カテゴリ:コリント( 45 )

2016年8月28日

「 一つになるために」 詩編 147:1~11、コリント 一 1:10~17
                            香月 茂 牧師

 教会が分裂するのは不幸であります。日本の教会の歴史を見てみると、教会の分裂は、いくつかの教会で見られます。世界のキリスト教の歴史においても、分裂はありました。これは、人間の集団の宿命みたいなものかもしれません。罪深い人間の集まりですから、教会だけではなく、政治的な集団においても、文化的な団体でも、また私たちの生活の身近なサークル活動団体でも、分裂があります。皆さん方の中には、その分裂の渦中で不幸を味わった人がいるかもしれません。
 さて、今朝与えられた聖書箇所にありますように、コリントの教会にも分裂の危機がありした。このまま進めば、分裂となっていくという状態でした。その教会では4つのグループがあり、それぞれが対立し、言い争っていました。それぞれに「私は、パウロにつく」とか「アポロにつく」とか「ケファ(ペトロのこと)につく」とか「キリストにつく」とか言って一つになれなかったのです。教会の中での争いは、まさに教会内の権力争いであり、誰が一番なのかという争いで、互いに悪口を言い始めたりします。そうしたことがもう始まっていたのでしょう。
 コリントの教会では、キリストの福音を聞いた人たちが勝手にキリストのある面だけを強調したり、アポロからキリストについて聞いた者たちが曲解していたり、ペトロが語りかけたキリストを誤解していたりして、それぞれが真実のキリスト理解に至っていなかったのでしょう。だから、パウロは強調して言っています。「キリストは、いくつにも分けられてしまったのですか。」と。キリストがしっかりと受け止められていなかったのです。キリストの部分、部分が主張されていたのでしょう。だから、パウロは「勝手なことを言わず、キリストにあって、仲たがいをせずに、心を一つにして、思いを一つにして、固く結びあいなさい。」と諭しています。キリストをバラバラにして、それぞれのキリストの一部分をとりあげて、自分たちが正当だと言ってはならないということであり、キリストによって心を一つに、思いを一つにして欲しいと願っているのです。
 それに続けて、パウロは、キリストの十字架がむなしいものにならないために、「言葉の知恵によらないで、私は、福音のみを告げ知らせた」と強調しています。教会での第一にするべきなのは、イエス・キリストであるということなのです。決して、パウロでもアポロでもなく、ペトロでもないのだというのです。
 パウロは続けます。「洗礼を授け、私の信奉者を得るために、コリントにやって来たのではない。そうではなく、キリストの福音を告げ知らせるため、キリストを信じて生きる人が起こされるために来た。人間の知恵によって立派な話をしに来たのではない。ただただ、キリストの福音を語るために来た。しかもキリストの十字架のことを知ってもらいたいために来た。キリストは、あなた方のために、死んでくれたのだ。このことだけを語るためなのだ」。
 人は、一つになることはできず、むしろ分裂してしまいます。私は、説教の初めの方で、分裂は人間の宿命だと話しました。どうしても一つになって歩んでいけず、むしろ分かれてしまう道へ進んでしまいます。そのような分裂の危機に直面した時に、その危機を脱して一つになっていくのは、人の知恵や力では不可能なのです。どうしても、神の力、神の助けを頂かなければなりません。そのためには、祈る以外にはないのです。これはいつでも、キリストにあって一つになっていくことなのです。キリストを見上げて歩んでいかなければならないのです。
 こうしたキリストによって一つとなる思いは、私たちのKC-NETが大事にしていることなのです。小金井市内に11の教会があり、その中には8つの教派があります。それらが互いにいがみ合うのではなく、一つになるために、キリストにあって一つになることを目指しています。教会員が、また諸教派のいくつかの教会が一つになるためには、キリストを見上げ、祈りを共にして歩んでいかなければならないのです。このことを決しておろそかにしてはならないのです。一つとなるために、キリストを見上げて、歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2016-08-31 11:37 | コリント

2016年4月17日

「一つの体となるために」 詩編 136:1-9、Ⅰコリント 12:1-13
                                         香月 茂 牧師

