カテゴリ:イザヤ書( 6 )

2015年10月18日

「もはや戦うことを学ばない」  イザヤ2:1−5
                               唐澤 健太 牧師(国立のぞみ教会)

 「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」(4節)。
 ニューヨークにある国連広場の壁に刻まれている上記の言葉は、預言者イザヤに「終末の幻」として神から示された言葉である。イザヤは紀元前8世紀に南ユダで活動した預言者であるが、彼が活動した時代は世界史の教科書では「アッシリアの平和」として紹介される時代だ。アッシリア帝国が豊富な財力と強大な軍事力によって支配権を広げ、周辺の小国を傘下に治めていた。アッシリアに追従するか、反アッシリアの立場を取るのか、諸国はもう一つの大国エジプトとの関係を天秤にはなりながら、難しい外交交渉が求められていた。ユダの同胞北イスラエルはシリアと手を組んで、反アッシリアの立場を取り、それが引き金となり前721年にアッシリアによって滅ぼされた。
 大小の戦いがパレスチナ地方で繰り返し起こったがイザヤが預言者として晩年を迎えた前701年、南ユダは最大の危機を迎える。都エルサレムが、アッシリア軍によって完全に包囲され、周辺の町々はアッシリア軍によって壊滅。アッシリアに抵抗を続ければエルサレムも完膚なきまでに破壊され、北イスラエルと同じように国そのものが滅亡に至ることは火を見るより明らかな状況に追い込まれていく。
 この時に、南ユダのヒゼキヤ王はアッシリアに降伏し、アッシリアはエルサレムからあらゆる金銀財宝を奪っていった。何とか南ユダは生き延びたけども、町は滅ぼされ、アッシリアの支配下くだり、アッシリアの属国になった。まさにこの敗戦のただ中で示されたのが、この「終末の幻」なのだ。
 イザヤは大小の繰り返される戦争を経験する中で、争いの行き着く果てに、累々たる屍が積み上げられる現実を知っていた(1:5以下)。だからこそ人を殺す剣と槍が、人の命を育む鋤と鎌という農具に変える「主の道」が決定的な言葉として、痛烈な幻として、彼に迫ったのだ。アッシリアに敗れる経験の中で「もう戦うことを学ばない」という新しい道を神の幻としてイザヤは示された。それは、アッシリアの支配という暗闇の中に、まさに「主の光」として示されたのだ。その道こそ、ヤコブの家、すなわち神の民が歩むべき道だ!
 これは戦後70年を迎え、そして「集団的自衛権」を容認する法律が可決された今、私たちが今一度聞かなければならない神の言葉である。わたしたちの国は、70年前に戦争に敗れた経験から「もはや戦うことを学ばない」ことを決意し、新しい憲法を制定した歴史をもつ。戦争というものの本質をいやというほどに味わいつくした所から、「もう二度と戦争をしない」という決意を新しい出発とした。私たちの国の歴史において「戦争放棄」を謳う日本国憲法が与えられたことは、「剣を鋤とし、槍を鎌とする。もはや戦うことを学ばない」とイザヤに示された神の終末的幻をこの地上において目指していく目標として与えられたのだと受け止めることができる、と私は思う。
 平和のためには武力が必要だという声は大きい。それこそが現実的な「平和」への道だという。「積極的平和」という言葉で国のリーダーたちは語る。しかし、それは本当に現実的なのだろうか。政治学者のダグラス・ラミスさんは、「20世紀ほど、ほとんどの人がみんなの安全を守る現実的な方法は、国家の体制を整え、軍事力を強化することだと信じていました。そして、世界の人々は実際にそうしたのです。その結果はどうだったでしょうか? 20世紀は安全でしたか? 20世紀はそれまでのどの世紀よりも多くの人の命が戦争によって奪われた世紀だった」と指摘している。「現実的に」というならばこの歴史の現実を直視しなければならない。私たちには、「新しいアイデア」が必要なのだ。「もはや戦うことを学ばない」と決意した平和憲法、とりわけ憲法9条は新しいアイデアなのだ。
 昨年、「憲法9条にノーベル平和賞を」という運動が展開され、憲法9条を守ってきた日本国民がノーベル平和賞の候補にノミネートされた。今年も受賞は逃したが、ノミネートされていた。この運動の発端は一人のキリスト者の女性である。彼女はオーストラリアに留学時代に戦火を逃れて難民となった人々と多く出会い、戦争に巻き込まれる悲惨さを知らされ、大変衝撃を受けた。
 帰国後、結婚し子どもを授かる中で、「戦争になったら子どもが泣く。世界中の子どもたちを守るため、戦争をしたくない」との思いを強くし、」改めて憲法ついて学ぶと、これは聖書に書いている教えと響き合うものだと心の迫るものを覚えたという。自分にできることは何かと考える中で、返事など期待せずに、一通のメールをノーベル平和賞委員会に送ると丁寧な返事が来て、そこからあれよ、あれよと運動が展開していったという。
 彼女のまっすぐな信仰がこの出来事を引き起こしたのだと思う。結果がどうかはわからないけども、すでに多くの人がこの運動を知り、改めて私たちの与えられている「非戦」の誓いを誇りにしていくことを受け止めている。私たちは国際的な政治学者でもないし、経済学者でもない。一人の小さなキリスト者だ。キリスト者は神の言葉に従う。神の国の幻を見て生きる者たちだ。「もはや戦うことを学ばない」。この御言葉をこの朝の私たち一人一人の心からの決心としよう。平和はその一人一人の決心によって支えられるのだから。
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by higacoch | 2015-10-23 09:19 | イザヤ書

