カテゴリ:創世記( 15 )

2013年6月23日

「創造された世界の秩序」 創世記1:1-31、Ⅰコリント4:1-2
                            
 私は昨年の6月に福島県相馬市にある原町教会に、除染ボランティアに出かけて、セシウムの値が高い場所、牧師館の庭の表土、最低5㎝を除去する作業をしてきました。5㎝と言いながらもより安全のために10㎝位、表土を削り取ったものをズタ袋に入れて、その数400袋位になりました。
 さて、この世界、大地、空、山、海、川などは神様の創造によるものです。この地は初め混沌であり、闇が覆っていました。そのような中にも神の霊はありました。そこで神様は「ひかりあれ」言われ、すると、そのように「光」が創造されました。そしてその光を見て「よし」とされました、これは神様にとって「光」が良いものであったということです。それから一日一日、一つ一つを創造し、最後の6日目に、神様は自分に似せて人間(男と女)を創造されました。こうして天地のあらゆるもの、生き物を創造されました。創造された後に、神様は、その創造したものをすべてご覧になって極めて良かったと喜んでおられます。このことはすべての創造物だけではなく、創造の秩序をも含んで良いものでした。すべての創造物の秩序も良いものであったということです。そして、神様は彼ら(男と女)を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と命じられました。この「支配せよ」と言うのは、上から支配することではなく、「仕えよ」という意味があり、創造されたものに仕えながら、かつ管理することが求められているのです。
 私たちのカンバーランド教会は20世紀の後半になって初めて、私たちの信仰告白のなかに、クリスチャン・スチュワードシップという項目を入れました。これは「キリスト者の管理の務め」として訳され、自然の被造物、また生物なども含めて、キリスト者がよき管理をすることが求められています。その最初には「キリスト者の管理の務めは、すべての命と創造物は、神から委託されたものであり、神の栄光と奉仕のために用いられるべきことを承認することである。それは、人間の技能や力を創造的に用いるだけではなく、天然資源を保護し、責任をもって用いることである。これらの神からの賜物は、すべての人、特に貧しい人々と分かち合うものである」とあります。ここにすべての命と創造物は、神から委託されたもの、神の栄光と奉仕のために用いられるべきとあります。それがどうでしょう。神の栄光のためではなく、人間の栄光のために用い、奉仕のためではなく、むさぼりのために使われ、かつ不要となれば、勝手に捨てられたりしました。それ以前は、神様が創造された世界では、それぞれの創造物が、時と共に死を迎え、土に帰っていきました。土に還らないものはありませんでした。しかし土に還らず、分解されないものを人間が造ってしまいました。それはゴミです。そして今や「原発のごみ」「核のゴミ」が大きな問題となっています。このゴミは人間が扱えないものです。処理できないので地中深く埋めたり、自分の国では危ないので、外国の地に持って行き、地下深くに埋めるとかの計画がなされていますが、これは危険物をただ目に見えなくしているだけなのです。
 私が福島の地へボランティアに行った時、早朝に原町教会の周辺を散歩しました。近所の農家の庭の果実は収穫されずに、そのまま放置されていました。また畑も放置されて、草ぼうぼうでした。草を取ることも、耕すことができない様子でした。もっと放射能汚染が高い地域では、人も動物も住めないし、田畑の作物の収穫物も出荷できません。まさしく死の畑、死の村となっているのです。核のゴミは、死の霊のようなもので、その死の霊がただよった所のものは、死んで行くのです。こうしたものをゴミとして産み出すことは、神様が創造されたこの世界を死の世界としていくことです。神の栄光のためには決してなりません。その逆なのです。
 伝道者パウロは、コリントの教会にあてた手紙で、「わたしたちは憐れみを受けたものとして、この務めを委ねられているのですから、落胆しません。」と言っています。私たちの歩みの中には、いろいろな滅びに通じる道があります。自然破壊の道も、そうした道だと思います。そうした道へと、私たちは歩むべきではありません。そうではなく、この自然を、天地万物を創造された神様をほめたたえて、神様が与えて下さった創造の秩序をしっかりと受け止めて、託された務めを果たすようにしていかなければなりません。小鳥たちや草花が、創造され、生かされ、神様を讃美しているように、私たちも創造主なる神様をほめたたえて生きていきたいものです。そのためには、創造の秩序を壊す、特に、今日、原発における核汚染を進めてはならないのです。神様の創造の秩序を覚えて賛美することは、それを壊すものには、はっきりとNoと言わなければなりません。このことは、キリスト者の管理の務めとして為すべきことです。神様によって創造され、管理の務めを託された私たちは、神様の栄光のために、被造物を用いるのであって、人間の栄光のために用いるべきではないのです。神様の創造の秩序を壊すことなく、神様から与えられたものを生かし、生きていくことが、託された務めを果たす道だと信じています。
[PR]
by higacoch | 2013-06-29 11:49 | 創世記

2012年1月29日

「他国に宿るように」創世記12:1−9、ヘブライ人への手紙11:8−6
                           宮島 熱示 伝道師


アブラハムは、神が人類の救済をするにあたって始めに選ばれた人です。全ての民族は、彼によって祝福を受けるであろうと神が約束しています。アブラハムには、長い間、子孫が与えられなかったので、やむをえず、ハガルとの間に子を得ます。これがイシュマエルといい、これがアラブ民族の祖先となりました。その後、すでに高齢になっておりました正妻サラとの間に生まれた子がイサクであり、これがイスラエル民族の祖先となりました。アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教では「信仰の父」、イスラム教では「五大預言者のうちの一人」と言われています。

古代人は「領土」「宗教」「人々」という三つの要素が合わさって、初めて一国家、一民族であると考えられていました。それがどれか一つでも欠けると民族としてのステータスがなくなりました。民族があっての個人であり、民族から切り離された個人というものは、存在しなかったのです。そのような時代に「神が土地を与えるという約束を信じた」「行き先も知らずに出発した」ということは大変なことなのであり、神への信仰があったゆえに出来たことでありました。

