「義の成るところ」 イザヤ書58:1-12、マタイ5:17-20
関 伸子 牧師 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。マタイ福音書第5章の17節を言い換えたものが20節です。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。主イエスは、ご自分が来られたのは「律法を成就する」ためだと言われました。成就する、これを実現する、ということです。 「あなたがた」、それは、この山上の説教の教えを聞く弟子たちのことです。教育という務めを皆さんも持っておられます。教会で子どもたちのために、家で子どもや孫の教育、家庭教師、さまざまに教育の務めを持っておられます。 子どもの教育においても、政府が国民を支配、教育するにも、アメとムチを使い分けなければいけないなどと言います。私はしかし、こう信じています。神が私たちに与えてくださる慰めは、安心して座りこむことではなく、この自分でもファリサイ派、律法学者にまさる義に生きることができる、と慰められて立ち上がれるようになる。これが、神によって与えられる救いです。 山上の説教をマタイがまとめたひとつの理由は、当時の教会にすでに生じていた、誤解を解くためであったと考えられます。特に、この部分のすぐあと、21節から第5章の終わりまでは、次々とふたつの考え方を対比さえています。昔の人は「殺すな」と教えたが、わたしはあなたがたにこう教える、兄弟に対して怒ったり、悪口を言うだけで殺すに等しいことをするのだ。そういうふうに、昔から聞いてきた生活の教えに対して、新しいもっと徹底した生活の正しさを対比させていくのです。 「わたしが…来た」と、主が繰り返し語っておられます。主が来られたのは、これこれのことのため、ということです。かつて評判のよかった映画に、「陽気なドン・カミロ」という、ひとりの司祭を主人公にしたものがありました。村で一番腕力の持ち主である司祭と、その村の村長のコミュニストの友情と争いとがからみあう物語です。この原作が「キリスト教文学の世界」というシリーズの中で翻訳刊行されて、その解説を、田中小実昌という方が書いていて、こんなことを言っておられます。物語のクライマックスに洪水が起こり、村の人は皆逃げてしまう。ドン・カミロは答えます。「わたしがここにこうしていることが、彼らみんなの力になるのです。この鐘の音で、彼方の人びとの希望を盛り立てています。希望を、信仰を」。その場面を取り上げて、田中さんは、自分が鐘を鳴らして人を元気づけることもできなくなって、ただひたすら、祈られて、ということではないか、もともと人間的な神父だなどと言うが、イエスを十字架にかけたのが、その人間的なことだったのではないか。そう問いかけます。そして、田中さんの一番好きな言葉は、ドイツの牧師ブルームハルトの「神の国だ! 宗教ではない!」という言葉だと書いておられます。 神の国、向こう側から来て、ここに始まる神の支配、その神の支配をもたらすためにこそ、主は来られた。律法の一点、一画もすたることはないのです(18節)。 あのキリストが来られました。私たちの思うようになるイエスではありません。私たちは、日曜日には家族ともども楽しんで、堅苦しい生活なんかよした方がよいと考えてしまいます。しかし、そうした人間的な世界で、キリストは殺され、その恵みが圧殺される。主イエスが、「わたしは来た」と言われるのを聞く時、この主が何をなさったかを思い起こさなければなりません。いつも落第点しか取れないような私たちを立ち直らせるためにこそ、主イエスは、生き、かつ死なれたのです。 コリントの信徒への手紙一の第13章、それは愛の賛歌と呼ばれます。3節にこう書いています。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」。その愛とは何でしょう。それを明らかに示し、私たちに与えるために、主が来られたのです。 NHKの「大草原の小さな家」というテレビ番組にこんな話がありました。貧しい農民一家の三人娘の長女メアリーの物語です。この娘はなかなかの秀才で学校で成績がよかったが、急に成績が落ちて来た。視力が衰えてきて、黒板の字も読めなくなったのが原因らしい。貧しい農民の父にとって眼鏡ひとつ買うのも容易ではありません。しかし娘のために町へ行って手に入れる。勉強ができるようになったのはいいが、今度はまわりの口がうるさい。眼鏡をかけていると、担任の先生と同じように、いつまでも独身でいなければならないのよ、という言葉に、とうとうたまりかねて眼鏡を自分で隠してしまい、父には、なくしたと嘘をつきます。ところが、試験の前日になって、偶然その先生に婚約者のすてきな男性がいることがわかる。それで気を取り直して眼鏡をかけて試験を受け、みごと一番、めでたしめでたしとなるのです。しかし、このテレビドラマは、この娘がひどく打ちひしがれて父のところに行く姿を映し出すのです。この娘は、父が貧しい中で買ってくれた眼鏡を隠し、嘘をついたことが、どんなに深い罪であるかを知り恥じた。どう詫びてよいかさえ分からなかったのです。 学校の成績だけではないでしょう。信仰の世界、愛の世界においても、これまで自分が何をしてきたにしても、とにかく好成績をあげればよいということにはなりません。神の律法を生きたとは言えず、それ故にまた、天国、神の支配するところでは、「最も小さい者」でしかないのです(19節)。これがわかるのは、主イエスが、神の愛そのものが私に向かって注がれていることを知る。それを知る時に、自分を恥じることを学ぶのです。その時、私たちは自分の小ささを悔い改めると共に、その神の恵みの手の中にある大きな自己に生きることができるようになるのです。
by higacoch
| 2017-02-13 10:16
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