カテゴリ:ペトロ( 8 )

2016年11月6日

「神の民」 詩編 105:1-6、ペトロ 一 2:9-10
                            香月 茂 牧師

 私にとっての今回の入院は、人生で始めての経験であります。今回、病院に出掛けて、最初に、いろんな病気を抱えた人が本当にたくさんいらっしゃるなあと思いました。こうした人たちを見ながら、すぐに思い出したのは、イエス様の所に集まってきた多くの病気の人たちです。イエス様はそうした人たちを深く憐れみ、彼らを癒されました。そこでマタイ福音書だけに限って病気の人の癒しを調べてみました。すると「イエス様はガリラヤ地方の町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された。」と記してあります。
 さて、今朝の箇所に「かつては神の民でなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」とあります。イエス様の一番弟子であったペトロは多くの失敗もしましたが、イエス様のとりなしの祈りによって立ち直りました。そこでペトロはこの手紙を書いたのです。ペトロ自身の「私はイエス様から憐れみを受けて、今は神の民となっている。」という確信によっているのです。「もしもイエス様から憐れみを受けていなければ、以前のままで神の民ではない、私が何か、神様が喜ぶようなことをして神の民になったのではない。イエス様の憐れみによって、神のものとされた。」このことはあなたがたも同じだ。あなたがたが善い行いをして、神の民になるのでは決してない。神のみ心に沿った何かをしたから、神の民になったと言っていません。「ぜひ、知ってほしい。あなたがたは神から選ばれた民なのだ、あなたがたが神を選んで、神の民となったのではない。あくまでも神があなたがたを憐れんでくださり、神によって神の民とされたのだ」と言いたいのです。
 私は、最初にイエス様が病気の人たちに、どのように応じられたのか、そのことを述べました。イエス様が病気の人を深く憐れんでくださったことを話しました。この「憐れみ」は、ギリシア語ではスプラングゾマイと言います。この言葉の深い意味は、お腹が痛くて我慢できないくらい自分が苦しむという意味があります。ですから、イエス様が憐れまれた、ということは、病気の人たちが苦しんでいると同じように、否、それ以上にイエス様ご自身が苦しみを味わいながら、病気の人を受け入れ、癒されたということなのです。そして、さらに「憐れむ」という言葉には深い意味があります。それは、イエス様が徴税人のマタイを招き、弟子とされた話がマタイ9章にありますが、そこに出てきています。マタイが、イエス様を家に招き、食事をしました。そこには多くの客人が招かれました。徴税人たち、そして罪人たち(病人も罪人と考えられていました)です。その客人たちを見たファリサイ派の人がイエス様の弟子に詰問しました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人らと一緒に食事をするのか、」と。これは「イエス様は、そいつらの仲間なのか」という意味です。それに答えて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」とイエス様は答えられています。医者、それは癒し(救い)を与える人であり、その人を必要とする人は、丈夫な人ではない、病人である。と、これは鋭い皮肉であります。ですが、その奥には深い真理が語られているのです。病んでいる人が、癒し(救い)を求める、その人に救いが与えられるのです。丈夫な人は救いを必要としません。自分で自分を保つことができると確信し、自分で生きることができると信じ込んでいる、だから救いを必要としません。
 医者、それは救い主イエス様です。救い主を必要とするのは罪人です。イエス様が共に食されている罪人(病人を含む)は救い主を必要としているのです。救いによって生かされるのです。そして続けて、イエス様は言われました。「私が求めるのは、憐れみであって、いけにえではない。」と。ここでイエス様は、いけにえを求めないと言われています。いけにえとは人が何かを捧げるもののことです。イエス様は人に何かを欲しいと求めておられるのではありません。善行や徳のある行動や多額の献金を求めておられません。求めておられるのは、憐れみなのです。ここは、人から憐れみを受けることではなく、イエス様の憐れみを求めることです。イエス様の憐れみによって生きることを求めておられるのです。
 最後に、イエス様は「私がこの世に来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだ」と言われています。ここでイエス様と弟子たち、徴税人、罪人らと会食をされているということは天国の祝宴と理解されています。つまり、神の国に生きる者たちの会食だと。そうすると、これらの人たちを神と共に生きる人、「神の民」と理解できます。イエス様の憐れみ、それを受け入れて生きる人たちは、神の民なのです。まさに、私たちなのです。イエス様の十字架の罪の赦し、それを必要とし、受け入れて生きる私たちこそ、神の民とされています。「今は、神の民であり、かつて憐れみをうけなかったが、今は、憐れみを受けているのです。」私たちも神の民として、イエス様の救いの業を伝えて歩んでいきましょう。
[PR]
by higacoch | 2016-11-12 17:19 | ペトロ

