カテゴリ:ガラテヤ( 4 )

2015年11月8日

「信仰によって生きる人」  詩編105:1-7、ガラテヤ3:1-14
                           
 聖書を知っていると言う人の中に、旧訳聖書、新訳聖書と誤解している人がいます。「訳」と「約」の違いです。「約」は、契約、約束のことですので、旧約は旧い契約です。旧約は、神の戒めである律法を誠実に守る者に祝福が約束されるという約束、それに対して新約は、イエス・キリストが救いの業を為してくださったので、その救い主を信じれば、祝福されるという約束です。
 さて、今朝の手紙はガリラヤ地方の諸集会(家の教会)に宛てたもので、今朝の箇所はまさに、あなたがたは旧約によって生きるか、あるいは新約によって生きるのか、律法によって生きるのか、イエス・キリストを信じて生きるのかがテーマです。まずパウロは「あなたがたは、物解りが悪い。あれほどの体験をしたのに、無駄だったのか、無駄であったはずはないでしょうに……」と強く問いかけています。
 パウロは、キリスト・イエスの十字架の死によるすべての人の救いを、あなたがたは無駄にするのかと問いながら、アブラハムの信仰を語っています。「アブラハムは神を信じた。神はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)を取り上げ、アブラハムは律法を守るという行いをして神によって義とされたのではなく、神を信じることによって義と認められたと強調しています。あくまで神が、義と「認められた」のです。義となった、正しい良い者になったとは言われていません。神様が、お前を良い者と認めると言うことで、全く罪がなく清くなったと言うのではないのです。神が、アブラハムの信仰を受け止めて、それゆえに、アブラハムが罪を犯す者であるけれども、良い者として認めて下さると言うことです。その後、アブラハムが罪を犯したとしても、彼の神への信仰ゆえに、義と認めてくださるのです。そしてパウロは「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して『あなたがたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。」(8節)と言っています。ここでの聖書とは旧約聖書のこと、異邦人はガラテヤの人々です。ですから、ガラテヤの人たちが祝福されるという福音は、旧約聖書にすでに預言されていたと言うのです。信仰によって生きる人が、信仰に生きたアブラハムと共に祝福されると語るのです。信仰の人、アブラハムはいろんな失敗をし、罪を犯しました。しかし、彼は神に向かって悔い改め、信仰に帰り、また罪を犯しても神に帰り、神様を信じて生きました。そして地上の生を終えて、召されていきました。信仰によって生きるとは、アブラハムがそうであったように、信仰から信仰へと生きていくことです。罪を犯しますが、再び、神の前に立ち返り、罪を悔い改めて、信仰によって生きていくことです。ガラテヤの人であるあなたがたも、信仰によって生きていって欲しいと繰り返し、語っています。
 私は、「信じる」と言うことで、深く教えられたことがあります。それは、神学校時代、私は東京神学大学で学びましたが、隣にあるルーテル学院大学の神学部の授業を受講したことがあります。その授業は、20世紀最大の神学者と言われたカール・バルトのドイツ語購読で、バルトの日本語への翻訳者として良く知られた井上良雄先生の授業があったからです。受講生は4人、バルトの代表的な作品「教会教義学」でした。教義学というと難しそうに聞こえますが、「教会に仕える学問である」とバルトは言っています。私は、井上先生宅にも伺い、5、6人の読書会でも学びました。そのバルトが、信仰のことを詳しく論述する時に、何度も大事なこととして語った言葉があります。それは決断“Entsheidung”です。神の前に立って、一人、決断する。周囲から迫られて、決めるのではありません。神から迫られて「信じます」と決断するのです。その点、信仰とは、まことに個人的なものです。神様の前に、一人で立ち、そして心から信仰を言い表すのです。
 伝道者パウロは、信仰の父とイスラエルで仰がれている「アブラハムは、神を信じた。それは彼の義と認められた。」(6節)と言っています。アブラハムはその後も罪を犯しました。罪を犯したから、神はアブラハムを罪人だと断罪し、呪われたのではありません。アブラハムは、何度も悔い改めて、神を信じて生きていきました。そのアブラハムの信仰を神は祝福されたのです。わたしたちも罪を犯してしまいますが、悔い改めて、神に帰り、神を見上げて、信仰から信仰へと生きていきましょう。神は罪人を憐れみ、罪人のために、御子にわたしたちの罪を担わせ、わたしたちに代わって死なせられたのです。イエス・キリストを信じる信仰に生きる者に、神が祝福を与えてくださっていることを深く感謝しましょう。イエス・キリストを信じて生きていきましょう。
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by higacoch | 2015-11-14 20:12 | ガラテヤ

