもある出来事を通して思いもよらぬキリストの働きを知り、それによって一層、信仰の確信に至り、さらにキリストの福音の伝道に励んでいきました。このパウロの体験を共に学びます。
 今朝の箇所は、パウロが獄中から書いた手紙です。パウロは以前ユダヤ教の熱心な信奉者で、キリストを信じる信仰者を容赦なく、女性や子どもたちも牢屋にぶち込んでいました。そんなパウロが復活のキリストに出会って、復活のキリストを信じる者となりました。ですから、ユダヤ教の人々には憎まれ、ローマ人からも嫌われ、ついにはローマ皇帝のキリスト者迫害の嵐の下で、パウロは囚われの身となりました。こうしたことは、パウロにとっては想定内、十分予測できる出来事でした。なにしろ当時、多くのキリスト者たちは迫害を受けており、獄に投げ込まれていましたから。そのパウロが獄中生活をしている中で予想だにしなかったことが起りました。それはキリストの福音伝道が後退してしまったのではなく、反ってその逆に、キリストの福音が前進したのです。このことはパウロも驚いたことでしょう。パウロが投獄されたことで、キリストの福音が兵営全体に知れ渡り、囚人たちやローマ兵たちにも伝わり、その町の信仰者たちにも勇気を与え、伝道への熱意を奮い立たせました。これは想像もできなかったことでした。復活のキリストがパウロを用いて伝道を為されたのです。パウロは、キリストが生きて働かれて、自分を用いてくださったことを確信しました。だからパウロはフィリピの教会の人たちに知らせたかったのです。「わたしの身に起った獄中生活が、福音の後退ではなく、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と。これはパウロにとって思いもよらない主の恵みでした。この体験したパウロは、「わたしにとって生きることは、キリストである」と言い切っています。パウロにとっては生きることは、自分が生きているというよりは、キリストによって生かされているという思いを持つようになりました。それ以外は考えられなくなっていました。
 私はアキレス腱断裂の事故の後、生活の上では不便なことが多くありました。でも、この想定外の出来事によっていろいろなことを教えられました。介護福祉士のわたしにとって大切な体験であり、高齢者の方々の疑似体験をさせて頂いたと思っています。足腰が弱った時にはどうなるのか、歩き方、体のバランスが取りにくさ、立ちあがりや階段の上がり下がり、一つ一つを実体験させて頂きました。事故による体験は、まさに神様の恵みなんだと教えられました。
 最後に、パウロが頂いた思いもよらない神様の恵みを受け止めたいのです。パウロが獄に投げ込まれたことによる体験は、パウロの心の奥から生じる喜びを生み出しました。それは、今も生きて働くキリストを実感し、キリストが自分を生かしてくださっているという確信による喜びが与えられました。キリストは今も生きておられ、働いて下さっているという生活体験、信仰体験からの喜びです。こうしたキリストの霊の働きは、パウロの上に働かれたように、今もわたしたちの上にも働いてくださっています。伝道者パウロは、別の手紙、ローマの教会の人たちに送った手紙で「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と言っています。私たちにとって、不運の人生はありません。それは、ただキリストの働きを見出せないでいるだけなのです。キリストは、あなたを愛し、あなたを用いて福音の前進を進めておられます。
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by higacoch | 2015-10-17 17:53 | フィリピ

