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2016年8月21日

「解放」  イザヤ書 25:4-10、ヨハネ福音書 8:1-11
                             関 伸子 牧師

 今日のヨハネ福音書は、「姦通の女の物語」とよく言われていた記事です。この記事の第7章53節以下は括弧に入れられています。私たちが今読んでいる聖書の言葉は多くの写本によって伝えられています。その多くの写本の中で古い日付のものの方が本来の福音書の姿をより忠実に伝えていることは明らかですが、古い日付の写本であればあるほどこの部分を載せていません。古いものには見つからなく、新しい時代のもの、せいぜい紀元四世紀ごろのものから載せています。
 なぜこういう物語が初めは記録されなかったのか。既に最初の教会においてこの出来事に対する戸惑いがあったのではないかというのです。これもいろいろな推測ができます。ひとつは第7章に仮庵祭という祭りの物語が延々と語られていたことです。仮庵祭に主イエスがわざわざエルサレムまで行かれて、たとえば 37節に、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と大声で招きの言葉を語られました。しかし、この主イエスの言葉を聞いてこれを受け入れる人はいず、むしろ主イエスに対する裁きの言葉がどんどん大きくなっていった。あの男はガリラヤ出身であって、われわれはユダヤに生きているという差別感が増幅されていたようです。そしてイエスを裁き、殺そうという思いが高まっていました。そこで、この女の事件もまたイエスを裁く手だてとして用いようとしたのです。
 3節に、「律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ」とあります。立たせたときに周りに民衆がいる。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。申命記第22章 22節以下に、このような場合の規定がきちんと書いてあります。この申命記は姦通の罪を犯した者は男も女も処罰されるべきだ、と言っていますが、ヨハネ福音書では男は出てきません。男はずるく逃げてしまったのかもしれません。あるいは、同じ申命記第22章25節以下を読みますと、当時の世界では特に男性優位であったため、男が力ずくで女を犯すということがしばしば起こったに違いありません。ですから女が力ずくで犯された場合には女を咎めてはならないということまで語っています。ヨハネ福音書の場合、女もまた同罪であるということであったかもしれません。そういうことをモーセが律法の中で命じているではないか。あなたは何と言うか、というのです。この問いに対して主イエスは、6節の後半に「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」とあります。8節にも「そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた」とあります。
 「これこそ神のみ顔の背けの核心である」と、この箇所のある注解書に書いてありました。この独特の言い回しを強く心に刻みました。神は返事をなさらなかった。主イエスは返事をなさらなかった。しかし、女を裁こうとした人びとは、今ここでは、それをきっかけにして主イエスを試し、そのようにして主イエスを裁いているとも言えます。イエスはかがみこんだまま地面にものを書いておられました。いったい何を書いておられたのかということが昔から問われてきました。
 ヨハネによる福音書第8章の最後の言葉、59節には、「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠された」とあります。また石を持った。主イエスを殺そうとしたのです。言い換えれば、こういう神を殺してしまえば、後は安泰だと考えるようになったのです。
 ずっと後の時代にロシアの作家ドストエフスキーが登場して、『カラマーゾフの兄弟』という小説を書きました。その中に「大審問官」と題するドラマを描き、後の教会の代表者をそこに登場させて、後のキリスト教会がいちばん迷惑なこととしたのは、主イエスが再び来られることであるということをはっきり書きました。後の教会の歴史のすべてが、というのではないでしょう。しかし教会が罪を犯すたびにそこに見えてくる罪は、イエスを抹殺するということであったと言うのです。ここでもドストエフスキーは自らの罪をそこに思い起こしていたに違いないと思います。
 人びとは立ち去った。不思議なことに「真ん中にいた女が残った」。審かれるべき者としていた女がそのままそこに留まっていた。ある人がこのところについてこういう言葉を語っています。女にとって主イエスがいてくださったということはどんなにさいわいなことであったか。主イエスこそ真実に審くことができる方であった。その〈審く方〉がそこにいてくださらなかったならば、女にとって救いの道は完全に閉ざされたままであったはずです。なぜかと言うならば、〈真実に審く〉ことができる方こそ、〈真実に赦す〉ことができるからです。
 しかもこの赦しは実に激しい力を持っています。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。あなたはもう罪を犯すことができなくなった、というほどの意味です。この女はやがて、このイエスがまるで自分の身代わりのように殺されたことを知ったでしょう。慄然としたと思います。そして当然この後キリストの教会に加わり、この物語を伝える源になったに違いありません。多くの人びとが戸惑いを感じながらここに戻ってこざるを得なかったのは、ここに自分たちの物語があると思ったからです。私たちもまた、この物語によって生かされると同時に、繰り返して、この物語が語る主イエスのもとに帰って来ざるを得ない、審かれる厳しさを、しかし、その厳しさの中でこそ初めて知る赦しの深さを、繰り返し知ってそこに立つ以外、私たちの新しく生きる道はありません。「罪を犯すな」という言葉によって突き動かされて生きる道はほかにはないのです。しかしこのような言葉が不思議な道を歩みながら、私たちのところまで届いたことに、神の不思議な恵みの摂理を思わされます。お祈りをいたします。
by higacoch | 2016-08-20 17:36 | ヨハネ福音書
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