2011年12月25日

「共に生きて下さる方の誕生」
  イザヤ11:1-10、ルカ福音書2:8-20
     
 
 皆様と共に、クリスマス主日礼拝を捧げることができたことを感謝します。また今日は子どもと一緒の礼拝で、教会学校の子どもたちと共に礼拝し、イエス様の誕生を喜び、祝うことができ、本当にうれしく思います。
さて、今年は忘れられない年となりました。3月11日に東日本大震災があり、大津波が押し寄せ、多くの人や家、畑、学校、職場などを襲い、未曾有の大被害をもたらしました。さらに福島の原子力発電所の事故が起こり、放射能が飛散し、今も住みなれた故郷を離れて避難生活を強いられている人たちが多くいらっしゃいます。幼な子や妊婦の方々には放射能被曝の影響が強く、県外に引っ越して生活をしている方々も多いのです。放射能に汚染された地域に住んでいた方々は何時戻れるのかは定かではありません。今除染活動が為されてはいますが、目には見えない無色無臭の放射能の不安は簡単にはぬぐえません。
 こうした大被害を受けた地域に震災後、多くの支援が為されたことも私たちは知らされます。国内外から支援部隊が来たり、支援物資、義捐金が送られました。また国内からも多くのボランティアが被災地に行き活動しました。そして今年を一文字で表す漢字に「絆」が選ばれました。大きな震災がありましたが、この震災によって、人と人とのつながり、「きずな」が与えられた年でもありました。
 私は先週の新聞で奇跡の一本松の記事を読みました。7万本の松が立ち並んでいた陸前高田市の「高田松原」に津波に流されずに1本の松が残り、復興に向けたシンボルとなっていたのですが、根が腐って枯れてしまい、回復の見込みがなくなりました。ですが、某会社が地元の保護団体の依頼を受けて松の子孫を残す取り組みを続け、残った松ぼっくりから種を採取したり、また切り取った枝を「接ぎ木」して新しい苗を育てることに成功したというものです。この記事を読んで本当に嬉しくなり、希望を感じ、喜びが溢れてきました。この奇跡の一本松、そうだ、これは聖書にある、まさに今朝のイザヤ書です。ここは救い主、イエス・キリストの預言として記されている箇所です。「エッサイの株から一つの芽が萌えいで」とあります。エッサイは人の名で、その子孫からメシアが生まれるということです。
 預言を語ったイザヤが活躍した時代は、苦難の中にあり、国が巨大な軍事国家によって滅ぼされようとしている時代でした。ユダヤの国は南北に分かれていて、北の国はすでに滅ぼされ、南の国もその国に脅かされていました。それは木がどんどん切り倒されていったということです。しかし、すべてが切り倒され滅ばされていったのではありません。切り倒された切り株には命があり、そこから新しい芽が出るとイザヤは預言しました。この方には、神からの霊が留まって、正しい裁きをされるとあり、この方が支配される国は「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」世界だと預言しています。
 イザヤの預言から約700年経ってから約束通り、この方は誕生されました。それがルカ福音書に記されています。この方は家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされた方でした。このことは、人としてもっとも低くなられたことであり、羊飼いたちのように人々から見放された人々と共に生きられるということを示しています。そしてこの方は、成長されても人々と共に生きて、その最後には、人を愛し、人々の罪を赦すために十字架で死なれて、神の愛を示されました。
 人と人とのとつながりである絆を考える時、この方は、私たちを愛して、ご自分の命をも犠牲にして神と人との絆を作って下さいました。この絆は神によってもたらされた一方的な愛による絆で、これによって私たちを生かして下さっています。
 この方が創り上げられたのは、狼と子羊が共に生きる世界です。これは比喩ですが、共にいることができないような相手と共にいる、共に生きることができる、そのような世界を造り出される方なのです。そのように、私たちも共に生きるようにと導かれているのです。仲たがいしている世界は身近にもあります。家庭の夫婦の間にも、親子の間にも、どうすることもできないと言っている世界があります。国と国とも間にもあります。共に生きることができない所が多くあるのです。そうした所に、共に生きる世界を造り出される方なのです。敵の隔てを壊し、共に生きることができるようにして下さった方です。その隔てとは、私たちの罪です。その罪のために十字架で死んで下さって、救いを完成して下さいました。私たちを見捨てず、共に生きて下さったのです。その事によって、私たちも共に生きるようにと導かれています。
 この方の名はイエス、「神は救い」という意味で、私たち一人一人を救って下さいました。そして、この方こそ、「インマヌエル」と呼ばれるとあります。「神我らと共におられる」という意味なのです。私たちが共に生きるように、共に生きて下さった方であり、今も共に生きて下さっている方なのです。
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by higacoch | 2011-12-27 00:52 | イザヤ書

