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2010年11月21日

「顧みられた神」 創世記16:1-16、ヨハネ福音書4:1-26
                               
 新聞を読んでいますと、最近は家庭内での事件が実に多くなってきました。人間関係も難しくなってきて、家庭が密室化し、虐待、殺人が多く起こってきています。しかし家庭内のもめごとは昔も今もそれほど変わりません。それは人間の問題だからです。
 今朝与えられました創世記の箇所にも家庭内のもめごとが記されています。アブラムと妻サライとの間には子どもが与えられず、年を重ねていき、その可能性がますます少なくなってきました。跡継ぎが与えられるという約束が神から与えられてほぼ10年が経っていました。そうした中でこの夫婦は不安になっていったのです。妻サライは、もう子どもが産めない年になってきたと思い、自分の世話をする女奴隷ハガルを夫のもとに送ろうとします。夫アブラムは驚いたでしょう。しかし、サライはアブラムを説得しました。聖書には「アブラムは、サライの願いを聞き入れた」とあります。そしてサライは、ハガルとの間で跡継ぎの子が与えられるように願ったのです。そしてその通りに若い奴隷ハガルは子どもを宿しました。すると、ハガルは主人であるサライを軽んじはじめます。ここに女の争いが生じたのです。
 ハガルの態度が我慢できなくなったのでしょう。アブラムの子を宿したことによってハガルが高慢になった面もあると思います。聖書にはその様子は記されていませんが、実に人間的な、執拗な言葉や行動が二人の間であったことでしょうが、。しかしこうした争いの時、主人と奴隷という上下関係がもろに出てきます。サライが、ハガルにかなり激しい仕打ちやいびりをしたと考えられるのです。耐えかねて奴隷ハガルは逃亡していきました。家から飛び出したのです。自分はここでは生きられないと思ったのでしょう。人間的な争いが高じて悲劇が起こる、こうしたケースは枚挙にいとまがありません。人間の上下関係がもろに出てきて立場の弱いものが不幸に陥れられるのです。ここではハガルでした。
 ハガルにはどこへ行く当てもなく、荒野をさ迷います。今は一人の身でなく、ハガルの胎には命が宿っています。このままだと胎の命だけではなく、自らも命を失うことになるでしょう。荒れ地では夜はかなり冷え込むからです。そんな状況にいたハガルを主の御使いが探し当て、語り掛けています。「どこから来て、どこへ行こうとしているのか」と。御使いは「主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」と言いました。それだけではありません。「私は、あなたの子孫を数えきれないほどに多く増やす」と。あなたは見捨てられてはいない、あなたは苦労しているが、私は、あなたを祝福すると約束しているのです。
 私は、御使いがハガルに語り掛けられた言葉に心打たれます。それは「今、あなたは、身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その名をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたのだから」と言っているからです。あなたは人間的な争いの中で、虐げられ、追いやられ、はじき出された、そうしたことを私は知っている、あなたの苦しみ、悩みを知っている、けれどもそんなあなたをそのままにはしない。あなたも神様から愛されているんだ。この神の愛をハガルも心に深く感じたのでしょう。だから、ハガルは「あなたこそ、エル・ロイ」と呼んでいます。その意味は、「私を、顧みられる神」です。ここには、こんなわたしを神が顧みて下さった「こんな、私を」という喜びに満たされています。ですから、ハガルは荒野でさ迷い続ける歩みではなく、御使いから言われたように、主人サライのもとにもどり、与えられた命である子どもを出産し、生まれた子どもをイシュマエルと名付けました。
 さて今朝は礼拝後に、映画「大地の詩―留岡幸助物語」の製作のためにPRをして頂きますが、留岡幸助氏は家庭学校を作った人として知られています。どうして「家庭学校」かと言いますと、留岡氏は北海道空知にあった集治監(刑務所)の教誨師となり、多くの犯罪人たちに触れます。そこで犯罪人の8割が少年時代(12~18歳)に罪を犯し、さらに調べてみると、不幸な家庭環境の中で育った者たちと知ったのです。家におれない、家から飛び出した少年たち、夫婦喧嘩が絶えない、アル中の父親の暴力等、愛のない家庭に育てられた少年たちだったのです。そこで留岡氏は家庭の愛、愛情を与えて育てることこそが犯罪者を少なくすることだと信じ、霊南坂教会の牧師を辞して、東京巣鴨に家庭学校を設立します。その後、北海道に広大な敷地を買って家庭学校を創ったのです。留岡氏は、不良少年を矯正するには、愛情が必要、そしてその愛情は家庭にある。そして、そうした犯罪人を出さないためには、家庭で愛情をもって子どもたちを育てることだと力説しました。このことは今でも言えることです。ですが、今も、もめごとの絶えない家庭があり、その中で子どもたちが傷ついています。家に居れなくなり、飛び出しているのです。
 今朝の箇所からも言えますが、人間的な仕打ちの中で、不幸に陥れられた者であっても、神は、見捨ててはおられません。否、むしろ顧みて下さっていること、そのことを覚えたいものです。神はハガルに声をかけてくださったように、あなたにも声をかけて祝福を与えようとされています。神は小さきものを顧みられる方なのです。このことは、私たちの救い主、イエス・キリストの十字架と復活が、はっきりと示しているのです。イエス・キリストは、すべての人のために死なれました。人間が犯す罪、それによって起こる悲劇を生みだしている人間たちを憐れんで、そうした者たちを愛され、罪を赦そうとし、祝福の道へと導いて下さったし、今も導いて下さっているのです。神は、小さな者、奴隷であったハガルを顧みられたように、あなたをも顧みて愛して下さっているのです。
by higacoch | 2010-11-27 17:33 | 創世記
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