「他国に宿るようにして」ということばの意味。よく考えてみますと、不思議なくだりです。アブラハムは神に呼ばれて、その生まれ故郷から旅立った。行き先は知らなかったのです。でもこの時の行き先はどこであったか、と言いますと「約束の地カナン」です。約束の地カナンまでの旅立ちであったとなれば、そこに到着すれば、落ち着くはずです。そこに家を建てて、安住の地として、自分の新しい故郷になるのです。
しかし、アブラハムは約束の地に住みましたが、そこを他国にしたのです。「他国に宿るように」住んで、そこを永住の場所としないように、定住式の家を造らないで、移動式の幕屋に住んだのです。
実際には当時、その地にカナン人が住んでいましたから、土地の所有は未だ約束のみで、将来にという約束でした。アブラハムは自ら「地上では仮住まいの者であることを告白した」つまり自分は旅人である立場を認め、それを告白したのです。

アブラハムは神の約束を疑わず、それが自分の本来の故郷でないことを知った上でカナンの地に住んだのです。 アブラハムはカナンの住民の間に天幕を張りながら移動して生活していました。唯一所有したのは妻サラの墓地だけでした。
基礎を据えない幕屋に住むということは、アブラハムは地に根を下ろさないように気をつけていた、ということです。彼はこの世を、いつも仮の住みかとしていた、そこにアブラハムの信仰があるのです。地上を安住の地とするか、仮の住みかとするか、そこにクリスチャンとしての信仰が問われるのです。

多くの人たちは、安泰な生活ができるように、心の安らぎを得るため、宗教や信仰を求めておられます。しかし、クリスチャンが真に平安になれるのは、この世の安泰を求めるのをやめたときです。
「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」とあります。彼は、土地が与えられるだけではなく、子孫が与えられるだけではなく、都、それも計画都市が与えられることを期待しました。
 たとえばローマ帝国は他の民族を征服して支配していきますが、結局、支配した民族の文化に侵されて、滅びてしまいました。だから、たとえカナン人が滅んだとして、その残った都市にアブラハムの子孫が住んだとすれば、その都市文明の価値観、文化に汚染され、イスラエル人は、カナン人のアイデンティティーを受け継いだ民族になりさがってしまう、という危険性は充分にあったのです。
アブラハムはそれを見抜いていたのです。だから、カナンの繁栄にまどわされることなく、神ご自身が設計され、建設される、確実な基礎が据えられる都を待ち望んだのです。それに相応しい生き方をしました。約束の地にありながら、あえて他国に宿るように、待ち望みつつ、地上の生活を送ったのです。
 
私たちひとり一人は、表面的には、日本のどこか地方から出て来て、東京に住んでおられかもしれない。またある方々は、この土地に生まれお引っ越しをした経験がないかもしれません。しかし、エフドキーモフはこう書いています。「しかし、霊的に深く掘り下げて考えるならば、すべての人は移民であり、亡命者であり、エデンの園から追放されたものなのです。」と。
アブラハムのように、この世にあっては、よそ者であり、寄留者である、ということを心に止めましょう。政府の提供する保障やその国力に心の安きを得るのでなく、神の備えておられる天の故郷にこそ我が望みがあるのだ、と告白しましょう。
他国に宿るようにして、この世に住む、他国に宿るようにして日本に、アメリカに、ブラジルに住む、これがクリスチャンの生き方なのです。
[PR]
by higacoch | 2012-01-31 01:25 | 創世記