2015年9月13日

「義を行って耐え忍ぶなら」 詩編23:1-6、Ⅰペトロ2:18-25
                              
 ペトロの手紙が書かれた時代は、ローマ皇帝がネロの時代で、キリスト者が激しい迫害を受けていました。ですから、この手紙には苦しみに耐えることが勧められています。この時代、ローマ帝国内には多くの奴隷がいました。都ローマに、また地方の町々に、そして多くの家々に召し使いとして生活していました。そして身分の低い人たちが多く、キリストを信じてキリスト者となっていました。そのような人々に、「主人に心からおそれ敬って従うように」とペトロは勧めています。ここでの「おそれ」は、恐怖の「恐れ」ではなく、「畏れ」です。主人の中には、善良で寛大の主人も、また無慈悲な主人もいました。しかし主人がそのどちらであっても、同じように畏れ敬って従いなさいと言うのです。召し使いとしては善良で寛大な主人に仕えることを好むでしょう。しかしなかなか願った通りにいきません。むしろ一般的には無慈悲な主人が多く、意地悪や迫害を受けたりしたでしょう。それに対して、召し使いはそれなりの仕返しをしていたと思われます。主人が知らないことで嘘を言ったり、見えないところでさぼったり、ある時は盗んだりしていたようです。そのような中でキリスト者として、「あなたがたは、多くの召し使いのようにしてはならない。むしろ、そのような主人にも心から従いなさい」と言っています。これは命令ではなく、勧めです。主人から意地悪されても、それに対して仕返しをするのではなく、心から従い、仕えていくことを勧めています。ただこれは、主人から不当な仕打ちを受け、激しい暴力によってひん死の状態にされても従えとは言っていないと私は思います。それでもここでは「善をもって従いなさい。仕返しをするようなことではなく、誠実に従いなさい。」と言っているのです。
 ペトロはこうも言っています。「不当な苦しみを受けることになっても、神がお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうこと」と。同じことを繰り返し言っていることを考えますと、ペトロが一番伝えたかったことだったのでしょう。ペトロは「あなたがたが召されたのは、このためだ」と言った後に、「キリストを思い起こしなさい」と言って、キリストは旧約聖書イザヤ書53章の預言で示されたように歩まれたというのです。「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」と。
 イエス・キリストは、罪を犯されることはありませんでした。どんなに人々から罵倒され、苦しめられても、さらに神を冒涜したと断罪され、神に見捨てられたと言われても、十字架の刑にかかり、人々に仕返しされませんでした。呪ったり、彼らの死を願ったりすることもありませんでした。むしろその逆で、どんなに苦しめられても、痛めつけられても自分の身を捧げて、死んでいかれました。自ら傷つき、十字架の死に追いやった連中を、赦して死んでいかれたのです。「その死によって、あなたがたはいやされた」と預言にある通りに、成就されていきました。
 イエス・キリストの十字架の死は、死に追いやった人々の罪を赦し、彼らの救いのための死でした。それは彼らが「義に生きるために」であったということでした。そして、イエス・キリストは、彼らだけでなく、すべての人のために死んでいかれました。それはわたしたちの罪のためだったのです。
 「わたしたちの罪のために」と聞いて、「どうして、わたしたちの罪とイエス・キリストの十字架の死が関係あるのか」と言われる人がいらっしゃいます。それは、神様に対して、2000年前の人と現代人との罪は、本質的に全く同じで、何ら違いはありません。わたしたちが2000年前に生きたとしても、イエス・キリストを殺していたでしょう。そのように、人間の奥底には罪があります。人はその罪から逃れられないのです。その罪を赦すために、イエス・キリストが死んで下さったのです。その死はわたしたちのためでもあり、まさにすべての人のためであったのです。イエス・キリストが死んで下さったのは、なんと、神の愛によってなのです。神の愛を目に見えるように示して下さったのが、イエス・キリストの十字架の死です。わたしたちを生かすため、義によって生きるようになるためだったのです。
[PR]
by higacoch | 2015-09-19 14:38 | ペトロ