2014年7月27日

「キリストの律法」     サムエル記上24:8-18、ガラテヤ6:1-10
                             
 今朝のガラテヤへの手紙を書いたパウロはイエス・キリストに出会って、自分の生き方のヒントをいくつか学んだというのではなく、生き方そのものを根底から変えられた人です。彼は元は律法学者でありました。モーセによって神から与えられた律法を「神の律法」と呼びました。それには「これをしてはならない」という表現が多くありました。たとえば「隣人に嘘をついてはならない」とか、「隣人のものを欲しがってはならない。」とかです。つまり禁止命令でした。それに対して、イエス・キリストが与えた律法は肯定命令でした。たとえば、律法の第一の戒めは「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい。」と同時に「隣人を自分のように愛しなさい」でした。つまり「してはならない」ではなく、「しなさい」でした。イエス様は、こうした積極的な戒めを具体的に、十字架にかけられる前夜に弟子たちに与えられました。「(あなたがたは)互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。パウロは微妙に昔ながらの律法とイエス様によって与えられた律法を分けて使っています。前者を「神の律法」と呼び、キリストによる律法を「キリストの律法」と呼んでいます。こうした「キリストの律法」という表現は、多くの手紙の中でも二度しか使われていません。今朝の箇所と、もう一つが、コリントの信徒への手紙一の9章21節です。(9章19~21節は、マルチンルターの「キリストの自由」の根拠となった箇所)
 イエス様は「互いに愛し合いなさい。」と教えられました。「愛する」と言った時に、こちらから相手を愛していくのです。相手がまずわたしを愛してくれた時に初めて、こちらも愛するのではありません。積極的な愛であり、見返りを求める愛ではありません。
 今朝の箇所で「キリストの律法」が語られていますが、パウロはイエス様が言われた「互いに愛し合いなさい」をもっと解りやすく、「互いに重荷を負い合いなさい」と教えています。この少し前の5章13、14節には、「 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」と言っています。愛するとは仕えることであり、また重荷を負うことでもあるのです。これが神様の霊によって生きるキリスト者の生き方なのです。
 そこには、相手を受け入れることが含まれていますし、相手の罪を赦すことも含まれています。ただ鵜のみして罪を赦すことだけをするのではありません。柔和な心で、相手が正しい道に立ち帰らせるようにするのです。「反ってあなた自身が、その罪に誘惑されないように自分自身に気をつけなさい。」とも教えています。互いに重荷を負うこと、そのようにしてこそ、キリストの律法を全うするのだと。
 重荷という言葉はギリシア語のバロスという言葉が使われています。これは過ちに陥る誘惑や誘惑に落ちた結果の悲しみや苦しみを指します。だから互いに重荷を負いあうということは、過ちに陥ったものの悲しみや苦しみを心から思いやり、そして彼が信仰の道に回復できるように助け励ますことなのです。もしも自分の方が、相手を受け入れて上げていると思うのなら、その人は、自分自身を良く知っていません。人が相手に対して、優越感に浸る時、キリストの恵みを良く知らなければならないのです。あなたの罪のためにもキリストは死なれたということを。
 パウロは、こうも言います。「各自、自分の行いを吟味してみなさい」と。自分の行いを相手と比べてうんぬんするものではありません。そうしていく時、人は浅はかな優越感に浸るようになるのでしょう。自分の行いは他人との比較ではなく、神様の前に置いて吟味すべきであって、人前で誇るためにするものではありません。またわたしたちは知らなければならないことは、めいめいが自分の重荷を担わなければならないということです。自分の行動には責任を負わなければならない。安易な考えで責任のがれをすべきではありません。その点を思い違いをしてはならないのです。決して神様は侮られる方ではありません。罪を犯すたびに罪を赦してくださると言って、神様はなんでも赦す方なのだからと、たかをくくってはならないのです。自分の蒔いたものを刈り取ることになるのです。肉の欲によって蒔いたものは刈り入れなければなりません。そうした肉によってではなく、霊によって蒔くことが求められています。そしてパウロは、最後に、今、この時に、明日からではない、また心の準備が整ったと感じる時からではありません。今、この時からすべての人に対して、善をおこなうことを勧めています。こちらから積極的に、人に近づき、人を受け入れ愛するような歩みを求めて生きていきましょう。その歩みこそが、キリストの律法に生きる歩みなのですから。
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by higacoch | 2014-07-31 17:20 | ガラテヤ