2014年10月26日

 「キリストの日に備えて」    詩編9:10~11、 フィリピ 1:1~11
                               
 キリスト教では、とりなしの祈りを重要なものと考えます。自分のために祈ることも必要ですが、隣人のために祈るとりなしの祈りを大切にしています。イエス様が弟子たちのために祈られましたし、伝道者パウロもとりなしの祈りをよくしています。パウロの手紙にもよくとりなしの祈りが書かれています。パウロはローマの信徒への手紙で「あなたがたを迫害する者のために、祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって呪ってはなりません」(12:14)と書いています。ここには究極のとりなしの祈りが勧められています。
 今朝、与えられましたフィリピの教会の人たちに送った手紙をじっくりと見てみますと、パウロは教会の人たちのために実に多くのとりなしの祈りを捧げていることが解ります。その中でも「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」、これはアメリカの神学者、ラインホルド・ニーバーの祈りに通じる祈りです。彼は「神様、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を、わたしたちに与えてください。また変えることができないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えてください。そして、変えることができるものと、変えてはいけないものとを、識別する知恵を与えてください。」と祈りました。パウロはフィリピの教会の人たちが、知る力、見抜く力、見分ける力が与えられるようにと祈っています。なぜなら、フィリピの教会の人たちは、ギリシアの神々を崇めたり、迷信や占いなどに影響されていたからです。そして、何が神に喜ばれるのか、喜ばれないのかを見抜いてほしいと願っているのです。
 また「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、私は確信しています。」とも祈っています。神さまがフィリピの教会の人々を育て、導いて下さると確信しています。その確信は、パウロの揺るぎない信仰の結果でしょう。パウロがここで語っていることは、私たち信仰者が、善い業を積み重ねていくことでも、神様に喜ばれることをしていくことでもありません。ここでの主体は、神様です。善い業を始められた方、それは神様、イエス様と考えていいでしょう、イエス様があなたがたの中、私たちの中ですでに善い業を始めて下さっています。皆さんは気づかないかもしれません。反対に信仰生活をしていくと、自分がいかに至らないものであるかと思わされることがよくあります。自分はまだまだだと。しかし、これは悪くなっているのではありません。これはまさに逆転の真理です。つまり、神によって善い業が始まっているから、気づくことができるのです。至らない部分が見えるようになったのです。むしろ、至らなさに気づかない方が問題です。イエス・キリストを知れば知るだけ、自分の罪を知らされ、知らされるから、神への祈りが深まっていくのではないでしょうか。礼拝を守り、御言葉を聴きづづけ、とりなしの祈りをしていく人は、神様が育てて下さっています。キリスト・イエスの日まで、神様が育て続けて下さると信じています。キリスト・イエスの日とは、キリストが再び地上に来られる日のことです。天に召される日が先になるかもしれません。どちらにしても、神様につながっている人は、少しずつでも成長しているのです。
 そうした信仰生活で、大事なことは、自分のためだけでなく、隣人のために、とりなしの祈りを捧げていくことです。信じて祈る者の祈りを主は聴いて下さっています。そしてその人を成長させて下さっています。私たちも、キリストの日まで、神様による成長を頂いているのです。だからこそ、人のためにとりなしの祈りをしていきましょう。
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by higacoch | 2014-10-30 09:48 | フィリピ

2013年3月24日

「へりくだって生きる」  イザヤ書50:4-11、フィリピ2:1-11 
                             
 パウロは言いきっています。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。
 キリストは私たちと同じ人間になられました。それはなぜでしょうか。それは私たち人間を愛されたからです。だから人間になられたのです。しかも十字架の死に至るまで従順でした。ここにイエス・キリストの覚悟が表されています。
 預言者イザヤは語っています。「彼は、多くの痛みを負い、病を知っている。・・・彼が担ったのは、わたしたちの病、彼が負ったのは、わたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだと、・・彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼が受けた懲らしめによってわたしたちに平和があたえられ、彼が受けた傷によって、わたしたちはいやされた。・・・彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために、執り成しをしたのは、この人(天使ではない)であった。」と。
 人々は最初、イエス様の所に集まってきました。ですが最終的には、イエス様を拒否し、最も屈辱的な十字架刑で殺したのです。パウロは、このようにイエス様は「へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と言っています。このイエス様の従順は、人に対してではなく、父なる神への従順でした。父なる神が、すべての人の救いを実現するために、イエス様を地上に送られたからです。
 今朝の箇所を細かな説明をしていくのではなく、この言葉を素直な心でストレートに聞きたいと思います。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
 人間関係で本当に難しいことは、3節の言葉、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」ということです。このことは、いわゆる「先生族」と言われている人たち、議員、医者、弁護士、教師、牧師たちにとって、より難しいと思います。日頃、「先生、先生」と呼ばれていて、高みにいる人たちにとっては、余計に困難なことだと思います。ちょっと批判されると怒り出し、相手を見下したことを言うのです。その点、私自身も自戒しなければなりません。また皆さんもよくよく注意しなければなりません。
 パウロは、言っています。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いに、このことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。」と言っています。
わたしたちの国は高齢化の時代を迎え、孤独な高齢者と言うより、孤立している高齢者が増えていくと思われてしょうがありません。一人になりたいと言う人がいます。これは高齢者に限ったことではありませんが、一人がいいということで、独身主義を貫く人がいたりします。自分で好んで一人を選ぶのです。それに対して、一人でいたくない、寂しい、誰かと一緒にいたいと願っても、結果的に、一人になってしまう。孤立状態になってしまう、そういう人が増えていく。人が人に近づかないようになっていくのです。こうしたことは、いろんな問題を引き起こしていくでしょう。人は、人との間で生きていく時に、人間となっていくのです。人間が人間らしく生きていくためには、どうしても人間関係が必要です。
 パウロは言うのです。キリストは、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまでへりくだって生きていかれました。だから、神様は、キリストを高く上げられたというのです。ここに神の心が見えてきます。キリストが、へり下さって生きて下さったのは、私たちを愛されたからです。ここに神の愛があらわされています。神はそのイエス様を死からよみがえらせて下さいました。そして「あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
 イエス・キリストの生き方を模範として生きていきたい。
 受難週に入ったこれからの日々、わたしたちのために命をかけて愛して下さったイエス様の苦しみを覚え、わたしたちの罪を悔い改めて、イエス様の愛を覚えて歩んでいきましょう。信じて生きていきましょう。それこそが、真実の愛の歩みであり、私たちが模範とすべき歩みなのですから。
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by higacoch | 2013-03-30 17:15 | フィリピ