2015年4月26日

 「主なる神の言葉」 イザヤ書61:1-3、Ⅰペトロ1:13-25

 先週、神学校の友人が著した「反知性主義」という本を読みました。この本は反知性主義という言葉が、日本で使われている意味とアメリカで使われてきた意味とが違うと言うことから書き始めています。日本では、反知性主義は知性に反対する意味合いで、否定的に使われています。たとえば、知性による客観的な検証、公の場における対話などを拒否して独りよがりな態度を示す、と。しかし、アメリカでは知性そのものへの反対ではなく、知性から生じて、知性をもって力を奮っているような「政治権力」への反対です。もともと知性とは、単に何かを理解したり、分析したりする能力だけではなく、それを自分に適用する「振り返り」の作業を含むものだと言います。知能が高くても知性が低い人がいます。知的能力は高くても、その能力が、自分という存在の在り方を振り返ることができない人がいます。そこで反知性主義とは、知性と権力とが結びついた時の反感の行動だと言ってもよいし、知的な特権階級者が大いに力を振るって発言し、行動することへの反感であるとも言えます。
 アメリカは、ヨーロッパのように中世の時代を歩み、宗教改革をした国ではありません。ヨーロッパからピューリタンの人たちが多く移民してきて国造りがなされた国です。ピューリタンの人たちとは、イギリスの教会の改革を唱えた、まじめで清潔な信仰生活を守るキリスト者たちで、信仰の自由を求めて、新天地アメリカに渡ってきた人たちでした。そうした人たち、そしてその子孫たちの中には、禁欲的で厳格な法律を持ち、高い倫理観をもって生活する人たちがいる一方で、欲望丸出しのなんでもありの人たちもおり、アメリカは彼らがキリスト教を土着化していく過程で造られていった国でした。そうした中で、アメリカ的な福音のメッセージ、「誰でも回心して、まじめに生きれば、救われる」というものが生み出されました。どんなに堕落と放蕩の人生を送っていたとしても、回心と人生のやり直しの希望は誰にでも等しく与えられていると信じられていきました。そのような信仰理解で、いつしかそれが人間的な理解が優先するようになって変質して、救いとこの世の成功とが結びついていきました。さらに人生の有益な自己啓発の道具となっていきました。逆に、悪いことをすれば、必ず、神の審判を受けなければならないとなり、こうしてアメリカのキリスト教土着化で、キリスト教の救いの恵みが安っぽくなっていきました。この安っぽい恵みは、最近、私が読んだアメリカの黒人の神学者ジェイムズ・コーンが著した本「十字架とリンチの木」で、はっきりしています。回心して救われた恵みを頂いた白人クリスチャンたちが、容赦なく黒人を木にかけて殺し、見世物としていた事実が記されています。クリスチャンの白人たちは、いつさらしものが見られると新聞に掲載し、老若男女みんなが見物にいきました。彼らはそうした人種差別をしながら、黒人たちを殺害しているということについて問うことはありませんでした。白人が黒人を殺して裁判にかけられても、判決を下す陪審員はすべて白人で、ほぼすべてと言っていい位、殺害した白人を無罪にしました。黒人を家畜のように扱い、決して自分たちと同じ人間なんだとは見なかったのです。
 さて「知性」というのは、そもそも自己反省力を伴っているものだ、と話しました。そのことを考えながら、今朝の聖書の言葉を読んでいって、信仰における大事なことを教えられました。
 今朝、与えられた箇所には「あなたがたは真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって、新たに生まれたのです。」とあります。神の変わることのない生きた言葉によって生まれ、言葉は生きているとあるように、今もわたしたちに生きて働きかけているのです。ですから、聞き続けなければなりません。一回聞いたから、もういいとは言えません。もし、神の生きた言葉を聞くことを軽んじるなら、いつしか違った福音の理解になっていくでしょう。自分勝手な聖書解釈で信仰を理解し、福音の本来の恵みを安っぽいものしてしまうことがあるのです。神の言葉は、生きているのです。神の言葉は、かつて生きていたが今は、もう死んでしまっているというようなものではありません。生きていて変わりません。主の言葉は、永遠に、変わることがないのです。神の言葉が語っている神の真理は、変わらないと言うことであり、神はその独り子を賜るほどに、世を愛されたということは真実です。ここで「世」と言うのは、私たち一人一人のことですから、神は御子イエス様をこの世界に送って一人一人を愛されたし、今も愛されています。ここにいらっしゃる一人一人をも愛されています。
 ペトロは勧めています。「召し出してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」と。「聖なる者」とは、完全な人ではありません。主なる神様の憐みによって救われた者であり、救われた主の恵みを受け止めつつ、主の御旨を求めて生きていく人です。そこでは神様の生きている言葉を聞かなければなりません。この言葉は決して上からの命令ではなく、主に救われた者が、主なる神様を見上げて生きていくための勧めなのです。
 私たちは、神様の前で罪を犯すも者ですが、罪を悔い改めつつ、主なる神様の言葉を聞きつつ、主なる神様に喜ばれることを求めて歩んでいきましょう。
[PR]
by higacoch | 2015-05-02 19:24 | ペトロ

