カテゴリ:エフェソ( 10 )

2013年8月4日

「人を造り上げる言葉」  詩編8:4-10、エフェソ4:17-32 
                         
 今朝与えられましたエフェソの信徒への手紙で、伝道者パウロは、「古い生き方を捨てて、新しい生き方をしなさい。」と勧めています。古い生き方とは、キリストを知らない以前の生き方であり、新しい生き方とは、キリストを知ることができた以後の生き方です。ですから、自分で新規一転してする自己決定による生き方ではありません。以前の生き方と以後の生き方との間にある決定的な違いは、キリストを知ったということです。キリストの愛を、赦しを、希望を知ったということです。別のいい方をすれば、イエス・キリストの十字架の出来事と復活の出来事を知った、そのようにキリストと出会ってキリストを知り、キリストの生き方を知らされたのです。
 ここには、 「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。 悪魔にすきを与えてはなりません。」とあります。怒ること自体は、罪ではなくても、罪を犯しやすいということです。つい怒りにまかせて、感情むき出しとなり、つい相手を悪く言ってしまいます。駄目だとか、のろまだとか、相手をバカ呼ばわりしてしまいます。こうなると、罪を犯しています。悪魔の罠にはまってしまっています。こうした時、できるだけ早く怒りを治めることです。パウロは、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」と、一日のうちに怒りを治めなさいと言っているのです。できるだけ、相手と仲直りをすべきです。これは夫婦であっても、親子、兄弟たちであっても、嫁姑とであってもそうです。
 また「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」と言っています。ここで「造り上げる」と言う言葉の原語ギリシャ語はオイコドメーといいますが、パウロは、人との関係だけでなく、教会形成においてもこの言葉を使っています。(4:11~12、16節参照)しかし、人は案外、人を造り上げるのとは逆のことをします。人をこき下ろし、人を壊すような言葉を語ります。こうした言葉を聞いた人は、仕返しに言い返し、さらに上乗せして、けなします。だんだんエスカレートしていきます。こうして人を壊す言葉は、お互いを壊していきます。まさにパウロがいうように、「神の聖霊を悲しませているのです。」ですから「こうした無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と共に、捨てなさい。」といい、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによって、あなたがたを赦して下さったように赦し合いなさい。」と勧めています。ただ仲直りを勧めているわけではありません。イエス・キリストがあなたを赦して下さったように、あなたも、相手を受け入れ、相手の罪を赦して上げなさいと赦すことを勧めています。この赦しを片方だけに求めているのではありません。両者に求めています。「互いに赦し合いなさい」と。
 最近はネットの時代です。ネットで言いたいことを言う人が増えてきました。またモンスターと呼ばれる人がいます。代表的なのはモンスターペアレント、いわゆる「いちゃもんを言う親たち」です。高校、中学校、小学校の担任の先生や校長などに自己中心的な理不尽な要求をするのです。たとえば、自分の子どもと、特定な子どもと一緒のクラスにしないで欲しいとか、幼稚園、保育園では、特定な子どもと一緒に遊ばせないで欲しいとかです。そうした要求を先生や保育者の家に、時間かまわず、毎日のように電話を掛けてくるのです。人が人を区別する、否、差別する。そして、それを要求する、そのようなことが身近な所で見られるようになりました。
 パウロは「親切にしなさい、困っている人に分け与えるようにしなさい。人に、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」と言って勧めています。これは人に近づいていくことであり、隣人を愛する歩みです。その人を愛し、その人が、神にあって、その人なりに造り上げられるように願うことなのです。人を避けるのではなく、人に近づいていくことなのです。
 先週、『教皇フランシスコ』という本を読みました。その教皇は今年の3月に選ばれ、まだ5カ月しか経っていませんが、この間にも名言を残しています。本の中に彼の10の名言が記されていますが、その最後の10番目に、こう記されています。「憎しみ、ねたみ、高慢さは確実に人生を台無しにします。それゆえ、守ることは、私たちの感情や心に注意を向けることだと言えます。善意や悪意は、心から生まれます。私たちの思いは、建設的なこともあれば、破壊的なこともあるからです。慈悲の心、優しい心を持つことを恐れてはなりません」と語っています。そして教皇はインターネットのツイッター(140字以内の短文で投稿する情報サービス)で、全世界の人々に向かって彼の決意表明をしました。そこには、「奉仕の精神こそが真の力です。皆様に、とりわけ、最も弱く、最も貧しく、最も虐げられた人々に仕えてまいります」と発信しました。
 パウロは、この手紙の最後の方、6章7~8節では、「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、 人にではなく、主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」と語っています。このことが、人に語り掛ける時にも重要なことです。人を造り上げる言葉は、「人にではなく、主に仕えるように、喜んで仕え」る心を持つ者が語ることができるのはないでしょうか。その心を持って、人に仕え「人を造り上げる言葉」を語ることを祈り求めていきましょう。
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by higacoch | 2013-08-10 16:26 | エフェソ

