2017年4月16日

「私たちに先立つ復活者イエス」  ハバクク書3:8-19、マタイ28:10-20
                           関 伸子 牧師 

 主イエス・キリストが、十字架につけられて死なれた後、主イエスと共にいた弟子たちは何をしていたのか。ひとつ推測することができる言葉が7節の天使の言葉です。「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。
 主イエスと共に弟子たちが活躍をしたのも、ほとんどの期間ガリラヤでした。そこからエルサレムに何度か上った。ここでも弟子たちは本拠に帰りますけれども、甦りを信じ得ないままに、暗い思いで故郷に帰ったということです。
 マグダラのマリア、七つの悪鬼に憑かれていた女と記されていて、おそらく今日で言えば、自分でもどうしようもない心の病に取り憑かれ、激しい力に取り押さえられていた人です。そこから解放されて、もう一度、いのちに甦って、人生のやり直しができて、主イエスに仕えていたひとりの女です。しかし、その主が死んだとき、彼女は死んでしまった主イエスを訪ねて墓に行ったのです。
 現代に生きる私たちは、死後の世界というようなものを、真面目に考えなくなってしまっているかもしれません。死の事実は、それで乗り越えることはできない。しかし、福音書は、主イエス・キリストが甦られたこと、そして、この失意の弟子たちがガリラヤに帰る時、この甦りのイエスは先回りをして、先にガリラヤについておられるはずであるということを告げるのです。
 ある人が「復活節の疑い」という言葉を書き記しました。復活節を迎えて、初めて、人間は死んだらすべてがお終いだという事実を疑い始める。死が揺らいだ。墓の蓋をしていた石が、揺るぎ動いて、取り除かれたように、死の扉が揺らぐのです。
 また古い言葉に、「復活節の高笑い」というのがあります。復活の祝いの日の朝は、礼拝堂の中は、「わっはっは、わっはっは」という高く大きな笑い声に満ちたのです。主イエス・キリストのいのちによって、生かされる教会は、そのように笑うことを知る集団であり、その笑いの中で、自由と平安に生きるのです。
 私たちが、自分の人生について不安を抱くこと、それは、死に不意打ちされることがないかという脅えです。主イエスは、ガリラヤに行ったら私に会えると、女たちに語りました。ここで、墓地を出たばかりのところで、死に取り囲まれているところから、飛び出して来たばかりのところで、復活の主に会っているのです。
 受難週の時、男たちがうろたえ、主イエスを裏切る中で、主イエスに対する愛と誠実を貫くことができたのは女たちです。弟子たちに知らせるために、女たちは一方でこの不思議な出来事におそれを抱きながら、他方では、主イエスが生きておられるという言葉に、すでに喜びを誘われながら「走って行った」。すると9節に、「すると、イエスは行く手に立っていて」と書いてあります。「すると」という日本語はこれで結構ですけれども、原文はもっと強い言葉です。「見よ」と書いてあります。走って行った、すると見よ、と続く。しかも、原文の味わいは、「イエスが迎えに来られて」です。そのような思いを抱きながら、走って行く女たちを突然迎えたのは、弟子たちではなかった。甦られた主イエスが先に出迎えられた。そして「平安あれ」と言われた。これは日常の挨拶です。しかし、私たちがよく知っているヘブライ語の「シャローム」、つまり、いつでも「平安あれ」と訳すべき挨拶に対応するギリシア語ではなくて、「喜べ」と訳すことができる、もうひとつのギリシア語の挨拶の言葉なのです。「喜びなさい」、甦りのいのちそのものである主イエスが、私たちを迎えてくださって、「さあ、ここで喜びなさい」と言われるのです。
 私たちが信仰を与えられるようになるには、いろいろな筋道を辿るものです。しかし、その根本においては先回りしておられる主イエスに会って、主のもとで、この喜びを学ぶということ以外の何ものでもないと私は思います。「弟子たち」という言葉は、原文で読むと、ただ「弟子」と書いてあるだけではなくて、「あの方の弟子たちに」と特記されています。〈彼の〉弟子たちに、というのです。特にその意味で私たちが記憶すべき言葉は、10節のイエスが女たちに言われた言葉です。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに」。これまで「弟子たち」と記されているのに、ここでは「兄弟たち」となるのです。
 なぜここに「兄弟たち」という言葉が用いられたのか。昔から必ず指摘されたのは、詩編の第22編との関連です。主イエス・キリストの絶望の言葉を生んだこの詩編の中で、23節に、このように記されていることです。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/ 集会の中であなたを賛美します」。このことに気づくと、主イエスは、十字架の上で歌い始められたこの詩編第22編を、甦られてマグダラのマリアたちにかけられた言葉の中で、完結させられたのだと言うこともできると思います。しかもその時に、たったひとりで深い絶望の中で歌い始められた主イエスのこの歌は、ここで、その「兄弟たち」の歌となるのです。
 絶望から始まったこの歌は、神の勝利にあずかる喜びに終わる。そしてその喜びを告げ、勝利をもたらした神のみ名を告げる時、告げるべき相手は、皆兄弟となる。こうして甦えられたイエスが、ガリラヤで弟子たちにお会いになった時、18節以下の御言葉を与えてくださった。その最後の言葉が19節から20節に記されています。
 今、その兄弟姉妹のすべてをつなぎ、ここに主の家族を造る、主イエスが備えらた、聖餐に、このことへの深い感謝をもってあずかりたいと思います。「世の終わりまであなたがたと共にいる」と言われた主イエスが、その霊において私たちと共に在りますことを信じたい。そこに望みを託して、私たちの周囲に、なお兄弟姉妹の交わりを作っていく伝道と奉仕のわざに生き続けたいと願います。お祈りをいたします。 
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by higacoch | 2017-04-16 19:04 | マタイ
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