2013年1月6日

 「相続人」  イザヤ書49:1-6、ガラテヤ書4:1-7

 聖書の言葉に「主のいつくしみは、決して絶えない。主の憐れみは、決して尽きない。それは朝毎に新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」(哀歌3章22,23節)とあります。主のいつくしみは、絶えることがありません。その憐れみは、尽きることはありません。朝毎に新しい恵みを頂き、今年も一日一日を歩んでいきたいと思います。
 さて、私たちの教会の今年の教会標語は、「キリストに仕える」であります。「キリストに仕える」というのは、イエス・キリストだけに仕えるだけでいいというのではありません。キリストに仕えると同様に、隣人に仕える、このことも共に受け止めて歩んでいきたいものです。
 さて、今年は元旦と祈祷会とが続くこととなり、こうした時は一つを選ぶことになっていて元旦礼拝を選びましたので、2日はゆったりと過ごしました。私は朝9時頃に教会の駐車場で簡単な大工仕事をしていましたら、踏切の方から、若いお父さんと3歳位の坊やがゆっくりとこちらに向かって歩いてきていて、可愛いいやり取りをしていました。坊やが小さな指でさしながら「ここは何屋さん」と聞くと、「文房具屋さんだよ」とお父さんは答え、「ここは、何屋さん」「ここは床屋さんだよ。」と答えていました。こうして教会の前まできて「ここは何屋さん」「ここはキリスト屋さんだよ」とお父さんが答えているのを私は聞いて、微笑ましくなりました。そして改めて「キリスト屋」さんと言われたことを思い巡らしました。すぐに思ったのは「キリストを売る」ということです。国語辞典で「売る」を調べてみると「世間に言い広める」という意味を見つけました。この凡例では「名を売る」があり、そうであるなら「キリストを売る」ということは、キリストを世間に言い広め知らしめることでも使用してもいいのではないかと思いました。
 そんなことを思いながら、今朝の聖書個所を読みましたら、パウロは教会の人たちに向かって「あなたがたは奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人である」と言っています。そうならば、神様の財産を受け継いで神様のことを売ることになる。つまり神様のことを世間に言い広めなければならない者とされているのではないかと思った次第です。
 日本では、民法が定める相続人とは、被相続人(=相続される人)、大体が、配偶者か、親などです。ですが、聖書が書かれた、伝道者パウロが生きていた時代、その国々をローマ帝国が支配していましたので、ローマ法によれば、相続人はあくまで子どもたちでした。現代法では妻は二分の一の財産を受け継ぐことができるのですが、古代ローマ法ではそうではありません。妻には特別な割合があるのではなく、妻も一人の子どもと同等で妻も入れた数で分けられました。
 パウロは、ローマ法にもよく通じていたのでしょう。彼は、ユダヤの国の法律(律法)の専門家であり、学者でありましたから、ローマ法にも関心があったに違いありません。ですから、「あなたがたは、奴隷ではなく、子です。」と言っています。相続人は子たちで、奴隷は、主人の相続人となり得ないのです。そして、パウロは、あなたがたは、単なる人の相続人ではなく、神の相続人だと言っています。直前には「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものとだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」と語気を強めて言っています。
 伝道者パウロは、ユダヤ人もギリシア人もない、民族の優劣や対立があるのではない、どちらもキリストにあって一つだと言いたい、またそれだけでありません。当時の身分制度では、奴隷と自由人とに区分けされていました。しかし、そうした奴隷とか、自由人とかの区別や差別が正当化されるのではありません。人として、奴隷も自由人も、キリスト・イエスにおいて一つだと言っています。これはこうも言えます。教会の中では、身分制度が成立しないということです。神にあっては、その人が奴隷であれ、自由人であれ、その序列も階級もないのです。さらにパウロは、「男も女もない」「キリスト・イエスにおいては、一つ」なんだと言っているのです。
 パウロは、イエス・キリストを信じる者たちは神の子ですから、そうした人たちは、キリストにあって一つであり、神の子であり、神の相続人である、神様の財産を受け継いでいる相続人であると言いたいのです。その財産は「人が救われる」という救いの財産です。それを受け継ぎ、人々に分け与える人たちだと言いたいのです。そのように、神様があなたがたを「相続人」とされたのです。
 新しい年が始まりました。私たちは、神様から立てられた神の相続人としての歩みが与えられています。どうか、キリストの救いの財産を委ねられて、人々にも分け与えるように、隣人に仕えて歩む者として生きていきましょう。それがどんなに小さな歩みであっても。
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by higacoch | 2013-01-12 12:28 | ガラテヤ

