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2012年3月18日

「ナルドの香油」   マルコによる福音書 14:3-9
      藤井哲夫牧師(日本アライアンス教団 東京キリスト教会)

 簡単に自己紹介をします。私は広島アライアンス教会で中学3年の時受洗し、やがて社会人となり建設機械メーカーに34年間務め、その間国内を十回転勤し、その都度転会しました。牧師となった経緯は、11年前の栃木市で行われたギデオン協会北関東地区大会に遡ります。その会場となったホテルは作家山本有三の生家の隣でした。玄関前に、彼の小説「路傍の石」の石碑がありました。「たった独りしかない自分を、たった一度しかない一生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきた甲斐がないじゃないか。」定年まで数年を残していましたが、この言葉がリアリティーをもって心に残りました。
 学生時代に信仰を培っていただいた先生たちが今尚第一線で奮闘されている姿を見て、受け継いだ信仰を次世代に伝える責務を感じました。若くはありませんが、残る人生を主に捧げようと決断し、幸い妻も受け入れてくれましたので、早期退職し神学校に行きました。
 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:13)。

 今レントの時を迎えていますが、今日与えられた聖書の箇所は、マルコによる福音書14:3-9のナルドの香油の物語です。過越の祭りが近づき、主イエスはベタニアのシモンの家で食事の席に着いておられました。すると、一人の女性が高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、壺を割り、主イエスの頭に全部注ぎました。
 私たちは愛する人に犠牲を払うことを少しも惜しいとは思いません。むしろ喜びとします。女性はこの時に出来る最大の愛を主イエスに与えました。
 カトリック信徒の医者である山浦玄嗣(はるつぐ)さんは、古里の岩手県気仙地方の言葉を用いて「ケセン語訳」福音書を出版しました。その中で、「愛する」という言葉は古里の人々にはぴんと来ない。「大事にする」と言えば、心に染みると書いています。まさにこの女性は、主イエスを「大事に」したのです。
 ヨハネ福音書によれば、この女性はマルタの妹マリアです。彼女の行為に人々から憤りの声があがりました。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。」常識的には全く正しい非難です。しかし道理に適う非難こそが、主イエスに対する無理解でした。彼らはマリアの心を理解しないで、マリアの行為をとがめました。私たちも愛を忘れて他人を責める時、重大な誤りに陥ります。ヨハネ福音書によれば、非難したのは「イスカリオテのユダ」です。彼は貧しい人々のことを心にかけたのではなく、預かっている金を盗んでいたからです。いずれにしても人々は香油の高価さに心が奪われ、彼女の真実な愛を理解しませんでした。私もその場にいたならば、恐らく同じように非難したのではないでしょうか。
 計算高いユダは、香油を値踏みしました。「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」一デナリオンは、ほぼ労働者の一日の賃金でしたから、三百デナリオンは一年の稼ぎです。とがめられたマリアは立つ瀬がありません。ところが主イエスは、「するままにさせておきなさい。なぜ、その人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるから、したい時に良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない」と言われ、彼女の行為を正しく評価し、いつでも出来ることと、今でなければ出来ないこととを区別されました。
 主イエスは十字架の死を間近にしながら、深い寂しさを感じておられた時でしたので、マリアの行為の中に深い愛を感じ取られました。彼女は主イエスの寂しさを全身全霊で慰めようとしたのです。
主イエスはマリアの行為を永遠の記念とされました。「この人は出来る限りのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われ、彼女の愛の行為を御自身の埋葬の準備とされたのです。ナルドの香油の香りは、主イエスの行かれる所どこまでも付いて行きました。
マリアの行為には打算がありませんでした。主イエスは、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」と称賛されました。人の称賛を意識した行為は直ぐにメッキが剥がれますが、信仰と愛から出た純粋な行為は、たとえ小さくとも永遠に滅びません。
 主イエスは、貧しいやもめがその日の持てる全てのレプトン銅貨二枚を神殿の賽銭箱に入れた献金を、金持ちが入れた高額の献金よりもお喜びになりました(マルコ12:41-44)。
 マザーテレサはこう言っています。「大切なのは、どれほど多く行ったかではなく、行うにあたってどれほど多くの愛を注いだかなのです。」
 使徒パウロは次のように勧めています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなた方はこの世にならってはいけません」(ロマ12:1-2)。マリアは、この世の基準によらない信仰と愛の物差しでナルドの香油を献げました。この行為こそ私たちが学ぶべき礼拝の姿勢ではないでしょうか。
by higacoch | 2012-03-19 16:52 | マルコ
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