 先週はKC-NET(小金井市内8教派、11教会の共同活動)のことで忙しい日々を過ごしました。今年も5月29日にはKC-NETの「一致祈祷会」があります。例年100名以上の方々が集まって祈りを捧げます。
 イエス様は十字架にかかる前夜に長い祈りをされました。(ヨハネ福音書17章参照)その中で弟子たちによってイエス様を信じるようになった人々が「一つになるように」と祈られています。このことを覚えてわたしたちKC-NETもキリストにあって一つとなって活動していこうと祈り会を重ねてきました。2014年以来、祈祷会は二つとなり、「一致祈祷会」では11教会が一つの教会に集まって国のため、市内への福音伝道、KC-NETの働きと教会間の交わり、市内の外国人と差別や困難に苦しむ人たちのため、東日本大震災の被災者のために、祈りを合わせてきました。もう一つは「巡回祈祷会」で11教会を回って、それぞれの教会の祈りの課題を取り上げて祈り合っています。
 私は2013年の「一致祈祷会」で説教をさせて頂きました。1938年(昭和13年)小金井村に初めて福音の種がまかれてから75年目の年で、最初の日本基督教団小金井教会がその節目の年に新会堂を建設しました。それも併せての「一致祈祷会」でした。私は75年間に建てられていった10教会の一つひとつの教会の歴史を短くまとめて語り、その後、イエス様の「一つとなる」祈りについてお話ししました。短くまとめますと、ここでイエス様が「一つになる」ようにと説教されたのではなく、祈られたことはとても重要なことです。一つになることは、人間の力、自分たちの力と知恵でできるものではありません。「一つになる」にはどうしても神に祈り、神の力が必要なのです。もし人の知恵や力で「一つになれる」と考えるなら、それは幻想にすぎないのではないでしょうか。弟子たちのため、その後の信仰者のために、「一つとなる」ように、イエス様が執り成しの祈りしてくださったことを忘れてはならないし、私たちも同じように神の導きを祈り求めていかないといけないと加えてお話をしました。
 さて、今朝与えられましたコリントの信徒への手紙一の12章12節、13節に「一つ」が述べられています。「体は一つでも多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由な身分のものであろうと、皆一つの体となるために、洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。」とあります。「体の部分は多くあっても体は一つ」というたとえは、実に解りやすい教えです。私たちみなに頭、首、胸、腕、手、足があり、それらが有機的に連結していることをよく知っているからです。それぞれの部分はレゴのように、つながりがない一部品ではありません。体の一つひとつの部分は、なくてはならない部分であり、血が通っています。このたとえで、伝道者パウロは、「この体は、キリストの体であり、教会だ」と教えています。そして、各部分は、神からそれぞれに霊の賜物を頂いており、それによって生きて働き、結び合っていると言っています。それは知恵の言葉、知識の言葉などであり、それらを神から頂いていない人はいません。そうした賜物を生かして結び合うことによってキリストの体が成長していくと言うのです。そして、キリストの体は、ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由人であろうと、そうした民族や社会的な地位の違い、さらに男であろうと、女であろうと、一切関係なく、キリスト・イエスにあって一つだと言い切っています。つまり、一人ひとりは、神からの賜物によって、一つとなるようにされていると語っています。
 今朝の箇所に続く所では、体の部分が互いに言い争い、お前なんかいらない(21節)と言う排除の論理が生じてしまうなら、キリストの体である教会は、ばらばらになっていくでしょう。そうではなく、むしろ体の中で、弱い部分、目立たない部分こそが大切にされ、その弱い部分を思いやることによって組み合わされていくことこそが、まさにキリストの体作りになくてはならないのです。人間的な思いではなく、神の御旨をもって作り上げられていかなければなりません。効率や、成果に重きをおく人間的な体作りでは、キリストの体を作り出すことはできません。わたしたちは、神の御旨に叶うように、キリストにあって一つとなるように祈り求めていきましょう。
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by higacoch | 2016-04-23 12:19 | コリント

2015年10月4日

「喜ばれる者」 詩編65:2-5、 コリント二 5:1-10
                              
 先主日は、召天者記念礼拝を捧げました。イエス様の言葉「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」から、死は決して終わりではなく、また死の後、何もないのではなく、死後に復活があり、新しいいのちに生かされると話しました。イエス様も「生きた」ではなくて、「生きる」ということをよく語られました。ですから、わたしたちの死も、決して終わりではなく、死は新しい命への入り口であり、死を通して新しい命が始まると語りました。先主日はイエス様の言葉を通して学び、今朝はパウロの言葉を通して、生と死、死後を学びます。
 パウロは、人が地上で生き、死んでいくこと、そして死後のことを二つのたとえで語っています。一つは建物、もう一つは着る物ですが、ここで語られていることは、少々難しいのです。建物では、幕屋のことが出てきます。幕屋とはイスラエルの民がエジプトを脱出し、荒野を40年間旅をした時に神が住まれる所として、簡単に造られたものです。ここでは神が住んでくださるわたしたちの体を現わしています。パウロは「幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている」と言って、死を迎えても神によって住む所が与えられていることを知らせています。そう言ってから、すぐに「天から与えられた住みかを上に着たい」と言っています。ここでは着物を上から「着る」という表現をしています。
 私は特に5節の言葉に注目したいのです。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者として下さったのは、神です」と言っています。あなたがたが、自分の知恵や知識や能力で、相応しい者になったのではないとはっきりと言っています。人は罪を犯しますし、これからも罪を犯しますので、どうしても神の御心にかなう相応しい者になれません。もしも神の憐みがなければ、誰一人として救われる者がいないのです。しかし神が御子イエス・キリストをこの世に送り、キリストの十字架の死による贖いによって、わたしたちは憐みを受けたのです。人が相応しい善行をしたからではありません。むしろ、わたしたちは神に背を向けて、神から離れて生きていました。そんなわたしたちをイエス様は近づいて天国の教えを説き、そしてすべての人のために、自らの命さえも捧げてくださいました。そのことによって相応しくない者が、相応しい者とされたのです。
 こうした「着る」という表現には、深い意味が込められています。ガラテヤの信徒への手紙3:27節にもありますが、「キリストを着る」ということは、キリストに結ばれて洗礼を受けることでした。わたしたちには、洗礼を受けて清められるというイメージが強くあります。水で罪が清められて、真っ白くなるという考え方は、カトリック教会が教える洗礼の出来事の意味です。生まれてからの原罪、もともと持っている罪などが、洗礼によって清められて、全くの清い存在になると考えるのです。では、洗礼後には罪を犯さないかというと、罪を犯します。それを自分の罪ということで自罪と言います。しかし、わたしたちの教会の信仰告白では、全く清められて罪のない者になると信じていません。カンバーランド長老教会の信仰告白の「義認」という条項(4.14)があります。そこには、洗礼は、キリストという服(ガウン)を罪人であるわたしたちが着るというイメージがあるのです。中身のわたしたちが、清められて白くなるというのではなく、そのままのわたしたちがキリストのガウンを着ることによって、キリストに覆われて、神によって義と認められるというのです。ですから、洗礼を受けても全き義人になると言うのではなく、罪人のままで、一方的にキリストのものとしてくださり、義い人間と認めてくださるという意味です。
 ただ、パウロの時代にも、洗礼を受けて、神に罪を赦してもらったのだから、もう何もかも自由に勝手にしていいと受け止める人たちがいました。こうした人たちに、パウロは頭を悩ましていました。そんなパウロは、地上では、信仰生活をすることで、苦労も多いし、苦しみもだえることもあり、苦しんでいるというのです。そういう状況の中で、神が約束してくださったものは、天国での住みかであり、神が、その住みかに相応しい者にして下さったと強調しているのです。だから、今、地上での命があっても、ひたすら、わたしが求めるのは、主なる神に喜ばれる者でありたいと願うのだと言っているのです。神から離れることもある、しかし、またそこで、悔い改めて、何よりも神に喜ばれることを求めて、神の下に帰っていくこと、これは具体的に言うのなら、神を礼拝すること、神の言葉を聞くこと、神の言葉に従うこと、なのです。このパウロが人生のモットーとしていることは、コリントの教会の人たちにも、またわたしたちにも、通じることです。わたしたちも、信仰の揺れがありますが、その時に一番に帰るところは、神の所なのです。それは、放蕩息子の譬えからも教えられていることです。放蕩息子であれ、放蕩娘であれ、神から離れたものが、一番、戻るべきところは神の所です。それは教会といってもいいでしょう。
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by higacoch | 2015-10-10 16:37 | コリント