2008年11月30日

「キリストと共に生きる」  詩編143:1-6, ガラテヤ2:15-21

 パウロは、19節でこう言っています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対して律法によって死んだのです」と。ここで、パウロは「神に対して生きるため」と言っています。そうです。私たちは神に対して生きるのです。決して律法に対して生きるのではありません。もし律法に対して生きるのなら、イエス様の十字架の救いの恵みが無駄になってしまいます。神に対してではなく、律法に対して生きるということは、私たちの行いによる生き方であり、自分たちの善い行いを根拠に生きることであります。善行を積むことによって救われると理解し、それは神の恵みを受け止めて生きていないということです。この歩みは、昔の自分に戻ることです。だから、パウロ自身、イエス・キリストを受け入れる前は、律法に従って生きようと、日々努力し邁進していました。それが神様の前に正しい生き方だと信じてきっていました。しかし、そんなパウロがイエス・キリストとの出会いによって変えられてキリストによる救いを信じるようになりました。神に対して生きるためには、以前の自分、律法を頼りにし、律法に対して生きてきた自分が死ななければならなりませんでした。そうでもなければ、イエス・キリストの救いに生きることができないのです。以前の自分を残していては、どうしても律法によっての価値観を持ち続けることになってしまいます。パウロは、律法によって死んだということを、自分もキリストとともに十字架につけられているとも言っています。こうしたことで、パウロは、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストが私の内に生きておられる」と語っています。
 教会は、傷つき、痛み、苦しみ、悩む人々が招かれ、そして教会生活をしています。人生街道を立派に生き抜いている人だけが選び抜かれているのでは決してありません。悲しみや苦しみを今抱えている人が来ていいのです。否、むしろ、そうした人たちが招かれて、キリストの福音を受け入れて、イエス様を信じて生きる者とされ、教会が造り上げられます。教会は、イエス・キリストの救いを受け止め、イエス・キリストを信じて、キリストと共に生きるのです。それ以外に、何か人間的なものが幅を利かせ、倫理的な価値基準が語られていく時、キリスト教会ではなくなっていきます。教会は、キリストの恵みをしっかりと受け止め、キリストを信じて、キリストと共に生きる群れなのです。私たち一人一人も、それぞれの痛み、苦しみ、悩みを抱えたまま、イエス様に近づきましょう。そして共にキリストを見上げて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2008-11-30 22:39 | ガラテヤ