2013年7月28日

「夫と妻との関係」  詩編127:1-2、エフェソ5:21-33
                           
 今朝の聖書の箇所は、伝道者パウロがエフェソ教会の人たちにあてて書いた手紙です。ここでパウロは「妻たちよ、主に仕えるよう、自分の夫に仕えなさい。教会がキリストに仕えるように、夫に仕えるべきである。」と言い、次に「夫たちよ、キリストが教会を愛したように、妻を愛しなさい。」と言って勧めています。 妻には「仕えよ」、夫には「愛せよ」と言って、夫婦関係をキリストと教会の関係にたとえています。つまりキリストを夫とたとえ、教会を妻にたとえて語っています。それはキリストが教会の頭であって、教会はキリストに仕え、キリストは教会を愛することをもって夫婦関係を短くまとめています。
 パウロはユダヤ人です。ですからユダヤの夫婦観を今朝の箇所で語っているのです。31節の「それゆえ、人は父と母を離れて、その妻と結ばれ、二人は一体となる」という教えがそうです。これは神様が人間を男と女とに創造された後に、言われた言葉として創世記にも記されています。そしてイエス様も安易な離婚をしていた夫たちに警告されています。ユダヤ社会では離婚が多く、夫側から離縁状を渡して離婚できたのです。イエス様は人々に、弟子たちに言われました。夫が勝手な理由をあげて離縁状を妻に渡して、離婚ができることにストップをかけ、安易な離婚をして、再婚する者は姦淫の罪を犯すことになると言われました。すると、それを聞いた弟子たちはそれくらいなら結婚しない方がいいとさえ言っているほどです。それほど弟子たちでさえ結婚離婚を安易に考えていました。イエス様は二人が一体となるためには、夫も妻も両親から離れること、精神的にも、経済的にも、離れなければならないと教えられました。(マタイ福音書 19章1~12節参照)
 古代ローマ帝国内では、離婚が多かったのです。エフェソの人々の中にも離婚をする人たちが多くいたでしょう。そこにある教会の人たちに、パウロは夫婦関係を「妻たちよ、キリストに仕えるように、夫に仕えなさい。夫たちよ、キリストが教会を愛されたように、妻を愛しなさい。」と勧めました。これは、夫と妻が一体となることを教えているのです。つまりキリストと教会が一体であり、切り離せない関係であるように、夫婦関係も一体だと語っています。夫が妻を愛し、妻が夫に仕えること、このことは双方が一体となるすべなのです。なぜなら、仕えることは愛していなければできないし、愛しているなら仕えるでしょう。自分中心の生き方では相手を愛することも仕えることもできません。ですから、仕えること、愛することはよく考えると、それは一つにつながっているのです。ですが、わたしたちは罪人であり、私たちには完全な愛などありません。愛に欠けています。だから、夫も妻も必ず持っていなければならないのは相手を赦す心なのです。どんなに純粋だといっても不純な面があったりします。だから赦しが必要なのです。夫と妻とのケンカには、仲直りするすべを持っていなければならないということです。その点、皆さんはキリストの赦しを知っておられます。自分が罪人である、と。そうです。あなたをキリストは命をかけて愛して仕えて死んで下さったのです。皆さんはこのことを知っており、キリストの赦しの中で生かされています。ですから赦しを知っているのです。そしてその赦しが生きていなければなりません。死んでいたなら、何の効力もありません。つまり信仰が死んでいたなら、赦しの心も死んでしまいます。
 私は離婚には絶対に反対だと言っているのではありません。イエス様は決して離婚をするな、離婚する者は、呪われると言われているのではありません。命の危険がある場合には、止むを得ないとのではないかと、私は考えています。
 イエス様から直接、教えを受けたペトロも、妻と夫の関係を語っている文章があります。ペトロの手紙一 3章1節~7節を参照して下さい。
 ここで二つのことに目が止まります。一つは、夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるため、とあります。これは、逆も言えます。妻が御言葉を信じない人であっても、夫の無言の行いによって妻が信仰に導かれるようになるために、夫が妻を愛するということです。もしどちらも信仰者であるなら、イエス様が言われていますように、「互いに愛し合いなさい。」なのです。「愛し合う」とは「仕える」ことも含んでいます。
 もう一つは、「夫たちよ、生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。」と言っています。ここでは夫に「妻を尊敬しなさい」と言っていますが、今朝の箇所では、パウロは「妻は夫を尊敬しなさい」と言っていますので、これらを合わせれば、お互いが尊敬し合うと言うことです。夫と妻との関係で、本当に大事なことは、実は信仰なのです。そして神によって結び合わされたものであること、縁結び、(この言葉は日本的ですが、)縁結びは神様によって与えられています。そこに立ち返って、夫と妻との関係を見つめ直すことが大事だと教えられます。そして、そのことを忘れないように神様の御言葉を聞き続けることが必要であり、さらに大事なことは、二人を結び付けて下さった神様に祈り求めていくことだと信じています。
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by higacoch | 2013-07-31 16:39 | エフェソ

