「神の霊によって守られている」 ヨブ14:7-17、ヨハネ14:15-17
関 伸子 牧師 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。皆さんはどんな思いでこの主の言葉をお聴きになったでしょう。何気ない言葉のようですけれども、鋭い言葉です。この主イエスの言葉は主イエスが弟子たちと最後の食事をしておられた時の言葉です。この主の最後の食事から、私たちが共に祝う聖餐が始まったと信じられています。 私たちはここで共にこの食卓を囲み、お互いが愛によって造られている愛の共同体だということを、この主イエスの最後の食卓から既に起こっていることとして、改めて知ることは大切です。ただ自分が愛されているということを知るだけではなくて、自分が主を愛し始めていることを悟るということです。もしかすると皆さんの中に途方に暮れる思いが生まれているかもしれません。今のように聞かされた言葉と自分の心は遠すぎる、どうしていいのか分からない。そのような途方に暮れる思いがあるのではないでしょうか。 そこで主イエスがおっしゃるのは、「別の弁護者」を遣わしていただけるようにということです。「弁護者」という言葉が何を意味しているかは、すぐ後の17節で「この方は、真理の霊である」と記されているように、〈聖なる霊〉を意味することは明らかです。ここに用いられている弁護者と訳されているギリシア語は、もともとは興味深い言葉で、「呼ばれて傍らにきてくれる者」という意味の言葉です。なぜ呼んだかというと助けてほしいからです。そばにいてもらいたいからです。そばにいてどんな助けが必要かというと、まず〈慰め〉です。独りでは耐えられないからです。あるいはまた、人びとが言われなき非難を自分に浴びせるときに、自分ひとりで弁護することはもう間に合わない。代わりに弁護してくれる。従って裁判における弁護者をも意味しました。 先ほどヨブ記を読みました。ヨブ記は創作文学ですけれども、ヨブという男が信仰の試練に遭って、初め三人の男がやって来てヨブの態度を論難するのに答えています。後からもうひとり男がやって来る。それに対してもヨブが答える。深い信仰を語る文章ですけれども、ヨブの言葉は絶えず目の前にいる四人の男ではなくて神に向かいます。主イエスと同じです。主イエスもまたヨブと同じように弟子たちに顔を向けながら、同時にその心を父なる神に向けておられます。そして、そこで弁護者を呼んであげようと言われたのです。 先ほどヨブ記の第14章7節以下を読みました。これはヨブの長い、神に訴え続ける言葉を切り取ったようなものです。この神に対して本当に厳しい思いで訴えるヨブの心にとって、いちばん欲しかったのは弁護者、傍らにいてくだる者であったと思います。ヨブは、真実に自分の弁護者になる者を求めました。このヨブの信仰の祈りが、やがて、第19章25節以下の、あの深い言葉となります。「わたしは知っている/わたしを購う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。このような深いヨブの言葉を生み出した人びとの信仰の心を主イエスは深く見抜いておられたかのように、弁護者を神が呼んでくださる。 新共同訳になり、口語訳では「別に助け主」となっていたのが、「別の弁護者」となっています。新共同訳でもっとはっきりしたのは、この新しい弁護者に先立ち、既に弁護者がいてくださったということです。主イエスご自身のことです。これまでは、弟子たちはひとりで戦わなくて済んだ。主イエスが先頭に立って戦ってくださった。わたしがいなくなる。わたしとは別の弁護者を送ってくださるように神にお願しよう。そのように、主イエスはここでおっしゃってくださっています。そしてそれが他ならぬ「聖なる霊」です。 讃美歌の460番という、よく知られている讃美歌があります。「やさしき道しるべのひかりよ」と歌い始めます。この曲を作ったのはジョン・ヘンリー・ニューマンという1801年に生まれて1890年に亡くなった英国の神学者です。このニューマンの日本語の説教集の書名『心から心へ語りかける』というのは、この人の墓碑銘です。 ニューマンはその説教の中でたとえばこういうことまで言います。「聖霊はキリストが地上におられたときには、まだかくしておられたことを啓き示すために来てくださいました」。なるほどと思いました。子どものとき、イエスさまが見えればいいのにと何度思ったかしれません。弟子たちに地上に生きておられた間の主イエスが見せてくださったものよりもっとたくさんのものを私たちに見せてくださるのだと。それが、「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」という主イエスの約束の意味するところです。 世はまだこの真理を知らない。しかしその知らない世に主イエスこそ道であり、真理であり、いのちであると伝えるためにも、あなたがたは真理の霊が今与えられている。勇気を持ちなさい。目を開きなさい。あなたがたは弟子たちよりももっと確かに、傍らにある者としての神ご自身と共に生きることを許されているではないか。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。これほどに愛を注いで私たちのために祈ってくださる主イエスを、私たちが愛さないことはない。ありがたいことです。 どうぞ皆さま一人ひとり、どんな状況にあっても自分はただ独りだと思わないこと、それがゆるされていることを心深く刻んでいただきたいと思います。むしろそこで、私は独りぼっちだと思うことは、この主イエスのみ言葉に背く罪です。これは罪なのだとさえ言える恵みがここにある。このことを改めて感謝したいと思います。お祈りいたします。
by higacoch
| 2016-05-28 15:00
| ヨハネ福音書
|
カテゴリ
全体 創世記 出エジプト記 ルツ記 サムエル記 列王記 歴代誌 エズラ記 エステル記 ヨブ記 詩篇 イザヤ書 ミカ マタイ マルコ ルカ ヨハネ福音書 ローマ 使徒言行録 コリント ガラテヤ エフェソ フィリピ コロサイ テサロニケ テモテ フィレモン ヘブライ ヤコブ ペトロ ヨハネの手紙 ヨハネ黙示録 未分類 タグ
以前の記事
2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||