カテゴリ:マタイ( 76 )

2017年6月4日

「まことの救い」          エゼキエル36:22-28、マタイ12:9-21
                            関 伸子 牧師 

 今朝与えられている、このマタイによる福音書第12章の17節以下に、預言者イザヤの言葉として、イザヤ書、第42章1節以下の言葉が引用されています。このイザヤの言葉の中に、18節の終わりに「彼は異邦人に正義を知らせる」とあり、また20節の始めに「正義を勝利に導くまで」とあります。「正義」という言葉が二つ出てくるのです。
 この「正義」と訳されている言葉、一番元の意味は「分ける」というのです。黒と白に分ける、そういう意味の言葉です。そこから始まって、さまざまな意味での分けることを示すのに用いられるようになったのです。たとえば、このギリシア語から作られている英語の言葉は「クライシス」です。ギリシア語の「クリーシス」という言葉を、そのまま英語読みにしたのが「危機」でした。あるいはまた、「黒と白を分ける」というようなことから「判断、判決を下す」という意味となり、やがて、「裁き」、「裁判」を意味するようにもなりました。
 ここで「正義」と訳されている言葉は、他の箇所にも出てきます。たとえばマタイによる福音書、第23章の23節にこうあります。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴(うい)香(きょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ」。ここで「慈悲」と訳されているのは、この第12章で「正義」と訳されている言葉と、同じものです。なお、この「慈悲」のあとに続く「忠実」、これは、「人に対する真実」という意味のものです。「正義、慈悲、誠実」、いずれも他者に対する同じような態度を示すのです。ここにおける「正義」は、何よりも「人を不当に扱わないこと」でしょう。それどころではなくて、「人を生かす」ほどの正義が語られているのです。
 このマタイによる福音書、第12章においても、イエスは、やはり11節で一匹の羊の話をしておられます。安息日に、主は会堂に入って人びと共に礼拝をなさいました。「すると、片手の萎えた人がいた」。この片手の萎えた人というのは、伝説によると、石を刻む職人だったそうです。石工の手が萎えていた、しかも、大切な右手が萎えていたと伝えられるのです。脳溢血にでもなって、半身不随になったのかもしれません。しかし、信仰の仲間たちとの礼拝を求めて、会堂の中にあったのです。人びとは、イエスが安息日に、人を癒すことをすることを知っていましたから、まさに絶好の材料があったと考えて、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねました。その時イエスは、反問されました。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか」。この人にとっては、百匹の羊を持っていた人よりも、もっと貧しかったのです。かけがえのない羊です。その羊が、穴に落ちこんで、命の危険にさらされた。そうとすれば、それが、安息日であろうがなかろうが、それを助け出すのは当然です。今ここで癒すことこそ、安息日にふさわしいことではないか、と問われるのです。そこでも、安息日に善いことをするのは、正しいことであるとはっきりおっしゃっています。「正しいこと」です。これが正義だということを、どうして知らないのか、と問われるのです。
 みなさんもよくご存じの、インドで貧しい人びとのために、多くの修道女たちの先頭に立って奉仕をした、マザー・テレサは、書物でも紹介され、テレビにも登場したことがあり、世界中に知られるようになった人です。一般には、無視されがちなインド大衆の一人と思われるような者に、あなたは生きているということは、命を持って、この世に生きているということはまことに尊いことなのだということを、語りかけるのです。みんな神の愛のなかにいるからです。自分自身が真実に喜ばれているのだということを、マザー・テレサから初めて聞く人びとは、そこで、平安を得て死んでゆくことができるのです。
 主イエスがここで、一所懸命に教えようとしておられるのも、そのことです。ところで、主イエスは、ここであらわになった人びとの殺意に対して、力をもって抵抗はなさいませんでした。
ここに、主が示された正義があるのです。しかし、主イエスがここでなさっていることは、もう一歩踏み込んで考えると、まことに挑戦的です。なぜかと言うと、ここで主イエスは、穴に落ち込んだ羊の話をしておられますけれども「片手の萎えた人」は、穴に落ち込んだ羊ほど、緊急の癒しを求める必要はなかったのです。主イエスは、しかし、ここでは人びとの挑戦をまともに受けて、「手を伸ばしなさい」と即座に言われたのです。「そこで手を伸ばすと、ほかの手のようによくなった」のです。ここでは主イエスは勇敢です。敢えて癒しをなさったのです。なぜでしょうか。主イエスは正しさを主張しておられるのです。「安息日に善いことをするのは正しいことである」。そう断言されるのです。
 私たちは、ついに死に至るまで、思い込んでいる自らの正しさに固執するばかりであるのか、その正しさの罪に気づき、それを悔い、主が示される真実の正しさにおいて生きることはできないのか。いま自らを疑おうことのほうが正しいのです。主イエスから、激しく問われているのです。
 さきほどエゼキエル書、第36章を読みました。エゼキエル書は、私たちの心が、石の心ではなく、肉の心になるようにと祈りを込めて語ります。そのために、神の霊を与えられていると語ります。エゼキエルを通じて語る神の霊は、そこで、偶像礼拝は止み、真実の神を、主なる神として礼拝することが始まると告げられました。私たちも、主イエスが教えられた道に生かされ、その道を歩みながら、神を神として、礼拝し続けるやわらかな心に、生きたいと思います。お祈りいたします。
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by higacoch | 2017-06-04 15:57 | マタイ