2013年1月20日

「心のフォルダを上げよ」  フィリピ3:17-21
                  唐澤健太牧師(国立のぞみ教会)


 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者にとなりなさい」。パウロはキリスト教の歴史の中で類まれな人物の一人だ。彼ほどキリスト教会の歴史において後の時代に大きな影響を与えた人物はいない。だからパウロに「わたしに倣う者となれ」と言われても、これはなかなか簡単なことではない。
 しかし、パウロは決して自らが完全無欠であり、非の打ちどころがない者として自分を提示しているのではない。パウロは「わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。なんとかして捕らえようと努めているのです」と言う。そしてランナーが前のめりになって「賞」を目指してひた走るように、自分も今まさにその途上にあることを語っている。パウロが「わたしに倣う者になりなさい」と言っているのは、このひたむきに「目標を目指している」姿にことに他ならない。
 なぜパウロは、「わたしに倣う者になりなさい」と呼びかけるのか。なぜパウロは、「わたしに倣う者になりなさい」と呼びかけるのか。それは「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」からである。十字架に敵対する歩みとは「(みずからの)腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えない」ことだ。「彼らの行きつくところは滅びです」(19節)。
 「しかし、わたしたちの本国(国籍、市民権)は天にあります」。パウロは、キリスト者は、この世においていったい何者であるのかを明確にする。このパウロの言葉はローマ帝国への愛国心が強かったフィリピに住む人々には、意味深長な言葉として届いたに違いない。ここにキリスト者のアイデンティティ、キリスト者の本性が凝縮されている。キリスト者とは、天の国の市民なのだ。
 「大使」と呼ばれる人たちがいる。彼らは外国で本国から全権を委任され、本国の命に従って職務を全うする人たちである。キリスト者は言うなればこの世にあって「天ある本国」の命に従って働く「大使」であり、教会は「大使館」なのだ。大多数の者たちが「この世のことしか考えない」中で、キリスト者は「天」のことを考える。この地に生きる者として、天の属する者として生きるのだ。
 以前、合同退修会でお招きした写真家の桃井和馬氏は世界各地の紛争地を巡る経験を通して、人間が生きる時に、「心のフォルダを引き上げる」ことの重要性を説いている。たとえば日本人というフォルダを一つ上げるとそこには中国や韓国を含む「アジア」がある。もう一つ引き上げればアフリカ、ヨーロッパを含む人間世界のフォルダ。さらに上に行くと、植物も動物も、地球に生きる同じ生き物。地球と言うフォルダの上は宇宙。宇宙の上は、人によって「神様」とか、「神々」とか、「絶対的存在」と呼ぶ。いずれにせよ「共通するのは、そこが人間の越えた領域」。つまり聖書の言うところの「天」がある。桃井さんは宗教紛争とか、民族紛争などの現場に立ちながら、わたしたちの今日の個所でいえば「天」までフォルダを引き上げる必要がある! と語る。
 第二次世界大戦の時にナチスの手を逃れるためにユダヤ人たちに「命のビザ」を発給し6000人の命を救った杉原千畝という人がいる。彼は本国(日本)からユダヤ人に対してビザの配給許可がおりない中で、彼は「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と言ってビザの発給を独断で行った。後に妻の幸子さんはその時のことを「『神は愛であり、愛は神である』と聖書にあります。異邦人であろうと人間と人間の愛は世界の幸せにつながるという、夫と私の考えは間違っていなかったと思います」と記している。彼は日本国では職務違反を問われたが、天の本国の職務に忠実であった。天に心のフォルダを思いっきり引き上げた人であった。
 今、非常にフォルダを下げる力が強く働いている。昨年末の国政選挙の結果いよいよその力が強くなることを危惧する。「十字架に敵対して歩んでいる者が多い」時代とは、今のことではないか。この時に国を超えて、天にまでフォルダを高く引き上げて生きる人間が必要である。心のフォルダを天にまで思いっきり引き上げよ!
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by higacoch | 2013-01-26 17:07 | フィリピ

