「罪を除くために現れた方」 イザヤ書35:1-10、Ⅰヨハネ3:1-10
現代のカトリック教会は1962年から65年まで行われた第二バチカン公会議の決議によって大改革しました。礼拝をラテン語からそれぞれの国の言葉で捧げるようになり、また教会を上からではなく下から、つまり教皇からではなく信徒から考えるようになりました。ですから、カトリック教会の「教会憲章」の第1章「教会の秘儀について」に続いて、第2章に「神の民について」の教えがあります。 さて、今朝の聖書箇所の「神の子たち」はカトリック教会が示している「神の民」に通じるものです。ただ、今朝の箇所には「神の子たち」ばかりではなく、「神の子」という言葉も出てきます。普通でしたら、「神の子たち」の一人が「神の子」となります。信徒の方々を「神の子たち」と呼び、一人である「神の子」は、当然信徒の一人を表すのです。ですが、ここでの「神の子」には、二つが考えられています。一つは「信徒」で、もう一つは「イエス・キリスト」です。具体的に言いますと、1節、2節の「神の子」は信徒を、8節のは、イエス様を表しています。このような表現はほかにもあります。たとえば、「人の子」。あるところは、人間の子を表し、あるところは、イエス様を表します。このように同じ言葉で別々の人物を表しているので、気をつけて読まなければなりません。同じ人物だと思い込んで読むとよく解らなくなり、あるいは大きな誤解をしていくことになります。 その点を注意深く読みましょう。1、2節で「天の父なる神様が、どれほどわたしたち(神の子たち)を愛してくださるか、考えなさい。」とヨハネは言っています。こうしたことから、皆さん、一人ひとりは「神の子」なのです。神様がそう呼んでくださっているのです。「大事な、大切な、神様の子、私の子です」と語り掛けてくださっているのです。ただ世の中の人たちは、私たちが「神の子」とされていることを知りません。なぜなら、父なる神様を知らないからです。自分の努力の結果ではなく、神様の憐みによって、神の子とされているのです。ですが、皆さんが、将来どうなっていくのか、今ははっきりとは示されてはいません。それが解るのは、御子イエス様が再び来られる時です。その時にはイエス様に似たものとなるとヨハネは教えています。 ここ3節までは解ります。しかし、4節以降が解らなくなります。それは私たちの罪の問題が語られているからです。6節には「御子の内に、いつもいる人は皆、罪を犯しません。」とあります。私は、全く罪を犯さないのか、自分を振り返って考えてみると、そうではありません。神様が私を見られたなら、言葉においても、行いにおいても、自己中心的な言動をして罪を犯していると私自身思います。説教壇から、「私たちは洗礼を受けて全く罪を犯さない者になったと云うのではなく、洗礼を受けても以前と同じように罪を犯してしまうわたしたちです。現在も、将来も罪を犯す、私たちです」と語ってきました。ですから、この6節の言葉が解りませんでした。そこで説教の準備が止まってしまいました。そのような中で、祈り、黙想して求めました。すると、同じヨハネの言葉が示されました。カトリック教会の第二バチカン公会議の重要な御言葉、罪の告白の言葉を思い起こしました。具体的には、この手紙の1章10節です。カトリック教会は、この言葉を自分たちの罪の告白の重要な言葉として挙げています。第二バチカン公会議の公文書にこうあります。教会憲章 第2章 エキュメニズム(教会一致運動)の実践についてという項目の中に「心の回心」という項目があり、次のように言っています。「真実な意味でのエキュメニズムは、内的な回心なしにはあり得ない。・・・聖ヨハネの証言は、一致に反する罪にも当てはまる。『罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽りものとすることであり、神の言葉は、わたしたちの内にはありません。』(10節)。従って、われわれは謙虚な祈りをもって、自分に負い目のある人をゆるしているように、神と分かれた兄弟とにゆるしを求める」とあります。まさに、カトリック教会が自らの犯した罪を悔い改めて、新しい歩みを始めているのです。罪の悔い改めが諸教会との和解の出発の原点だったのです。やっと私は6節の「御子の内に、いつもいる人は皆、罪を犯しません。」が解り始めました。これは信仰者に根源に与えられたものについて語っていることなのです。根源的にキリスト者は罪を犯さない者だということです。 キリストを信じる教会は、 御子がこの世に来られたのはまさに、「この世の人の罪を除くために現れました。」(5節)を深く受け止め、御子イエス様が救い主キリストであると信じることができたのです。キリスト者は根源的に、サタンの子ではなく、神の子とされているとヨハネは言っているのです。伝道者パウロの言葉でいえば「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」(コリント二5:17)なのです。本質的に、キリスト者は罪を犯しませんが、現実的には罪を犯してしまいます。ヨハネは、ここで、あなたがたは皆、神の子として生まれていることを忘れないで欲しい、しっかりと心の奥に刻んで欲しいと言っているのです。あなたがたは、神の子として生まれているのだから、互いに、主なる兄弟姉妹を愛しなさいと勧めているのです。このことを受け止めて生きていって欲しいと。そのように、あなた方は、神様から愛されて生かされているのだからと。
by higacoch
| 2016-03-26 17:12
| ヨハネの手紙
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