2011年3月6日

「あなたたちを救うために」 創世記45:1-15。ヨハネ福音書 3:17

 先日私は映画「インビクタス」を観ました。1995年、今から16年前のことですが、その年にラクビーのワールドカップが南アフリカ共和国で行われました。その前年に、ネルソン・マンデラ氏が初の黒人大統領に選ばれ、就任しています。彼はそれまでアパルトヘイト(人種隔離政策)を取ってきた国家に対して、反対運動をして反逆罪とされ、27年間獄中生活を強いられていた人ですが、アパルトヘイト撤廃後、初めて白人、黒人を問わず、すべての人たちによる大統領選で選ばれました。人々からは「選挙には勝ったが、果たして国を率いていけるか」と揶揄されたりしました。この映画では、マンデラ大統領がどのように国づくりをしていったのかが、事実にもとづいて、ラクビーチームの成長と共に描かれています。マンデラ氏は今までの黒人に対する迫害に復讐することなく、融和政策をとって国造りをしていきました。この映画は、人間が持つ復讐心に対して、インビクタスー負けない者たち、負けずに、赦し、愛によって勝利しているのを、教えているなあと思いました。
 さて、今朝の箇所に記されているエジプトの大臣、ヨセフも長い間、獄につながれていました。そうなったのは兄たちの仕打ちー穴に投げ捨てられ、そして奴隷として売られたことに端を発しています。その後、ヨセフは数奇な運命を辿り、エジプトの大臣となります。彼はその権力によって兄たちに復讐したのでしょうか。そうではありません。むしろ、赦して兄たちと新しい関係を築いて生きていきました。今朝の箇所はヨセフ物語のクライマックスの部分です。ヨセフは兄たちと会って、兄たちが変わっていることを知りました。自分を犠牲にして弟の代わりになり、父を守ろうとする兄ユダを知って、ヨセフは平静を装うことができなくなっています。ヨセフは自分の家来たちに部屋から出るように命じると、「わたしは、ヨセフです」と告白し、声を上げて泣いたのです。泣き崩れました。兄弟たちはあまりの出来事に声も出ませんでした。「わたしは、あなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。わたしをエジプトに売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。なぜなら、神が命を救うために、兄さんたちよりも先にここにお遣わしになったのです。神がわたしをみんなより先にお遣わしになったのです。そうされたのは、兄さんたちを生きながらえさせ、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは神なのです」と。
 ヨセフはここではっきりと何度も神が、神が、と言っています。こうしたことで解るのはヨセフ自身も変えられているということです。少年時代のヨセフは夢を見ると、「わたし」の束が起き上がり、「わたし」の束に兄さんたちの束がひれ伏したと言っていて、私が中心でした。それが今や神中心となっています。
 ヨセフは過去のヨセフではありません。兄たちから受けた仕打ちに、仕返しをして生きようとしたのではなく、神による大きな計画の中に生かされている自分を知り、神の恵みの中に生かされていたと証ししています。ヨセフは変えられて、神様による救いの計画をはっきりと信じ受け止めて、兄たちにはっきりと言っています。「命を救うために、神がわたしをあなたたちよりも先にお遣わしになったのです。神がそうされたのは、あなたたちを生きながらえさせて、救いに至らせるためだ」と。ここには、ヨセフの赦しの愛が表されています。兄たちを赦して、新しい関係に生きる歩みをしようとしていることが解ります。そしてそれよりももっとヨセフが言おうとしていることは、私を先にエジプトに遣わされたのは、神様だということ、そして、自分の人生は兄たちを救いに至らせるために与えられた人生、神様の救いの計画の中にある人生を歩んだのだと言うことなのです。
 ですから、ヨセフ物語は神の救いの物語だとも言えます。神が、罪を犯し、兄弟が憎み合い、殺しかねないほどであった者たちを新しい関係に生きるように導かれた救いの物語なのです。
 そして私たちは、旧約聖書のヨセフ物語を読み、新約聖書を読んでいく時に、私たちは知らされます。イエス・キリストがこの世に遣わされたのは、何のためであったのかを。ヨハネの手紙一の4章9節、10節に「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」とあります。生きるため、それは救われるためです。「神が、わたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 今週の水曜日は灰の水曜日で、ここから受難節となります。イエス様が私たちの罪を贖うために十字架への道を歩まれたことを深く覚え、自らの罪を悔い改めて過ごす期間です。イエス様はこの世に遣わされました。その目的は「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」です。世が救われるため、皆さんが救われるためです。人類の歴史、それはヨセフとその兄弟たちのように、罪の歴史です。このように罪があふれている人の世に、神はイエス様を送ってくださいました。それは私たちが救われて、生きる者となるためなのです。
[PR]
by higacoch | 2011-03-07 16:51 | 創世記

2011年2月27日

「人間の罪の背後に」 創世記37:12-36, Ⅰコリント15:1-4

 ヨセフ物語は37章から始まります。1~11節を読みますと、ヨセフがいかに生意気で無神経な少年だったかが解ります。その上兄たちは異母兄弟で、父ヤコブはヨセフを寵愛しました。こうしたことは兄弟の不和の大きな要因でした。そんなある日、父は羊を飼って草地を求めて移動していた兄たちの様子を知りたいと思い、ヨセフに弁当を持たせて遣わします。ヨセフは兄たちの後を追って人に尋ねたりして、兄たちを探し出しました。一方、遠くの方でヨセフを見つけた兄たちは、チャンス到来、ヨセフを殺して穴に捨ててしまおうとヨセフ殺しを企みます。すると長男ルベンが命まで取るのはと言って、生きたまま穴に投げ込むことにしました。(ルベンは後でヨセフを助け出すつもりでした。)ヨセフは上着を脱がされ、穴の中に投げ入れられてしまいました。その後、兄たちは別の処で弁当を食べ始めました。その時、そばをラクダを連れてエジプトに向かう商人たちが通ります。そんな彼らを見ながら、しばらくして兄ユダが「ヨセフを穴に投げ込んでも何の益にもならない。それよりはヨセフを奴隷として商人たちに売った方が得ではないか」と提案したので、ルベンがヨセフを入れた穴に行くと、もうそこにはヨセフはいませんでした。ほんの少し前に他の商人がヨセフを売ってしまっていました。ルベンはショックを受けましたが、時すでに遅しです。兄たちは奪い取ったヨセフの上着を野の獣にかみ殺されたようにぼろぼろにし、山羊を殺してその血を服に染み込ませて偽装工作しました。そして白々しく「これを見つけました。あなたの息子の着物かどうか、調べて確認してください」と父のもとに送り届けます。これを見た父ヤコブは自分の服を引き裂き悲嘆にくれました。周りの者が慰めようとしましたが受け付けませんでした。早くヨセフのもとに行きたいと死さえ願うようになったのです。
 ヤコブの家族はいろんな問題を抱えています。殺人などの罪の行動が暴発すれば、どんな事件が起こるのか解らないような家庭だったと言えます。兄たちの思い通りにヨセフ殺しは果たせませんでしたが、ここには人間が犯す罪の行動が見られます。しかし、その罪の背後に、罪ある人間たちを超えて貫かれている神の計画が見えます。罪によって堕ちていく人間たちを救おうとされている神の憐れみがここにあります。今朝の箇所ではまだはっきりとは見えませんが、この後の出来事においてはっきりと見えてくるのです。ある部分だけを見ていく時、神の救いの計画を見出しにくいのですが、確かにあるのです。神は人間が織りなす罪を貫いて神の救いの実現へと向かわれたのだと聖書に記されています。神の言葉である聖書に、神の救いの計画が記されているのです。それはまさにイエス・キリストの出来事においてはっきりと言えます。人間が織りなす罪の中で、イエス・キリストは殺されていきました。罪によって人はイエス・キリストを十字架で処刑し殺しました。しかし、神はその背後にイエス・キリストによる救いの計画を進めておらました。そしてその十字架の出来事によって人間の救いを成し遂げて下さったのです。
 伝道者パウロは言っています。今朝の箇所に「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、私も受けたもの、すなわち、キリストが聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだことだ」と。人間の罪の背後に神の救いの計画があり、イエス・キリストによって成就されたということです。
 神は、人が罪ある行動で堕ちていき、どうすることもできない状態になっていくことから救われたのです。神の言葉である聖書を通し、イエス・キリストの十字架と復活をもって人類の救いの完成を知るのです。
 人は罪を犯します。しかし神はそのような人間を憐れんで下さいました。そして自らの命をかけて愛して下さり、人間を超えた所で、人間の罪の背後で神の救いの計画が進められて、イエス・キリストの十字架の死によって、救いを成就して下さったのです。それほどに私たちは神に愛されているのです。
[PR]
by higacoch | 2011-02-28 16:51 | 創世記

