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2015年2月22日

「あなたがたの光を輝かせよ」    マタイ5:13-16
                            唐澤 健太 牧師(国立のぞみ)

 「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」。教会生活を送っていれば、幾度と無く耳にする御言葉でしょう。耳にタコができるほど聞いた人もいるでしょう。しかし、改めて「今」この御言葉をどのように私たちが聞くかが問われています。
 神戸女学院大学の内田樹さんは元旦に「2015年の年頭予言」というタイトルの記事をブログにアップしています。彼は、2015年は「『いいこと』はたぶん何も起こらない。『悪いこと』はたくさん起こる」と書き出し、今の日本が戦争へ突き進んでいくこと危惧しながら、私たちの国がいま「滅びる」方向に向かっていることを指摘されています。
 2015年になり2ヶ月が経とうとしていますが、内田氏の予言通りに進んでいるように思えてなりません。政府は春には集団的自衛権を行使するための法整備を進めていくことが報じられています。イスラム国の人質事件に対する政府の対応について批判的な意見を許さない空気がマスメディアの世界を覆っています。「自主規制」の名の元に言いたいことが言えない息苦しさが世を覆い始めています。靖国神社への参拝は宗教目的ではないという政府答弁が決定されています。かつて戦時中に経験していたことが、「今」起こっているのです。この時に、私たちは改めて「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」との主の御言葉を真剣に聞かなければなりません。
 主イエスは、私たちを「地の塩である」、「世の光である」と言われています。「なりなさい」とか「ならなければならない」ではありません。すでに私たちは塩であり、光であると主は言われるのです。キリスの弟子は、この世界にあって塩であり、光なのです! 
 塩は、腐敗を防ぐ働きをします。塩は、溶けて目には見えませんが、全体の味を整える働きもします。塩が目に見える料理は塩辛くてとても食べることはできません。少量で、目には見えないけれど、全体を整え、腐敗を防ぐのが塩の働きです。
 光は塩とは逆です。どんなに小さな光でも闇とは絶対に混じりません。光は闇の中で消えてしまうことはありません。光は、闇と混じることなく、闇の中がどのようになっているかを明らかにします。キリスト者が世の光であるというのは、その信仰をもって、決して世の思想と混ざらず、妥協せず、それがどんなに小さな存在であっても、世の光となるということです。塩と光は性質からいえば、正反対です。しかし、これは何か別々のものではなく、キリスト者は塩であり同時に光なのです。塩として、この世の中でどんなに少量であっても、目立たなくても、塩の働きをすることが、闇の世にあって光のように輝くということでしょう。塩であることが光であり、光であることが塩なのです。
 では、キリストが塩であり、光であることは具体的にどういうことでしょう。「闇の中では一人一人の抵抗こそ光である」(田中伸尚)。昨年12月に講演会で聞いた言葉が心に残っています。「抵抗」という言葉に抵抗を感じる人もいるかもしれませんが、主イエスの歩みを思い巡らす時、イエス様はまさに「抵抗者」であったと思います。弱く貧しい人たちが打ち捨てられている時代にあって、その人たちに「幸い」を語り、安息日に禁じられていた癒しの業を行いました。それは「世に抵抗する」歩みでありました。まさにその主イエスの歩みこそ地の塩であり、世の光なのです。
 イエス様のように生きる! 「地の塩」、「世の光」とは、主イエスのように生きることに他なりません。もちろん罪深い私たちはイエス様のようにとても生きることなどできません。しかし、私たちがイエス様のように生きる! そのことを志す。キリスト者として、真剣にキリスト者として生きる! それが自然と、この世にあって塩であり、光となるのです。
 ここにいる私たちができる抵抗には何があるでしょう。キリスト者にとって最大の抵抗活動とは礼拝をささげることです。イエス・キリストだけが、私たちの王であることに真剣に生きることが「滅びに向かう世」にあって抵抗することであり、それが小さな光となるのです。だからこそ、教会の歴史は権力者からの迫害を受けてきたのです。
 「礼拝するとは人間が人間となることである」(カンバーランド長老教会礼拝指針)。つまり、礼拝することは非人間化する力がこの世を支配し、「今だけ、金だけ、自分だけ」という精神で滅びへと向かう世にあって、それに抵抗し、神が人間された「人間らしさ」を取り戻していく行為です。礼拝はこの世にあって抵抗的行為であることを心に刻みましょう。
 この非人間化する社会の中で、礼拝することで私たちが人間となっていく。それが、小さな抵抗となり、光となるのです。愛の抵抗! 人間らしさを奪い取る悪魔の働きに、人間となる礼拝をもって抵抗する! それが「立派な行い」として証しされるのです。立派といのは「麗しい」という意味です。礼拝こそ不義がはびこる中での小さな灯火を灯す抵抗であり、その小さな灯火が人間らしい麗しさを証しするものとなる。
 私たちは罪をかかえ、弱さを抱え、小さな者ですが、主は私たちを「塩」として「光」としてこの世に送り出してくださっています。今こそ私たちの光を輝かす時です!
by higacoch | 2015-02-27 11:04 | マタイ
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