「キリストを伝えるだけ」 詩編19:2-5,Ⅰコリント2:1-5
伝道者パウロは、元は熱心なユダヤ教徒でした。彼自身、自分のことを「ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については、非のうちどころのない者」と告白しています。彼はユダヤ人としてエリート中のエリートの人生をまっしぐらに生きてきた人であり、キリスト者の迫害者としても急先鋒でした。その彼が復活のイエス様に出会って、回心しました。迫害者から伝道者になったのです。教会の迫害者の時にまっしぐらに迫害のために進んでいったのと同じように、伝道者になった時には現在のトルコ、ギリシアへと見知らぬ外国へ率先して伝道旅行に出かけて行きました。徒歩と船旅で、一度だけでなく、3度も出かけているのです。こうした彼の活動を見ていくと、彼はどこにでも出かけていく、強靱な精神の持ち主だと思ったりします。しかしながら、今朝の箇所でコリントの町の伝道に出かけたときの心境を吐露していますが、「わたしがそちらに行ったとき、衰弱していて、恐れに取りつかれて、ひどく不安でした」と言っています。 彼がコリントに伝道に来たのは、第2回目の伝道旅行の時でした。その前には、ギリシアの中心的な大都市、アテネで伝道しました。その伝道の様子が使徒言行録17章に記されていますが、アテネでは伝道が旨くいかなかったのです。それで、コリントでは意気消沈していたのかもしれません。ただ、その失敗は、彼の心的な面でのマイナスだけではなく、プラスの面もありました。アテネで伝道した時、彼は彼なりに知恵を絞って、ギリシア人であるアテネの人びとにキリストの福音を受け入れて欲しいと願って説教しました。彼は集まった人びとに説教しましたが、その後半部でキリストの十字架と復活のことを話し出したら、人びとは「復活など馬鹿馬鹿しい。その話は、また後で」と言ってそこから立ち去ってしまったのです。パウロとしては、自分なりに知恵を働かせて、知恵を求めるギリシア人に伝道したのですが、それが反って失敗の憂き目にあったのです。こうした経験をして、彼はある決意をしました。その決意の元に、ここコリントの町にやってきたのです。それは、「神の秘められた計画」を宣べ伝えるのに、優れた言葉や知恵を用いないということでした。 私は、ここで「神の」に注目したいのです。神ご自身の「秘められた計画」です。人間の計画ではなく、神が計画された事であり、神が為された出来事です。これをパウロは人間的に優れた言葉や知恵でもって伝えることを断念しました。断念したからと言って、伝えることをしなかったのではありません。彼は「わたしの言葉もわたしの宣教も知恵にあふれた言葉によらず」と言っています。ここで彼は「わたしの言葉」「わたしの宣教」と言っていて、自分の知恵による言葉によって、神の秘められた計画を伝えることはしないということです。それよりも彼は「十字架のことば」によって伝えたのです。 つまり、「わたし」の言葉によって宣教するのではなく、「神」の言葉、十字架の言葉によって宣教するのだということです。「わたしは、あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言っています。十字架につけられたキリストをのべ伝える、このことに集中するのだと言うことです。ですから、イエス・キリストについて、キリストはどこで生まれたとか、どの村で育ったとか、どんな仕事されたとか、どんなことを話されたとか、そうしたことを話すよりも、この方が、十字架につけられ、死なれた方だ、と言うことに集中して語ったということなのです。 パウロ自身もこの手紙の最後の方で、こう言っています。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと」と。こうしたことを考え合わせてみますと、十字架につけられたキリストを伝えるというのは、「キリストが十字架に架かって死んで下さったのは、わたしたちの罪のためであった」ということに尽きるのです。キリストの十字架の死は、コリントの町の人々の為であり、またすべての人のためであったということ、そして私たちのためでもあると言うことです。 しかもパウロが言うように、この救いの出来事を人間的な知恵の言葉、優れた言葉で伝えたのではありません。「わたしの言葉」「わたしの知恵」で伝えたのではないのです。それは、人間の知恵で、神の秘められた計画、救いの計画を知り得ることが、出来ないからです。彼は、自分の言葉ではなく、神の言葉(イザヤ書53章、苦難の僕)で「神の秘められた計画」を伝えたでしょう。そして救われる人が起こされた時、そこには神の力である聖霊が働いたのですから、神の前で誰一人、誇ることができない、誇る者は、主なるイエス・キリストを誇れ、と言うのです。 人が救われるというのは、神の秘められた計画であるイエス・キリストの十字架の贖い以外にはありません。この十字架の死によってのみ、救いが与えられているからなのです。だから、パウロは、イエス・キリストだけを伝えるだけだと言って伝えていったのです。ここにはしか救いはありません。
by higacoch
| 2011-10-17 16:14
| コリント
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