2010年12月5日

「しるしが与えられる」  イザヤ7:3-14、マタイ福音書1:21-23

 アドベントになると礼拝堂にはクランツ、また壁やドアにはクリスマス・リースが飾られますが、最近ではクリスチャンでない家でも、玄関ドアにリースを飾ることが多くなってきました。そして商店街にはイルミネーションが飾られ、クリスマス・ソングが流れてきます。このような光景をみますとクリスマスが多くの方々に知られ、日本の社会に浸透してきているようにも感じられます。しかしクリスマスはイエス・キリストの誕生日だと知っていたとしても、それがどのように預言され、そして実現されていったのかを知っている人はまだ少ないと思います。
 イエス・キリストの誕生の預言をはっきりと示しているのは預言者イザヤです。イザヤ書には、今朝の箇所以外にもいくつかイエス・キリストのことが預言されています。こうしたことから、新約聖書の中にある「預言が成就した」という引用は、イザヤ書からもっとも多くなされているのです。14節に「わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。」とあります。しるしは旧約聖書に多く記されています。79回も記されていますが、ノアの物語での神様の契約のしるしである虹、またモーセがエジプト王ファラオの前で示した災いのしるしなどがよく知られています。  
 イザヤの預言が語られた当時は、アハズ王の治世の時代で、歴史的にはまさに乱世でした。巨大な軍事国家が周辺国家を脅かし侵略しており、諸国の王もその恐怖にさらされていました。国内でも権力闘争が行われ、王の暗殺が起こり、体制も不安定でした。そのような時代に、アハズ王は軍事力に頼り、大国アッシリアに助けを求めていきました。イザヤはアハズ王に軍事力に頼るのではなく、神を信頼するようにと進言しましたが、聞きいれませんでした。このような軍事的な力が世を支配しているような時代にイザヤは「救い主が生まれる」しるしを預言しました。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ」と。ここにあるのは、勇壮な軍事的な指導者、ダビデ王のような偉大なる王が出現するというしるしではありませんでした。そうではなく、おとめが身ごもって男の子、赤ちゃんが生まれるというものだったのです。
 ここに神様の深い御心が示されています。それは、戦争時にもっとも弱いのは赤ちゃんです。人の中でも力弱く、戦時下では一番に犠牲を強いられます。人間の罪によって引き起こされる戦争で幼な子が殺されていく、そのような弱い存在である赤ちゃんがしるしとして、与えられているのです。(昨日、私のもとにユニセフ(国際連合児童基金)からの郵便が来ました。ユニセフの事務局長のメッセージが載っていて、「世界では、頻発する自然災害、紛争、貧困などの影響が、もっとも弱い立場の子どもに重くのしかかり、今この瞬間にも何百万人ものこどもたちが病気や空腹に苦しんでいる。私たちは飢えや病気、紛争や災害に苦しむ子どもたちの命の権利を守るために活動をしています。今も約4秒に一人、幼い子どもが5歳の誕生日を迎える前に亡くなっています」とありました。)
 人の世界ではいつの世も、戦争、紛争、争い、喧嘩、家庭内にもめごと、そうしたことが起こります。そのような時、もっとも弱い立場にある幼な子、赤ちゃんが虐げられる、今の社会も児童虐待があるようにです。イザヤの戦争が絶えなかった時代に、もっとも弱い存在である赤ちゃんがしるしだということを考えていく時、命の大切さを教えられます。弱い存在の命に心が向くようにと神様が私たちに示していると思えます。
 しるしとして示された「男の子の赤ちゃん」のことが、少し後の9章にも記されていますが、そこには「 闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 ・・・ 地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる。」とあります。戦争が絶えなかった時代、そのような悲惨な状況の中で戦いの王がしるしとして与えられたのではなく、平和の王となる赤ちゃんがしるしとして与えられるとイザヤは預言しています。そしてその子の名はインマヌエル、「神は我々と共におられる」という意味なのです
 旧約聖書にも神はある特定の人物と共におられたことが記されています。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセなどと共におられました。危機的な状況の中で主が共におられたことが記されています。しかしイザヤが預言した、「インマヌエル」は神がある特定な人と共にいて下さるという約束ではなく、私たちと共にいて下さるという約束です。つまり、神ご自身が赤ちゃんとして肉体を取って生まれることでした。そしてイザヤの預言後700年ほど経って、しるしであるイエス様がお生まれになられたのです。こうしてイザヤの預言は成就しました。
 私たちのために、私たちと共に生きられたイエス様、平和の王として、命を大切にされたイエス様、私たちの救い主であるイエス様の誕生を喜び、クリスマスを待ち望みながら、過ごしましょう。
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by higacoch | 2010-12-11 17:13 | イザヤ書