2011年2月20日

「和解の出会い」  創世記33:1-20、コリント二5:18-21

 人は誰しも人との関係の中に生きています。その関係の中で大事なことを学びたい。
 今朝与えられた創世記33章は、これまでのヤコブ物語の続きです。ヤコブは双子の弟、兄はエサウ、2人は母の胎内にいる時から兄弟喧嘩をしていました。彼は生まれる時に、兄のかかとをつかんでいたので、ヤコブ―「かかとをつかむもの」という意味―と名付けられました。これにはヤコブに「先を越されてたまるか」という心があり、悪知恵で自分の利益を求めるという意味があります。ヤコブは成年になって長男の権利を兄から横取りします。さらに兄に成り済まして父を騙し、父から兄への祝福を奪い取りました。このように手段を選ばず、欲しいものは手に入れていくような人でした。しかし兄の祝福を奪ったことで怒りをかい、兄が弟殺しを企てたので、家を出ていかざるを得ませんでした。その逃亡のある夜、荒野での眠りの中で神が夢の中に現われてヤコブに語りかけたことを先週学びました。
 その後、彼は伯父さんの家に逃れ、そこで生活します。従妹に当たるラケルに恋心を持ち、結婚を願い、そのために7年間働きます。そして結婚しましたが、相手は姉レアでした。ヤコブは騙されたのです。伯父はこの地方では上から順に結婚していくことになっていると言い、次女ラケルと結婚したいのなら、後7年働かなければいけないと言いました。そこで後ラケルと結婚し、7年働きました。さらに6年、合計で20年留まりました。その後、神は再びヤコブに現われ「あなたの故郷に帰りなさい」と命じられ、ヤコブは家族と共に故郷に向けて帰ることになりました。
 ただ彼が故郷に帰るについては大きな不安がありました。それは兄との関係です。兄に復讐心が今もあるのではないか、今だに私を殺そうと考えているのだろうかと故郷に近づけば近づくだけ不安が大きくなっていきました。
 そこで兄の心を調べるため使者を送り、その使者が戻ってきて兄が400人のお伴を連れてこちらに来ることを告げた時、さらに恐れが大きくなりました。自分を捕えるために来るのではないかと思い込んでしまい、彼は必死になって神に祈りました。「あなたが故郷に帰りなさいと言われ、またあなたは私に幸いを与えると約束してくださったではないですか、どうか、兄から攻撃されないように助けて下さい。私は兄が恐ろしいのです。兄は攻めてきて、わたしだけではなく妻や子どもをも殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」なんとかして兄の憎しみを抑えようと兄への莫大な贈り物、山羊、羊、ラクダ、牛、ロバなど550頭を用意して、贈ります。それでも兄と会う前夜、不安は極に達して、必死にヤコブはある者と格闘します。これは神様との格闘であり、執拗に祈っています。彼は一睡もせずに、夜が明ける頃まで必死に神と格闘し、祈り続けました。神は彼に新しくイスラエルという名を与えました。これは彼がヤコブ(人間の悪知恵で生きる者)からイスラエル(神に従って生きる者)とへと変えられたことです。彼が罪を犯さない天使のようになったと言うのではありません。これまでの生き方が神によって方向づけられたのです。
 夜が明けて、先を見ると兄エサウが人々を連れてやってくるのが見えました。ヤコブは昨夜のように恐怖におののくばかりではありませんでした。4つのグループに分けてその先頭に立ったヤコブは兄に会うまで7度地にひれ伏したとあります。7度と言うのは、数としての7回ではなく、何度も何度も地にひれ伏したということです。兄エサウは、走り寄ってヤコブを抱きしめ、首を抱いて口付けし、泣きました。ヤコブの心の中にあった不安と恐れは全くの杞憂でした。兄は一言も、あの時、お前は俺を騙したとか、お前はよく俺のものを盗んだとか、責めてはいません。ある人は20年と言う年月が兄の怒りを鎮めたと言うでしょう。時が解決してくれたのだと。しかし私はそうは思いません。人は案外、恐ろしい心を持っています。憎しみ続ける心、赦さない心を持っています。絶対に赦さない、いや赦してたまるものかと心の中で叫んでいたり、一生赦すものかと心に決めている人がいたりします。こうしたことを考えると、兄が憎しみから愛へと変えられたのは、神によってです。この二人に和解の出会いを、神が与えてくださったのです。神は断絶した関係のままでいいと思われたのではなく、和解へと生きるように導き、二人を出会わせて下さったと知らされます。そして、神との関係において、和解へと生きるように導いて下さっていることが解ります。
 この和解の関係は私たちの人間関係だけでなく、私たちと神様との関係においても言えることです。私たちは罪を犯す、ヤコブのような者です。ヤコブが兄を恐れたように、私たち自身には神に近づけないでいるところがあります。神を遠ざけてしまっています。しかし、神は私たちとの関係を新しいものとするために、神の方から私たちに近づいて下さったのです。神の独り子であるイエス様をこの世に送って下さいました。その御子によって和解を与えて新しい関係に生きるように神が救いをなして下さったのです。
 伝道者パウロが言っています。「神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。」つまり、神はキリストによって世をご自分に和解させ、人の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。私たちもはキリストの使者の務めを果たしていきましょう。
[PR]
by higacoch | 2011-02-26 16:44 | 創世記

