カテゴリ:フィレモン( 1 )

2008年9月21日

「人を人として」   イザヤ43:3-4, フィレモン8-22   香月 茂 牧師 

 ここ数年、格差社会、ワーキング・プアとか新しい貧困層の人たちのことが言われ、働く人たちの雇用の問題が取りざたされています。特に非正社員である、契約社員、派遣労働者の雇用条件が悪く、いくら頑張って働いても貧困から脱出できない、将来の希望を持てないとかで、社会的な問題となっています。こうした労働者への冷遇が今も現実にあり、ひどい扱いを受けている人が多くいます。
 さて、今朝与えられた聖書箇所は伝道者パウロが個人的にフィレモンに宛てて書いた手紙です。「オネシモを赦し、迎え入れて欲しい。フィレモン、お願いします。」という手紙なのです。本文から解りますが、フィレモンとオネシモの関係は、主人と奴隷の関係です。そのオネシモが主人のお金を盗み、逃亡したようです。
 オネシモがどのようにして奴隷となったのかは解りませんが、当時ギリシャやローマ社会では、奴隷は主人の所有物であり、家畜やモノのように考えられていたのです。ですから主人がそれをどうしようが、主人に任されていたのです。現代の視点で考えると、人間としての権利、人権など、少しも考えられていません。そうした中でイスラエル社会では、奴隷に関する考え方や扱いとは違いがありました。それは、もともとイスラエルの人々が、奴隷であったということに由来していました。それは旧約聖書の出エジプト記を読めば、すぐに解ります。(出エジプト記20:1-2,申命記 15:12-18参照)
 パウロは、必死の思いでフィレモンに頼んでいます。それは本文にもありますが、「自分は年を取ってしまい弱ってきているが、自筆でこの手紙を書いています」とあり、それ程心を込めてお願いしています。パウロの必死な願いが伝わってきます。「オネシモのことで頼みがある。彼は、以前は、あなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と言って、以前のオネシモではないのだ、彼は変わったのだと、そして、今は素晴らしい人になっていると言っています。今の彼を見て欲しい、そして、受け入れて欲しいと言っています。
 さらに、こんなことも書いています。「彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが、彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」と。ここには人間を超えた神様のご計画があって、神様が働いてそうされたのではないかと言っています。つまり神様が、あなたを愛し、オネシモを愛して、祝福の計画を持って、こうしたことをなされたのではないかと示唆しています。パウロはさらに言います。このパウロの言葉に今朝は注目したいのです。「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として、一人の人間として」と言っています。
 主人と奴隷、命令と服従、そうした上下関係ではなく、主にある兄弟として、愛し合う、共に生きる関係として、オネシモを受け入れて欲しいと願うのです。こうした主にある関係を、パウロはここで始めて説いて教えたわけではありません。パウロの他の手紙にも、この世の社会的な秩序を優先しない、それを超えた、主にある関係を述べています。よく知られているのは、ガラテヤの信徒への手紙の3章26節以降です。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と言っています。パウロがこう言う背景には、当時、奴隷の人たちが多くキリストの福音を信じて、キリスト者になっていたということがあります。そうした奴隷のキリスト者と自由人の人たちと交わりを持ち、共に礼拝を守ったりしていました。パウロは、他の手紙にも書いていますが、身分の低い人が多く救われたと言っています。
 私たちの現代社会においては、人が人として扱われない、人としての尊厳が無視されるような扱いを受けることがあります。最初に、お話しした雇用関係に置いても不当に扱われることがあります。私たちの人間の歴史は、人権の獲得の歴史でもあるといってもいいでしょう。戦後の1948年には国連で「世界人権宣言」が採択されました。その翌年には、人身売買の禁止、さらに難民の地位の確立、婦人の参政権の条約など、いろいろな人権が認められていきました。しかしながら、職場における雇用関係で、人として不当に扱われることがいまだにしばしばあります。そうした中で、格差社会が作られ、ワーキング・プアの人たちがいて苦しんでいます。また個人と個人の関係でも、相手を人として見ようとせずに、その人よりも上に立ち、相手を自分に従わせようとします。こうした関係は、上下関係を作っていて、主従関係であり、決して主にある兄弟姉妹の関係ではありません。
 パウロは、罪を犯した奴隷オネシモを、ただ赦し、受け入れて欲しいと願っているわけではありません。互いが今やキリストを信じる者として、信仰をもって生きる者として、勧めているのです。それはキリストによって新しい関係がそこに与えられ、キリストによる関係、キリストによる一つである関係、それは相手を奴隷としてではなく、人として愛する隣人として見、そして共に生きる人として、仕える生き方なのです。キリストの愛を受けた者は、キリストによって新しい隣人との関係に生かされ、人を人として見て、共に生きるように求められています。それをパウロは、求めたのです。そして、私たちも求められているのです。
 イエス・キリストを信じるとは、人を人として、愛する関係として生きるように求められています。イエス様は弟子たちに言われました。「私は、あなたがたを僕、奴隷とは呼ばない。私はあなたがたを友と呼ぶ。あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るように。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」と。
[PR]
by higacoch | 2008-09-21 17:00 | フィレモン