2013年4月28日

「神の民とされた」 詩編95:1-11、ペトロ一 2:1-10
 
今朝のペトロの手紙一を読むと、私はすぐに私の次男を思い出します。彼は2か月ほど早く生まれた未熟児で、生後すぐに北里大学病院の未熟児センターに運ばれました。そこでドクターから「お子さんには、大きく言って三つの未熟があります」との説明をされました。一つは自分で体温調整ができない。そこで温度一定の保育器に入れられました。次に、安定した自力呼吸ができない。呼吸をしないことがあります。そこで10秒呼吸しなかったら、自動的に電気ショックを与える。それでも呼吸しないとブザーがなり、看護師さんが走って行って背中を強く叩きます。そして三つめは、自力で母乳を飲めない。ですから少し大きめの注射器のようなもので少しづつ飲ませるのです。その時、お医者さんから言われました。「純粋な母乳を飲ませて下さい。母乳にはお母さんの免疫が含まれているので、お子さんを病気にかからせないのに一番良いですから」と。今朝の箇所に「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」とあります。生まれたばかりの次男に、混じりけのない母乳が必要だったから、この箇所を読むと思い出すのです。
 ここでペトロは、キリストを信じた生まれたての信仰者を乳飲み子に例えて語っています。乳飲み子に母乳が必要であるように、信じたばかりの信仰者には、その人が青年であれ、高齢者であれ、霊の乳が必要であると語っています。この霊の乳は主の御言葉です。ですから霊の乳を飲むように、御言葉を日々、頂かなければなりません。このことが解ると、ペトロがここで言おうとしていることがはっきりとしてきます。
 ここでは信仰者として生まれる以前と以後とに分けて考え、語り掛けています。以前は御言葉を信じることができなかった。それゆえイエス様の十字架の出来事もつまずきとなっていました。十字架刑で殺されていった人をどうしても救い主とは信じられなかったのです。このことは2千年前の昔だったからというのではありません。現代人にとっても、イエス様が救い主だと信じることは難しいのです。人間の知恵だけでは到底信じられません。伝道者パウロもコリントの教会の人たちに書いた手紙で「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリント一1:18)と言っています。十字架の出来事は絵空事に聞こえるのです。それを救いの出来事と心から信じるのは全く愚かであると考えました。これはわたしたちの時代でもそうです。
 意外とキリスト教関係の本がベストセラーになったりしています。しかしこれで信仰者が増えたというのではありません。キリスト教に関心があったり、教養としての知識を求めて、キリスト教の歴史的な遺産(文学、芸術、音楽等)を知ろうとしている人たちです。こうした人たちは、知識は豊かであっても、信仰はありませ
ん。自ら信仰を言い表す人は少ないのです。
 ペトロは以前、以後と分けて語っています。「あなたがたは、信仰以前は御言葉を信じない、十字架の出来事が受け入れられない、そして暗闇の中に生きていた人だった」と言っています。その時は「悪意や偽り、偽善、ねたみ、悪口を言っていた」と。そんなあなただったが、「今は、恵み深い方である主を味わいました。その主を知らされたのですから、主のもとにきなさい」と招いています。神の導きによって、神の力、神の知恵で生きていきなさい。そのためにも乳である御言葉を求めなさいと勧めています。
 ですが、8節の後半でこんなことを言っています。「彼らは、御言葉を信じないので、つまづくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。」と。読んですぐに感じるのは、宿命のように受け止められます。神様は、ある人たちを躓くように定められていて、もうどうすることもできないようにしておられたのでしょうか。それはもう運命で変えられないのでしょうか。そうではありません。ここは注意して読まなければなりません。ここでペトロが語っていることは、信じる以前のことなのです。そして、ペトロは「今」を語っています。これは私たちにも言えることです。ですから、躓くように定められているというのは、ずっと死ぬまでそう定められているというのではなく、憐れみを受けて、信じるまでのことを言っているのです。こうしたことは、今、イエス様を信じていない人でも、「かつて」から「今」に生きるようにと招かれています。救いを自分で勝ちとるのではなく、与えられるのです。ここでペトロは人間の宿命論を語っているのではなく、神の恵みを語っているのです。
 このようにして、私たちは、神の憐れみを頂き、神の民とされたのであって、私たちが自分の力や知恵や能力で神の民になったのではありません。あくまでも神の恵みによって、神の民とされました。それは、私たちが神様の業を広く伝えるためです。そこに私たちが神の民とされた目的があるのです。私たちが倫理的に正しい生き方をするためではなく、神様から憐れみを受けたものとして、神様の愛を、イエス様の十字架の罪の赦しと復活を知らせていくのです。神様の愛をまだ知らない人たちに知らせて伝道していくのです。そのために私たちは神の民とされ、生かされているのです。小さな歩みであっても神の民とされていることを覚えて主なる神様に仕えて歩んでいきましょう。
[PR]
by higacoch | 2013-04-30 14:32 | ペトロ

