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2016年7月24日

「行いの伴う信仰」ヤコブ2:14-26
                   唐澤 健太 牧師 (国立のぞみ教会)

 「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(17節)。私たちの信仰は生きている信仰でしょうか。それとも「役に立たない」、「死んだ」信仰でしょうか。
 ヤコブにとって「行いの伴う信仰」は、重要なテーマでした。ヤコブの教会には「神は唯一だ」と信仰を告白し、神を礼拝しながら、「事欠いている」兄弟姉妹たちの必要に具体的には応えず、口先だけの信仰が横行していました。(15-16節)。その状況においてヤコブは「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」(18節)と言うのです。
 信仰生活において、聖書を読み、祈り、礼拝を大切にすることは基本であり、重要なことです。しかし、その「信仰」が、一人一人の生活にどのようにあらわされているのかが問題です。信仰が信仰者の生き方とどのように関わっているのかが問われるのです。信仰は子どもが算数の問題を解くように、答えを出すこと求められるのではなく、「御言葉を行う」(1:22)こと、御言葉に「応える」ことが求められるのです。
 イエス様の語られた「よきサマリア人のたとえ」(ルカ10:25以下)で、主イエスは質問をしてきた律法の専門家に対して、「正しい答えだ、それを実行しなさい」と言われました。神を愛すること、隣人を愛することを「実行する」ことを、主イエスは譬え話を通してお語りになりました。
 「右手に聖書、左手に新聞」と20世紀最大の神学者と評されたカール・バルトは言いました。神の言葉は、この世の出来事と無関係に語られるのではないという意味でしょう。私たちは聖書を読み、新聞を読む。新聞を読み、聖書を読む。私たちは神の言葉に聴き、「いま、ここで」何が起こっているのかを新聞通して知ります。私たちの歴史の中で起こっているただ中で、神の言葉に耳を傾ける。それが「右手に聖書、左手に新聞」の心でしょう。クリスチャンが、今おこっていることに無関心で、聖書だけでは困ります。聖書も読まないで新聞だけ読むクリスチャンも信用なりません。どっちがかけても、不健康な信仰だといえるでしょう。
 「神は唯一」と告白することは、申命記6:4に記される「聞け、イスラエル。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」を意味します。そして、「主を愛する」ことは、具体的には、隣人を愛するということに結実するのです。「神を愛し、隣人を愛する」ことを私たちの信仰としてどう表していくのかが、いま教会の信仰として問われていることです。
 先週、沖縄の高江でヘリパットの建設工事が強行されました。4月の合同退修会にお招きした金井牧師を始め、教会関係者も含めて座り込みで抵抗している人々がいました。100人の市民に対して数百人の機動隊が本土から送り込まれ、人びとを暴力的に排除しました。「弱い者いじめ」以外の何物でもないことがいま私たちの国で平気で行われています。よきサマリア人のたとえで追い剥ぎに襲われ、傷つき倒れている姿がここにあるように思います。
 沖縄の平良修先生に「東京の牧師として覚えておいてほしい。沖縄を見ずして、教会の宣教を考えたら見誤りますよ」とかつて言われた言葉が魚の小骨が喉にささっているように私の心にある。兄弟が困窮している時に、「『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」(16節)という御言葉が私の心に迫るのです。
 「私たちが何もしないでいて神にすべてのことをして欲しいと望むのは、信仰ではなく迷信である、ということを知らなければならない。」(M.L.キング牧師)私たちが何もしないでいて、着るものが与えられ、温かい食べ物が空から降ってくるのではありません。そこで、具体的に着るものを用意し、温かい食べ物を用意する手が必要なのです。平和を祈ることも、すべてを神がやってくれるってことではありません。神様にすべてのことをやってほしいと望むのは、信仰ではなく迷信なのです。
 もちろん、行いが私たちの救いの条件ではありません。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(ローマ3:28)。しかし、信仰による義というのは、「信仰において行いはいらない」って教えではありません。パウロは、みずからをうち叩いても自らを服従させようとしています。肉に従うのではなく、霊に従って生きることを求めた人です。
 「私たちがイエスのアイデンティティを私たち自身のものとして受け入れ『私たちは現代の生けるキリスト』ということ、これが霊的な生活の大きな課題です」(ヘンリー・ナウエン)。主イエスの生き方を私たちの生き方としていくことです。言葉をかえれば、「キリストの心をこころとして生きる」ということです。私たちはなお愛の欠ける者です。従い切ることのできない欠けたる者たちです。しかし、「赦された罪人」として大胆に私たちの手や足を主にささげ、用いていただきたい。いま、平和を作り出す、愛の業を行う「手」、「足」を主が必要とされているのですから!
by higacoch | 2016-07-30 16:35 | ヤコブ
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