2010年6月13日

『 平和の神が共にいて下さる 』   フィリピ4:4~9 今井榮子姉
 皆様の前で奨励するような事はありませんが、今、自分の今までの色々な事を振り返って、いつもイエス様が共に歩んで下さっている事を改めて考え、ほんとに身近な個人的な事しか話す事が出来ませんが、お話しします。
 皆様にお祈りしていただいた孫が4月8日に生まれ、ほんとに神様に感謝しています。生まれて二日後に小さな体で5時間以上かかる大きな手術をしましたが、神様の恵みを受けなんとか元気になり感謝しています。お医者さんから「そんなに危険な手術ではないが何が起こるかわからないので覚悟するように」言われました。そして必死に祈りました。「神様の御心のままに従います。でもどうか許されるなら元気にして下さい。」と。息子夫婦は最初何がなんだか解らずにぼうぜんとしていましたが、「医者に任せるしかない」と、思ったより冷静でした。
 新たに与えて下さった家族を神様は守って下さいました。そして今回の恵みで私の気持ちに変化がありました。それはご存知の方もいらっしゃいますが、私は夫を24年前病気で亡くしました。45才でした。2人の子どもは中学1年と3年でした。まだまだ父親を必要としている時なのに、なぜ神様は夫を取り上げてしまったのか納得いきませんでした。思えば夫はお酒が好きでタバコも吸うし、獣医としてですが、競馬場に勤めていた事もあり当然ギャンブルも好きでした。私自身は4代続いたクリスチャンホームで育ちあまり世間を知らずに育ったのです。そんな中で少し良い子にしていなければならないので息苦しかったのかもしれません。それでそんな夫と結婚したのかもしれません。
 最初は環境の違う中で子どもにも恵まれ、育てるのにも忙しく夫も家では優しく、家の事も良くし、子どもとも良く遊んでくれました。
 でもお酒を飲んで夜遅く帰ったり、酔っ払い駅でけんかをしてしまい、鉄道公安室に保護されたため夜遅く身元を引き取りに行ったりしたこともありました。だんだん私ももう少し親らしく、尊敬できる人でいてほしいと思うようになってきました。そんな中一番身近な夫を愛せなくて、多くの困っている人を愛する事は出来ない、自分で選んだ人なので一生かけて愛さなければならないと思わされていた時、突然医者から余命3カ月ですと言われ、先が真っ暗になってしまいました。大腸ガンでした。一生懸命看病しました。看病のかいなく亡くなってしまいました。夫が亡くなっても子どもが居ますし仕事もしなければならないし、忙しく毎日を送っていました。でも生きる目的が夫に仕え、夫にもキリストに出会ってほしいと願っていたのに神様の御心が解らなくなっていました。心の底では何故ですかと問いかけていました。息子が一昨年結婚した時も、とても神様に感謝しましたが、ここに何故夫が居ないのか、花婿の父親が居ない寂しさを感じました。
でも今回孫の顔を見ながら子どもたちもそれなりに大人になり、息子も家庭を持ち父親になったことで、夫はちゃんと父親の役をしっかり果たし、短い人生でも家族の中心として今も家族一人一人の心に生きているのを感じ、神様の大きな導きを思い、喜びを感じます。短い人生でも夫にとっては充分な人生だったんだと納得しました。
