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2017年2月12日

「義の成るところ」          イザヤ書58:1-12、マタイ5:17-20
                          関 伸子 牧師 

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。マタイ福音書第5章の17節を言い換えたものが20節です。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。主イエスは、ご自分が来られたのは「律法を成就する」ためだと言われました。成就する、これを実現する、ということです。
 「あなたがた」、それは、この山上の説教の教えを聞く弟子たちのことです。教育という務めを皆さんも持っておられます。教会で子どもたちのために、家で子どもや孫の教育、家庭教師、さまざまに教育の務めを持っておられます。
 子どもの教育においても、政府が国民を支配、教育するにも、アメとムチを使い分けなければいけないなどと言います。私はしかし、こう信じています。神が私たちに与えてくださる慰めは、安心して座りこむことではなく、この自分でもファリサイ派、律法学者にまさる義に生きることができる、と慰められて立ち上がれるようになる。これが、神によって与えられる救いです。
 山上の説教をマタイがまとめたひとつの理由は、当時の教会にすでに生じていた、誤解を解くためであったと考えられます。特に、この部分のすぐあと、21節から第5章の終わりまでは、次々とふたつの考え方を対比さえています。昔の人は「殺すな」と教えたが、わたしはあなたがたにこう教える、兄弟に対して怒ったり、悪口を言うだけで殺すに等しいことをするのだ。そういうふうに、昔から聞いてきた生活の教えに対して、新しいもっと徹底した生活の正しさを対比させていくのです。
「わたしが…来た」と、主が繰り返し語っておられます。主が来られたのは、これこれのことのため、ということです。かつて評判のよかった映画に、「陽気なドン・カミロ」という、ひとりの司祭を主人公にしたものがありました。村で一番腕力の持ち主である司祭と、その村の村長のコミュニストの友情と争いとがからみあう物語です。この原作が「キリスト教文学の世界」というシリーズの中で翻訳刊行されて、その解説を、田中小実昌という方が書いていて、こんなことを言っておられます。物語のクライマックスに洪水が起こり、村の人は皆逃げてしまう。ドン・カミロは答えます。「わたしがここにこうしていることが、彼らみんなの力になるのです。この鐘の音で、彼方の人びとの希望を盛り立てています。希望を、信仰を」。その場面を取り上げて、田中さんは、自分が鐘を鳴らして人を元気づけることもできなくなって、ただひたすら、祈られて、ということではないか、もともと人間的な神父だなどと言うが、イエスを十字架にかけたのが、その人間的なことだったのではないか。そう問いかけます。そして、田中さんの一番好きな言葉は、ドイツの牧師ブルームハルトの「神の国だ! 宗教ではない!」という言葉だと書いておられます。
 神の国、向こう側から来て、ここに始まる神の支配、その神の支配をもたらすためにこそ、主は来られた。律法の一点、一画もすたることはないのです(18節)。
 あのキリストが来られました。私たちの思うようになるイエスではありません。私たちは、日曜日には家族ともども楽しんで、堅苦しい生活なんかよした方がよいと考えてしまいます。しかし、そうした人間的な世界で、キリストは殺され、その恵みが圧殺される。主イエスが、「わたしは来た」と言われるのを聞く時、この主が何をなさったかを思い起こさなければなりません。いつも落第点しか取れないような私たちを立ち直らせるためにこそ、主イエスは、生き、かつ死なれたのです。
 コリントの信徒への手紙一の第13章、それは愛の賛歌と呼ばれます。3節にこう書いています。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」。その愛とは何でしょう。それを明らかに示し、私たちに与えるために、主が来られたのです。
 NHKの「大草原の小さな家」というテレビ番組にこんな話がありました。貧しい農民一家の三人娘の長女メアリーの物語です。この娘はなかなかの秀才で学校で成績がよかったが、急に成績が落ちて来た。視力が衰えてきて、黒板の字も読めなくなったのが原因らしい。貧しい農民の父にとって眼鏡ひとつ買うのも容易ではありません。しかし娘のために町へ行って手に入れる。勉強ができるようになったのはいいが、今度はまわりの口がうるさい。眼鏡をかけていると、担任の先生と同じように、いつまでも独身でいなければならないのよ、という言葉に、とうとうたまりかねて眼鏡を自分で隠してしまい、父には、なくしたと嘘をつきます。ところが、試験の前日になって、偶然その先生に婚約者のすてきな男性がいることがわかる。それで気を取り直して眼鏡をかけて試験を受け、みごと一番、めでたしめでたしとなるのです。しかし、このテレビドラマは、この娘がひどく打ちひしがれて父のところに行く姿を映し出すのです。この娘は、父が貧しい中で買ってくれた眼鏡を隠し、嘘をついたことが、どんなに深い罪であるかを知り恥じた。どう詫びてよいかさえ分からなかったのです。
 学校の成績だけではないでしょう。信仰の世界、愛の世界においても、これまで自分が何をしてきたにしても、とにかく好成績をあげればよいということにはなりません。神の律法を生きたとは言えず、それ故にまた、天国、神の支配するところでは、「最も小さい者」でしかないのです(19節)。これがわかるのは、主イエスが、神の愛そのものが私に向かって注がれていることを知る。それを知る時に、自分を恥じることを学ぶのです。その時、私たちは自分の小ささを悔い改めると共に、その神の恵みの手の中にある大きな自己に生きることができるようになるのです。
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by higacoch | 2017-02-13 10:16

