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2016年5月22日

「神の霊によって守られている」    ヨブ14:7-17、ヨハネ14:15-17
                                       関 伸子 牧師 
 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。皆さんはどんな思いでこの主の言葉をお聴きになったでしょう。何気ない言葉のようですけれども、鋭い言葉です。この主イエスの言葉は主イエスが弟子たちと最後の食事をしておられた時の言葉です。この主の最後の食事から、私たちが共に祝う聖餐が始まったと信じられています。
 私たちはここで共にこの食卓を囲み、お互いが愛によって造られている愛の共同体だということを、この主イエスの最後の食卓から既に起こっていることとして、改めて知ることは大切です。ただ自分が愛されているということを知るだけではなくて、自分が主を愛し始めていることを悟るということです。もしかすると皆さんの中に途方に暮れる思いが生まれているかもしれません。今のように聞かされた言葉と自分の心は遠すぎる、どうしていいのか分からない。そのような途方に暮れる思いがあるのではないでしょうか。
 そこで主イエスがおっしゃるのは、「別の弁護者」を遣わしていただけるようにということです。「弁護者」という言葉が何を意味しているかは、すぐ後の17節で「この方は、真理の霊である」と記されているように、〈聖なる霊〉を意味することは明らかです。ここに用いられている弁護者と訳されているギリシア語は、もともとは興味深い言葉で、「呼ばれて傍らにきてくれる者」という意味の言葉です。なぜ呼んだかというと助けてほしいからです。そばにいてもらいたいからです。そばにいてどんな助けが必要かというと、まず〈慰め〉です。独りでは耐えられないからです。あるいはまた、人びとが言われなき非難を自分に浴びせるときに、自分ひとりで弁護することはもう間に合わない。代わりに弁護してくれる。従って裁判における弁護者をも意味しました。
 先ほどヨブ記を読みました。ヨブ記は創作文学ですけれども、ヨブという男が信仰の試練に遭って、初め三人の男がやって来てヨブの態度を論難するのに答えています。後からもうひとり男がやって来る。それに対してもヨブが答える。深い信仰を語る文章ですけれども、ヨブの言葉は絶えず目の前にいる四人の男ではなくて神に向かいます。主イエスと同じです。主イエスもまたヨブと同じように弟子たちに顔を向けながら、同時にその心を父なる神に向けておられます。そして、そこで弁護者を呼んであげようと言われたのです。
先ほどヨブ記の第14章7節以下を読みました。これはヨブの長い、神に訴え続ける言葉を切り取ったようなものです。この神に対して本当に厳しい思いで訴えるヨブの心にとって、いちばん欲しかったのは弁護者、傍らにいてくだる者であったと思います。ヨブは、真実に自分の弁護者になる者を求めました。このヨブの信仰の祈りが、やがて、第19章25節以下の、あの深い言葉となります。「わたしは知っている/わたしを購う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。このような深いヨブの言葉を生み出した人びとの信仰の心を主イエスは深く見抜いておられたかのように、弁護者を神が呼んでくださる。
 新共同訳になり、口語訳では「別に助け主」となっていたのが、「別の弁護者」となっています。新共同訳でもっとはっきりしたのは、この新しい弁護者に先立ち、既に弁護者がいてくださったということです。主イエスご自身のことです。これまでは、弟子たちはひとりで戦わなくて済んだ。主イエスが先頭に立って戦ってくださった。わたしがいなくなる。わたしとは別の弁護者を送ってくださるように神にお願しよう。そのように、主イエスはここでおっしゃってくださっています。そしてそれが他ならぬ「聖なる霊」です。
 讃美歌の460番という、よく知られている讃美歌があります。「やさしき道しるべのひかりよ」と歌い始めます。この曲を作ったのはジョン・ヘンリー・ニューマンという1801年に生まれて1890年に亡くなった英国の神学者です。このニューマンの日本語の説教集の書名『心から心へ語りかける』というのは、この人の墓碑銘です。
 ニューマンはその説教の中でたとえばこういうことまで言います。「聖霊はキリストが地上におられたときには、まだかくしておられたことを啓き示すために来てくださいました」。なるほどと思いました。子どものとき、イエスさまが見えればいいのにと何度思ったかしれません。弟子たちに地上に生きておられた間の主イエスが見せてくださったものよりもっとたくさんのものを私たちに見せてくださるのだと。それが、「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」という主イエスの約束の意味するところです。
 世はまだこの真理を知らない。しかしその知らない世に主イエスこそ道であり、真理であり、いのちであると伝えるためにも、あなたがたは真理の霊が今与えられている。勇気を持ちなさい。目を開きなさい。あなたがたは弟子たちよりももっと確かに、傍らにある者としての神ご自身と共に生きることを許されているではないか。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。これほどに愛を注いで私たちのために祈ってくださる主イエスを、私たちが愛さないことはない。ありがたいことです。
 どうぞ皆さま一人ひとり、どんな状況にあっても自分はただ独りだと思わないこと、それがゆるされていることを心深く刻んでいただきたいと思います。むしろそこで、私は独りぼっちだと思うことは、この主イエスのみ言葉に背く罪です。これは罪なのだとさえ言える恵みがここにある。このことを改めて感謝したいと思います。お祈りいたします。
by higacoch | 2016-05-28 15:00 | ヨハネ福音書
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