2017年5月21日

「祈りの真実」             詩編62:1-2、マタイ6:5-8
                         関 伸子 牧師 

 祈りに関することを多くの人が書いています。フォーサイスという英国の神学者が書いた『祈りの精神』という書物の中で、最もよく知られている言葉のひとつは、その冒頭に出てきます。「最悪の罪は祈らないことである」。フォーサイスは、この文章に続いて、こういう意味のことも言っています。「キリスト者は、まさか信仰を持っている者ならするはずはないと思うような罪を犯すものである。あらゆる罪の根源に、祈らないという事実があるという意味で、最も大きい罪である」。
 ところで、今日、私たちに与えられている主のみ言葉は、私たちの、祈らない罪を問題にしているのではないということです。祈りに熱心な人々が批判されている。むしろ祈りにおいて現れる罪、よく祈る人の罪を問うておられるのです。この5節に出てくる人びとも、祈りのたびにわざわざ一目につくところに出ていくわけではないでしょうけれども、ちょうどそうした場所を歩いている時に、祈りの時が来れば、一目もはばからずに祈りをする。きちんと祈りの定めを守っているのです。
 しかし、現代の私たちは、そのように主イエスに問われる程に、祈りに打ち込む生活をしているでしょうか。職場や学校で人々と共に弁当を開くときに祈りをして食べ始める勇気をもってはいない。それが私たちの姿ではないかと思われるのです。
 そうとすれば、その私たちにとって、祈りの偽善を戒める主イエスの言葉は、何を意味するのでしょうか。フォーサイスは、先程の書物の中で、祈れないのは祈ろうとしないからだとはっきり言っています。祈りを私たちの能力や可能性の問題として考えるのではなくて、私たち自身がまず祈りの中に踏み込んでいく時に、はじめて祈りの道が開かれるのです。
 祈りとは何か。主は具体的にそれをお語りになります。祈る時には、自分の部屋にはいり、戸を閉じて祈れということです。「自分の部屋」というのは、当時の農家などによくあった納屋、物置などのように用いられた部屋だったようです。窓が全く無く、内側から戸を閉じると、中は真っ暗です。人に明らかに見えるように、自分の密室を確保することもまた、偽善の道になりかねないのです。
 「彼らはその報いを受けてしまっている」(5節)。もう計算がすんでいるのです。祈りの相手がここでは人間になっている。人間の間でことがすんでしまう。真っ暗な密室、それは、自分で自分を見ることを意味します。本当の暗黒においては、自分の鼻先に自分の指を出しても、見ることはできません。
 ここで私たちは、この密室の祈りの勧めが、なぜ4節までの、施しのいましめにすぐ続いて出てくるのか、よく理解することができます。愛のわざである施しについて、主は、「右の手のしていることを左の手に知らせるな」と言われました。つまり、自分で自分の愛のわざを知ろうとしないようにするということです。ああ私は孤独の中で、こんなにも祈れるようになったと、自分で自分を評価するようになることではない。これは大切なことです
 このことは、私たちが祈れないと言って嘆く時にも同じことです。さてそれならば、別のところへとは、どこへ出ていったらよいのでしょうか。それを私たちに示すのが、7節と8節の言葉です。7節の、「偽善者のようで」という言葉は、ユダヤ人以外の人々という意味であるよりも、神を信じない人、あるいはもっと適切な表現を求めるならば、本当の神さまがわからなくなっている人という意味です。
 もうひとつここで大事なことは、このようなくどい祈りによって、名を呼ばれた神さまは必ず出てこなければならないと、人々が考えていたということです。古代インドの諺に、「祈りは神々の上にある」という言葉があるそうです。祈りは、神の意志を尊び、謙遜に願いごとを述べているようですが、実はそうではなくて、神々に自分の言うことを聞かせ、言う通りに働いてもらう道である。そういうことになるのです。主イエスはここで、そういう祈りは無意味だと、はっきりおっしゃっております。そして、そういう祈りの真似をするな、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(8節)と言われたのです。
主イエスは、私たちが理解するような意味での祈りは、もう不必要だと言っておられるのです。本当にすこやかな祈りの道を見出すことが、私たちの重要な課題となってきます。自分で無理してでも祈る祈りの不必要ということがよくわかった時、本当の祈りが生まれてくるのです。祈りの真実に私たちの目が開かれるのです。
 なぜ主イエスは、戸を閉ざして祈れと言われたのでしょうか。そこでこそ裸になって、神の前に立つ。その意味で、神は隠れた所におられるのです。自分自身を自分で見るよりも、神の目で見ていただければよいということです。
 ティリヒという神学者はよくこういう意味のことを言います。神は私たちに近い。神は私が私を知るよりも、もっとよく知っていてくださる。そして、私が私を愛するよりも、もっと深く私を愛してくださる。
 信仰を持つということは、それ程に自分に近い神に気がつくことです。ひとりになった時、わがままになりやすい自分に打ち勝つためにも、私たちは、まず主の祈りを密室で祈り始め、祈り続けることによって、真実の密室の祈りを回復すべきであるかもしれません。あとは神が道を開いてくださる。私たちに必要なものは、何でもご存知なのです。思いがけないところで、思いにまさる仕方で答えてくださいます。そのことを信じて主の祈りを祈る。自分の部屋もなく、まわりに家族がいて困るなら、目を開けたままでも、心に主の祈りを祈ることはできます。そこに密室は生まれます。電車に乗っていても、道を歩いていても、そのように祈ることができます。どこででも神は会ってくださいます。祈りはすばらしいものです。神が与えてくださった最大の賜物のひとつなのです。お祈りいたします。
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by higacoch | 2017-05-21 14:54 | マタイ