 そしてそんな私にパウロの言葉が励ましてくれます。フィリピの信徒への手紙4:4には「主において常に喜びなさい。重ねていいます。喜びなさい。」と言っています。うれしい事が有れば、喜びは当然ですが常に喜びなさいというのはなかなか出来ない事です。この手紙を書いているパウロはその時牢屋に入れられていたのです。フィリピ1:13に「私が監禁されているのはキリストのためである」と書いてある通りです。裁判にかけられ、もしかしたら死刑になるかもしれないのです。普通先が見えず不安で絶望してしまうところです。でもパウロは「主において喜びなさい」と言っています。主においてとは私たちがいつも主とともに生き、主の御手の中にあるということだと思います。だから悲しい事や苦しい事があってもキリストの御手の中に守られている事を喜びなさいと言っていると思います。
 当時、教会は迫害の中にありました。パウロはユダヤ人のねたみのため牢屋に入れられています。とても苦しい中にいます。でもその牢屋の中もキリストの内なのです。使徒言行録16:25にあるように牢屋の中で神を讃美し讃美歌を歌っていました。その時大きな地震があって牢の扉が開いてしまいました。でもパウロたちは逃げず牢屋の番人を信仰に招き入れ洗礼を授けました。このような事が広い心だと思います。イエス様は迫害する人のために祈るよう言われました。「思い煩うのはやめなさい。」(6節)とパウロは言っています。思い煩うのは困っている事を考え、どう対処したら良いか考える事とは違います。まだ起こっていない事を心配したり思い悩む事です。このような「思い煩い」は有効な事を何一つ生み出しはしません。そこからは何も解決出来ません。第一ペトロ5:7には「思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださっているからです」とあります。思い煩いは神様がして下さるのです。神様の領分まで入ってあれこれ心配するのは神様の領分を犯すことです。そういう余計な時きまって私たちの手足は動いていないのです。ああではないか、こうではないかとくよくよ考え心配している時は頭だけ動いて体は働いていなのです。思い煩いは神がして下さるのですから思い煩う代わりに「祈り願いを神様にささげましょう」とパウロは言っています。そして祈りは私たちの願望を神様にぶつけることではありません。私たちの願い以上の事が向こうから起こって来るのです。
 神様は私たちの願い以上のことをして下さいます。私たちは自分の力の範囲内のことしか祈りません。人知を超えた神の力を知らないのです。私たちのする事ではなく神様のなさる事への信頼なのです。
だからといって何事もあなたまかせで自分は何もしないので良いということではありません。思い煩ってばかりいると手足が動かず実行できませんが、神に祈り、頼りたのむ時、「神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守って」(7節)下さるのです。平和な心を与えられた人は立ち上がります。良い事を実行するよう神から力を与えられるのです。ただ道徳的に正しい人、品行方正でいなさいと言うのとは違います。いつも神に祈り、イエス・キリストを信頼することによって力が与えられ、道が示されて来ると思います。このようにパウロは祈りから実行に進む信仰を示しているのです。
 私は20才の時に洗礼を受け、今年で42年になります。その間色々な事がありましたが、神様がいつも共に歩み、力を下さったことでどんな事があってもイエス・キリストを信頼し、祈ってきた人生です。そしていつも守って下さった事を感謝しています。これからも色々あると思いますが、皆様とともにパウロのように真実に生きて行こうと思っています。「そうすれば平和の神はあなたがたと共におられます。」(9節)
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by higacoch | 2010-06-19 23:20 | フィリピ