2015年3月15日

「わたしたちの心に霊を」     詩篇2:7-12、Ⅱコリント1:15-22
                             
 今朝与えられた個所では「然り」と「否」とが語られています。ですが、「然り」とか、「否」とか、よくわかりません。平たく言えば、「はい」と「いいえ」でしょうか。この聖書の個所から、よく語られるのは「はい」と「いいえ」を曖昧にして語るのではなく、相手にはっきりと分かるように語ることを教えていると説教されたりします。私はそれも教えられていると思いますが、それだけでおしまいにするなら、パウロが本当にここで語ろうとしている本意をくみ取っていないことになると思います。この箇所にはもう一つ「アーメン」があります。「アーメン」は「はい」に近いのですが、少し違っていて、「わたしもそう思っています。同意します。」という意味です。誰かが祈り、「これらの祈りを、イエス様の御名によって祈ります」と祈る時、それを聞いた人は祈った人と一緒に「アーメン」と合わせるのです。
 ではどうしてここで、「はい」「いいえ」「アーメン」と伝道者パウロは書いたのでしょうか。その理由は、自分が「はい」と言いながら、途中で「いいえ」となってしまったことがあったからです。計画通りに進めていけば、よかったのですが、パウロは途中から計画変更してしまったのです。その理由は、このすぐ後の23節から2章4節に書いています。それは、あなた方への思いやりからだと言うのです。
 今朝の言葉から言うと、「はい」から「いいえ」に変わってしまったのです。こうしたことで、パウロは、いい加減だと言われたようです。それに対してここで弁明しています。パウロは「このような計画を立てたのは、軽はずみだったのでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって『はい、はい』が同時に『いいえ、いいえ』となるのでしょうか。」と問いかけながら、神様は違うと言うのです。人は何かの都合で計画変更をするけれども、神様は違う、そして「神様は真実だ」と言います。神様は「はい」であると同時に「いいえ」ではありません。人は途中で「はい」を「いいえ」としてしまいますが、神様はそうではありません。パウロがコリントの人たちに伝えたのは、神の子イエス・キリストであり、この方は、決して「はい」を「いいえ」と変えられた方ではありません。この方においては、「はい」は「はい」であって、神の計画が実現したのです。
 だから、イエス・キリストを通して「アーメン」と力強く言っています。もっと分かりやすく言うのなら、神様が約束された「救い」はイエス様によって為されたということです。
 神様の計画が実現されるために、イエス様は父なる神様の御旨に従って歩み続きけられました。それは十字架への歩みです。途中でその道を逸れることはありませんでした。この道はピリポ・カイザリヤから始まります。そこはユダヤの国の最北端で、ユダヤの国でありながら、異教の神が祭られていました。そこでイエス様は弟子たちに真剣に問われました。「人々は、私のことをどう呼んでいるか」と。弟子たちは「洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか」と答えました。すると「では、あなたがたは、わたしを誰と呼ぶか」と尋ねられました。弟子ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。ここでイエス様は一大決心されたのです。ここから一路エルサレムに向かわれました。それは十字架への道、苦難の道でした。それは神様の救いの計画であり、すべての人の罪のために、死ぬということだったのです。
 イエス様は、常に、父なる神様の御旨を求めてまっすぐに歩まれました。苦難を覚悟した歩みの中でも、ゲッセマネの園での祈りには、最後の激しい葛藤があります。イエス様は「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」と祈られました。そうして、父なる神様の御旨に従って歩み続けられました。預言者イザヤが預言しているように、イエス様は人々に軽蔑され、見捨てられ、多くの人々の痛みを負い、病を知っておられました。そして人々の病いを担い、咎を負いつつ、十字架への道を歩み続けられ、十字架にかけられ苦しまれて、死なれました。これは神様の御旨であり、わたしたち人間のすべてを愛するという計画だったのです。こうして神様の「はい」が成就されました。
 そして、さらに神様の計画がありました。それは「聖霊の注ぎ」です。主の弟子たちに聖霊が注がれたように、私たちにも注がれました。このことも、聖書にある神様の約束でした。こうして最後の最後まで神様は、「はい」を「はい」として、実行されました。
 今は、レントの時です。イエス様は、苦しみの道を歩まれました。この道は、父なる神様の救いの計画の「はい」を実現するためだったのです。このことを覚えつつ、レントの時を過ごしましょう。皆さん一人一人は、これほどまでに神さまに愛されましたし、今も愛されて、生かされているのです。
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by higacoch | 2015-03-21 11:19 | コリント