2017 年4月23日

「あなたがたと共にいて」      イザヤ書65:17-25、マタイ28:11-20
                            関 伸子 牧師

 主イエスの墓の番をしていた番兵たちは、急いでエルサレムに帰り、祭司長たちにイエス・キリストの遺体がなくなったこと、恐ろしい出来事が起こり、天使が現れ、「イエス・キリストが復活した」と告げたことなどを、その目で見たとおり報告しました。そういう意味では、皮肉なことに、この番兵たちの報告が、最初のイエス・キリスト復活宣言であったと言えるでしょう。この証言を聞いた祭司長たちは、兵士たちを丸め込もうとしたのです。ということは、祭司長たちも、何らかの意味で、イエスの復活を信じたということではないでしょうか。
 さて、今日のテキストのもうひとつの話は、復活されたイエス・キリストがガリラヤで弟子たちの前に現れた物語です。ここに「疑う者もいた」と記されています。復活というものがいかに受け入れがたいものであるかを示していると思います。
 皆さんの中には、山登りが好きだ、という人がおられると思います。中には、同じ山に何度も登った、という人も多いと思います。同じ山に再び登ると、あの時はこうだったなあ、という思い出がよみがえってきます。主イエスの弟子たちも、そうだったのではないでしょうか。
 16節に「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に昇った」とあります。主イエスと山、と言えば、真っ先にエルサレムのそばのオリーブ山が思い浮かぶのですが、ガリラヤの山とはいったいどこの山でしょうか。定かには分かりませんが、一つ思い当たる山があります。マタイによる福音書5~7章に〈山上の説教〉と呼ばれるまとまりがあります。主イエスが弟子たちと共に、群衆を引き連れて山に登り、山の上でいくつも説教をなさった場面です。弟子たちが昇った山は、その時の山だったのではないかと思います。
 ガリラヤの山に登った弟子たちは、そこで復活した主イエスに会い、主イエスを神として礼拝したのです。彼らはイエスにひれ伏しますが、疑いも生じています。この「疑う」という言葉は、もともとは、「二つに分かれる」を意味し、新約聖書ではもう一度だけ14章31節で使われています。夜、イエスが湖を歩いて弟子たちの舟に近づいたとき、ペトロは舟を出てイエスのもとに行こうとしますが、風邪を恐れておぼれかけると、イエスは「なぜ疑ったのか」と叱ります。ペトロの心は二つに分かれてしまいました。イエスのもとにいたいと思う一方で、現実に恐怖を覚えています。このような状態が「疑う」という言葉で表されています。
 疑うことは、必ずしも悪くはありません。このあと弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と告白していますから、「疑う」ことが告白へと高まることもありえます。今日のマタイ福音書でも、疑う弟子たちにイエスが近寄ります。イエスは疑いを乗り越えた者に近づくのではなく、疑いを残す者に近づきます。この近寄るイエスの言葉が弟子たちの疑いを乗り越えさせます。
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18~20節)。これが、マタイ福音書に記されている主イエスの最後の言葉です。主イエスは、ここで三つの命令を語られました。
 第一は、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という命令です。「伝道」とは、ただ信者を増やすことではなく、人をこのイエス・キリストに向き合わせ、その弟子となって、新しく生き始めるように促すことです。第二は、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいということ。イエス・キリストの弟子になったら、洗礼を受けます。洗礼を受けるとは、正式にイエス・キリストの弟子になることです。「あなたは正式な門下生です」と、しるしをつけてもらうのです。自分の信仰に責任をもって歩むということが、そこから始まります。第三は、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」ということ。キリスト者の歩みは、洗礼で完成するのではありません。むしろそれは第一歩であって、そこからイエス・キリストの教えを学びつつ、共に歩んでいくのです。
 そしていよいよ最後の最後の言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。三つの命令があると言いましたが、ただ単に命令されるのではありません。イエス・キリストが、それを実現する力を与えてくださるのです。それは、イエス・キリストこそが「天と地の一切の権能を授かって」いて、そのイエス・キリストが世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださるからです。
 マタイは、天使がマリアの夫ヨセフにイエス・キリストの誕生を告げた時に、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と語り、この名は「神は我々と共におられる」という意味である、と説明しました(マタイ1:23)。神が共におられる徴として、イエス・キリストがこの世界に送られたのです。そういう意味では、マタイ福音書は、「神が共におられる」「キリストが共におられる」という二つの約束にサンドイッチされた書物であると言うことができます。
 主イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)と約束してくださいました。私たちがキリストの愛とともに歩むことを願い、キリストを愛し、互いに愛し合うならば、主イエスは私たちと共にいる。私たちの教会に、キリストの愛を満たしていただき、キリストが共にいてくださることを信じて歩んでいきましょう。わたしたちも、イエス・キリストの弟子となり、洗礼を受け、主の教えを守り、「神は我々と共におられる」という約束と共に、歩んでいきましょう。お祈りいたします。 
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by higacoch | 2017-04-24 09:58 | マタイ

2017年4月16日

「私たちに先立つ復活者イエス」  ハバクク書3:8-19、マタイ28:10-20
                           関 伸子 牧師 

 主イエス・キリストが、十字架につけられて死なれた後、主イエスと共にいた弟子たちは何をしていたのか。ひとつ推測することができる言葉が7節の天使の言葉です。「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。
 主イエスと共に弟子たちが活躍をしたのも、ほとんどの期間ガリラヤでした。そこからエルサレムに何度か上った。ここでも弟子たちは本拠に帰りますけれども、甦りを信じ得ないままに、暗い思いで故郷に帰ったということです。
 マグダラのマリア、七つの悪鬼に憑かれていた女と記されていて、おそらく今日で言えば、自分でもどうしようもない心の病に取り憑かれ、激しい力に取り押さえられていた人です。そこから解放されて、もう一度、いのちに甦って、人生のやり直しができて、主イエスに仕えていたひとりの女です。しかし、その主が死んだとき、彼女は死んでしまった主イエスを訪ねて墓に行ったのです。
 現代に生きる私たちは、死後の世界というようなものを、真面目に考えなくなってしまっているかもしれません。死の事実は、それで乗り越えることはできない。しかし、福音書は、主イエス・キリストが甦られたこと、そして、この失意の弟子たちがガリラヤに帰る時、この甦りのイエスは先回りをして、先にガリラヤについておられるはずであるということを告げるのです。
 ある人が「復活節の疑い」という言葉を書き記しました。復活節を迎えて、初めて、人間は死んだらすべてがお終いだという事実を疑い始める。死が揺らいだ。墓の蓋をしていた石が、揺るぎ動いて、取り除かれたように、死の扉が揺らぐのです。
 また古い言葉に、「復活節の高笑い」というのがあります。復活の祝いの日の朝は、礼拝堂の中は、「わっはっは、わっはっは」という高く大きな笑い声に満ちたのです。主イエス・キリストのいのちによって、生かされる教会は、そのように笑うことを知る集団であり、その笑いの中で、自由と平安に生きるのです。
 私たちが、自分の人生について不安を抱くこと、それは、死に不意打ちされることがないかという脅えです。主イエスは、ガリラヤに行ったら私に会えると、女たちに語りました。ここで、墓地を出たばかりのところで、死に取り囲まれているところから、飛び出して来たばかりのところで、復活の主に会っているのです。
 受難週の時、男たちがうろたえ、主イエスを裏切る中で、主イエスに対する愛と誠実を貫くことができたのは女たちです。弟子たちに知らせるために、女たちは一方でこの不思議な出来事におそれを抱きながら、他方では、主イエスが生きておられるという言葉に、すでに喜びを誘われながら「走って行った」。すると9節に、「すると、イエスは行く手に立っていて」と書いてあります。「すると」という日本語はこれで結構ですけれども、原文はもっと強い言葉です。「見よ」と書いてあります。走って行った、すると見よ、と続く。しかも、原文の味わいは、「イエスが迎えに来られて」です。そのような思いを抱きながら、走って行く女たちを突然迎えたのは、弟子たちではなかった。甦られた主イエスが先に出迎えられた。そして「平安あれ」と言われた。これは日常の挨拶です。しかし、私たちがよく知っているヘブライ語の「シャローム」、つまり、いつでも「平安あれ」と訳すべき挨拶に対応するギリシア語ではなくて、「喜べ」と訳すことができる、もうひとつのギリシア語の挨拶の言葉なのです。「喜びなさい」、甦りのいのちそのものである主イエスが、私たちを迎えてくださって、「さあ、ここで喜びなさい」と言われるのです。
 私たちが信仰を与えられるようになるには、いろいろな筋道を辿るものです。しかし、その根本においては先回りしておられる主イエスに会って、主のもとで、この喜びを学ぶということ以外の何ものでもないと私は思います。「弟子たち」という言葉は、原文で読むと、ただ「弟子」と書いてあるだけではなくて、「あの方の弟子たちに」と特記されています。〈彼の〉弟子たちに、というのです。特にその意味で私たちが記憶すべき言葉は、10節のイエスが女たちに言われた言葉です。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに」。これまで「弟子たち」と記されているのに、ここでは「兄弟たち」となるのです。
 なぜここに「兄弟たち」という言葉が用いられたのか。昔から必ず指摘されたのは、詩編の第22編との関連です。主イエス・キリストの絶望の言葉を生んだこの詩編の中で、23節に、このように記されていることです。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/ 集会の中であなたを賛美します」。このことに気づくと、主イエスは、十字架の上で歌い始められたこの詩編第22編を、甦られてマグダラのマリアたちにかけられた言葉の中で、完結させられたのだと言うこともできると思います。しかもその時に、たったひとりで深い絶望の中で歌い始められた主イエスのこの歌は、ここで、その「兄弟たち」の歌となるのです。
 絶望から始まったこの歌は、神の勝利にあずかる喜びに終わる。そしてその喜びを告げ、勝利をもたらした神のみ名を告げる時、告げるべき相手は、皆兄弟となる。こうして甦えられたイエスが、ガリラヤで弟子たちにお会いになった時、18節以下の御言葉を与えてくださった。その最後の言葉が19節から20節に記されています。
 今、その兄弟姉妹のすべてをつなぎ、ここに主の家族を造る、主イエスが備えらた、聖餐に、このことへの深い感謝をもってあずかりたいと思います。「世の終わりまであなたがたと共にいる」と言われた主イエスが、その霊において私たちと共に在りますことを信じたい。そこに望みを託して、私たちの周囲に、なお兄弟姉妹の交わりを作っていく伝道と奉仕のわざに生き続けたいと願います。お祈りをいたします。 
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by higacoch | 2017-04-16 19:04 | マタイ