2009年11月29日

「信じる者は待つのです」 フィリピ3:12-4:1  荒瀬牧彦牧師(めぐみ教会)

 以前、朝山正治先生が「信仰っていうのはその大部分が『待つ』だ」といわれていて、最近になってようやくその意味がわかってきた気がする。我々はキリストによって救いを得ている。神の国は確かに我々のうちに始まっている。しかしまだ救われていない。我々は「御国を来らせたまえ」と日々祈る者であり、神の約束を信じて、みこころが全地になる完成の時を待ち望みつつ生きている者なのである。
待つことをやめさせようとする力は強い。「あなたは一体何を待ってるのか。そんな信仰、トクなことはないよ。目に見える結果がすぐ出る、もっと良いものが他にあるのでは」というささやきが聞えてくる。現世利益を保証する宗教というのは、ある意味、「うちはお待たせしませんよ!おトクですよ」というセールスに成功しているビジネスであって、それは待ち望み続けることを愚かな行為とみるのである。
 あなたは待っているか?待ち望むべきものを待ち望んでいるか。それとも、ただ時の中を流されているか・・・これは重要な問いである。同じように時間を過ごしているようでいて、何も待っていない者と待っている者は根本的に異なる。「彼らは・・・この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを待っています」。
「待つ」という行為は、ぼんやりと手をこまねいているということとは違う。パウロの姿に注目しよう。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
 パウロのこの前傾姿勢から、我々は過去によってすべてを決定されてしまうものでなく、前から、未来から今をつくられるものだ、ということを覚えたい。我々はキリストによって捕らえられているがゆえに、キリストを捕らえようと前へ体を伸ばす。前にあるものが我々を形成する。もちろん、複雑な問題、悲しい事態には長くて重い歴史があって、その集積としての今があるということは否定できない。けれども、キリストにつながれ、キリストの命を受けているものは、過去によって身動きできないほどに支配されるのではないのだ。過去はキリストの十字架がおってくださったのだ。過去はもちろん重い。しかしなお我々はキリストゆえに新しく生きることを許されている。キリストに結ばれた者には確かに、未来からつくられるという次元があるのだ。
 「キリストは明日おいでになる」(『讃美歌21』244)は、過去と未来が交錯するような不思議な歌だ。しかしこの歌は、十字架と再臨の間を生きる我々の使命をよく表現しているように思う。「み子キリストは、いつの世にも/みどり子としておいでになる。/その約束を果たすために、/わたしたちをも用いられる。」
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by higacoch | 2009-11-30 22:06 | フィリピ

2009年9月27日

「私たちの国籍は天にあり」   ヨブ記1:21, フィリピの信徒へ手紙3:20-21

 本日は召天者記念礼拝です。今年私たちの教会では二人の方を天に送りました。今朝は過ぐる日に天に召された方々を覚え、その方の命を与え、その生を導き、天に召してくださった神をほめたたえます。
 今朝のヨブ記に「主は与え、主は奪う」とあります。主とは神様のこと、何を与え、取られたかと言いますと、勿論命であります。ここで解ることは私たちの誕生と死とは、神様によっているということです。生と死は神様の関わりの中での出来事であるのです。
 また「主が与え、主が取られる」(口語訳)というのです。そしてその前に「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」とも。裸とは、何もなく、体のままで生まれ、体のままで帰る、これが命の誕生の始まりであり、死ぬ際の様です。私たちはいろいろなものを持って生まれたわけではなく、いろいろなものをもって死んでいくのでもありません。裸で生まれ、裸で帰るのです。特に今朝は「裸で、そこに帰ろう」という「そこに」とは、どこなのかに注目したいのです。「そこ」とは私たちには解りえない暗闇なのでしょうか、そうではありません。その答えは今朝の新約聖書の言葉であり、今朝の説教題でもあります。それは天であり、神の許とも言い換えても良いでしょう。ですから「そこに帰る」とは、神の許に帰るということです。新約聖書にはこうあります。「わたしたちの本国は天にあります」と。ぜひ、今日来られた方々が、このことを覚えて帰って頂きたい。「私たちの国籍は、天にあり。」先に天に召された方々を私たちは覚え、偲びます。地上で共に歩んだ生活があり、その想い出があります。しかし私は、先に天に召された方々について、「天に行かれた」と言っていません、自分でそこにいくのではありません。それは先程からお話ししていますように、死という出来事は神様による出来事でありますから、神様によって天に召されるのです。
 私は先週、日本でホスピスケアを最初に始められた柏木哲夫氏の「良き生と良き死」という本を読みました。柏木氏はホスピス病院の医師で、これまでに約2500名の方々を看取り、その死に立ち会われました。多くの患者さんの死に接して、本当に「良き死」を迎えるためには、「良き生」を生きる必要があるというのです。「良き生」は「良き死」につながるもの、「良き生」とはやはり私たちは「神様によって生かされている」ということを徹底的に意識して生きる、その一言に尽きるのではないかと思いますとまとめられています。このことを考えますと、神が命を与え、命を取られることを受け止めることができるのなら、本当に幸いだと言えるのです。
 私たちは、神によって命が与えられ、生かされていることをしっかりと覚えていきましょう。神様を信じ、イエス・キリストの愛を受け止めて、信仰の道を歩んでいきましょう。ぜひ、皆さんもその歩みをして、今生かされている命を生きていって頂きたい。先に天に召された方々は、帰るべき所、私たちの国籍である天に帰られ、今は神様によって平安を頂き、憩われていることを信じます。
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by higacoch | 2009-09-28 15:04 | フィリピ