2010年2月14日

「喜びの祝い」 イザヤ書56:1-8、マタイ福音書21:12-17

 今朝与えられた旧約聖書のイザヤ書の7節にこうあります。「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを許す」と。これは神様が異邦人を「わたしの祈りの家の喜びの祝いに、集うことを許す」と言われていることです。異邦人が招かれているということは、すべての人が招かれていることです。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とあり、全世界の人々が祈りの家に導かれているということであり、つまり、私たちも、求道者(あなた)も、さらに神様をまだよく知らない人も招かれているということです。「わたしの家」それは、現代では教会であります。
 さて、その教会で神様の言葉が語られ、イエス・キリストの救いの出来事が語られます。ここには全ての人が招かれています。そして、イエス・キリストの救いの恵みを知らされ、そして救いの恵みを頂くようにです。それは「神はその独り子、イエス・キリストをお与えになったほどに、世を愛された―あなたを愛されたのです。それは御子なるイエス・キリストを信じる者が滅びないで、永遠の命―神様からの命を得るため」なのです。神様が、イエス・キリストを世にお送り下さったのは、世の人々、あなたを裁くためではありません。そうではなく、イエス・キリストによって、世の人々(あなた)が救われるためにほかなりません。イエス・キリストによって罪を赦されて、あなたが生かされていくためです。
 ですから、主の日は、あなたが神様によって愛されたことを知らされた、また知らされる日でもある、祝いの日であります。この日が、イエス様が復活し勝利を表された日であり、弟子たちに約束されたように悲しみが喜びに変えられた日であります。悲しみが悲しみで終わらない、苦しみが苦しみで終わらないことを証明された日でもあります。
 人生のどんな悲しみも、苦しみも癒されないものはないのです。昔の讃美歌(532番)にもありました。「主のうけぬこころみも、主の知らぬ悲しみも、うつし世にあらじかし、いずこにも、みあと見ゆ、昼となく夜となく、主の愛に守られて、いつか主に結ばれつ、世にはなき交わりよ。昼となく、夜となく、主と共にましませば、癒されぬやまいなく、幸ならぬ、まが(災難)もなし」と。主と共にいれば、癒されない病はなく、幸福でないわざわいもない、ということ。
 私たちの信仰告白の「主の日」の箇所にはこうあります。「創造主なる神は、一週間のうちの一日を神の本質と御業を特に覚える日として定めらました。キリストの復活後は、キリスト者は週の第一日を主の日として祝うのである」。主の日は、主が復活した日として祝う、安息日としての第七日ではなく、週の初めの日、第一日として、この主日に私たちは喜び祝うのです。
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by higacoch | 2010-02-21 19:32 | イザヤ書