2017 年4月9日

「ろばに乗ってあなたの王は来られる」  詩編118:22-29、マタイ21:1-11
                 伊能 悠貴 伝道師 (さがみ野教会)

 イエスという名の方が、ろばに乗って都エルサレムに入場されました。多くの人びとはこの方に向かい、「ホサナ!ホサナ!」と叫んでおりました。助けてください!救ってください!という意味です。都中の人々は、これを聞いて「いったい、これはどういう人なのだ」と驚きました。
 私たちが教会に足を運ぶときに目にする光景というのは、まさにこのような光景であると思います。イエスというお方に「助けてください。救ってください。」と叫ぶ者が集まります。初めてイエスという方と出会われた方は、「いったい、このイエスという方はどういう方なのだろう」と思われることと思います。
 教会は、約2000年間、このイエスというお方を救い主と信じて歩んでまいりました。2000年間ですから、言い方を換えるならば、聖書に登場するイエスという方は、この時代にだけ生きた偉人という訳ではなくて、今も生きている神の子なのです!この方は、今も生きておられ、私たちの救いを与えてくださる神の子、私たちの王なのです。
 ですが、そうは言われましても、このお方のことを知ることで私たちにとって何が変わるのでしょうか。日々、忙しく生きています。仕事をしています。家事育児をしています。自分に与えられている課題、務め、重荷…たくさんあるのです…不安を抱えながら生きているのです。主イエスは、それを知っていたので、私たちのもとにろばに乗って来られました。
 本日は、マタイによる福音書という箇所を読んでいただきました。時代は西暦30年ごろ。舞台は地中海に面する国イスラエルです。イスラエルとは水色の六芒星を中心とした白地の国旗を掲げ、現在もある国です。西暦30年当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にある国際情勢のもと、とても圧迫されていた国でありました。ローマ帝国の支配は、地中海沿岸全域に渡っておりました。現在で言うところの、トルコ、ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン、アフリカ大陸北部。すさまじい支配力のもとに、イスラエルもまた置かれていたのでした。納税の義務が課せられた。皇帝礼拝も強いられた。まことの神を礼拝しつつ生きたいと思うイスラエルの人々は、自分たちを圧迫するかのような政治下の中で、なんとかして自分たちの生活を保って生きておりました。それが、この時代の人々でした。
 私たちもまた、時代と文化の違いはあるものの、苦しい生活のもとに置かれ、自分の生活でやっとのことがあります。自分の声がどこにも届かない思いをしながら生きていることがある。ますます自分の生活は自分で保たねばならないとふさぎ込んでしまう思いになります。だんだんと、だんだんと、自分の生活で精いっぱいだ…と余裕のなくなっている時代に生きつつあるのかもしれません。
 イエスというお方は、そのことを誰よりもご存知でした。人の生活、人の心の奥底までご存知でした。私たちを救うために来られた。「いったいどのように救ってくださるのでしょうか。いったい私たちは何に苦しんでいるのでしょうか。」私たちの苦しみをご存知のこのお方は、ろばに乗って来られました。白馬ではありません。人の重荷を背負う動物ろばです。この方は、ローマ皇帝を倒すような形でこられた訳ではありませんでした。その力はあったはずです。この世界を造るほどの力をお持ちなのですから。ろばに乗ってこられることこそ、私たちの救いのために必要だったのです。
 この方は徹底的に柔和で、謙遜で、人の重荷を担う王として私たちの前に来られました。すでに今ある王をなぎ倒すようなことをいたしません。謙遜をもって私たちの問題を共に担うために、私たちの前に来られたのです。この方は言われます。「あなたの重荷は一体何か。それを、私が担おう。あなたは一体何に苦しんでいるのか。」じーっと待つようにして、この方は尋ねておられます。「あなたの苦しみを教えなさい。私が担おう。」
 私は精いっぱいやっています。生活を必死に守っています。我慢をしています。苦しい中でもへこたれず、生きてきました。自分は正しくやろうとしてきました。
 不思議と、苦しみを問われているのにも関わらず、自分の正当化が始まってしまいます。「いいえ。私の本当の苦しみは、他の人のことが信じられず、批判してしまうことです。自分のことばかり考えて、他の人のことはどうでも良いと思ってしまうのが、私の苦しみです。まるで、自分が自分の王様のように生きているのが、私の苦しみです。」「イエスさま、どうぞお助けください。」
 イエスは王となられ、十字架にかけられました。私たちの重荷を背負い、十字架にかけられました。苦しみを担い、憎しみを担い、十字架にかけられました。高慢という態度を持つ王たちのために、自分がまことの王になり、十字架にかけられました。私がこの方を十字架にかけました。この方は私の王となられました。
 そして十字架の上で言われます。「あなたの罪は赦された。あなたのことを、わたしは赦している。」
 この方が、2000年間、教会が礼拝しつづけている王であり、救い主です。あなたを造られ、あなたを愛し、あなたを赦し、あなたに命を与える救い主、王です。信頼することのできる王です。すべてをゆだねることのできる王です。
 もう自分ひとりで抱え込まなくていい。私にすべてを打ち明けなさい。あなたの罪は赦している。
 私たちはこの方に信頼して、はじめて生きていく力が与えられます。自分がここにいて良いのだ!生きていて良いのだ!と力が与えられます。なんと大きな恵みでしょうか。自分ひとりの力で生きていきなさい、と言われているのではない。あなたの命を、あなた以上に大切に思っているお方がおられる。主イエス・キリストです。この方は、今も生きておられる私たちの救い主、王なのです!
 この方に、私たちも「ホサナ!救ってください!」と叫びつつ、これから後、生きてまいりましょう! あなたの王は、ろばに乗って、あなたのもとに、来られました。
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by higacoch | 2017-04-11 14:39 | マタイ