2013年2月10日

「新たに生まれた」  詩編109:21-31、ペトロ一1:22-25 

 今朝のペトロの手紙の箇所には、「生活」という言葉が三度も出てきます。(15、17、18節)こうした「生活」という言葉は新約聖書全体で調べてみても少ないのです。四つの福音書にはたったの三回だけ。出てくる箇所は皆さんもすぐに思い出されると思いますが、貧しいやもめの捧げものの箇所で「やもめは、生活費を全部入れた」という箇所です。また福音書以外ですと、伝道者パウロが書いた手紙が多くありますが、その中で一番長いのはコリントの教会に宛てた二つの手紙で43ページありますが、その中で14回出てきます。それに比べてペトロの手紙は二つ合わせて13ページですが、13回も出てきています。またパウロのよく知られたローマの手紙も長いのですが、そこにはたったの2回しか出てきません。それに比べて今朝の箇所には、短い中にも3回も出てきています。こうして考えると、パウロは「生活」にそう関心を持たなかったと言えます。しかし信仰については、パウロはローマの手紙で重要なことを述べています。たとえば「正しい者は、信仰に生きる」、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ」とかです。このように信仰についてはよく書いているのですが、信仰と生活との関係はあまり書いていません。こうしたことからパウロは理屈っぽい人だと想像できます。それもそうでしょう。彼は学者であり、当時の一流な教育を受けていたからです。その点ペトロは違います。彼は漁師でガリラヤ湖で魚を捕って生計を立てていました。つまり体を張って生きてきた人でした。そんなペトロがイエス様に召し出されて弟子となったのです。ペトロは弟子になって性格も変わったのではありません。ペトロはペトロ、ペトロの持っていたものをイエス様は良い方向に用いられました。彼には実践力があり、行動力、指導力がありました。彼は弟子たちのリーダー格として活躍しました。学者肌のパウロとは違って生活力があった彼は突飛なことを言ったり、また仕出かしたりして失敗も多くしました。しかし、ペトロが偉いのは失敗をしでかした時でも、うずくまり自分の内にこもってしまうことなく、イエス様の所に言って「ごめんなさい」と言ったのです。そして悔い改めました。何度失敗をしてもそのたびにイエス様の所に戻って行って悔い改めました。そんなペトロが書いた手紙なのです
 18節にこう書いています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものによらず、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」と。ここには、はっきりと「金や銀」のような朽ち果てるものによってではなく、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によっているのだと書いています。これはイエス・キリストの十字架の死によって罪が贖われた、ということです。つまりペトロはこう言うのです。神様の前に多額の寄進をする、それによって救われ、聖なる者になったのではないということです。
 私は「金と銀」ですぐに思い出すことがあります。それは私自身の献身を促された言葉であります。「金銀は私にはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒言行録 3:6、口語訳)という言葉です。ペトロは神殿に詣でて祈りの時を持とうとして神殿の庭に入って行こうとしました。すると、「美しい門」の手前で足の不自由な物乞いの男と出会います。ペトロがこの男に言ったのです。「あなたに差し上げる金銀はありません」と。私は「金銀」これはお金でしょうが、それだけでなく、この世の価値あるものも含んでいると考えています。それを私は何も持っていませんでした。しかし、だからと言って、何も持っていないわけでない。私にあるものがある。それは与えられたものだけれど確かに持っている。それはイエス・キリストの名によって生きること、イエス・キリストを信じて生きること、私はそこに生きよう。そしてそれを分かち合っていこう。そして献身していきました。
 ペトロは「あなたがたはキリストの尊い血によって贖われた」と言っています。あなたがたは以前、むなしい生活をしていた、そんなあなたがただった。金や銀のような朽ち果てるものに頼っていたむなしい生活をしていたというのです。そうしたむなしい朽ちる歩みではなく、聖なる者とされている歩み、喜びと希望にあふれ、人と共に生きる歩みがあると勧め、朽ち果てない神様を信じて、生活をしていくようにと語り掛けているのです。それは変わることのない神の言葉によって、新たに生まれた者として生きて行くことなのです。
 私たちも新たに生まれた者として神様を信じて生活をしていきましょう。私たちの生活の中にも、神様が働いて下さっているのですから、キリストの愛を伝えて歩んで行きましょう。
[PR]
by higacoch | 2013-02-16 15:23 | ペトロ