2014年2月9日

「イエス・キリストのみ」 詩編109:21-31、コリント一 2:1-5
                              
 2月5日に藤井哲夫先生が天に召され、その前夜式に出席しました。先生の教会と2年前に講壇交換をしましたので、先生は、私たちの教会で説教して下さいました。聖書箇所はマルコ福音書14:3-9、イエス様が十字架にかけられる前日、ある女性が高価な香油の壺を割ってイエス様の頭に香油を注いだ箇所です。説教題は「ナルドの香油」でした。
 先生は中学3年生の時に洗礼を受け、教会での奉仕に励み、広島大学が進まれ、卒業時に献身して神学校にと思われましたが、ご家族の反対で断念されました。就職され会社でずっと働き、52歳の時ご夫婦でギデオン協会のメンバーとなり、こちらでも熱心に奉仕活動をなされました。58歳の時、栃木市で行われたギデオン協会北関東地区大会に参加されました。会場となったホテルの隣が作家山本有三氏の生家で、記念館となっていました。玄関の所に石碑があり、そこには有名な言葉が記されていました。「たった一人しかいない自分を、たった一度しかない一生を、本当に生かさなかったなら、人間、生まれてきた甲斐がないじゃないか」。この言葉が電光のように藤井先生の心を刺し貫き、再び献身の思いを湧き上がらせて、定年2年前でしたが、奥様の理解も得られて早期退職されました。そしてすぐに神学校に入学され、3年間の神学の研さんを積んで、2006年4月に小金井市の東京キリスト教会に副牧師として着任されました。先生は、私たちの教会で語られた「ナルドの香油」の物語の中で、イエス様の頭に香油を注いだ女性はマリアであると語られました。そのマリアの献身が藤井先生の献身と重なります。先生は、いつでもできることと、今でないとできないこととを区別し、今でないとできないことをマリアは決断し、300デナリオン(労働者の一年間の報酬)以上の価値のあるものをイエス様に捧げたのだ、と。マリアがイエス様のみに捧げたように、先生はその後の人生をイエス様のみに捧げられました。
 今朝与えられました聖書箇所には、伝道者パウロが、「私は、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言っています。キリストのみをのべ伝える、と言うことです。イエス・キリストに集中しています。 パウロが、そのようにキリストに集中したのは、2回目の伝道旅行でコリントの町に入る前に、学問の中心であったギリシャのアテネで伝道に励んでいます。ギリシャと言ったら、オリンピックの発祥の地として有名ですが、人間の知恵である哲学の発祥の地であり、哲学が活発に議論され、多くの哲学者を輩出した町でもあります。この町でパウロは学者ぶりを発揮して知恵比べの議論をしています。(使徒言行録17章参照)パウロにもある覚悟があったのでしょう。彼は何時になく、知恵を持ってギリシャの人たちと論じ合っています。ユダヤ人の会堂で、また彼らが議論の場所としていた好んだ広場で、人間の知恵で町の人々を説得しようとしましたが、失敗してしまいました。しかし、この失敗が次への伝道地、コリントで生かされたのです。パウロは、知恵の議論を聞いて、空しいと感じたのではないかと思うのです。それは、結局の所、自分の知恵を誇るのであり、相手よりも自分が知恵あると主張しているものだと感じたのではないでしょうか。
 だから、コリントの町に入った時、パウロには、ある決心がありました。「語るのは、イエス・キリストのことだけに限ろう。自分の知恵に頼って伝道するのではなくて、イエス・キリストのことに集中して語ろう」と、それもイエス・キリストの十字架をまず語ろう。それを語ってから、復活のことを語ればいいと思っていたと思うのです。
 伝道をするのに、学者のような豊かな知識や知恵が必要ではありません。そうした知識や知恵よりも、キリストが私たちを救って下さったという、イエス・キリストの言葉と神の力を知るべきなのです。そうしたことから、イエス・キリストを、イエス・キリストのみを語るのです。
 藤井先生の前夜式に出席して、式辞を語られた山中牧師の話を聞きながら、藤井先生は死に至る最後まで、講壇を守り、イエス・キリストのみに集中して語っておられたのだなあと教えられました。
 私たちも、隣人が救われるためには、イエス・キリストをしっかりと宣べ伝えなければいけないと教えられます。今年は伝道50周年、この50周年のお祝いの行事をこなすだけでこの年を過ごすべきではありません。これまでもそうしてきたように、伝道していかなければなりません。その折に、キリストに集中するように、キリストの十字架と復活を伝えていきましょう。
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by higacoch | 2014-02-14 16:37 | コリント

