カテゴリ:列王記( 3 )

2010年3月21日

「何をしているのか」 列王記上12:25-33、ヨハネ福音書4:19-24

 今朝与えられた旧約聖書に示されている王様、北イスラエルのヤロブアム王の時代は、ユダヤの国が南北に分かれた時代でした。偉大なるソロモン王の死後、国は二つに分裂し、対立するようになりました。そんな時代に、ヤロブアム王は自分が何をしているのかよく解っていませんでした。王は自己の安泰のために、金の子牛の偶像を造り、「これがあなたがたをエジプトから救い出した神だ」と説き、2箇所に神殿を建ててその偶像を安置し、人々を偶像礼拝へと導いていきました。こうした事は、後々まで影響し、南北の対立の溝が埋まることはなく、イエス様の時代には犬猿の仲になっていて、それがユダヤとサマリヤの敵対関係となっていました。
 私たちの国日本も以前、天皇を神として崇めさせ、天皇が日本を守ってくれる神様だと信じるように人々に強いていきました。人々に天皇が住む方向に向かってお辞儀をさせたり、天皇讃歌の「君が代」を歌うようにと命令したりしました。学校でも「ご真影」と呼ばれる天皇の写真が飾られ、日本の紀元節、また明治、昭和天皇の誕生日には生徒全員に「ご真影」に深々と頭を下げさせました。そして式典では、明治天皇の道徳の教えである「教育勅語」が校長先生によって詠み上げられ、その間、子ども達は頭を下げて身動き一つできず、聞かなければなりませんでした。このようにして天皇崇拝させていきました。国は人々の心を奪い、人々を支配していき、国民は国のためにと、戦争へと駆り立てられていきました。そしてアジア諸国を侵略し、多くの罪を犯しました。国が何を求め、何をしようとしているのか、人々に間違ったことを強制し、神の御心から逸れていこうとしている時、私たちは神の御心に沿うような歩みへと決断し、行動しなければならないのです。こうしたことは、国家と教会、政教分離の問題をどう考えるのかと議論がなされます。そうした時、教会は神に仕えることにのみに励んでいれば良いのだ、世の中のことに関わらなくていいと言う意見がでたりします。世俗的なことには関わらない方がいいと言って、社会に関わろうとしない面があったりします。
 主イエス様が、私たちに「御心が天で行われるように、地でも行われますように」と祈るように教えられたことは、祈るだけで良いと言われたのではありません。そうではなく、主の御心に沿う歩みを求め、そのために生きていくべきであります。それがどんな小さな歩みであっても、私たちは光の子として生かされているのです。そのためにも神の御心を知ることができるように、礼拝を献げ、御言葉を聞き続けなければなりません。私たち各人は、礼拝を通して御言葉の糧を頂き、神の証し人として遣わされているのですから。
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by higacoch | 2010-03-27 18:22 | 列王記

2008年8月31日

「分かち合って」  列王記下 7:1-20, マタイ福音書15:32-39 
                                   香月 茂 牧師


 今朝の旧約聖書箇所の背景は、イスラエルの国に飢饉が襲い、食糧不足の上に、外国と戦争を始め、敵の軍勢に包囲され、極限の飢餓状況となっていました。母親がわが子の人肉を食べるという恐ろしい状態でした。その中で神の人エリシャが信じがたい預言を語りました。それは「明日の今頃、上等の小麦粉、大麦が安価で売られる」というものでした。これを聞いた王の仕え人は信じようとはしませんでした。王も人々も同様でした。しかし、神は働いておられたのです。

 神は、その日の夕べに轟音を響かせ、城を包囲した敵に大きな恐怖心を与えました。軍事大国エジプトと近隣の諸王の援軍が大軍を連ねてやってきたと思わせたのです。そこで、敵は夜にもかかわらず慌てて取る物もとりあえず、一目散に逃げていきました。翌朝、神は重い皮膚病の人たちを敵陣に導きました。彼らはそこで食糧にありつき、それを自分たちで山分けをせず、飢餓状態で苦しむ人々に知らせました。こうしてエリシャが言った預言は成就しました。彼らは人一倍、飢餓の苦しみを知っていたからこそ、神に導かれて共に分かち合うことしたのでしょう。