2010年2月7日

「賜物を生かして互いに仕えよ」 箴言10:11-12、ペトロ一 4:7-11 

 私は介護福祉士の受験勉強の中で「ノーマリゼーション」という言葉を知りました。この考えは「障害がある人も、ない人も住み慣れた地域で、同じように共に生き、普通に生活すること」という意味のものです。これを提唱したのはバンク・ミケルセンで、障害者の人権と幸福のために画期的な活動をした方です。今では彼の考えは、社会福祉の基本的な理念の一つとして実践されるようになりました。ノーマリゼーションとはノーマルからできた言葉で、つまり普通、正常であること。この反対はアブノーマル、異常です。彼は言うのです。「障害のある人々というのは、肢体、知覚、知的、精神障害をもつ人たちのことです。こういう人々を異常と呼ぶのは賛成できません。一体、何に対して異常なのでしょうか。わたしたち人間は一人一人異なっています。十人十色というように誰一人として同じ人間はいません。違いがあるからと言って人々の間に正常と異常の線引きをすることは誰にもできません。障害があるからといって、社会から阻害され、差別される理由はないのです。たとえ障害があっても、彼は一個の人格を持ち、人間として障害がない人と何ら変わりがないのです。これはごく当たり前の考え方なのです」と。
 私はミケルセンの考え方に感動を覚えながら、今朝、与えられましたペトロの手紙の箇所を読んで、10節に目が止まりました。そこには「あなたがたは、それぞれ、賜物を授かっている」とあります。誰かが賜物を授かっていて、他の人は授かっていないとは言っていません。ある人は与えられて、他の人は与えられていないというのではないのです。またパウロの言葉が思い浮かんできました。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。だから、多くの部分があっても一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。・・・神は見劣りする部分をいっそう引き立たせて体を組み立てられました。それで体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」と。見劣りのする部分は、何も賜物が与えられていないのではありません。キリストの体は、ある者が他の者に与えるだけの一方通行の流れではないのです。見劣りする部分も賜物が与えられて、他に与えているのです。
 賜物を生かすということは、自分のためではなく、互いに仕えることによって生かすことができる。こう考えると私たちは共に生きることが求められているのです。障害があってもなくても、その人は神様から賜物を頂いています。人が人として生きる上で互いが必要であるということ。ある人々を隔離すればいいとは言えないのです。共に生きることが求められていて、互いが必要な存在なのです。神様が与えて下さった恵みを自分のためだけに用いるのではなく、神のために、隣人のために用いるようにと勧められているのです。賜物を生かして、互いに仕え合う者となって歩んでいきたいものです。
