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2011年4月3日

「共に生きるため」  創世記50:15-20、ルカ福音書11:1-13
 
 東日本大震災で多くの人が亡くなりました。未だに安否不明の方が1万8千人を超えています。こうした災害で人が亡くなったりすると、自分は解ったかのようにある解釈をする人がいたりします。東京都都知事が「天罰だ」と言い、その後、多くの非難を受けて謝罪しました。このように天罰とか、罪のせいだ、という人がいたりします。この点、イエス様は、はっきりと否定されています。都エルサレムのシロアムの塔が倒れてしまいって、18人の人が亡くなりました。すると人々は言いあいました。「あの18人はエルサレムに住んでいるほかのどの人よりも罪深い者だった」と。それに対してイエス様は「決してそうではない。」と強い否定で言われています。これは「とんでもないことだ」という意味です。(ルカ福音書13:1-5参照)
 さて、私はネットによって、また新聞で、多くの人たちの応援メッセージを読むことができました。個人メッセージもあれば、団体のもありました。特に今回は、日本の大学がどんなメッセージを発信しているのかと思い、幾つかの大学のホームページを開いて読んでみました。早稲田、慶応大学、キリスト教系の青山学院、明治学院、国際キリスト教大学と、その中で慶応大学の対応に良いものを感じました。学長のメッセージですが、こうありました。「想起すべきは、福澤先生の言われた、実証的な科学という意味の「実学」、物事の軽重を冷静に判断するという意味の「公智」、そして災害などにあって困難な状況にある人を思いやる心という意味の「徳心」です。これらは東北地方太平洋沖地震で被災された方々を救援し、被災地の復興をはかるときに、なによりも大切なものであります。慶應義塾はこの三つを基本にして、被災者の救援、被災地の復興、そしてその先にある日本の経済社会全体の回復とさらなる発展に貢献していきたいと考えています。」と。困難な状況にある人々を思いやる心、このことが大事だと説き、強調してありました。他方、残念なものもあります。キリスト教の諸教派の中で、災害に遭った方々に何らかの因果応報を考えるような発言であったりします。因果応報的な理解は、聖書の中にも出てきます。それはヨブ記に出てきます。ヨブは正しい人でしたが、いろいろな災害に遭います。家族を亡くす、家を無くす、財産も無くして、彼は無一文になります。さらに自ら皮膚病で苦しむことになります。そうした時、彼を励まそうと友人たちがやってくるのですが、その友人たちが因果応報の考え方でヨブを説得しようとします。このことでヨブはさらに苦しみます。イエス様が言われたように、災害で亡くなった方々に対して罪のせいだと、解釈すべきではないのです。
 私は、こうしたことを思い巡らしていたら、神谷美恵子さんが書かれた「人間をみつめて」を思い出しました。神谷さんはハンセン病患者さんに生涯を捧げて仕えてられた女医さんです。この方が最初に、瀬戸内海の小さな島、長島にあった国立療養所「長島愛生園」に見学に行った時に詠んだ詩が有名です。「あなたよ、なぜ、私たちではなくてあなたが? あなたは代わって下さったのだ。代わって人としてあらゆるものを奪われ、地獄の責苦を悩みぬいてくださったのだ」と。後、神谷さんは、この療養所に戻ってきて医療活動をされていきますが、若い時のらいの人との出会いが神谷さんの医者としての原体験となって人生に大きな影響を与えているのです。(現在、「らい」は差別用で使用不可です。)
 今回の大震災でも神谷さんのように、問いかけている人もいらっしゃるだろうと思います。「あの方は亡くなって私は生きている。どうしてあの人たちで、私たちではないのか」「どうして妻が死んで、私が生きているのだろう。子どもが死んで私が助かったのだろう。親が死んで、夫が死んで、どうして私が助かったのだろう。死なないで生きているのだろう。助けられて、生かされているのだろう」と。こうしたことを考えますと、生の問題を深く考えさせられます。どうして生きているのか。どうして今、生かされているのだろうか、と。
 こんなことを思い巡らしながら、今朝の箇所を読む時、イエス様が教えられた祈りは、まさに私たちがどのように生きていくべきかを示し、教えておられると思いました。
 イエス様が教えて下さった祈りの特徴は、「わたしたち」であります。「わたし」ではありません。「わたしたち」の所を、みな「わたし」に変えて読んでみると、「わたし」中心主義、自己中心主義となっていきます。「わたし」のために、神様、聞いて下さい。神様、「わたし」のためにこうして下さいと。祈りが、「わたし」のためだけになるのです。こうなると人間関係で、「わたし」と「わたし」とが、ぶつかり合いを起こしてしまいます。もしそう祈るなら、イエス様が教えて下さった祈りからどんどん離れていきます。これはファリサイ派の人たちの祈りでした。(ルカ福音書18:9-12参照)
 イエス様が教えられた祈りは、決して自分だけの「わたし」のためではなく、共に生きる「わたしたち」のためとなっています。わたしたちとは、「わたし」と「わたし」とをつないでいるものであり、つながりを持っているということで、「共に」生きていこうとするものです。イエス様が弟子たちに教えて下さった祈りは、わたしだけが生きるための祈りではなく、共に生きるためのわたしたちの祈りなのです。
by higacoch | 2011-04-04 16:31 | ルカ
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