2013年2月24日

「神に依り頼み、強くなれ」 詩編18:2-7、エフェソ6:10-20 
                          
 パウロは手紙で「あなたがたは、キリストを信じる以前の生き方に戻ってしまうような生き方をしないでほしい」と訴えています。「以前、貪欲で欲に迷い滅びに向かって暗闇の生き方をしていました。憐れみ深い神様はそんなあなたがたをこの上なく愛して下さり、罪のために死んでいたあなたがたを救って下さいました。そのようにしてあなたがたを光の子として下さったのです。だから互いに愛し合い親切にし、憐れみの心で接し、神様がキリストによってあなたがたを赦して下さったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。あなたがたは神様に愛されているのですから、神様にならうものとなりなさい。」と勧めています。
 こうしたことから考えますと、教会の人たちがいつしか以前のような生き方になってきていたのでしょう。だからパウロはもう一度、キリストに救われた恵みを思い起こして、悔い改めて光の子として生きていって欲しかったのです。そうでないと暗闇に生きるような生活となってしまうからです。こうしたことを語ってきて最後のまとめに入っています。
 パウロは最後に「主に依り頼み、主の力によって強くなりなさい」と勧めています。ここは実にローマ兵の武装にたとえて勧めをしています。当時、エフェソの町にローマ兵が多く駐屯していました。彼らは武具を付けていて、頭には兜、手に剣か槍、体には胸あて、そして帯を締めていました。こうした武具をもって、パウロは身構えなさい、というのです。だからと言って、ローマ兵と同じような武具をー鉄製の胸あて、鋭い鉄製の剣を身に付けなさいと言っているのではありません。比喩で語っています。真理の帯、正義の胸あて、救いの兜、神の霊の剣を付けなさいと言っています。つまり戦争のための武具ではなく、人生の戦いに神の武具を身に付けなさいと勧めています。こうした信仰による武具を身に付け、そして霊の剣である神の言葉を取りなさい、つまり、神の言葉に従って生きていきなさい。と言うのです。 
 さて、こうしたパウロの言葉を読みながら、私は、現代の私たちの生き方を考え巡らしてみました。現代日本は少子高齢社会と言われます。先週の金曜日の夜、NHKの特別番組で2030年には超少子高齢社会になると言われていました。そのために、どのような生き方が今後求められるのか、将来の予測も踏まえながら専門家の意見なども交えて討論会が行われていました。その時代にはどんな環境になるのか、空き家が増えていき、ますます高齢者の孤立死が増えてくると言われていました。孤独死ではなく、孤立死という言い方に日本の社会がますます人との関係が薄れていくのだと感じました。番組では、その対策として、人と人とのかかわりが必要、互いが互いとの関係をもっていかなければならないとまとめていました。人が人との関係が薄らいでいくと、孤独高齢者の孤立死は増えていくことでしょう。神は人が孤立していくことを望まれたのではありません。そうではなく、互いに愛し合うことを望まれ、イエス様が自らの命さえ犠牲にしてまでも、私たちを愛されたのです。
 今朝の箇所でパウロがエフェソの教会の人たちに勧めていることは、わたしたちの生き方にも通じる勧めです。パウロが手紙で何度も神様が、憐れんであなたがたを愛されたと言っていますが、これはまたわたしたちにも通じます。神様は私たち一人一人を愛されました。神様の方がまず私たちに近づいて、私たちを愛して下さったのです。それは神様が私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うためであります。このことはこう言い換えていいでしょう。神様がわたしたちを受け入れて下さったように、私たちも隣人を受け入れていくということです。
 ここでパウロが「主に依り頼み、その力によって強くなりなさい」と言っています。この力は私たちが力んで出すのではありません。神様を心から信頼して、神様から頂くのです。自分の力を発揮するのではなく、与えられるのです。与えて下さる神様に依り頼むのです。これは祈りでもあります。神様に祈り求めるのです。パウロ自身も自分には人を愛する力があると言ってはいません。そうではなく、私(パウロ)にも人を愛する力はないと思っているので、「どうか私のために祈ってほしい」と願っているのです。神様の働きをしていくためにも、神様の愛を伝えるためにも、人々を愛していくためにも、私のために祈ってほしいと言っています。
 私たちは今年の教会標語として掲げているのは「隣人に仕える」です。それはわたしたちの力でそうしていくのではなく、その力を神様に求めて生きることなのです。神様が私たちに近づき愛して下さったように、私たちも小さな愛であっても隣人を愛し、隣人に仕え、隣人と共に歩んでいく者でありたいと祈り願います。
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by higacoch | 2013-02-28 17:40 | エフェソ