2017年2月5日

2月5日 「実を結ぶ種」         イザヤ6:6-13、マタイ13:1-23
                           関 伸子 牧師 

 今日、私たちは、マタイによる福音書第13章の1節から23節までの長い物語を一気に読みましたけれども、一挙に分かったでしょうか。10節から17節まで、弟子たちはイエスに、こういうふうに尋ねます。「なぜ、彼らに譬えでお話しになるのですか」。「彼ら」は群衆です。当時のユダヤの人びとです。
 11節以下の主イエスの答えを要約すると、それは、彼らが悟らないということが明らかになるためです。逆に、弟子たちのこととして言うと、あなたがたは悟るということがはっきりするためということになるのです。
 16節に「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ」とあります。この原文は、もっと強い言葉で「あなたの目は幸いである、あなたがたの耳は幸いである」という言葉なのです。私たちの目を指し、私たちの耳を指しながら、主イエスは、こんなにも喜びにあふれて、祝福の言葉を語ってくださっているのです。
 ここでの問題は、「聞いて悟る」ことです。ここに何度も繰り返されている言葉は、この「悟る」、「分かる」という言葉です。
主イエスが、今ここにおられる。この言葉を私たちに与えてくださる。私たちを類別するためなのでしょうか。悟りなき、自らの愚かさを悔い改める。「あなたの目、あなたの耳は幸いだ」と言ってくださるキリストの言葉を、心から受け止めることができるところへ導かれることを、私たちも、切実な祈りとしたいと願うのです。
 私は、教会学校に小さい時から通いました。紙芝居を先生が見せてくれます。今でも、いくつかの紙芝居の場面を覚えています。先生が、この種まきの譬えの話をしてくださったのも、今でも、覚えています。こういう文章に書いてあることも、たとえば、いばらが伸びて、種から生まれた芽生えが妨げられる場面は、紙芝居を見た方がよく分かるのです。種が何であるか。いばらが何であるのかわからないけれども、とにかく、そこで語られていることは分かるはずです。そして、それが、もし少し分かりにくかったとしても、18節以下のような解説をしてくだされば、子どもにだって分かるようになるのです。
 ついでのことのようですけれども、4節に「道ばたに落ちた種」とあります。ある人の説明を読んでなるほど、と思いました。当時のユダヤの人びとの農業は日本のものとは違って、実際に種を落として歩いたのです。ロバが馬に袋を背負わせて、その袋の中に種を入れて、その袋に穴をあけておく。そのロバか馬に畑の上を歩かせると、ポロポロ落ちていく。それが種まきになるというのです。そこで私たちは問わずにおれなくなります。自分自身は、豊かに実を実らせる土地なのか。それと
も失敗してしまう土地なのか。そのようなことは、誰でも考えるに違いないのです。
 11節に「天国の奥義」とあります。「神の国」という言葉を、マタイ福音書は、できるだけ避けました。「神」という言葉を、できるだけ避けたかったのです。そこで、「神の国」の代わりに「天国」と言いました。「奥義」と訳されている言葉は、「秘密」と訳してもよい言葉です。「天国」、「神の国」とは、私たちが死んでから行く美しい世界というのではありません。「神が支配なさる」ということです。
 いったい、その神の支配をどこで知るのでしょうか。それが第二の問いです。19節に「御国の言葉」という言葉が出てきます。「神が支配しておられる」ということを、私たちが知るのは、まず第一に、主イエスが、語ってくださった言葉を聞くことによるのです。だから、礼拝でも聖書の言葉を読み、そして、説教を聞くのです。
 そこで、第三のことです。ここに一つの問いが生じます。この「み言葉だけ」ということが、私たちの戦いを呼び起こすのです。誘惑との闘いです。とくに、私たちが心を惹かれるのは、22節の「いばら」についての主イエスの解説です。「また、茨の中にまかれたものとは、み言葉を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとがみ言葉をふさぐ」。「世の心づかい」これはあの〈山上の説教〉の中で「思い煩い」と一つになるのが「富の惑わし」です。「惑わし」と訳してある言葉は、「欺き」とも訳し得る言葉です。「富の詐欺」と訳してもよいのです。富に騙されてしまうのです。神の支配の現実なのであって、富の支配の現実敵ではないのです。信仰一筋に生きるということは、決して夢見て生きることではないというのです。
 今「夢見る」と言いました。ここでもう一つ、大変大事なことは、やはり最初に言いました、16節の主の祝福の言葉です。み言葉について語っておられながら、主イエスはここで「あなたがたの耳はさいわいだ」とだけ、おっしゃいませんでした。「あなたがたの目はさいわいだ」ともおっしゃいました。目で見ることができる言葉です。神の真理の言葉、神の国を告げる言葉は、目に見えるのです。
 私の愛唱聖句のひとつである、ペトロの手紙一、第1章8節に「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と記されています。
 ここに「見ていない」と書いてあります。けれども「見たことはないのに愛し」というのです。あなたがたは、主をまだ見たことはない。しかし、信仰の目において見ている。信仰の目において見、信仰の耳において、その言葉を聞き、これを愛して喜んでいる。輝きに満ちた喜びがそこにある。それこそが信仰の幸いなのだ。このみ言葉により、私は信仰が揺らいでいた時に、立ち直りました。「私の目も、私の耳も、キリストに祝福された」という確信を失うことはないのです。その確信によって、教会は立つ。みなさんも立つのです。神さまは生きておられます。お祈りをします。
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by higacoch | 2017-02-06 13:37

東小金井教会のこれからの予定(説教要旨は次のページから)

      いつでも どなたでも お気軽に どうぞ! 

        こどもと一緒の礼拝をいつもしています。
        礼拝の前半にこども向けのお話があります。
     
                      

4月23日  「あなたがたと共にいて」  関 伸子 牧師

4月30日  「重要なことを見分ける」  荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)
東京三教会講壇交換日 


5月7日  「死んでも生きる?」  関 伸子 牧師

5月14日  「あなたも神の道を知る」  関 伸子 牧師
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by higacoch | 2017-01-18 22:20