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2008年11月30日

「キリストと共に生きる」  詩編143:1-6, ガラテヤ2:15-21

 パウロは、19節でこう言っています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対して律法によって死んだのです」と。ここで、パウロは「神に対して生きるため」と言っています。そうです。私たちは神に対して生きるのです。決して律法に対して生きるのではありません。もし律法に対して生きるのなら、イエス様の十字架の救いの恵みが無駄になってしまいます。神に対してではなく、律法に対して生きるということは、私たちの行いによる生き方であり、自分たちの善い行いを根拠に生きることであります。善行を積むことによって救われると理解し、それは神の恵みを受け止めて生きていないということです。この歩みは、昔の自分に戻ることです。だから、パウロ自身、イエス・キリストを受け入れる前は、律法に従って生きようと、日々努力し邁進していました。それが神様の前に正しい生き方だと信じてきっていました。しかし、そんなパウロがイエス・キリストとの出会いによって変えられてキリストによる救いを信じるようになりました。神に対して生きるためには、以前の自分、律法を頼りにし、律法に対して生きてきた自分が死ななければならなりませんでした。そうでもなければ、イエス・キリストの救いに生きることができないのです。以前の自分を残していては、どうしても律法によっての価値観を持ち続けることになってしまいます。パウロは、律法によって死んだということを、自分もキリストとともに十字架につけられているとも言っています。こうしたことで、パウロは、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストが私の内に生きておられる」と語っています。
 教会は、傷つき、痛み、苦しみ、悩む人々が招かれ、そして教会生活をしています。人生街道を立派に生き抜いている人だけが選び抜かれているのでは決してありません。悲しみや苦しみを今抱えている人が来ていいのです。否、むしろ、そうした人たちが招かれて、キリストの福音を受け入れて、イエス様を信じて生きる者とされ、教会が造り上げられます。教会は、イエス・キリストの救いを受け止め、イエス・キリストを信じて、キリストと共に生きるのです。それ以外に、何か人間的なものが幅を利かせ、倫理的な価値基準が語られていく時、キリスト教会ではなくなっていきます。教会は、キリストの恵みをしっかりと受け止め、キリストを信じて、キリストと共に生きる群れなのです。私たち一人一人も、それぞれの痛み、苦しみ、悩みを抱えたまま、イエス様に近づきましょう。そして共にキリストを見上げて歩んでいきましょう。
by higacoch | 2008-11-30 22:39 | ガラテヤ
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