2017年5月7日

「死んでも生きる?」        イザヤ書40:18-31、ヨハネ11:17-27
                            関 伸子 牧師 

 「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に4日もたっていた」。今日与えられているみ言葉はそのように始まりますが、ギリシア語の原文を読み始めてみると「行って、イエスは見た、彼を」と書いてあります。「イエスはご覧になった、ラザロを」というのです。ラザロそのものをご覧になったという言葉の味わいは深いと思います。ここは明らかに「見た」という言葉に力点があります。
 墓の中にあるラザロ、もう死んでいるラザロ、ラザロの死そのものを主イエスが見ていてくださる。そこから話が始まるのだということは、私たちにとっても大切なことではないでしょうか。「既に4日もたっていた」とあります。その頃は、今の医学のように発達した医療の技術があったわけではありません。診断の技術があったわけではありませんから、肉体の死を確実に確認できなかった場合もあったらしい。お医者さんは死んだと言ったけれども実はまだ余力があった。そういう人が2日目か3日目かに突然声をあげたり、息を吹き返し、目を開いて蘇生するということが起こる。これは実際にあったことのようです。ですから3日間は用心した。4日目になると、これは完全に死んだのだということになる。ラザロの肉体もまた、もうくさかったのです。39節には、はっきりそう記されています。ラザロは確実に死んだのです。その現実に死んだラザロを主イエスが見ていてくださる。愛といのちのまなざしが注がれています。そこにマルタが来るのです。
 30節が明記するように、マルタが出迎えたのは村の外であった。福音書記者は、この場面を丁寧に説明します。19節にはこうあります。「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」。18節に「ベタニアはエルサレムに近く、15スタディオンほどのところにあった」とわざわざ距離まで書いているのは、それほど遠くはないから多くのユダヤ人がエルサレムからも来てくれていたという意味だと、多くの人は理解します。いずれにしても、兄弟ラザロのことで慰めに来ていたというのは、ただ個人的に訪問を繰り返していたというのではなく、一種の葬りの儀礼をまだ行っていたという意味のようです。大切なのは、マルタが共にいる人びとをも振り切って主イエスの前に独り立ったということです。マルタ自身もラザロの死に打たれている。そのラザロの死を見ていてくださっている主イエスと〈共に立つ〉のです。そこで信仰の対話が始まります。
 そこでマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。私たちの誰もが知っているのです。愛する者の死は恐ろしいものです。厳しいものです。独りでは耐えられない。愛そのものにほかならない主にここにいていただきたかった。
 主よ、あなたが神に願ってくださるならば、主イエスご自身を通して、神はわたしたちのために働いてくださる。マルタのその信仰に、主イエスはきちんと答えてくださいます。あなたの兄弟は甦る。「あなたの兄弟は復活する」。マルタはすぐに打てば響くように答える。それは知っている。終わりの日の復活の時に復活する。
 主はマルタに言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。葬儀における説教の中に、こういう牧師の説教がありました。ある学校の校長の葬儀における説教です。その説教は、こういう話から始まる。この校長は病床で遺書を書いた。「7月12日から13日夜半、そして7月23日。ヨハネによる福音書第11章25-26節」。断片的ですけれども、おそらくこの7月12日から13日、あるいは更に23日に、病床でこのみ言葉を心に刻んだということでしょう。おそらくこの時自分のいのちの危機を感じるような体験を病床でしたというのでしょう。その後に、どうぞこのみ言葉を読んでほしいと書いています。
 教会堂にこのみ言葉を刻むということは、私たちの存在にそれを刻むということでしょう。しかもここでは、主イエスは「わたしは復活であり、命である」と言われただけではなくて、こうお尋ねになります。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」という応答の言葉を呼び起こしたいと願っておられるのです。
 今日の説教の題は「死んでも生きる?」という主イエスの言葉を掲げてそれに疑問符を付けた。わたしを信じる者は、もし死んでも、死の現実の中に落ち込んでも、それを突き破って生きることができる。「決して死ぬことはない」というのは、肉体のいのちがいつまでも生きるということではない。死が死でなくなる。そのことを、主イエスはこのように重ねた言葉で丁寧に私たちに教えていてくださるのです。
 アウグスティヌスがこの箇所についてすぐれた説教をしています。その中でアウグスティヌスは、このように主イエスを復活、またいのちとして信じる者は愛に生きると繰り返して教えています。死にぶつかったときに鮮やかに現れてくるのは、私たちが愛に生きているかどうかということです。ヨハネの手紙一はこう言います。「神の子たちと悪魔の子たちの区別は明らかです。正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です」(ヨハネ一3:10)。生まれてきた子に悪魔という名前をつけたという親のニュースが広がりました。悲しいことです。これは神を軽んじることです。そしてその子を軽んじることになります。私たちは神の子です。私たちに与えられた子も神の子として生きるべきものです。そして神に属する者は、自分の兄弟を愛するのです。そのひとが生かされてきた愛が死に勝つのです。その愛そのものである主イエスが、わたしが甦りだと、死の中にある兄弟をのぞみ込むようにじっと見ながら、ここで「あなたはこれを信じるか」と問われるのです。「信じます」と言う以外に答えようがないのです。
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by higacoch | 2017-05-09 21:31 | ヨハネ福音書
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