2017年4月2日

「仕える者になる」       エレミヤ書15:15-18、マタイ20:17-28
                           関 伸子 牧師 
 アガサ・クリスティーの『ベツレヘムの星』という短編集を読んで、私の心に残った一つの短編があります。「水上バス」という表題です。
 主人公は、ミセス・ハーブリーヴスという婦人です。このハーブリーブスさんは信仰があり、自分は人を愛さなければならないのだということをよく知っていた人です。慈善事業によく献金をする。アフリカの修道女の働きを聞けば感動して献金を送る。自分もそうしたい、と願う。ところが、この人にとってどうしてもできないことがありました。それは、本当の愛に生きることができないということです。人に触られるのがいやだし、人に自分の体が触れるのものいやなのです。
 それはちょうど、インドの最も貧しい人びとの住む地域で奉仕をしたマザー・テレサとは正反対だ、と言ってもよいだろうと思います。このマザー・テレサの言葉に、「不幸な人びとの面倒を見るよりも、人を愛することが大事だ」という不思議な言葉があります。いったい、本当に愛するということはどういうことなのでしょうか。マザー・テレサの言葉で言うと、愛するということは、ハンセン氏病患者に「触れること」なのです。遠くから見ていることであったり、その人のために金を恵んであげたりすることではなくて、その人に触れることなのです。アサザ・クリスティーが描く英国の婦人ができなかったことは、まさしくそれでした。
 ところで、どうしてこの婦人の話が「水上バス」などという題名で書かれているのでしょうか。ある日、それこそ、いやでも人に触り触れられたりして、すっかり参ってしまったこの婦人が、無人島に行きたいと思ったというのです。ロンドンに無人島はありません。仕方なくテムーズ川に浮かぶ水上バスに乗るのです。しかも寒い風が吹いている。風をよけて船客は、みな船尾の方に集まっているのです。船首の方にはたった一人の男しかいない。彼女はその前の方に回る。その先客を見ると、東洋の国の人らしい。ラシャの生地のような一枚織りの布を身にまとっている。どこかの国の人だろうと思いながらこの婦人は、その人の着ている上着のすばらしさに心が惹かれるのです。そして、ふとその上着に触れるのです。結局、彼女は、その人が誰であるか顔を見ることができませんでした。しかし、その人に触って、バスを降りた時に、初めて、彼女は変わったのです。温かさと幸福を知ったのです。
 マタイが語っている、主イエスの歩みを私たちは、読み続けることによって、そのキリストの歩みの中に私たち自身がひきずりこまれ、私たちも主イエスに触れることができると信じます。
17節から19節までに、主イエスご自身が語られた三回目の受難の予告が記されています。私たちは、ここにある主イエスの予告を、しばしば〈受難予告〉と呼びます。そのために。主イエスが、甦りをも告げておられることを忘れるのです。
 しかし、ここで、この主の勝利の預言をも聞き取った人びとがいます。それは、ゼベダイの子たちであり、その母です。ここでは、この母は「その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」とあります。この「ひれ伏し、何かを願おうとした」という書き方は、たとえば王に対する心から尊敬の姿勢を示します。「何が望みか」と主に問われて正直に言いました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。
 「イエスはお答えになった。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか』」。この「杯」とはいったい何か。私たちはよく知っています。これから後、やがて読み進めると、主イエスがゲッセマネの園で、このヤコブ、ヨハネ、そしてまたペトロ、三人の弟子たちを連れて行き、神に祈りました。マタイによる福音書では、第26章の39節にその主の祈りを記しています。その祈りは三度も繰り返されたとあります。三度も「この杯を勘弁してください」と祈られた、というような杯です。
 エレミヤ書第25章15節にこう書いてあります。「それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。『わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。・・・』」。この「杯」は、神の怒りを、まともに飲まなければならないという苦しみを表します。主イエスは、ここで、まさしく、神の怒りを自ら負うところにご自分を置いたのです。それが、キリストの飲む杯でした。
 主イエスが言っておられることは、わたしが多くの人の贖いとして自分のいのちを与えるのと、そっくり同じような奉仕をあなたがたはするのだと言われたのです。 私たちは今ここでしているのは〈礼拝〉と言います。ご存知のように、英語でサーヴィスと言います。「奉仕する」ということです。私たちは、このサーヴィスとしての礼拝は、私たちが神にお仕えすることだと考えます。
 主イエス・キリストは、こう言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためにではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。
 主イエスが、ここで語られたことに、それこそ、幼な子のような素直な心で、立ち帰らなければならないと思います。神の支配の中で、真実に大きくなれる者は、真実に、自分を小さくして、人に仕えることに喜びを知るのです。私たちも、主イエスに触れたいと願います。その主イエスの恵みの事実に触れ、仕える者になりたいと思います。お祈りいたします。
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by higacoch | 2017-04-02 18:48 | マタイ

