2014年3月23日

「神の言葉はつながれてはいない」  
            イザヤ書63:7-14、テモテ二 2:8-13
                                
 先週の水曜日の午後、アメリカの伝道運営協議会の総主事であるイーディス姉を迎えて、三教会の特別集会が国立のぞみ教会で行われました。その会でイーディスさんは今アメリカの教会で少しずつ取り入れられてきた黙想の実践方法を紹介してくださいました。これはラビリンス(「迷路」の意)と呼ばれ、迷路の道を歩きながら黙想するのです。聖書の御言葉を深く味わうためのもので、一人でも教会でもできます。今回は詩篇119編1節から16節までを1人1節ずつ読み、黙想しました。これはカトリックや聖公会の教会で行われている祈りの道、特に、レントの時に行われるヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれているイエス様の十字架への道を辿りながら、祈りの巡礼をするものと同じようなものだと思いました。
 さて、今朝の聖書の箇所で、伝道者パウロが若き伝道者テモテに対して、手紙を送り、改めて福音を伝えているところです。パウロは「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」と言っています。つまり、イエス・キリストのことを、しっかりと思い巡らしてほしい、さらに言うと、イエス・キリストのみに集中して欲しいということです。「福音はイエス・キリストがダビデの子孫であり、死者の中から復活された方だと言うこと、この福音のために私は犯罪人のようにつながれています。」と。そう言いつつ、彼がもっとも言いたかったことは、「しかし、神の言葉は、つながれていない」と言うことでした。当時パウロ自身はつながれていて獄の中でした。以前も獄中生活を強いられ、そうした中で手紙を書きました。それが獄中書簡と言われている、エフェソ、フィリピ、コロサイ、ピレモンの手紙です。しかし、このテモテへの第二の手紙も獄中から出されたもので、パウロが殺される直前の手紙だと考えられています。ですから、パウロの遺書と考えてもいいのです。
 さて、パウロと同様「神の言葉は決してつながれてはいない」と説教し、権力者と闘った人がいます。それは、マルティン・ニーメラーという人で、ナチスのヒットラーと闘いました。彼は強制収容所で説教しました。その説教集のタイトルが『されど、神の言は繋がれたるにあらず』です。死の危険を犯して語った6つの説教が収められていて、キリストの誕生、シメオンの歌、死に勝利した復活のいのちの希望などを説教しています。
 パウロはここでテモテに「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」と、書いています。このことはわたしたちにも語られていることです。この個所で、私たちが気になるのは、12節の後半です。そこには「キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。」とあります。私たちは信仰生活の中でキリストを否むことはないのでしょうか。いや、あります。否む自分がいると思って苦しむ。パウロもこうした苦しみを味わったでしょう。しかし、「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことはできないからである」と書いています。「わたしたちが誠実でなくても」ということは、「わたしたちが不誠実だ」ということです。何がわたしたちの不誠実でしょうか。 それはキリストを否むこと、これは罪です。だからといってキリストはわたしたちを見捨てられるでしょうか。私はあなたを知らない、と言われるのでしょうか。キリストは憐れみ深く、わたしたちを愛される方です。途中で愛想を尽かして、関係を断たれる方ではありません。キリストは御自身を欺くことができません。愛なる方ですから、見捨てることができないのです。「知らない」と言われません。キリストは、常に、真実であられます。わたしたちが不誠実であっても、キリストは真実であり、わたしたちを愛してくださいます。神様は愛なる方だからです。十字架の上でわたしたちを愛し、わたしたちの罪をゆるして下さいました。
 だからパウロは最後にテモテに、キリストに集中し、福音を語って欲しいと言っています。福音を語り、神の言葉を語って欲しかった、このことは私たちにも望まれています。どんな時代になっても福音を示す神の言葉を語っていかなければなりません。なぜなら、神の言葉は繋がれてはいないのですから。
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by higacoch | 2014-03-29 18:25 | テモテ
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