2011年2月13日

「あなたと共に」 創世記28:10-22, マタイ福音書1:23

 前章には、ヤコブが父を騙し、兄の祝福を奪ったことが記されていました。祝福を奪われた兄は弟を激しく憎み、弟を殺す計画を立てます。ただ父の死期が迫っていると思い、父の死後に実行しようと決めます。それを知った母は、すぐに弟に知らせ、早く逃げるように勧めました。そこで弟は逃げます。母は逃亡を隠すために、表向きは嫁探しに出かけたことにしています。
 弟ヤコブは伯父さんのところに出かけます。ヤコブの胸の内はどうだったでしょうか。兄から祝福を奪ったことによって、このように家を離れざるを得ない状況になると想像していたでしょうか。私は想像できなかったのではないかと思うのです。罪を犯したヤコブ、その結果の独り旅です。家族から離れ、家に戻ることはできない、縁が断たれたような状況、現代の無縁社会に生きる一人のようです。
 彼は、孤独でした。荒野は夜は冷え込み、野宿の体は芯まで冷えます。しかもこの旅は準備されたものではなく、苦しい逃亡の旅なのです。この旅は彼が犯した罪のゆえに負わねばならなかった悲劇の始まりだったのでしょうか。これから幾つものの不幸が彼を襲い、さらに天涯孤独になっていく過程の始まりだったのでしょうか。そうではありません。聖書を読みますと、回復への道、祝福への道を歩み始めていると言えるのです。孤独、寂寥、不安などを彼の知恵や能力、実践力によって解決していったのではありません。そうではなく、神が彼の夢の中に表れ、神が彼の人生を立ち直させる歩みへと導き、力を与えられたのです。
 以前、神は御自分を現わして、アブラハムを召されました。次に、アブラハムの子であるイサクに現われました。そして今やヤコブにも神は現われて、彼に祝福を約束されました。
 神はヤコブに、「あなたは罪を犯したので滅びる」と予告されたのではありません。「あなたは何と大きな罪を犯してしまったのだ」と糾弾して責められたのでもありません。罪を犯したヤコブに呪いを宣告されたのではなく、祝福の約束を告げられました。そしてあなたを用いて祝福すると言われています。これから先、こうなると示して下さっているのです。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしはあなたに約束したことを果たすまで決してあなたを見捨てない。」と言われました。これは、ヤコブのこの後の人生において大きな力となったでしょう。
 では、この後のヤコブはどうだったでしょうか。彼は、幾つものの試練に会います。苦労します。父を騙したヤコブが人に騙されることが起こります。しかし、自分で復讐するのではなく、神を信じて誠実に生きていくのです。
 彼は夢から覚めて、知らされたのです。こんなところには神がいないと思っていたのに、主なる神がおられるということに気付かされたのです。私たちの人生の大変な時に、人生の荒れ地、苦しみの極致にも神は共におられる、しかも神ご自身が語りかけて下さり、そこで神が出会って下さいます。否、そういうところでこそ、神の声が聞こえてくる、神に出会うのではないでしょうか。神はあなたを見捨てられてはいない、あなたを愛しておられるからです。神は苦難を通して、神との出会いを与えようとされているのではないでしょうか。
 ヤコブが夢から覚めて初めにしたのは、枕にした石を取り、記念碑として立て、その先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けました。そしてこの神との出会いを感謝して、誓願を立てて「神が共におられ、私が歩む旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせて下さり、主が私の神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべてあなたが私に下さったものの十分の一をささげます。」と誓っています。
 彼はここではじめて、「主がわたしの神」と言っています。主を、私の、自分の神とする信仰があり、神への感謝と応答の誓いが表明されています。ヤコブの信仰告白と言ってもいいでしょう。彼は、これから多くの試練を受けるのですが、この時与えられた信仰によって、生きていくことができたのです。
 ここでヤコブに表れて、あなたと共にいると語りかけて下さった神は、私たちに対して、神の独り子、イエス様を与えて下さいました。イエス様の名は、インヌマエル、神は我らと共におられるという意味です。まさに神はどんな人間をも見捨てたりしないということであり、私たちと共にいて下さる方だということです。イエス様が私たちに与えられていることによって、神は共にいて下さっていると言えます。それほどに私たち、一人一人を愛して下さり、祝福へと導いて下さっているのです。
[PR]
by higacoch | 2011-02-13 16:40 | 創世記

