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2015年8月2日

 「礼拝に来て、見なさい」 詩編66編1~20 ヨハネによる福音書1章43~51
                                         濵崎 孝 牧師

 神殿での礼拝用讃美歌として整えられた詩編66編は、今から2千何百年も前の詩です。それどころか、この信仰の詩人は、さらに遠い昔の出来事を詠っています。そんな古い詩を読み、大昔の出来事を手繰り寄せている教会の礼拝は、懐古趣味でしょうか……。いいえ、キリスト教会の礼拝堂で展開されているのは、聖霊なる神さまのご支配とお導きによって生起している聖なる出来事です。言わば死んでいた人が甦り、希望をもって人間らしく生き始めることを目の当たりにするような大いなる出来事なのです。そして、そうであればこそ、命がけで礼拝に出席している人々も見出されるのです。
 例えば、聖書・讃美歌と共に吸入器を携えて来る友もいます。喘息の発作に対処するためです。舌下錠を持って来る人もいますが、それは心臓発作のリスクをかかえているからです。他にも、命がけで礼拝に出席している人たちがいますね。礼拝堂と爆弾、銃の乱射……。テロやヘイトクライム(憎悪犯罪)の不安がある中で、必死に礼拝をささげている人々もいるのです。なぜ命がけで礼拝をささげるのですか?そうする価値が礼拝にはあるからです。
 6節の「それゆえ、我らは神を喜び祝った」は、詩の流れから言えば、「それゆえ、彼らは神を喜び祝った」ではないでしょうか……。でも詩人は、彼の時代からは何百年も前の出来事を、今まさに自分たちが体験したかのように「我らは」と語ったのです。そして、こういうことが、聖霊のご支配の下で進められる教会の礼拝で生起していることなのです。遥か遠い昔の出来事が現在化され、その真に恐るべき出来事の恵みがリアルに新しく受けとりなおされた……。9節は、礼拝で手繰り寄せた大昔の出来事が、神殿の礼拝者たちの魂に生き生きと祈りの路づくりを進める力をもたらしたことを語っています。ですから、これは懐古でもノスタルジアでも温故知新でもフラッシュバックでもありません。そういうものを超えた神の出来事なのです。私どもは何の幸いか、毎週礼拝堂でこういう真に得難い出来事に参与しているのです。
 17世紀の画家レンブラントの作品に、「キリスト昇架」(十字架上げ)というのがあります。キリストが十字架に磔になった出来事を描いたものですが、イエスさまの足下を観るとベレー帽を被った人がいます。これは、レンブラントの自画像だと指摘されています。レンブラントに霊感が与えられ、1600年前のキリストの出来事が想起されると、その創作活動の今に現在化されたのではないでしょうか……。そして、そのような現在化の出来事は、「あなたもそこにいたのか」という讃美歌(306番)にも見出されます。そのアフロ・アメリカン・スピリチュアルの歌詞の終わりには、「ああ、いま思いだすと/深い深い愛に/わたしはふるえてくる」という感動が言い表されています。2千年も前の十字架の出来事が、今まさにここでの出来事になり、感謝が溢れ、お祝いしないではいられなくなる……。そういう聖なる現実が繰り返し生起しているのが主日礼拝なのです。
 そこで、5節の「来て、神の御業を仰げ」を新改訂標準訳という英訳聖書で読むと、Come and seeです。「来て、見なさい」という呼びかけ……。これは、ヨハネによる福音書でフィリポがナタナエルに語りかけた言葉と同じで、それもまたCome and seeです。そして、この「来なさい、そして見なさい」は、主イエスさまもご自身に従った人たちに語りかけました。こうして私どもは、福音書の「来て、見なさい」という呼びかけは、「主日礼拝に来て、見なさい」という呼びかけとしても聴くことが出来るということに気づくのです。
 ヨハネ1章50節には、次のように記されていましたね。「イエスは(ナタナエルに)答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』」……そうなのです! 死の力にさえ勝利された復活の主イエスさまが働いている主日礼拝では、信じないではいられないような神のドラマを見るのであり、信実に主日礼拝を重ねて行く礼拝者には、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」というスケールの大きい祝福が約束されているのです。
 皆さん、私どもはたった70年の時の経過で、決して忘れてはいけない過去を忘却し、大切な意味を持つ歴史の出来事を永久に消し去ろうとする言わば滅びの現実化が見出される時代のキリスト者です。ですから、この時代の隣人に向かって、「教会の礼拝に来てください。そして神の出来事を見てください」と呼びかける意味はとても大きいのです。そして、主日礼拝を大切に守り続ける私どもが、主イエスさまの祝福に与り、心から神さまをお祝いする出来事をあかしして行くことは、真に人間らしいことなのです。 
by higacoch | 2015-08-08 16:51 | 詩篇
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