2014年2月2日

「聖なる者」 ハガイ書2:1-9、コリント二 6:14-7:1

 私たちプロテスタント教会の信仰では「聖」という言葉をあまり使いません。聖書とか、聖霊とか、そうした聖書に出てくる言葉は使うのですが、それ以外は、できるだけ使わないようにしています。その点、カトリック教会は教会用語として多く「聖」を使います。たとえば、祭壇を聖壇、礼拝堂を聖堂、エルサレムを聖地、パンと杯を聖体、司祭たちを聖職者と呼びます。さらに信仰者の中で特別な人を聖人と呼び、イエスの母マリアを聖母と呼びますので、カトリックは聖人崇拝、聖母崇拝などと言われたりします。またカトリック教会では毎日が誰々の聖人の日として覚えられています。こうした聖人崇拝的なことをプロテスタント教会ではしません。特定の人を特別あつかいしません。人は人であり、天使でも神でもありません。人は決して神格化されてはならないと考えます。
 伝道者パウロも第一回目の伝道旅行中にリストラという町で、歩けない男を神の力によって癒した時、町の人々にヘルメスの現人神と信じられて拝まれそうになりました。その時、パウロは「私は人間です。私は神ではありません。」と叫び、人々を説き伏せています。こうした人を神格化することは日本でもあり、戦前、天皇を神として崇めていました。ユダヤ人であったパウロにとってこの信仰は信じがたいことでした。ある人を神格化して神として拝むのは偶像礼拝となるからです。宗教改革者カルヴァンは、このように人を神のようにして崇拝するカトリック教会の聖人崇拝を批判しています。そして、聖人崇拝は迷信だ、キリストのとりなしを人々の心から完全に消し去ってしまうほどだと言っています。
 さて、今朝与えられました聖書の箇所の「聖なる者」は、そうした信仰者を特別な者とする聖人ではありません。ここでの「聖なる者」は、神様によって召し出された信仰者であります。だから、皆さん、一人ひとりと言っていいのです。特別な信仰者、完全な信仰者ではありません。
 パウロは、別の手紙でこう言っています。「 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。」(フィリピ3:12-15)と。ではパウロは、どうして信仰者を「聖なる者」と言っているでしょうか。その根拠は、一人ひとりに神の霊が注がれたからであると言っています。つまり、その人の内側に、何か聖なるものがあって、聖なる者となったというのではなく、あくまでも神様の霊を受けたからだというのです。では、彼らは霊を受ける資格があったのでしょうか。受けるための条件を満たしたから、霊が注がれたのでしょうか、そうではありません。神様の一方的な憐れみなのです。神様が彼らを憐れみ、聖霊を注いで下さいました。このことは私たちにも言えることです。パウロが言っているように、今も生きておられる神様が、私たちの中に霊を送って下さり、神様の神殿として下さったのです。だから、生きておられる神様に応えるように、神様に喜ばれるように生きていきなさいと勧めているのです。そして、「聖なる者」とされたのですから、自分の欲望のままに生きる部分を同居させたまま、生きようとしてはなりませんし、神様以外のものを神様のように拝んで生きるなと言うのです。神様の憐れみ、神様の愛を忘れることなく、神様を畏れ、自らを清めて、聖なる者となるように、生きていきなさいと勧めるのです。
 私たちも既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。私たちは、神様によって生かされ「聖なる者」とされていることを覚え、何とかしてイエス様の御心に生きようと努めて日々の歩みをしていきましょう。
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by higacoch | 2014-02-08 23:12 | コリント