[PR]
by higacoch | 2010-02-14 19:43 | ペトロ

2009年12月27日

「待ちつつ、望みつつ」 イザヤ65:17-19、Ⅱペトロ3:8-13

 今日は今年最後の主日です。1年という区切りでは、終わりを迎えますが、私たちの信仰生活においては、終わりを迎えるものではありません。私たちにとっての終わりは、主イエス様の再臨の日であり、それは終わりと同時に完成の日であります。その日を待望して生きていくのです。再臨の前に地上の生が終わり、天に召される方もおられるでしょう。
 私は、望みをもって生きるということで教えられた本の一冊に「夜と霧」という本があります。著者はV・フランクルで、ナチス・ヒットラーの時代の強制収容所アウシュヴィッツでの体験記ですが、そこで見た光景が記されています。フランクルはユダヤ人でしたので、捕らえられ収容所に送られますが、精神医学者でもありましたので、自分の周りに起こる多くの死をしっかりと見つめ、そこで起こった人間の生死の境を詳しく分析してこう書きつづっています。「人は未来(希望)を失うと内的に崩壊し、身心ともに生きる意味を喪失し転落(死)した」と。
 今朝の聖書箇所を読むと、人々はイエス様の再臨を期待し、その日が遅いと考えて不満を募らせ、その信仰が揺らいでいました。そんな人々にペトロは、主が約束を忘れたとか、怠けておられるのではなく、「主は一人も滅びないで、皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるからだ」と語り、「神の日の来るのを待ち望み、またそれが来るのを早めるようにすべきです」と言っています。このことは、私たちが再臨の日を早めることができるということではありません。ここで言われていることは、一人も滅びないように、あなたがたが、救われる人のために祈り、神が願われているように励みなさいと言っているのです。
 現代でも聖書を持ち出して、終わりの日は何時何時来ると預言する新興宗教があります。終わりの日に期待を持たせ、信者に伝道を急がせ、強制したりしています。人間の側で終わりの日を設けて、偽りの希望を与えています。それは幻想です。
 私たちにとって大事なことは、新しい天と新しい地とを、神が、備えてくださることを待ち望みつつ、歩み続けることです。私たちは主を見上げて、主が祈り求めるように教えて下さった「御国が来ますように。御心が行われますように。」と祈り求め、一人でも救い主イエス様を信じて生きる者が起こされるようにと祈り求めることです。
 マルチン・ルターは言いました。「たとえ世界が明日終わるとしても、今日、私はリンゴの木を植える」と。それは、主にあって今日の務めをしっかりとなしていくということです。たとえ明日、世界が終わろうとも、明日に自分の命が絶たれようとも、希望を抱いて、神の国の完成である終わりの日を待ちつつ、生きていきましょう。
[PR]
by higacoch | 2009-12-31 00:59 | ペトロ