2011年2月6日

「こんな家族でも愛されている」 創世記27:1-29,ガラテヤ3:8-14
                               
 今朝は、私たちカンバーランド長老教会の教会設立記念主日です。私たちのカンバーランド長老教会は、この名前で、大きく二つのことを現わしています。一つは、「カンバーランド」という名前です。カタカナであり、ちょっと怪しい教会ではと思われたりすることもありますが、アメリカのケンタッキー州とテネシー州にまたがる地方の名です。この地域はリバイバル運動、信仰復興の地域として知られ、聖書地帯とも呼ばれているこの地域で私たちの教会は生まれました。もう一つは長老による政治形態をとる教会で、宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革派の教会なのです。
 さて、今朝、与えられた創世記27章は、4人家族の、後々まで禍根を残すような事件が記されています。父は長男を愛し、母は次男を愛し、それぞれを偏愛している夫婦、息子二人も仲が悪く、争いが起こらぬはずがない状況でした。そんな中で、父は高齢となり、死ぬ前にどうしても長男に祝福を与えようとします。その二人の会話を聞いた母は弟に、兄に変装し、父から祝福を奪えと勧めたのです。それを聞いたヤコブはおどろきました。「でも、兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌はなめらかで、お父さんが私に触れれば、だましていることが解ります。そうしたら、祝福どころか、反対に呪われる」と言うと、もしバレたなら、その時は、私がその呪いを引き受ける、とまで言って焚きつけました。心配するヤコブを説き伏せて、母リベカは祝福をヤコブがもらえるように、巧妙に策を練って進めました。
 ヤコブは焦っています。「料理をどうぞ。」ではなく、「食べて、祝福をわたしにください。」と言っています。「お父さん、早く食べて、早く、祝福をください」と言いたかったでしょう。なぜなら、いつ兄エサウが帰って来るか解らないからです。もしここで鉢合わせしたら、もう万事窮すです。言い逃れはできません。早く目的を達して、ここを一刻も早く立ち去りたいのです。
 父は、怪しんで、自分自身の一つ一つの感覚、視覚、聴覚、触覚、嗅覚で確認します。ただ、加齢のために、目は霞んでいて、耳も聞こえづらくなっています。また腕や首に触って、毛深いのを感じて、ヤコブだと見破ることができませんでした。ですが、最後に、どうしても気になったのでしょう。「お前は本当に、わたしの子、エサウなのだな」と念のために聞いています。ヤコブは、語彙を強めて「もちろん」と答えています。ヤコブは、父が腕に手をのばして、確認し、首を触っていたときに、どのような思いだったのでしょうか。
 こうした争いの火種を持っている家族、また実際に崩壊したような家族が、どうなっていくのか、この先を読みたくなります。サスペンスドラマのように感じますが、この後、悲劇的な事件になっていくかと言いますと、そうではありません。今朝の出来事で、兄エサウは、激しく弟ヤコブを憎み、殺す計画を立てます。ただ、父イサクが生きている間は、我慢しようと考えます。父もそう長くないと思っていましたので、死んでから実行しようと考えたのです。この兄の弟殺人計画を知った母は、すぐにヤコブを呼んで、「急いで伯父さんの家に逃れなさない」と勧めます。その逃亡を隠すために、リベカはイサクに、ヤコブの嫁を自分の郷里で見つけるためにとの理由づけをするのです。それは、日頃、地元の人の兄エサウの嫁と折り合いが悪かったので、ヤコブの嫁は、地元ではなく、私の郷里の人からにしたいというのです。表面上は、ヤコブは嫁探しですが、実は兄エサウからの逃亡でした。こうして、弟ヤコブは、家から出ていくことになりました。この後、ヤコブは母リベカと再会することはありませんでした。こうしたことが、この家族に起こりますが、この家族は、不幸の渦に巻き込まれて、悲劇の人々となっていくのでしょうか。
 そうではありません。弟ヤコブは、この後、多くの苦しみ、試練にあっていきますが、そうした試練を通しながら、彼は成長していき、彼だけではなく、兄エサウも神によって清められて兄弟の和解が与えられていくのです。この家族は、祝福へと導かれていくのです。
 こんな家族でも神は決して見捨てたりされていないのです。むしろ憐れんで愛して下さいました。この家族だけではなく、全人類の家族、わたしたちすべての人たちを、神は憐れんで下さり、祝福へと導いて下さっています。それは、神が御子なるイエス様を、この世に送ってくださったことによって明らかになっているのです。それほどまでに神は人間を愛されたのです。ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」滅んでいかないように、憐れんで、愛して下さいました。神は、皆さんの家族をも愛されて、救われるように導かれています。それは何よりもイエス・キリストを見上げる時に、深く知らされていきます。主の恵みを覚えて、歩んでいきましょう。
[PR]
by higacoch | 2011-02-10 16:36 | 創世記