2012年9月30日

 「光の子のトレーニング」  申命記 6:4-9、エフェソ5:6-20
                         荒瀬牧彦牧師(めぐみ教会)

 信仰とはどこにあるのでしょうか。頭でしょうか、心でしょうか。それとも体(行動)にあるのでしょうか。信仰の本質は教理にあるのか、実践にあるのか。エフェソ書全体を読むと、その両方であることがわかります。まずキリストによる救いとは何であるのかが語られた後、4章以下に「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」と、生活の中の実践が命じられ、生活態度、生き方の問題が語られます。教理と実践はどちらも不可欠。頭と心で受け止められたことが、生き方になって現れ、二つが一つとなって意味を持つのです。
 今日与えられている箇所は、キリスト者の生活実践に関する具体的な教えです。ですから、実践的な話をしなければならないと思います。観念論だけ語っていてもまったく意味がないところだからです。しかし、その実践的教えに入る前に確認しておくべき前提があります。
 前提とはこのことです。「あなたがたは以前は暗闇だったが、今は主に結ばれて光となっている」。これが起点になっています。以前は暗闇だったというのは、ネクラだったとか暗い環境にあったということではありません。性格や環境の次元ではなく、あなた自身が闇だったということ。それを認める必要があります。しかし今はそうではない。光となっているのだ。光なるキリストが来られたからです。
 光にさらされるというのは実態が暴露されて自分の恥部さえ明るみに出されてしまうことであって、恐ろしいことであるに違いないですが、しかし面白いことに、「だからおまえは失格!」と切り捨てられるのでなく、その反対に「明らかにされるものはみな、光となる」というのです。光に照らされると光になるというのです。
 闇だったあなたが、今は人に明りをもたらす「世の光」として燭台の上に置かれている。だからあなたがどう生きるかは、あなた自身のみならず、この世界のために重要なことなのだ。それが、聖書の発想です。そしてそれゆえに、生活の中で身に着けるべき実践的な教えが語られるのです。

○「むなしいことばに惑わされるな」。わたしたちはこの世にあって、むなしい(不誠実な、不真実の)言葉の洪水にさらされています。それに流されていたら、神に背く諸力のなすがままになっている世界にひきずりこまれてしまいます。
○「何が主に喜ばれるのかを吟味しなさい」。人は日々判断をしながら暮らしています。どちらの道に行くか、お金や時間をどう使うか、この誘いを受けるべきか断るべきか・・・。小さな判断の積み重ねの中で、実は重要な方向付けがなされていくのです。だから、判断にあたって常に「主に喜ばれることは何か」と考えることが重要。それを癖にしなければなりません。WWJD(イエス様だったらどうするかな)というロゴの入ったリストバンドは生活の中で「癖」を作るための一つの試みですね。私は腕時計や携帯に、WWJDというメッセージが浮かび上がってくる仕掛けがあると良いのかも、と思いました。
○「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」。時代の上昇気流をつかんで成功せよ、というのとは逆の発想です。「よく用いる」のギリシア語はエクサゴラゾーで、「市場の外へ買いだす」といった意味。「贖う」とも訳されます(ガラテヤ3:13、4:5)。悪い空気の中に閉じ込められているから、それを救い出して良い物とする、という使命が与えられているのです。
○「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」。晴天なら感謝して荒天なら不貞腐れ、といった程度ではない、深く広く感謝する、大きな感謝力を身につけるためには、賛美を歌うことです。詩編から聖書から同時代の創作歌をもって。
 良い習慣は才能にまさる。これは勉強やスポーツ以上に、信仰生活にあてはまる諺ではないでしょうか。良い習慣を身につけ、悪い時代にあっても光として生きよう。
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by higacoch | 2012-09-30 17:49 | エフェソ

