「イエスの家族となろう」 詩編1:1-6、マタイ12:46-50
関 伸子 伝道師 「血は水よりも濃い」ということわざがあります。その血族関係は、いつも二つの面を持っています。父母・兄弟姉妹、これらは親しみ深い愛情を表し、しばしば美しい言葉で飾られます。しかし現実はそうとばかりいえません。それは人を義理・人情で拘束し、つまずきを与え、重荷にさえなります。血の争いは、他人との争いよりも遠慮がなく、エゴイズムのむき出しになることが多いのです。 今日の聖書箇所マタイによる福音書12:46-50には、「イエスの母、兄弟」と小見出しが付けられています。並行箇所として、マルコによる福音書3:31-35とルカによる福音書の8:19-21が記されています。これらの3つの記事の中で、おそらく1番初めに書かれたのはマルコによる福音書で、マタイの記事の基になったと思われる福音書です。マルコによる福音書では今日の話の直前「ベルゼブル論争」があります。そのベルゼブル論争の中で、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(マルコ3:21)とあります。マルコはそのすぐ後に「イエスの母、兄弟」のことを記しています。イエスの元に家族が来たことの目的が明らかにされています。身内の家族の者たちはイエスの「気が変になっている」と聞き、取り押さえに来たのです。 マタイによる福音書ではどうでしょうか。本日の出来事が起こったのは、46節にもあるように「イエスがなお群衆に話しておられるとき」でした。このことはマタイによる福音書だけが明らかにしています。イエスが群衆に神の国の福音をなおも話しておられる時だったのです。イエスが群衆に話しておられるとき「その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。」と46節の後半にあります。「その母」とはマリアのことです。その兄弟たちとは、マタイによる福音書の13:55によれば「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」などのことです。このように母や兄弟たちは、身内としてイエスを心配して、イエスの元にやって来たのです。この行動の中にわたしたちは、マリアを始めとするイエスの家族の人々の願い、願望を明確に示されているように思います。彼らは善意をもって、イエスの身を案じ、何とかして事態を無事に収拾したいと願ってこの場所にやって来たに違いありません。親としてわが子のことを案じ、心配するのは当たり前でしょう。また兄弟姉妹として、自分の兄弟姉妹の身を案じて心配するのは当然です。 「外に立っている」とはどういうことでしょうか。ある距離を置いているということが込められています。イエスと距離を置いて、少し離れたところからイエスを見るのです。イエスの言葉を聞くのです。物事を見るときにある距離を置いて見た方が、客観的に、正確に見ることができる、ということもあります。イエスとその教えについても、「外に立って」、少し距離を置いて見ることが必要なのかもしれません。実際にそのようにイエスの外に立って、距離を置いてイエスを見ていた母や兄弟たちは、イエスの話を聞いているその人々の中に入っては来ないのです。 イエスは、外に立っている母や兄弟たちについて、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と大変厳しいことを言われました。明確な断絶です。はっきりした拒絶の言葉を語られた後で、弟子たちの方に、手を差し伸べられて、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われました。弟子たちこそ、外ではなく内にいる人々です。この弟子たちこそ、わたしの母、わたしの兄弟、つまりイエスの本当の家族であると言われたのです。つまりここで、イエスの本当の家族とは誰か、を示されたのです。そして、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」というみ言葉によって、ここに新しい家族がある、との宣言がなされているのです。ここに新しい家族の歴史が始まるのです。その家は、血のつながりによるのではなく、天の血筋によって造られる新しい家族です。 イエスはそのように、イエスのもとに集い、その教えを聞き、み業を間近で見ている弟子たちこそ、ご自分の本当の家族なのだと言われました。49節に、イエスは弟子たちの方を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたとありますが、この「指して」という言葉は、前の口語訳聖書ではここは「弟子たちの方に手をさし伸べて」となっていました。イエスは弟子たちに手をさし伸べて、「ここにわたしの家族がいる」と言われたのです。その「手をさし伸べる」というのは、マタイ8章3節では、イエスが重い皮膚病にかかっている人に手をさし伸べてその人に触れ、癒して下さった時のしぐさです。手をさし伸べて下さるというのは、イエスが守り、支えて下さるということなのです。 イエスの家族になるとは、主の御心に聞き、主の御手に導かれ、御心を行うことです。「みこころが天に行なわれるように、地にも行なわれますように」と祈り始めるのです。この祈りをするところで、わたしたちもイエスの家族となるのです。 イエスは、新しい天の血筋の絆の中に入ることを求めておられます。だれでもキリストを信じることによって、関係の中へと招き入れられるのです。そして神の家族となるのです。わたしたちはこの東小金井教会の礼拝を通してイエスの家族となるように招かれ、互いに祈りあい、神の家族となる幸いを覚えながら、信仰の旅を続けて行きたいと願います。
by higacoch
| 2012-08-25 11:33
| マタイ
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