2011年1月16日

「愛する妻の死を通して」 創世記23:1-20、ローマ14:7-8

 先週、映画「おくりびと」を見ました。主人公は納棺師、丁寧に遺体に化粧し、死の装束をし、棺に納める仕事をする人です。この映画を見て、人を弔うということを私たちに問いかけている映画だなと思いました。今の日本は病院で亡くなる方が多く、家から死が遠のき、身近に死を経験することが少なくなりました。死を意識することがない時代となってきています。このことは、天童荒太氏の小説「悼む人」からも感じられます。この問題は、最近の「無縁社会」という問題にも表れてきていると感じざるを得ません。「孤独死」「無縁死」、身元が解っても引き受け手がなく、遺骨の引き取りを拒否する人たちが増えてきています。そして「葬儀をしなくてもよい」という人が多くなり、実際、葬儀をせず、病院から直接、火葬場に送って火葬する「直葬」が増えて、東京では3割近くになっているとのことです。さらに「お墓もいらない」となってきています。
 今朝与えられた箇所はアブラハムが最愛の妻サラを亡くし、お墓の土地を購入して葬った箇所です。妻サラは夫アブラハムと共に故郷を離れ、一緒に旅立ちました。苦労を共にし、苦難の旅の生活に耐えて、共に歩んできました。サラの生涯は127年とここで初めて記されています。聖書を読むと夫アブラハムとは十歳違いと解ります。サラ65歳の時に旅立ち、その後の旅生活は62年間で、人生のほぼ半分です。
 夫アブラハムは妻サラを亡くし、とても悲しみました。胸を打ち、悲しんだとあります。その亡骸の傍らに、どれ位いたのでしょうか、そのことは記されていませんが、長く嘆き悲しんで時を過ごしたことでしょう。その後、彼は立ち上がり、地元のヘト人のところに行って頼みました。「わたしは、あなたがたの土地に滞在している寄留者ですが、どうか、あなたがたが持っている土地を譲っていただけないでしょうか」と。寄留者というのは、自分たちが安心して住める場所、財産として所有地を持っていないということです。つまり旅人です。そんな生活をしてきたアブラハムは、妻を葬ってやりたかったのでしょう。どうしても土地が欲しかったのです。アブラハムの願いを理解した人たちは喜んで土地を差し上げますと申し出ています。ですが、アブラハムはその土地(墓地)を貰うのではなく、買いたいと強く願っています。そして最終的に、結構な値段で土地購入しています。売買は地主と個人的にしたのではなく、公の場で正式な手続で購入しました。そしてアブラハムはその土地(墓地)に妻サラの遺体を納めました。
 創世記を読んでみますと、お墓のことが出てくるのは、ここが初めてです。これまで死んだ者に対しての丁寧な弔いが記されてはいません。ここで丁寧に遺体をお墓に納めたと記されています。このことは、神がそのように導かれたのだとしかいいようがありません。アブラハムは妻の死によって土地(墓地)を購入しました。実はこの地は神が約束された地だったのです。それによって、後に天に召されたアブラハムもこのお墓に葬られます。さらにその独り子イサクもイサクの子、ヤコブもここに葬られます。このように神の約束の地、カナンに土地を得ることができました。しかもこの地を手に入れる時に、地元の人と争って土地を得たのではなく、平和的に得ています。妻サラを亡くした悲しみは、約束の土地を得ることにつながっていたのです。この様に、悲しみは神によって備えられていたものと教えられます。
 私は、アブラハムが妻サラの遺体をお墓に納めたことを思っていた時、もう一人の方の葬りのことを思いめぐらしました。それは新約聖書の4つの福音書が記したイエス様のことです。その遺体は他の犯罪人の遺体と一緒に崖に投げ捨てられることなく、十字架から下ろされて、アリマタヤのヨセフとニコデモとによって丁寧にお墓に葬られました。私たちは、毎主日、信仰告白の時に使徒信条を告白していますが、そこに「死にて葬られ」とあります。事実、イエス様は十字架の上で死なれ、その遺体は墓に納められました。しかしそれですべてが終わったのではありませんでした。イエス様は死を通して、復活の新しい命を現わされました。お墓が、新しい命の出発の場所となったのです。そしてこのことは私たちにも言えるのです。
 神はアブラハムを導かれ祝福されました。そして彼は妻サラの死を通してその死で終わらないものを見上げていたと思います。なぜなら、悲しみに伏していたところから立ち上がったとあるからです。この「立ち上がり」はイエス様の復活とつながっています。アブラハムは信仰によってイエス・キリストを見上げていたのです。
 神は死を通して新しい命を与えられました。それは悲しみで終わらないということです。どんなに深い悲しみでも癒されない悲しみはありません。なぜなら悲しみを通して喜びが与えられると信じているからです。私たちの地上の旅路には、多くの悲しみ、苦しみがあります。しかしそれは喜びに、希望につながっています。しっかりと歩んでいきましょう。主イエス様を見上げて。
[PR]
by higacoch | 2011-01-22 16:12 | 創世記

2011年1月9日

「主の山に備えあり」  
       創世記21:1-4,22:1-19, ヨハネ福音書3:16
 
                             
 今朝、与えられました聖書箇所は、私にとって読むのがとてもつらい箇所であります。それは私たち夫婦に最初に与えられた一人娘を突然事故で亡くしてしまった、その悲しみを思い起こすような箇所だからです。
 神はアブラハムに一人っ子である「イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられました。これを聞いた時、彼は自分の耳を疑ったかもしれません。「どうして」と。彼は非常に悲しんだと思います。いや怒ったかも知れません。あるいはショックで言葉も出なかったかもしれません。「息子ではなく、代わりに私ではいけないでしょうか」と思ったかもしれません。しかし、神ははっきりとイサクをささげなさいと命じられたのです。
 神の命令をよく考えてみますと矛盾しています。以前神は、アブラハムにあなたの子孫は星のように増えて大いなる民になると約束されました。しかし、命令された通りイサクをささげてしまえば、アブラハムの血筋は断たれてしまいます。子孫は生まれず、神が約束されたことは実現しなくなります。つまり神の命令に従えば、神の約束が実現しないのです。実現するためには、神の命令に背かなければなりません。矛盾するのです。
 この矛盾は、宗教改革者マルチン・ルターもカルヴァンも同じように認めています。この矛盾を認めつつ、ルターは「信仰とは、神の中にあるこの奇妙な矛盾に応答することである」というのです。信仰とは約束に対しても「はい」と認め、命令に対しても「はい」と認めることだというのです。解ったようで解りにくいのですが、アブラハムはまさにそのように応答したのです。
 アブラハムにとって神の命令は本当に厳しいものでありました。それは親として子を失うこともそうですが、その子を自分の手で捧げなければならなかったからです。焼き尽く献げ物は、生きたまま焼くのではなく、血を流し殺してから焼くのです。それを自分でなさなければならない彼の苦しみは計り知れないものがあります。彼の苦しみの深さが彼の沈黙に表れています。
 彼は耐えがたい苦しみを味わいながらも、神の命令に背かず、歩み出しています。ただ黙々と準備し、指定されたモリヤの地に向かった出発します。信仰とはこうした神の前に自分一人で立たなければならないことがあるのです。神に命じられた場所に着くと、黙々と祭壇を築き、その上に薪を並べて置き、イサクを縛って、祭壇の薪の上に載せます。刃物を持ってまさにイサクを殺そうとしたその時、主の使いが彼に呼びかけ、「その子に手を下すな」と命じました。そして神によって供えられた雄羊を捧げました。そこで、アブラハムはこの場所を「ヤーウェ・イルエ」(主は備えてくださる)と名付けました。
 ヘブライ人の手紙では、こう言っています。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。」と言っています。
 彼が信仰によって生きた、信仰の人だったといわれるのは、この試練を乗り越えたことによって、言われるのでしょう。もし、この最後の試練に勝たなかったなら、信仰の父とは言われなかったのだと思うのです。彼は、この試練において、信仰に生きる人生の集大成を成し遂げたと思います。
 この箇所から、私たちもしっかりと学びたいのです。彼への神の命令は、二つの枠の中にあるということです。それは1節と14節ですが、1節には「神はアブラハムを試された」とあり、14節は「神は備えてくださる」とあります。つまり、私たちは試練に会うのです。試練のない人生はありません。しかし、試練は神が与えておられるのです。そして試練と同時に、神が道を備えてくださいます。伝道者パウロもこう言っています。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」と。
 試練と同時に、逃れる道を備えてくださる、つまり試練と備えが対になっているのです。どんな時でも私たちは神の御手の中に生かされているということです。神は試練を通して育てて下さいます。そして信仰によって生きる者に必ず道を備え、祝福して下さるのです。ヘブライ人の手紙12:11には、こうあります。「 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」
 最後に学びたい。アブラハムは、愛するわが独り子イサクをささげよ、と命じられ、モリヤの山に行き、まさに献げんとした時、神は「イサクに手を下すな」と命じられました。献げる、これは、神に与える行為であります。アブラハムが一人っ子を与える前に、神が制止してくださいました。しかし新約聖書には、神が御子イエス様を私たちに与えられたことが記されています。ヨハネ福音書3章16節には、こうあるのです。「神はその独り子を与えるほどこの世を愛してくださいました。それは御子を信じる者が一人でも滅びることなく、永遠の命を得るためです」と。父なる神も苦しみながら、私たちを憐れんで、御子を与えて、愛してくださったのです。聖書は、最終的に、私たちにこう語りかけています。神が最後に、備えてくださったのは、御子なのだと。神が備えてくださった、イエス様の救いをしっかりと受け止めて、生かされて生きていきましょう。
[PR]
by higacoch | 2011-01-15 16:05 | 創世記