2013年9月1日

「喜んで与える人を」 申命記15:7-11、Ⅱコリント9:6-15
                            
 皆さんはこんな詩をご存知でしょうか。アメリカでは良く知られた詩で、ニューヨーク大学付属病院リハビリセンターのロビーに掲げられたレリーフに刻まれているそうです。
「大きな事をなそうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに
    慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった。
  より偉大なことができるように、健康を求めたのに
    より良きことができるようにと、病弱を与えられた。
  幸せになろうとして、富を求めたのに、
    賢明であるようにと、貧困を授かった。
  世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、
    神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。
  人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに
    あらゆることを喜べるようにと、生命を授かった。
  求めたものは一つとして与えられなかったが、
    願いはすべて聞きとどけられた。
  神の意にそわぬ者であるにかかわらず、
    心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。
  私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。」
 この詩を詠んだ人は、自己中心的なものをもっていた人でしたが、神様と出会って人生で大切なことに気づかされたのでしょう。自分の願いはそのままはかなえられなかったけれども、もっとも深い所で聞かれたのだと確信し、最後は神様に感謝し、神様を讃美して召されていったのです。
 さて今朝の聖書箇所は、献金について語られているところですが、ただそのことだけを語っているのではなく、献金のことを通して福音の真理をパウロは語っているのです。パウロはこう言います。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまずに豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」それに続けて「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。」とあります。以前読んでいました口語訳では「各自は、惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである」とありました。「惜しむ心からではなく」の方が私にはピンときます。ということは、私の心の中にも惜しむ心があるからだと思うのです。その点でパウロは「惜しんでわずかしか蒔かない者は、刈り入れもわずか」だと言っています。この箇所を宗教改革者カルヴァンは、「けちけちと蒔く者は、またけちな収穫しかしない」と言っています。パウロはこうも言っています。「各自は、惜しむ心から捧げるべきではありません。」 誤解を恐れずに言うのなら、惜しむぐらいなら献金しない方がいいでしょう。惜しんだ心で献金しても神様は喜ばれません。また強制されて捧げるべきでもありません。最後にパウロは「喜んで与える人を、神は愛してくださるから」と言っています。「喜んで与える人を」神様は愛して下さいます。これは神様からの約束であって、わたしたちの思いを超える神の祝福があるということです。この祝福は、すぐに気づくことができない場合が多いでしょう。しかし、リハビリセンターの一患者の告白の詩のように、すぐには解らなくても、神様の側では喜んで与える人を愛して下さっています。
 パウロはコリントの教会の兄姉に献金のすすめをしていますが、その捧げ物を通して、神様の愛と喜びの感謝が広がっていくと言っていると私は思います。まず、ここでの献金は困窮の中にいたエルサレム教会の人たちを助けるためのものでした。受け取ったエルサレム教会の人たちは感謝をします。その溢れる感謝が、捧げた教会の人たちに伝えられた時、その人たちに喜びが生じます。こうして感謝の輪が広がっていき、受け取った人たちにも捧げた人たちにも神への感謝が生じ、喜びが満ち溢れます。そして互いために神に祈るようになるというのです。
 ここでの喜びと感謝は、人間が作り出すことができるというのではなく、神様が共にいて下さることによって、神様から与えられている恵みなのです。だからこそ惜しむ心をもってではなく、喜んで、捧げようではありませんか。喜んで捧げる人を、神様は祝福して下さいます。
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by higacoch | 2013-09-07 17:26 | コリント

2013年3月10日

 「仕える者」(東日本大震災を覚えて)  
          詩編27:7-14、Ⅱコリント4:1-6

                           
 明日は3月11日。あれから2年、今では、3.11として日本だけではなく世界でも、9.11と並んで忘れられない日となっています。否、忘れてはならないのです。今もその大震災によって家族を、親戚を、土地を、家を、仕事を失った人は数え切れないほどおられ、今も悲しみの中に打ち沈んでおられる方がいらっしゃるからであります。あまりにも急な出来事に、二年経った今も、時間が止まったかのように先に進めないで苦しんでいらっしゃる人がいるのです。特に高齢者の方々は、あまりにも大きな悲劇に生きていく力を失い、仮設住宅の部屋に籠っていらっしゃる方がおられるのです。私が仙台市の荒浜地区の仮設住宅にボランティアで伺った時も集会所に、朝の体操そしてお茶の会にも出て来られず、部屋に籠り気味の人が多かったことを思い出します。
 岩手県沿岸の気仙沼の地方にも大津波が押し寄せ大きな被害を受けました。そこで医者として働き、その近隣の人たちを診ていた山浦玄継氏が「3.11後を生きる」というシリーズの中に一冊の本を出されました。この方は福音書をケセン語に翻訳した「ガリラヤのイェシュー」という本を著され、昨年のキリスト教界のベストセラーとなり、本屋大賞に輝きました。こうしたことから信仰者に良く知られるようになった方です。この人が、大震災で大きな被害を受けた自らの体験を通して書かれた本の題名が『なぜと問わない』というものでした。この題名となったきっかけは、この問いを何度も聞かされたからです。大震災後、東京から取材に来たメディアの記者たちが揃いも揃って「実直な東北の人たちが、なぜ、このようなひどい目に遭わなくてはならないのか」と異口同音に質問してきたからなのです。そうした問いを聞くたびに山浦氏はよりによって「なぜ」を問うてくるのかと思ったそうです。それはあまりにも被災された方々とは対照的だったからです。山浦氏は医者でありましたから震災直後から何千人という患者さんを診て、多くの方の話に耳を傾けたそうですが、誰一人「なぜ、このようなひどい目に遭わなくてはならないのか」などと訪ねる人は、いなかったというのです。
 私はこの本を読んでショックを感じました。それは自分もメディアの記者たちと同じように、言葉には出さなくても心のどこかで「なぜ」を問うていたからです。被災者の方々が誰一人、この問いを投げかける人がいなかったというのは、私には想像も理解もできないものでした。イエス様もこうした「なぜ」の問いかけを戒めておられます。ルカ福音書の13章にこんな話があります。ある時、都エルサレムのシロアムの池の近くにあった高い塔が何らかの出来事で崩壊して18人の犠牲者が出ました。そうしたら、その住民たちが「なぜ」と問い、その答えとして、亡くなった人たちは神の罰が下ったと言い始めました。それを聞いたイエス様が、「あの人たちがエルサレムの他の人に比べてより罪深い人だった思うのか、決してそうではない。」と教え、そのような因果応報の考え方をする人こそが、罪を悔い改めなければ滅びると強い口調で語られています。こうした考え方は間違った考え方です。「なぜ、あの人たちが」と問うこと自体が因果応報の考え方に通じるからなのです。災害死は神の裁きであり、神が下した罰だと考えるのは神の御心ではありません。ですから口に出さなくても、頭の隅にでも考えたことは私自身も悔い改めなければならないと示されました。
 震災から2年が経とうとする時、震災直後とは、また違った課題が被災地では浮き彫りになってきています。私たちは昨年4月の東京3教会退修会で原発事故による放射能汚染地域にある原町教会の朴牧師から地域の声を聞きました。あれからほぼ1年が経って、最近新た届いた朴牧師からの文を通して知らされました。そこには地域の人たちの利権が絡んだ対立があり、地域のコミュニティーが壊れている状況が書かれてありました。そうした対立の中で、地域の人たちに仕えながら、一致のために、地域の人たちの和解のために、労していることが記されています。朴牧師はその地域に住み、地域の人と共に生き、地域の人たちのために仕えて生きようとされています。こうした生き方は、イエス・キリストの生き方です。イエス様も「わたしがこの世に来たのは、仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われました。これは人々の上に立って支配していくのではなく、むしろ人々の下になって仕えるために来たということです。
 今朝の聖書箇所で伝道者パウロも言っています。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身はイエスのために、あなたがたに仕える僕なのです」と。ここで、自分自身を宣べ伝える、ということは、自分自身の知識や考え方を伝え、隣人の上に立つことを願うことです。そうしたことをパウロは望まず、主であるイエス・キリストを宣べ伝えると言っています。これはキリストが人を愛し、人に仕えて、生きていかれたように、イエス・キリストの御心を伝えて、自分も生きるということなのです。だからパウロは言うのです。イエスのために、あなたがたに仕えるのだと。このことはコリントの教会の人たちだけではなく、教会以外の人たちにも仕えていくことであります。この御言葉は、今年のわたしたちの教会の標語「キリストに仕える」の主題聖句です。今年もキリストに仕え、隣人に仕えていきましょう。
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by higacoch | 2013-03-16 15:42 | コリント