2012年5月20日

「キリストに向かって成長」  
    エレミヤ書10:1-10a、エフェソの信徒への手紙 4:1-16
 
                       
 先々週、東日本大震災の被災地ボランティアに3日間行かせて頂きました。短い期間でしたけれども、仙台市若林区の荒浜地区、笹屋敷という所で活動してきました。ワークの内容は津波に運ばれてきた細い雑多な瓦礫を畑から除くことでした。手持ちの熊手を使って、土を掘り返し、石や鉄パイプや軍手やビニール袋やいろいろな畑にあって欲しくないものを丁寧に除去する手作業でした。  
 被災地の拠点となっているプレハブの正面の壁に大きなポスターが貼ってあって、私はそれに目を奪われ、じっくりと見ました。畳2枚ほどの大きさで、中央の文字を包むように笹の葉がたくさん描かれていました。その文字は、横書きで、「ささ」そして少しスペースを置いて、「へ」またスペースがあって、「あう」というひらがなでした。この文字を一気に読むと「ささへあう」です。それが、少しスペースをおいて書かれてあるのには、ある意味が込められていました。「ささ」は、笹屋敷を表し、「へ」は、そこへやってくる、そして「あう」、つまり笹屋敷へやってきて会いましょう、そして「支え合い」ましょうとかけてあるのです。 
昨年は、一年を表す漢字に「絆」が選ばれました。互いが結ばれて支えあい、「きずな」が生まれ、またこうした「絆」が大事だと考えられたからでしょう。
 さて、今朝の箇所に、結びあい、支え合うことが語られています。この手紙は伝道者パウロがエフェソの教会の人たちに送った手紙ですが、ここに「きずな」が語られています。「平和のきずなで結ばれて霊の一致を保つように努めなさい」(3節)とあります。「きずな」と訳されている言葉は新約聖書には4回しか出てきません。そのうちもう1箇所で「きずな」と訳されていますが、それはコロサイ書3章14節で「愛は、すべてを完成させるきずなです」というのです。このように「きずな」は人を結び合わせる意味がありますが、元々の意味は鎖であり、使徒言行録8章23節では同じ言葉が「縄目」と訳されています。日本では犯罪人を縄で縛って連行したからでしょう。こうしたことを思うと、パウロが自分のことを「主に結ばれて囚人となった」(1節)と言っているのが解ってきます。自分は主に鎖で結ばれていると言いたいのです。
 そのパウロが「あなたがたは神から招かれたのですから、その招きに相応しく歩みなさい。」と言っています。あなたがたとはエフェソの教会の人たちだけではなく、皆さんでもあります。皆さんは、神様から招かれ、主に結ばれているのです。パウロは「主に結ばれた者は招きに相応しく歩みなさい。」、そして「一切高ぶることなく、柔和で、寛容な心を待ちなさい」とも言っています。こうした生き方をするために、一つだと言うのです。体は一つ、霊は一つ、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、そして、一つの希望にあずかるように招かれていると。ここで一つ、一つと語っているのですが、注意しないといけないのは、この一つは、同じという意味ではありません。信仰は同じ、洗礼も同じ、そういうことを言おうとしているのではありません。パウロが「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」と言っていますように一人一人は違います。キリストの賜物は同じものが与えられているのではなく、計りに従って恵みが与えられているのです。
 パウロが、賜物と言う時、それは霊の賜物、聖霊の賜物のことです。キリストの賜物は、聖霊によって与えられる賜物なのです。その賜物はその人が働くための力とか、知恵と言っていいでしょう。それはキリストの体を作り上げて行くために与えられる力、知恵です。パウロは言うのです。「私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つの者となり、成熟した人間となり、キリストの満ちあふれた豊かさになるまで成長するのです。」さらに、キリストに向かって成長していくとか、キリストによって成長していくと語っています。
 こうしたパウロの言葉を聞くと、自分は、どうかな、成長しているのかなと思ったりします。そして、信仰以前と以後とは、自分がどう変わっているのかなと思ったりします。私自身そのようなことを思い巡らしていたら、信仰以前と以後とで、決定的に違うことがあると気づかされました。それは祈りです。以前は、隣人のために、神に祈ることはしていませんでした。神の名を知らなかった時には、自分の中で、友人のこと、家族のことを、心配したり、世話をしたりはしていたけれども、祈ることはしていなかったと教えられました。また、教会員になった頃「教会に来ていなかったら、こんな人とは付き合うことはなかっただろう」と言ったこともあります。自分の考えや自分の好みだけで生きていったら、狭い範囲での出会いだけだったでしょう。しかし、主によって招かれて、主に結ばれたことによって、多くの信仰の友と結ばれて、生きるようにされたのです。
 このように、主に招かれ、主に結ばれた者は、信仰の友、求道者の友にも結び合わされています。ですから、主にあっての成長は、一人だけの成長ではありません。結び合わされての成長、絆によっての成長なのです。そして、その成長は、単に教会員の数が多くなるというものでもありません。キリストによっての成長は、体全体があらゆる節々が補うことによって、組み合わされて、おのおのの部分が分に応じて働くことによって成長させられていくのです。それは、愛によって創り上げられます。もし愛がなければ、成長もないし、結びあわされることもなく、バラバラになってしまうことでしょう。キリストによっての成長は、キリストに向かっての成長です。単なる人数、財力、政治力の成長ではありません。教会の拡大に向かっての成長ではなく、キリストの向かっての成長であり、パウロが言うように、愛の絆によって互いが結び合わされての成長なのです。
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by higacoch | 2012-05-26 15:51 | エフェソ