2009年2月22日

「神のものとなった民」    詩編98:1-9, ペトロの手紙 一 2:1-10

 今朝の新約聖書箇所を読みますと、いつでも次男のことを思い起こします。次男は未熟児で生まれ、すぐに救急車で北里大学病院未熟児センターに運ばれました。未熟な点は三つ。一つは自力呼吸、第二は体温調整。第三は自力で母乳が飲めない。病院からは「母乳には免疫が入っていますから、どうしても母乳を飲ませて下さい。量の問題ではなく、混じりけのない母乳をわずかでも飲ませてください」と言われました。こうしたことから「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」を読むと未熟児の息子のことを思い出すのです。
 さて、ペトロは「霊の乳を慕い求めなさい」と言っていますが、「霊の乳」とは具体的に、何を表しているのでしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんにとって母乳が不可欠なものであるように、生まれたばかりの信仰者が生きる上でなくてはならないもの、霊の乳は主の言葉なのです。
 悪意、偽り、偽善等、これらは人の言葉であり、これらは「草のようなもので枯れ」ます。しかし、主の言葉は枯れてなくなるのではありません。永遠に変わることがないのです。人の言葉は時代と共に変わります。しかし、イエス様の言葉は変わらない、永遠に変わらないのです。
 ペトロが強調して語るのは「あなたがたは、憐れみを受けた」ということ。こうしたことを浮き彫りにするために、ペトロは対比する言葉をもって語るのです。それは「かつて」と「今」、「以前」と「今」です。あなたがたは、「かつては、神の民ではなかった」でも、「今は、神の民」、「以前は、憐れみを受けなかった」でも「今は憐れみを受けている」と。そして、「あなたがたは、選ばれた民、神のものとなった民だ」。そうなったのは、あなたがたを光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるため、つまりイエス様の救いの業を広く伝えるためなのだと言うのです。
 皆さんもよく思い起こして欲しい。以前はどうだったか。以前はイエス様を知らず、イエス様を捨てていたのです。しかし神様の一方的な憐れみによって、今や神のものとされ、神の民としてイエス様の救いの業を広く伝える者とされています。神様があなたを救い、救いの業を伝えるようにとしてくださっているのです。
 私たちにとって大事なことは、過去の自分を深く見つめることではなく、神様の恵みを受け止めて、神様に応答して生きていくことなのです。私という小さな者であっても、神様の救いの業を伝えること、まだ知らない方々に知らせることなのです。なぜなら、それが、神様があなたを救い、あなたを通して為そうとしておられたことだからなのですから。
[PR]
by higacoch | 2009-02-27 13:26 | ペトロ