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2012年7月22日

 「信頼して歩みを起こす」
        イザヤ書55:8-11、マタイ福音書8:5-13  
                            関 伸子 伝道師


 マタイが8:1から始めたイエスの奇跡物語の第二話が今日の聖書箇所、「中風の僕の癒し」の物語です。百人隊長の僕は物語には登場せず、百人隊長が中心的な役割を担っていることに興味を惹かれます。物語は「イエスがカファルナウムに入られると」と書き出します。
 カファルナウムには弟子のペトロの家があり、イエスはその家を定宿としておられました。イエスは7章までの「山上の説教」を語り終えられて、山を降りられカファルナウムにあるペトロの家へと帰って来られました。そこにある「一人の百人隊長が近づいて来て懇願し」たのです。百人隊長とは、ローマの軍隊において定員100名の軍団兵の指揮を取った歩兵小隊長です。8:2に重い皮膚病を患っている人が「イエスに近寄り」とありましたが、それと同じ言葉がここに用いられています。イエスとその背後には、従って来ている多くの群衆がいるとありますから、皮膚病を患っている人がそこに近寄ることは大変なことなのです。この百人隊長がイエスに近づいて来たことも、別の意味で、大変なこと、驚くべきことであると言えるでしょう。百人隊長はイエスに近づき、自分の僕の救い、癒しを願いました。異邦人が、しかもユダヤ人たちを今支配しているローマの軍人が、ユダヤ人であるイエスにこのように救いを求めることは、普通はあり得ないことなのです。
 イエスは、彼の懇願を聞いて、「わたしが行って、いやしてあげよう」(7節)と言われました。しかしこの言葉は、このように訳すのがよいのか議論があるところです。別の解釈の仕方をするとこの箇所は、「わたしに行ってあなたの僕をいやせと言うのか」という意味になります。この話を、マタイ15:21以下のカナンの女の信仰の話と重ね合わせて読む時に、拒絶の言葉として読む必然性が見えてくるのです。15:21以下には、イエスがティルスとシドンの地方に行かれた時のことが語られています。そこで一人のカナンの女が、悪霊に苦しめられている自分の娘の癒しをイエスに願ったのです。カナンの女とは、つまり異邦人のことです。その女の願いを聞いた時、イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言いました。さらにイエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。ユダヤ人は子供たちであるのに対して、異邦人は小犬だというのです。イエスがそのように異邦人からの救いの願いをある意味で大変冷たく拒絶されたことと合わせて考えるならば、同じ異邦人の願いを、この8章において「わたしに行って癒せと言うのか、そんなことはできない」という意味にとった方がよいのではないかと思うのです。
 7節を拒絶の言葉と読む方をとるならば、百人隊長の言葉の意味は変わってきます。その場合にはこういう意味になるのです。「主よ、おっしゃる通り、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。異邦人である私があなたの救いを求めることなど分を超えたことであるとわきまえています。しかしせめて、あなたのお言葉をいただけないでしょうか。それだけで、私の僕は癒されると信じています」。百人隊長の言葉をそのように読むと、先ほどの15章のカナンの女の話と更に重なってくるのです。この百人隊長も、カナンの女も、異邦人であるゆえに、イエスの拒絶を受けたのです。イエスから、あなたに与える救いはない、と言われました。しかし彼らはそれであきらめなかったのです。彼らは、イエスの言葉を受け入れたのです。
 イエスは百人隊長に「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われました。13節に、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」というイエスの言葉があります。そして、「ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」とあります。イエスの一言で病気が治りました。その一言とは、「あなたが信じたとおりになるように」というものでした。つまりこの癒しは、百人隊長の信仰によってもたらされたのです。
 イエスが言われた「あなたが信じたとおりになるように」という百人隊長の信仰とは、「イエスにお願いすれば、病気も必ず治るに違いない」という彼の確信ではありません。人間の側の確信ではないのです。この百人隊長が、イエスのみ言葉にこそ権威があり、力があることを信じ、その御言葉を求めたということなのです。その信仰の通りに、恵みが、救いのみ業が与えられたのです。私たちが神様の救いのみ業にあずかるのは、このような信仰によってです。
 神の言葉は、神の御心を確実に成就する権威ある力だということが、旧約聖書の教える真理でした。イザヤ書55:10-11にはこう記されています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」聖書は、神の言葉の威力を繰り返し語ります。
 信仰とは、神とその御言葉に信頼すること。それ以上でもそれ以下でもないのです。
 私たちに求められていることは、驚くということ以上にイエスの御言葉にこそ、わたしたちを救う権威と力があると信じることです。イエスの御言葉を求めていく時に救いがわたしたちたちに与えられていくのです。百人隊長は自分が異邦人であること認め、自分が神様の選びから漏れている人間であるということを知っていました。しかし、自分はただイエスの言葉だけが欲しいと求めたのです。神の業が及ぶ場所に何とかして近づこうとして、イエスにより頼んだのです。わたしたちもイエスの言葉を聞き、信頼してキリストによって明示された場所へと歩みを起こす者でありたいと思います。
by higacoch | 2012-07-28 11:34 | マタイ
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