2017 年3月26日

「輝く神の子の姿」         イザヤ30:8-22、マタイ17:1-13
                          関 伸子 牧師 

 主イエスはペトロとヤコブ、それからヨハネという三人の弟子と共に、高い山に登られました。この三人の弟子は、この後も、ゲッセマネで主イエスが、祈りをなさる時にも選ばれていきました。
 高い山の上で、三人の弟子たちの目の前で主イエスの姿が輝いたのです。衣が真っ白に光るという事件が起こったのです。まさしく、主イエスの変貌です。ベツレヘムに生まれ、ナザレに育ち、そしてペトロたちと寝食を共にしてガリラヤを旅し、エルサレムへの旅をなさっているこの主イエス、この肉体を持ち、血を持っておられる主イエス、まことの人間としてこの世に生きておられる主イエスが、神の子としての正体を、ここで明らかにしてくださるということです。
 だからこそ、このすぐ前に起こっている出来事を、忘れてはならないのです。第16章の16節で、すでにペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」とイエスに告げました。そして、この山の上で白く輝く主イエスの姿を見た時に、ペトロは、喜びに溢れて言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」。ここに「すばらしい」と訳されている言葉は、「美しい」という言葉です。「何と美しいこと、何とすばらしいことでしょう」とペトロは言ったのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である。これに聞け」。「そうだ。これはわたしの子だ。わたしもこの子のことを喜んでいる」。そう言われたのです。このイエスを信じる時にのみ、このイエス自身が言った「自分の十字架を負う」ということにも、耐えることができる。そして、自分のいのちを見出すことができる。生きていてよかった、ということが分かるようになる。そう言ってくださるのです。この神の言葉が、しっかりと聞こえたのは、主イエスの正体が分かった時です。
 この第17章は「六日の後」という言葉をもって書き始めていました。第16章が記している、あの大切な弟子たちとの対話、ご自分の苦しみや、死や甦りについてお語りになった。あの時から6日を経ているということです。六日の準備が、この山の上の出来事のために必要だったというのです。出エジプト記24章の16節、ここでもモーセが、主なる神からその声を聞かせられるのに、6日間、待たなければならなかった、と書いています。神のみ言葉が聞こえてくる、神の啓示が起こるのに備えて、主イエスは、弟子たちにも6日間の日を用意なさったのです。
 また同じ1節に「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と書かれています。誰が連れてくるのでもないのです。主が6日の間に用意をなさって、私たちを、ここに連れてきてくださるのです。私たちは、その主の力によって、ここにひきずり込まれて、主のみ前に立つのです。
 そこでもう一つ、ここで興味のあることは、この主イエスが、一人で父なる神の前にお立ちになったのではなく、モーセやエリヤと共に立っておられることです。モーセは言うまでもなく、ユダヤの人々を、あの奴隷状態からひきずり出した人です。その神のみわざに仕え切った男です。申命記第34章は、モーセの死を記述したのちに、こう書きました。「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」。またエリヤは、預言者中の最大の預言者と言われ、神の言葉を実に激しく語った人です。イスラエルの民がこのモーセやエリヤを思い起こすのは、ただ、自分たちが神に捨てられていなかったのだ、ということを思い起こすためでした。
 主イエスが、この二人と語る姿を見た時に、ペトロは、この三人にゆっくり話し合ってもらう場所を、作ろうと思ったのです。ここに「小屋」と訳されているのは、元の言葉は「天幕」という意味の言葉です。しかし、このペトロの申し出は、少し早すぎたようです。このペトロの申し出の言葉、それは短いものですけれども、この短い言葉を語り終えないうちに、こういうことが起こったのです。「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた」。
 ここで、とても大切な聖書の言葉があります。ペトロの手紙二第1章です。主の変貌の時に、立ち合ったペトロが書いたと言われる、この手紙の第1章16節にこう書かれています。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜(よ)が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」。
 マタイによる福音書の第3章で、主イエスが洗礼をお受けになった時、天から聞こえた神の声もまた、「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者」ということと同じ言葉でした。この箇所について、ある牧師が書いています。「自分がこの箇所を読む時に、イタリアのフィレンツェにある一つの絵を思い起こす」。この牧師が言うのは、フィレンツェの聖マルコ修道院の聖職者であり、絵描きであった、フラ・アンジェリコの作品のことです。その一つの小さな作品、主にご生涯を描いた作品の一つに、この変貌の光景があるのです。光輝く中に立つ主イエスは、両手を広げておられるのです。そこで、この牧師は言うのです。「それは十字架につけられる姿を示している主のみ手が、弟子たちを招き、祝福するみ手であることをも、感じ取ることができる。今私はそれを思い起こす」。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2017-03-27 08:19 | マタイ