2013年2月3日

「あなたの体とは何か」 詩編51:12-19、コリント一、6:12-20

 最近、朝日新聞にも取り上げられたのですが、若者の中で売れている本に「ネガポ辞典」というものがあります。この辞典は大学生の二人がまとめて、本となって売り出されたものです。この本はネガティブな言葉をポジティブに変換する辞典です。たとえば、ネガティブな言葉、八方美人、一般的には「自分の本音を偽って周りの人の意見に賛成する」というネガティブな印象を持つ意味となっていますが、前向きに「フレンドリー」「愛想がいい」「気配り上手」などとポジティブな意味の言葉に置き換えることができます。「あいつ誰にでも調子よく接して八方美人じゃねーか」これをポジティブに変換すると、「あの人、自分の主張をぐいっと飲み込んで、フレンドリーに接しているんだなあ」となります。こうしたネガティブ言葉をポジティブな表現に変換した辞典なのです。この辞典の利点は、前向きになる、自分に自信が持てるようになる、苦手な人をちょっとだけ好きになれる、気がついていないことに気づくということです。いつしか自分や相手の暗い面しか見ていない、その別の面を見出すことができるということです。 私はこの本読み進んでいく中で、この本は現代の人間関係が難しい時代に、一つの潤滑剤となるような辞典だなあと思いました。時代がこうしたものを必要としているのだなあと思いしました。
 さて、今朝、与えられました聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙の一です。これは伝道者パウロが、ギリシアで当時、最も栄えたコリントの町にあった教会にあてた手紙であります。この教会は現代で言えば、新宿区の歌舞伎町にある教会のようなもので、悪徳と虚栄の町にありました。そんな教会にパウロは大胆に切り込んでいます。「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない」と言っています。この箇所を良く見てみると「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉がカッコで括られています。しかも、同じように、二度もそうしてあります。ということは、ただパウロが述べている言葉というよりは何らかの意味を持っているということです。これはコリントの教会の人たちの口癖だったようです。これをもう少し説明を加えるとこう言えるでしょう。「わたしは、神様を信じることで出来て、神様によって罪赦されているから、どんなことでもしていい。それ程わたしは自由だ。だから嬉しい。すべて許されているのだから何やってもいいのだ」と。教会の人たちの中にいろいろな欲にかられて好き勝手にする人たちがいたのです。具体的にどんな人がいたかと言いますと、今朝の箇所のすぐ前の6章10節にありますが、「泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人のものを奪う者たち」がいたのです。また、この町は性的にも乱れた町でしたので、9節にあるように「姦通するものや、男娼、男色をする者たち」もいました。パウロも11節にはっきり言っています。「あなたがたの中には、そのような者もいました」と。
 実際、パウロも「私たちは律法のくびきから自由にされている」とか、「キリストはわたしたちを自由の身にして下さった」とか、「自由を得るために、あなたがたは召し出された」とか言っていました。こうしたパウロの言葉を取って、彼らは好き勝手なことをしていたのでしょう。だからパウロはここで、繰り返して言っているのです。「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない」と。これは、わたしは欲に支配されることはないと言っているのです。そして、ここでパウロは欲に駆られた人たちに対して、「これこれをするな」「欲に駆られるな」「酒におぼれるな」「人を悪く言うな」とただただ禁止命令を出しているのではありません。そうではなく、もっと大事なことを伝えています。それは、あなたがたは神様から恵みを頂いた者たちなんだということ、そしてあなたがたの体は、神様から頂いた聖霊が宿って下さる神殿なのだというのです。だから、「あなたがたの体を、もはや自分自身で勝手にしないで、むしろあなたの体で神様の栄光を現しなさい。」と語り掛けています。
 先程のネガポ辞典は、ネガティブな言葉をポジティブに変換する辞典ですが、これは人間関係や自分や隣人の新しい面を発見するにはいいとは思いますが、もっと根本的な価値を発見しなければならないと思うのです。言葉の上でのコミュニケーションだけではなく、もっと隣人の根底にある価値、また自分の価値を見つめてのコミニュニケーションでなければならないと思います。それが、パウロが語っていることでしょう。パウロは「あなたがたの体は、神様から頂いた聖霊が宿って下さる神殿だ」と言っています。私たちは、こんなことを聞くと、「そんな!」と否定したくなります。「そんな、清いものではない」というでしょう。そうです。私たちの体は清いものではありません。聖霊が宿って下さる神殿と言っていますが、神殿というのは神様ご自身ではありません。ですから神殿を拝むのではありません。そこで神様を見上げるのです。イエス様も言われましたが「神殿は祈りの家」です。神がそこを清めて下さいますが、いつでもどんなときにも清いというのではありません。神が清くして下さる所なのです。そして、今も聖霊を注いで下さる所となのです。ですから、神様に感謝して、この体で「神様の栄光を現すように生きていきなさい。」とパウロは勧めているのです。
 どんな体であっても、神様が聖霊を下さる器として下さっていることを覚え、小さな歩みであっても遣わされた所で、神様をほめたたえて生きていくものでありたいものです。
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by higacoch | 2013-02-09 16:28 | コリント