2010年7月11日

 「恵み溢れる信仰生活」  エフェソ 3:14-21    生島 陸伸 牧師

 お招き頂いて皆さんと一緒に主日礼拝に参加出来て嬉しく思います。
私に聖書が教えてくれる神様はどんなお方でしょう。
 聖書の一番初め。創世記 1章 1節―「初めに、神は天地を創造された。」と紹介しています。私たちの住んでいる天地万物、見えるものも見えないものも全部を創造されたお方、と紹介しています。さらに詩編139編を見ますと、「私のことを全部知っている神様、座っているのも、立っているのも、思うことも、言おうとしていることも、全部知っている」とうたっています。
 エペソ3章14~15節―「御父の前にひざまずいて祈ります。」、真剣に考え事をする時は、静まらないと受け取ることが出来ない。ところが静まることが苦手です。主の前にひざまずいて静まり、聞くことを学ぶ事です。
 16節では使徒パウロは御父に「あなたがたの内なる人を強めて」とお願いしている。「私たちの内なる人」とはどんなことか。Ⅱコリント4:16「わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」とあります。外なる人は二十歳を過ぎますと衰えます。でも、内なる人は、終わりの時まで日々新にされつつ、天の御国に迎え入れられるのです。だから「内なる人」が大切。この世で、どんなに栄華を極め、楽しんでも、モーセの年齢120歳まで。その後永遠に滅びの中に落とされるとしたら大変です。もし、120年苦しみ通した人生だったとしても、その後、永遠に天の御国で天の父の祝福の中に置かれるとしたら喜びです。ルカ16:19以下参照
 「内なる人を強くしてください。」と祈る。
 注意する事は祈る時、父が私にさせようとすることは実行します。と心に決めて祈ることです。神様の方は私の心の筋肉を強化しよう、とするのですから、トレーニングジム(教会)でいろいろの道具を使って強くしてくださる。
 教会には私と相性の悪い人が必ずいる。私の持っている愛が壊れた所から、イエス様の愛で動くように、と、トレーニングが始まる。つらいけど感謝です。
 イエス様が愛してくださった愛で、挨拶の言葉をかけます。丁寧に「おはようございます。」と心を込めて挨拶する。これが、内なる人を強くする心のトレーニングです。心を込めて、嫌な相手に「おはようございます」と呼びかける。その人のためですと腹が立つ。イエス様が「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。(ルカ6:32)」とささやかれる。私の内なる人を天の父が強くしてくださって、造り替えて、イエス様の愛で愛することが出来るように育てようとされている、と感謝する。
 イエス様の言葉を守ろうとすると、自分の弱さや、醜さや罪深さが浮き彫りになる。その時、その私をそのままで愛してくださり、私の罪を背負ってくださるお方に気が付くと、感謝が溢れる。このようにイエス様と出会う時、私が一番、心を低くして聴く姿勢、全能者である主の前にいる私になっていると思います。
 17節では「私の心のうちにキリストを住まわせる」と書かれていますが、この事が不可欠になります。イエス様はヨハネ14:23で約束されている。
イエス様は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われています。
イエス様の言葉は、今までの経験とは違う。普通は、私に好意を寄せている人に、私も親切にする。好意を寄せない人には私も親切にしない。ところが、イエス様はそう言わなかったでしょう。「敵を愛し、敵のために祈れ。」と言われている。
 今までにないことですから自然には出来ない。しかしイエス様は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われていますから、「あなたの言葉のようにします。私の心のもやもやは、あなたが癒してください。」と祈るのです。不思議な経験をします。この信仰の行動が出るには、今述べたように2つの事、天の父が私を強くしてくださるように。と、キリストが私の心のうちに住んでくださっている。と言うこの二つの恵みの中で、私の内なる人は、強くなるのです。
 17節後半で「あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」という祈りがかなえられると、主をほめたたえるだけになる。
18~20節では、それをすべての「聖徒と共に」とあります。聖徒と言うのは、信徒のことです。天使のような人ばかりではない。心病む人たちをイエス様は招かれているのです。噂話があり、妬みがあり、意地悪がある。今までの常識の愛ではお付き合いできなくなる。イエス様の方に心を向けると、自分は幾度もイエス様を無視していた。そして、求める祈りが多い信仰生活だったが、キリストはその私を赦し続けてくださった。赦されている恵みに感謝して私も倣いたい。主をたたえる賛美の声が溢れている。教会に集まるすべての人が、共にイエス様の贖いの恵みを感謝してほめたたえる。それが教会です。神の国なのです。
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by higacoch | 2010-07-17 17:39 | エフェソ