2017年2月19日

「罪と死に勝つところ」       出エジプト19:1-6、マタイ16:13-20
                           関 伸子 牧師 

 マタイによる福音書は、ここから新しい部分に入ります。これまでの箇所は、ガリラヤから出発した主イエスの宣教活動がどんどん広がっていったことを記していました。人々の病を癒し、パンと魚の奇跡で多くの人々に食事をお与えになりました。この後の主イエスの活動は十字架に向かって集中していきます。ここは地理的にもひとつの折り返し点です。
 この舞台となったフィリポ・カイサリア地方はガリラヤよりもさらに北、ヨルダン川の源流です。あまり賑やかな場所ではないところにある町です。しかし風光明媚で知られ、ヘロデ大王の別荘がありました。「弟子たちにイエスは『人々は人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」。この北の果ての地域で、主イエスの問いかけに答えて、ペトロは「あなたはメシア(キリスト、救い主)、生ける神の子です」(16節)と、主イエスに対する信仰告白をしました。
 この告白が、もう一つ大事な意味を持っているのは、その後に続いてこう記されたことにもよります。「すると、イエスはお答になった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる』。
 イエスは教会をお建てになったのです。そしてその教会の歴史が、ここから始まるのです。そして、この教会についてイエスは言われました。「陰府の力もこれに対抗できない」。ご自分が、これから建てる教会の特色は何か。陰府の力もこれに対抗できない、そういう強さだと言われたのです。
今年は宗教改革から500年経った記念の年です。牧師・神学者である徳善義和先生の『ルター』という書物を読みました。挿絵、写真の類い一切なしです。そこに、ただ例外として図版が一つ入っているのです。それは何かというとルターの紋章なのです。このルターの紋章というのは、丸い円です。空色、薄い黄色で塗られています。その縁は金色です。中央に白いバラの花が描かれていて花弁は4つです。そのバラの花の芯に当たるところに、ルターのシンバルマークらしいもので、赤いハート、心臓が描かれているのです。更にその心臓の中心に黒い十字架が書かれています。実はこれは美的感覚からすれば、色の配合が、少なくとも日本人の趣味に合わないと私は思ったのです。徳善先生の本は、そのシンボル・マークのところに、ある人に宛てたルターの手紙の一節が、引用しており、そこで、ルター自身が、この紋章の意味を説明しているのです。たとえば、なぜ一番外側に金色の輪が描かれているかと言うと、金は、最も得難い、そして廃ることのない宝を意味するのであって、そのように、われわれは、天に至る救いに生きている、終わることのない、いのちに生きているのだということを示しているのだというのです。
 主イエスは、「わたしの教会」と言われます。主イエス・キリストの教会なのです。「わたしの教会」にあなたがたは生きる。「わたしの教会」をあなたがたがみんなで作る。わたしをキリストと呼ぶときに。そしてあなたがたが造る「わたしの教会」に、死もまた刃向かうことができない。そう宣言してくださったのです。
 ルターは自分自身の姿を示すシンボル・マーク、紋章を金色の枠で囲んだのです。いのちの枠で囲んだのです。そしてその上にML、つまりマルティン・ルターという自分の名前の頭文字を書いたのです。私たち、もそのようないのちの望みに、今ここで生き抜いているのです
その金色の輪の中に、ルターは白いバラを描きました。ルターは、手紙の中で、白は雲と天使を意味すると言っています。そして空色は天を意味すると言っています。「天」、神のいますところ、その天にあずかる望み、喜びの中に、今自分たちは、天使のように生きることができるというのです。
主イエスは、19節にこう言われました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。死の門から押し寄せてくる力に勝って、それを振り切ることができる教会は、天国の門を開くのです。
このペトロの告白に続いて21節にこう記されました。「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目に甦るべきことを、弟子たちに示しはじめられた」。ここでイエスは、初めてご自分が十字架につけられて殺される定めであることを語られるのです。
 ルターが、先ほど紹介した手紙の中でこう言っています。「黒い十字架、それは死のしるし、痛みを意味する」。キリストの痛ましいあの死、そして死における十字架の愛の痛みをこの黒が語るのです。その十字架を抱くようにして、書かれている心臓の色、それは、いのちの色で塗られなければならない。神の義によって生きる人間は、十字架につけられた方を信じることによって、いのちに生きるのだと言うのです。そのお影で、私たちの黒枠は黄金色に輝くのです。
 手を合わせて「私はキリストを信じている、私もイエスをキリストと呼んでいる。イエスさまがついている。なぜ怖がっているのだ、なぜ恐れているのか、なぜ臆病になっているのか」と自分に言い聞かせる。それができるのです。教会に生きているのですから、それができるのです。それが私たちに与えられている恵みです。お祈りをします。
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by higacoch | 2017-03-20 08:23 | マタイ

2017年3月12日

「神の国の到来」         エレミヤ書23:23-32、マタイ12:22-32
                           関 伸子 牧師 

 「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも赦されることがない」。今朝与えられている、マタイによる福音書、第12章32節に繰り返されている主の言葉は、福音書に記されている言葉のうちでも、最も難解なものの一つとされています。それは、こともあろうに主イエスが、「赦されない罪がある」と言っておられるからです。
 物語の発端は、目も見得なければ、口もきけない、悪霊に取りつかれた人の存在です。口もきけなければ、当然、耳もよく聞こえなかったかもしれません。二重苦、三重苦の虜になっている人がいた。それをイエスはお癒しになったのです。23節に「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った」とあります。この「驚いた」という言葉は、「我を忘れる」という言葉です。我を忘れて、問わずにおれなかったのです。その時に我を忘れていない人がいたのです。それがファリサイ派の人々です。なぜかと言えば、自分たちこそ神の言葉を持っているからです。
 主イエスは、そこで大変はっきりした論争を挑まれます。25節以下です。悪魔でさえも、自分たちの国を大切にする。仲間割れして、自分の国が分裂し、滅んでしまうようなことは、悪魔といえども欲することではない。
 二股かけるということはできないのです。だから、明瞭な言葉が30節にあります。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」。いったい、神の国に生きるということは、どういうことなのでしょうか。
 みなさんもよくご存知だと思いますが、マザー・テレサは、1910年にユーゴスラビアに生まれ、志を与えられて、インドのカルカッタに派遣された修道女です。そして、カルカッタで働いているうちに「ミッショナリー・オブ・チャリティー」(神の愛の宣教者たち)というグループを作りました。このマザー・テレサについては、カトリックの女子パウロ会が刊行した、マルコム・マゲリッジというイギリスのジャーナリストが書いた『マザー・テレサ』という書物によって紹介されています。
 このテレサの一つの仕事は「死を待つ人のホーム」というのを作ったことです。これは、かつてある偶像の神に捧げられていた、神殿のようなものですけれども、それを貫き受けて、そこに、路傍に倒れていた人びとを運んだのです。昔の神殿ですから、なかは暗くて小さな窓が、上の方にあるだけで、テレビの撮影技師は、こんなところで写真を撮るのは、無理だと言って断るのです。ところが、後で実際に、それを映してみたところが、外の世界のどこを写しているよりも、その場面が明るく、美しく、感動的であったのです。この夢中になっている英国のジャーナリストは、23節の「群衆は皆驚いて言った」という、この驚きに重なる驚きに生きている、と言ってもよいと思います。
 マルゲッジが書いたテレサについての書物の表題は、日本語では単純に『マザー・テレサ』ですけれども、英語では“Something Beautiful for God”というのです。『神のためのうるわしきこと』です。これが、マザー・テレサが一番好きな言葉です。「さあ、私たちはこれから〈神さまの役に立つうるわしいこと〉を一つやろう」。そう言って、町に出て行くというのです。それは、神が主イエスにおいて、美しいわざをしてくださった、それを映し出し、それを放射するだけのことです。
 主イエスは言われます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。もう来ているのです。それこそ、我を忘れる程に、すばらしい神のわざに参与することがここに始まるのです。
 『マザー・テレサ』を読んでいると、つくづくそのことを感じます。この人は退屈を知らない。しかも、あえて深刻そうな顔もしない。ニコニコしている。神の国が始まったことを信じ切っている。あるカトリックの聖職者の話ですけれども、その人は、田舎の小さな農村の教会の司祭として、最後まで生きた人です。自分のためには財産を蓄えません。文字通り裸になります。けれども、熱心に献金を募ってでも、一所懸命に心掛けたこと、それは、ただ貧しい人びとのために働くことだけではありません。ミサのための用具には金をかけたのです。一番良いものをもって、礼拝の道具は調えたのです。マザー・テレサもそうです。マゲリッジが、かなりのお金を送ったところが、さっさとミサの用具を買い調えて、マゲリッジに「ごめんなさい」と言って、手紙を書いています。テレサの生活を読むと、毎朝、4時半に起きて礼拝をします。主イエスの十字架の愛を確認します。主イエスの甦りの中に立ちます。主イエスが、神の霊をもって、神の国が、今ここにもたらされたと言われた時、主はこの神の霊による悪霊との闘いは、愛の闘いであるがゆえに、ご自分の死をも招くことであることを、すでに覚悟しておられたのです。こんなことを言えば、それだけ自らの死を近くに招くだけのことでした。しかし、神の恵みの霊は、そのようにしてしか、私たちを捕らえないものであることを、主イエスは明確に知っておられたのです。だからマザー・テレサは自分の愛の奉仕を誇りにはしないのです。自分を生かしている、主イエスを指し示すだけです。主イエスの恵みの光が、いま私から光輝いているだけなのです。カメラマンは来ても、私だけを撮らないでください、あの人も、あの人も主の喜びの中で生きているのですから、と言って共に働くインドの娘たちを、カメラマンの前に立たせるのです。私たちも、同じ恵みの中に生かされているのです。私たちも、同じ主イエスの見方になることができるのです。誰でもやっているような、小さなわざをしているだけのことであっても、そこに、主において始まった、神の霊による神の支配があるのです。聖霊を汚す言葉を語るまいと決心したいのです。それは、この主の恵みのわざを、拒否することであるからです。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2017-03-13 09:31 | マタイ