2012年9月2日

「究極の望み」   詩編104:24-35、Ⅰコリント15:35-58
                            
 今日与えられました聖書箇所はよく葬儀の時に取り上げられます。その理由はここに記されていますように、人は死んだ後、どうなるのかということが書かれているからです。「朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」とあります。朽ちるものは朽ちると言っています。朽ちるもの、それはわたしたちの肉体です。ですが、パウロはそれだけを言っているのではありません。死者の復活を言い、朽ちる者が朽ちないものに復活し、また卑しいものが輝かしいものに、弱いものが強いものに、自然の命の体が、霊の体に復活するというのです。ここには希望があります。死がすべての終点ではありません。死を乗り越えた希望があります。愛する人が召された時、遺族や友人には別れの悲しみがあります。死に直面し、どうすることもできない悲しみが込み上げてきますが、そのような親族や友人の上に、慰めが与えられています。それはこの地上の死が最後ではなく、悲しみの中にも復活の希望が与えられ慰められます。ですから、私も葬礼拝で何度もここを取り上げて説教しました。
 復活と言うのは、人が死んだ後のことですから、捉えどころがありません。普通で考えたら、解らないのです。さらにこれをまともに語り出したら、信じられないことですから、馬鹿馬鹿しいと言われたりするかもしれません。パウロが知恵の国、ギリシアのアテネで伝道した時もそうでした。使徒言行録に記されていますが、人々は最初パウロの説教に耳を傾けて聞いていましたが、最後の方になって、パウロがイエス・キリストの復活の出来事を語り出しましたら、ある者はそんなことがあろうかとあざ笑いました。またある者はそんな話は聞きたくないと言わんばかりに、復活の話は、いずれまた聞くと言ってその場を立ち去ってしまいました。
 この出来事は、とても象徴的だと思います。それは復活の出来事は人間の知恵では信じられない、不可能だということです。しかし、キリストの福音を語る以上、この復活の出来事を語らないわけにはいきません。伝道者パウロは、はっきりと言っています。「もしも死者の復活がなければ、キリストの復活もなかった。そしてキリストが復活しなかったら、わたしたちの福音宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄だ。」と。
 イエス様の弟子たちが、約束された聖霊を頂き力を得て語り出した時も、そこで語ったことは、イエス様の復活でした。弟子のリーダ―であったペトロが立ち上がって大胆に、「神はイエス様を復活させられたのだ、わたしたちは皆、そのことの証人だ」と言っています。このように、弟子たちもイエス様の復活を宣べ伝え、説教しました。
 パウロは、もしイエス様の復活がなければ、私たちの宣教は空しいし、信仰も空しいと言いました。もしもイエス様の復活がなければ、これまで苦労を重ねて伝えてきた福音宣教の働きも無駄だと言いきっています。パウロは愛のない信仰は空しいと言いましたが、復活のない信仰はそれこそ全く空しいと言うのです。こうしたことからキリスト教は、キリストの福音を伝えますが、その真髄はキリストの復活だとするなら、復活教と言っても言いかもしれません。
 復活の出来事は、人間の知恵では決して知り得ることができないことなのです。では、どうして復活を知り得たかというと、神がイエス・キリストの復活を通して示して下さったからです。だから、ペトロもパウロもキリストの復活を語り得たのです。
 復活の命は死に勝利しました。この勝利を救い主、キリストによって神が与えて下さったし、これからも与えて下さいます。この復活の命の約束が約束されているのです。だからパウロは「主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう」と語っています。
 これがわたしたちに与えられている死を乗り越えての勝利です。この約束が神によって与えられています。これこそ死を越えてわたしたちに与えられている望み、究極の望みではないでしょうか。この望みをパウロは、手紙を書き終える前に伝えたかったのです。この望みを信じて、今の持ち場で、主の業に、常に励みなさいと勧めています。
 どっちつかずの信仰に揺れることなく、この勝利を見上げて、復活の命の信仰に固く立って、主につながる歩みをしていきたいものです。そこで為される業は決して無駄にはならないのですから。それがどんなに弱く、小さくても無駄にはなりません。復活の命の約束を信じつつ、今おかれた所での務めを果たして歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2012-09-07 16:28 | コリント