2009年9月20日

「すべての人の平和」    詩編85:9-14, エフェソ2:14-22

 今朝の詩編は、「正義は神様から与えられ、そして平和を神様が宣言される」と歌います。こうした詩編が指し示しているのは、今朝の新約聖書のエフェソの信徒への手紙に記されている個所ですが、そこには「キリストは私たちの平和」とあります。そうです。キリストは私たちに平和をもたらした方なのです。二つのものを一つにして下さいました。二つのものとはわたしたち人間と神様です。私たちが悪いことをし、神様から離れて自分勝手に生き、一向に神様を畏れない歩みをしていたのです。ですから、両者は一つには決してなり得ませんでした。どんなに神様が預言者を通して神様の御旨を伝えても人間は神様の元にやって来ませんでした。つまり人間は神様の前に罪を犯し続けたのです。
 罪を犯し続けるということは、神様と一つになれないだけではなく、人間同志も一つになれません。私とあなた、あなたと私、双方が自分勝手な生き方をすれば、衝突するのは目に見えて明らかです。そこには平和がありません。いさかいがあるだけです。互いが互いを傷付けあうだけです。そこには相手に対する憎しみが生じ、共に生きていけなくなります。
 人間と神様もそうでした。ただ人間が罪を犯し続けたので、神様と人間とは分裂していました。一つになれなかったのです。ですが、イエス・キリストはその分裂、分断の壁を壊して下さいました。それはイエス・キリストの十字架を通して壊して下さったのです。十字架を通してとは、人間を赦すために自らが犠牲となって代わりに罰を負って下さったのであります。この出来事が神様と人間達との壁を壊し、一つになっていきました。これはあくまで、人間側が神様に近づいたと言うのではなく、その逆で、神様が人間の罪を赦し、近づいて下さった事なのです。
 争いから一致を、そう祈る時、そこには赦しがなければなりません。私たちの人間社会でも、双方がお互いの罪を言い争う時、そこにはいざかいが絶えません。そこには赦しがありません。ですから、共に生きてゆくことができません。
 キリストはすべての人の平和であります。すべての人を愛されたのです。それは皆がキリストの愛によって生かされて生きるためです。キリストにあっては外国人も難民もありません。キリストにあるならば神の家族なのです。キリストによって自分の罪が赦されたことを知らされた者たちはキリストによって互いが組み合わされ、共に成長するのです。互いが憎み合うのではなく、互いがゆるしあい、仕え合い、愛し合うのです。パウロの時代においても、またこの現代においても、さらに将来においても、キリストはわたしたちの平和なのです。なぜなら、キリストはすべての人のために死なれたのですから。
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by higacoch | 2009-09-26 13:56 | エフェソ

2009年2月15日

「愛に根ざす交わりの共同体」   詩編100:1-5, エフェソ 3:14-21

 信仰者にとって祈りは大切であります。パウロもよく祈り、そして執り成しの祈りをしたことでしょう。今朝の箇所は彼が教会の人たちのために執り成しの祈りをしている所です。
 彼は、まず教会の人たちの「内なる人」(信仰によって生きようとする心)が強められますようにと祈ります。そして、その心の内に「キリストを住まわせ、キリストの愛に根ざして、その愛にしっかりと立つ者としてくださるように」と父なる神に祈り、そうして「彼らが、キリストの愛によって交わりをし、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さに感動して、神様の豊かさに満たされるように」と執り成しの祈りを献げています。こうして教会の人たちが「愛に根ざす交わり共同体」となるようにと祈っています。
 教会の中である問題が生じ、その解決のために「あの人さえいなければ、うまくいく」というような論理が幅を利かせてくるとしたなら、それはパウロが願った「愛に根ざす交わりの共同体」から、ますます離れていき、キリストの教会でなくなります。教会は、イエス・キリストの尊い命の犠牲によって、神様と人との交わりが回復されたことを知り、その恵みに生かされているところであります。つまり、イエス・キリストによって赦されて、交わりが与えられたことを知らされている所なのです。そこに生かされている者たちは、キリストの愛に根ざして、共に生きることが望まれています。教会形成というのは、教会の交わりの中に、キリストの愛が形作られるように求められているのです。それは、キリストの愛に根ざして、交わりをなし、形成されていかなければなりません。
 イエス様も弟子たちに言われました。「わたしは、あなたがたに、新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ福音書14:34,35)と。
私たちは欠けの多い者であります。私たちはいろんな性質や性格、違いを持った者ですが、キリストの愛に生かされていることを覚え、互いに受け入れ、赦し合い、愛に根ざす交わりを求めて歩んで、キリストの愛を証しつつ、祈り求めていきましょう。
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by higacoch | 2009-02-21 19:06 | エフェソ