2017年3月5日

「何によって生きるか」          申命記8:1-20、マタイ4:1-11
                            関 伸子 牧師 

 今朝私たちに与えられている聖書の記事は、主イエスの「荒野の誘惑」と題されることの多い、名高い物語です。この荒野の誘惑そのものの物語よりも、もしかするともっと広く知られていると思われる聖書の言葉が4節に出てくるからです。「人はパンだけで生きるものではない」と主イエスがここで言い切られました。それは、主イエスがひとつの決断をなさったということです。
その決断とは何か。自分は十字架につくのだということです。この言葉は、主イエスの荒野における誘惑との闘いの中においてです。1節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。この荒野の誘惑に立ち合った人は誰もいません。主イエスがバプテスマのヨハネのところで洗礼をお受けになったことの当然の発展です。第3章15節の主イエスのみ言葉は、「今は留めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。「義」とは、神さまの義であり、また、その神さまの義に見合う人間の義です。
 この主イエスの荒野の体験の背後には、明らかに、旧約聖書の民の信仰体験があります。第一に、出エジプト記の第34章の28節「モーセは主と共に40日40夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した」。モーセは十戒、律法を神から受けて帰ってきました。しかし、民がその間にすでにモーセを裏切り、神を裏切って金の子牛を拝んで大騒ぎをしていた。モーセはやり直しをしなければならなかった。もう一度シナイの山に登って40日40夜、パンも食べず水も飲まない断食を重ね、神のおきてを神さまによって、書き記し直していただくために過ごさなければならなかった。神の言葉が人びとの心に書き記し直されるため、人びとの罪が、神の言葉がもう一度語り直されるために、モーセは40日40夜の、この苦難を耐えなければならなかった。しかも、このモーセの努力もやがて再び、三度、神の民によって裏切られるのです。裏切られたからこそ、再びこの神の民を神ご自身のものにするために、主イエスがついに、モーセに代わって生まれてこられなければならなかった。そのようなことからすれば、主イエスは第二のモーセです。神の民が神の言葉によって生きることに挫折を繰り返し、希望を失ったときに、神さまのほうでなお忍耐をもって、人の罪を赦してやり直すために来られたのが、この主イエスの歩みだったのです。
 神の言葉はこの世の中で語り直されます。その言葉によるこの世の生活が回復されなければならないのです。そのために主イエスは、モーセのシナイにおける40日40夜の断食をもう一度繰り返されたのです。そのときに、その主イエスを試みる者が、モーセによって与えられた神の言葉を盾に取って試みる。第二の誘惑と第三の誘惑は、いずれも旧約聖書に出てくる教えをわざと用いるのです。そしてあなたが神の子であるなら、その救いはこうであるはずだ、こうでなければならないはずではないかと問うのです。
 私たちが主イエスの「退け、サタン」という、この10節の言葉を読む時、すぐに思い出すことがあります。主イエスがこの後弟子たちをお集めになって、そしてやがてご自分が、弟子たちの待っていたキリストであることを明らかになさいます。弟子たちは、まず最初、それを受け入れました。しかし、主イエスがすぐその後で、あなたが信じるキリストとして、わたしは十字架につけられて殺されるのだと言われました。その時、今主イエスはメシアだと告白したばかりのペトロが、主イエスの裾を引っ張るようにして、そんなことがあっては困ります、そんなことはあるはずはない、と言いました。そして主イエスはペトロに向かって、このサタンに対するのと同じことを言われたのです。「退け、サタン」。サタンと弟子たちとが重なるのです。主はそこで弟子たちからも試みを受けられたのです。主イエスは、そういう意味では、私たちに対しても戦われている。だからこそその愛される人間の、しかも主イエスご自身がよく理解できる切実な救いの期待に対して、そこに救いはないと言い切られたのです。そのために、主イエスはご自身が十字架につけられる道を選ばれたのです。
 この荒野の誘惑を理解するために読むべきもうひとつの言葉は、申命記の第8章の言葉です。モーセに導かれたユダヤの人びとは、パレスチナに到着するまで40年の間荒野で旅をしなければならなかった。その40年の荒野の旅の間に、民は厳しい飢えを体験した。その時に、神さまは民が眠っている間にマナを降らせて、この民を養われた。それとの関連で、「人はパンだけでは生きず」という言葉が3節に書かれているこの民を養われた。それとの関連で、「人はパンだけでは生きず」という言葉が3節に書かれているのです。
 人間は、申命記は神に選ばれた民に向かって、あなたがたが人はパンのみによって生きるのだと言ったときにこそ滅びる、神の民という驕りの中で、神に本当に感謝することを忘れたときにあなたがたも滅びる、いや、あなたがたこそ滅びる、と申命記は言ったのです。だから主イエスは必死になられたのです。私たちが自らの罪のためにですら滅びてはいけないからです。滅ぼしてはいけないからです。その滅びの中にご自分の身を置いたのです。それ以外に、人びとが立つ道はないということを見抜かれたからです。私たちもペトロのように、その主イエスの前に立ちはだかって、「サタンよ」と言われることがないように、主イエスがここから歩み始められたその道を、正しく見抜きながら、主イエスがここで悪魔に対して「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」という聖書の言葉を、もう一度はっきりご自分のいのちを賭けて語り直してくださったことに、深い感謝を表したいと思います。お祈りをいたします。
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by higacoch | 2017-03-06 08:25 | マタイ