2009年8月30日

「正義と公平」  イザヤ書 11:1-10, マタイ福音書 5:9

 預言者イザヤの時代、ユダヤの国は南北に分かれていて、イザヤは主に南ユダ国で活躍しました。南ユダ国の王が軍事大国アッシリア帝国に頼ろうとした時、イザヤは神のみに信頼し、静かにしていなさいと進言しました。しかし王はアッシリアに頼って国の安寧を求めました。そして一時的には滅亡を免れるのですが、その後の新たな軍事大国バビロニア帝国によって滅ぼされてしまいます。これがユダヤの歴史の中で「バビロン捕囚」と言われるものです。このバビロニア帝国も後にペルシャ帝国に、ペルシャ帝国はマケドニアのアレキサンダー大王によって滅ばされていきます。武力をもって隣国を侵略した大国は、武力によって滅ばされていきました。これは主イエス様が「剣を取る者は、剣で滅びる」と言われた通りなのです。剣をもって平和を創り出すことはできません。
 ここにはイザヤが神から与えられた幻が二つ記されています。一つは1~5節、もう一つが6~9節です。この箇所のまとめとして小見出しに「平和の王」とあり、6節以降の幻がそれを良く表しています。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれらを導く。・・・。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」と。人間の世界も、獣の世界も、弱肉強食の世界であり、相手を餌食としてしまう世界の中に生きている私たちにとっては信じられない世界です。軍事大国が次々に周辺国家を侵略し、隣国を蹂躙していた時代に活躍したイザヤにとっても信じがたい光景でした。しかし、この光景が神から預言者イザヤに与えられたのです。ここには神による平和が示されています。イエス様が「平和を創り出す者は、幸いだ。彼らは神の子と呼ばれる」と言われたのですから、どんなに小さな一歩、遠い道のりであっても祈り求めていくべきだと信じます。相手に軍事力で恐怖を与え、防御のためには必要悪だと、軍備を持ち、増強し続けるのは、戦いはなくても平和への道ではありません。
 預言者イザヤが与えられたもう一つの幻は、一つの切り株からひとつの芽が出てきたというものです。切り倒される木は、南ユダ国が滅びるということです。しかし、やがてその切り株から一つの芽が出て、それが育ち、若枝となる。その若枝は主の霊に満たされている。この若枝こそ主イエス様であり、弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人を公平に弁護する方であります。イエス様はナザレの会堂で言われました「主の霊が、わたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたから・・・」と。主イエス様はこの罪の世界に神の正義と公平を表して下さいました。弱い人も貧しい人も共に生きることができる、そこにこそ正義と公平があるのです。
 神は私たちを愛して神の民として、私たちが真の平和が創り出していくように導かれていることを覚えたいものです。
 
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by higacoch | 2009-08-31 19:41 | イザヤ書

2009年8月16日

「戦争を引き起こすもの」   イザヤ書 5:1-7、 ヨハネの手紙一 3:15

 戦後64年が経ちました。生き証人が少なくなってきていますが、戦争を風化させてはなりません。戦争の残虐さや悲惨さを次の世代に伝えていかなければなりません。
 今年も広島と長崎で平和宣言が為されました。どちらもアメリカ大統領オバマ氏が「核兵器のない世界を目指す」と宣言したことを取り上げました。核保有国の中で超大国であるアメリカが核兵器廃絶に向けてようやく最初の一歩を踏み出した歴史的な瞬間でした。しかし、その翌月には北朝鮮が2回目の核実験を強行しました。悲しい現実であります。64年前の原爆よりももっと強力な爆弾が、この地上には数え切れない程に保有されています。こうした核爆弾を人間が戦争のために創り出したのです。
 今朝の旧約聖書のイザヤ書に、人間たちの争い、流血が記されていますが、ここは、預言者イザヤによって、神の嘆きと人間の罪への糾弾が為されている箇所であります。神は「わたしは、あなたがたである良いぶどうの木を良い地に植え育てたのに、あなたがたは良い実を結ばず、酸っぱい実を付けた」と言われるのです。あなたがたは独占欲に駆られ、貧しい人々の土地を奪い、自分の財産を殖やして悪を重ね、争いが起こり、流血が為されていると。
 かつて、日本は、アジアを侵略する時、大東亜共栄圏を作ろう、ヨーロッパの国々の植民地支配からアジアの諸民族を解放し、共に栄えていこうと打ち上げ、解放者日本のイメージを大々的に広めていきました。しかし、実はアジア諸国を侵略し、土地を奪い、その民の名を奪い、神社参拝を強制し、天皇のための兵隊になるように皇国臣民になるように教育していきました。
 人が欲に駆られ、隣人のものを奪い取る時、そこに争いが生じ流血が起こります。国が隣国を奪い襲う時、戦争となっていきます。戦争を引き起こすもの、それは人間の罪です。神は人間の罪を糾弾されました。
 預言者イザヤは、神の嘆きと人間の罪の糾弾だけを伝えたのではありません。そんな罪深い人間をも救う神の計画をも伝えました。それが7章に記されているイエス・キリストの誕生です。平和の王として地上に来られたイエス・キリストは言われました。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と。私たちは戦争ではなく、平和を創り出すことを求められているのです。
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by higacoch | 2009-08-22 18:01 | イザヤ書