2008年12月7日

「恵みによって救われて生きる」  詩編141:3-9, エフェソ2:1-10

 先週、「哀しみの南京」という舞台を見に出掛けました。この舞台は1937年の南京事件、日本兵による虐殺事件をテーマに取り上げたものでありました。戦争という過酷な状況の中で、獣化する人間、敵だというだけで容赦なく、虫けらのように次々と市民、子ども、老人を殺し、女性たちを強姦していった日本兵の戦争犯罪の事実を暴き出し、人間の罪深さをえぐり出しながら、鋭く問い掛けるものでした。この舞台は私にとってはとてもつらいものでした。特に最後の台詞は「地獄こそ、わが住み家」そう叫んで終わるのです。この最後の言葉が私の脳裏から離れませんでした。私は思ったのです。上演された御夫妻は自らの父たちが犯した罪、それを担い、その罪の償いとして自らが苦しみ続け、その苦しみを担い続けることを、自分たちの歩みとして考えておられるように思えました。自分の人生、罪を担いながら、苦しんでいく、この罪を背負い続けるしかないと考えておられるように思えたのです。どうなんだろう。罪を犯した罪人は、自分が犯した罪を償いながら、殺された魂を弔う道しかないのだろうか。 私は改めてイエス・キリストを知らされた者としての生き方は、どうなのだろうかと考えさせられました。
 キリストを知る以前と以後とは、どう違うのか、それは決定的に違います。それは、死と命の違いであります。キリストを見上げない所では、どんなに自分の罪を深く見つめ、深く受け止め、深く懺悔したとしても、その道はやはり死なんだと。どんなに自分の罪を悔い、苦しんだとしてもそこからは決して命は見出せません。人間がどうあがこうと、またどんなに真剣に生きようとしたとしても、その解決はできませんし、そうした所には、命に通じる道はないのです。それを一番よく知っておられたのが、神様だと思うのです。だからこそ、神は自ら人間に近づき、人間の世に来て下さり、神ご自身が、命の道を開いて下さったのです。それが、私たちの救い主、イエス・キリストなのです。
 パウロは、言います。「私たちは神に造られたものであり、しかも神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです」と。ここでいう業は、私たちが救われるための業ではありません。この業は神様に救われた者が、その救いの喜びによってなす業です。何かを得るための業ではなく、与えるための業、恵みに応答して為す業なのです。私たちは、まさにここに生かされています。イエス・キリストの恵みによって救われて生かされているのです。
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by higacoch | 2008-12-13 22:34 | エフェソ

2008年8月10日

『 虹と十字架 』   創世記 9:1~17、エフェソ 2:11~22
                     古畑 和彦 牧師(日本中会主事)


 神は、大洪水の後でノアを通して人類と「二度と洪水によって滅ぼさない」という契約をたてました。神が望んでいるのは人類の滅びではなく、「生きる」ことでした。神は「あなたの人生には滅びはない」、だから心配しないで「生きなさい」というのです。この契約のしるしが虹でした。

 ところが、人類は「神は滅ぼさない」、それなら好き勝手に生きよう、何をしても滅びはないのだから、という生き方を選んでしまいました。神を無視して、好き勝手な自己中心の生き方を選んでしまいました。自己中心の生き方は、自分に都合の悪い人間を排除(はいじょ)していきます。あなたは私の邪魔だから「生きていなくてもいい」「生きていては迷惑だ」というメッセージを発信するのです。こうして、人間の尊厳が踏みにじられ、人と人の平和は壊されていくのです。そしてますます神を無視した生き方を続けていくことになったのです。このように罪が蔓延(まんえん)したことで、神が滅ぼさなくても、人間のほうが自滅してしまう状況になってしまいました。このようにして人は未来に希望を持つことはできなくなったのです。

 ところが、神は、実に驚くばかりの方法でこの契約を元通りにしてくださいました。エフェソの信徒への手紙2章14節から16節には、神が、十字架を通して、敵対するものを一つにし、平和を実現し、神と和解させることが記されています。神は、御自身の独り子であるイエス・キリストをこの世界にお送りくださり、人類の罪の身代わりとして十字架におつけになったのです。そのことによって、平和と希望が回復して、再び「生きていていい」「生きていなければならい」とメッセージが語られるようになったのです。そして、神と人類との間の契約、もう滅ぼさないという救いの契約が再び有効になったのです。

 ノアが虹を見て生きる希望を与えられたように、私たちは十字架によって生きる希望が与えられるのです。私たちの周りにも「生きてはいけない」「生きているな」という声が渦巻いています。しかし、私たちは十字架を見上げ「生きていていい」「生きていなければならない」と語る神の声を聞くのです。自分だけでなく、私たちと共に生きるものにも「生きていていい」「生きていなければならない」と伝えていくのです。
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by higacoch | 2008-08-10 21:58 | エフェソ