2010年11月26日

「とりなし」  創世記18:16-33、ルカ福音書23:33-38

 今朝の創世記の箇所は、アブラハムがソドムのためにとりなしをした箇所として良く知られています。神からソドムの町を滅ぼす予告を聞いたアブラハムは、ソドムの町の悪評を知っていたのでしょう。そのソドムの町のために執り成しをしているのです。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか? あの町に正しい者が50人いるとしてもそれでも滅ぼし、その50人の正しい者のために町をお赦しにならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くあり得ないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」と願い出ています。
 ここで注目したいのです。アブラハムは最初に「神の裁きで、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか?」と尋ねています。悪い者だけを滅ぼすのではなく、正しい者をも悪い者と一緒に滅ぼされるのですか?と問うているのです。正しい者が50人いても、それでも滅ばされるのですか。さらに、45人いても、40人いても、どんどん正しい者の数をカウントダウンして問いかけていますが、ただ滅ぼさないで下さいと願っているだけなのでしょうか。そうではありません。彼は、その後の部分でこう問いかけています。「50人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか」と。このことから、アブラハムは心の中で、赦しを願っていたと思えるのです。それに対して、神は「もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全体を赦そう。」と言われました。
 私は「滅ぼさない」ということと「赦す」ということは、同じことではないと思います。「滅ぼさない」、けれども、「ゆるしていない」こと、また手を下さず、そのまま放置するということもあります。しかし「赦す」というのは、神が、ある意志を持って、はっきりとその人の罪を知り、その人に関わり、その人を受け入れて救うことだと思うのです。ですから、アブラハムもただ「滅ぼさないで下さい」と、とりなしをしているのではなく、「赦して下さい」と願っていると思います。
 アブラハムがとりなしの条件に最初は「50人の正しい者がいたなら」と言っています。それが、45人になり、40人になり、どんどん少なくして10人になっていきますが、「正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことは、正しい裁きではないと考えるのなら、正しい者が一人でもいるなら、その人が悪い者と同じ目に遭うようなことは考えられないはずです。ですから、正しい人が○人いたならという風に人数を決めることはおかしいはずです。アブラハムとして、ロトとその家族を思い、10人いたならと願ったことでしょうが、その願いもむなしくソドムの町は滅ぼされていきます。ただその前にロトの家族は、神の使いによって救い出されているのが解ります。
 このアブラハムの執り成しは、新約聖書のイエス様の執り成しにおいて、完成されています。アブラハムの執り成しは、あくまでアブラハムが神に願っていることであり、アブラハム自身は安全な離れたところで願っています。それに対して、今朝のルカ福音書に記されていますように、イエス様は自ら苦しみ、自分の身を捧げられましたが、正しい人だけを助けて下さいと父なる神に祈られていません。正しい者と悪い者とを分けて、裁いて下さいと祈られているのでもありません。そうではなく、「彼らを赦して下さい」その彼らは「自分たちが何をしているのか知らないのです。」と祈られています。彼らは「悪いこと」をしている人たちでした。イエス様を十字架にかけた人たち、またイエス様を愚弄し、馬鹿にしている人たち、悪い者たちなのですが、その彼らを赦し下さいと祈って、執り成しをされているのです。つまり、彼らは罪人です。その罪人たちを赦して下さいと祈られています。聖書は「正しい者は、一人もいない。神の前に正しい者は一人もいない。罪人だ」と言っています。そうであるなら、神の裁きによって、滅びるしかないのです。
 アブラハムのとりなしは、空しくなってしまったのではなく、イエス・キリストによって成就しているのです。それは、アブラハムが願った「赦し」は、イエス・キリストによって、悪い者、罪人が赦されて、愛されているからです。ヨハネ福音書3章16,17節にありますように、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」なのです。
 執り成し、それは悪い者、罪人の救いであり、私たちのための執り成しがイエス・キリストによってなされたことが成就し、イエス・キリストによって罪赦されて、救われているということなのです。それほどに私たちは愛され、生かされているのです
[PR]
by higacoch | 2010-11-29 17:28 | 創世記