 さて今朝の新約聖書箇所では、イエス様は人々に対して憐れみをもって行動されています。人々を空腹のままで解散させたくないと思われました。そこで弟子たちに「パンはいくつあるのか」と尋ね、弟子たちは「七つ。それに、小さい魚が少しばかり」と応えました。この答えにはこんなに大勢の人たちに対して、少ししかないという諦めがあります。しかしイエス様は手渡された七つのパンと魚を受け取り、神様に感謝の祈りを捧げ、パンと魚を裂き、それらを、弟子たちを通して人々に渡していきました。こうして人々は食べることができました。ここでイエス様はある人たちには多く、またある人たちには少なく渡されたのではありません。皆が食べて満腹したとあります。誰かが不満を訴えたということはありません。イエス様はすべての人々に分け与えておられます。

 「七つのパン、少しの小さな魚」は、実際少ない量です。何らかの自然災害で食糧が十分に収穫できないことがあります。そうなった時、一部の人が食糧を独り占めしようとすれば、ますます他方では少なくなり、飢餓状況を引き起こします。少量の食糧が飢餓を生み出すのではなく、人の独占欲が生み出すのです。飢餓は人間の生き方の問題なのです。
ここで大切なことを教えられます。イエス様がなされているように、分かちあうこと、独り占めをするのではなく、共に預かるのです。自分だけが満腹すればいいと言うのではありません。自分の家族が、グループが、国が、ではありません。分かちあうことの大切さを知らされます。これは食糧だけのことではなく、与えられたものを分かち合うこと、これは隣人のことを思い、隣人を愛することです。イエス様がそうされたように、私たちもそのように導かれています。
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by higacoch | 2008-08-31 22:21 | 列王記

2008年8月24日

「正しい裁き」  列王記上21:1-24、マタイ福音書14:1-12  香月 茂 牧師

 人は欲張りです。他人がもっていて、自分が持っていなければ欲しがります。モーセの十戒の最後に「隣人のものを一切欲してはならない」とあります。

 今朝の箇所に記されているアハブ王もそうでした。王は隣人の所有するぶどう畑が欲しくなり、代替地か売却かと持ちかけましたが、その持ち主は「この土地は売れない」ときっぱりと断りました。手に入れることができないと解った王は、機嫌を損ねて宮殿に帰ってきました。すると妻イサベラは「この国を支配しているのはあなたです。私が奪って上げましょう」と言い、早速偽証人を立てて、持ち主を追い詰め、彼が大きな罪を犯したことにして、殺させてしまいました。こうして王はぶどう園を手に入れようとしました。すると、王の前に預言者エリヤが立ちはだかり、王に向かって「あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものするのか」と糾弾しましたが、王は罪を悔い改めず、さらに罪を犯し続け、神の裁きを受けました。アハブ王と同じように、ヘロデ王も預言者ヨハネによって自分の罪を糾弾されましたが、ヨハネの言葉に耳を傾けようとはせず、ヨハネを殺しています。権力をもつ王は傲慢になり、自分の欲しいものを力づくで隣人から奪っていきます。これは王だけでなく、軍事力を持ち、傲慢になる国においてもそうです。かつて日本も隣国のものが欲しくなり、日本も韓国、朝鮮、中国や東南アジア地域の国を侵略し、国を奪うという大きな罪を犯しました。アハブ王、イサベラが犯した罪を神は知っておられます。それゆえ、神はアハブ王の前に預言者を遣わし、王が罪を悔い改めて、罪の赦しを請い、その後罪を犯さないようにと導こうとされているのです。日本も罪を悔い改め、二度と侵略戦争をすることがないようにしていかなければなりません。もし悔い改めず、罪の道を進むなら、神は裁きを下されるでしょう。神が罪を糾弾されるのは、悔い改めて神の道へと歩んで欲しいからです。

 この聖書箇所で解ることは、神は権力の側にはおられない、力を振るい、力で人を抑え、欲望に任せて生きる者の側にはおらないということです。むしろ、そうした権力者によって虐げられている人、弱い人たちの側におられる、このことを知らなければなりません。イエス様は神様の裁きのことを譬えで教えられました。マタイ福音書25章にありますが、そこでイエス様は大事なことを教えておられます。「はっきりと言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことだ」と。弱く、小さい者に仕えることは、私に仕えた事だと。そうした小さい者に仕える者を祝福されるのです。私たちはどちら側に立って生きるのかが問われています。神様の御旨にそって生きようとするのなら、神様に従わなければならない。神様は、正しい裁きをなされる。それゆえに、この世の権力、力で人を強い、人から奪うような生き方ではなく、弱く虐げられている人たちの側に立って、人に仕えて共に生きるように神様は私たちを導いておられるのです。
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by higacoch | 2008-08-24 22:19 | 列王記