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2009年12月27日

「待ちつつ、望みつつ」 イザヤ65:17-19、Ⅱペトロ3:8-13

 今日は今年最後の主日です。1年という区切りでは、終わりを迎えますが、私たちの信仰生活においては、終わりを迎えるものではありません。私たちにとっての終わりは、主イエス様の再臨の日であり、それは終わりと同時に完成の日であります。その日を待望して生きていくのです。再臨の前に地上の生が終わり、天に召される方もおられるでしょう。
 私は、望みをもって生きるということで教えられた本の一冊に「夜と霧」という本があります。著者はV・フランクルで、ナチス・ヒットラーの時代の強制収容所アウシュヴィッツでの体験記ですが、そこで見た光景が記されています。フランクルはユダヤ人でしたので、捕らえられ収容所に送られますが、精神医学者でもありましたので、自分の周りに起こる多くの死をしっかりと見つめ、そこで起こった人間の生死の境を詳しく分析してこう書きつづっています。「人は未来(希望)を失うと内的に崩壊し、身心ともに生きる意味を喪失し転落(死)した」と。
 今朝の聖書箇所を読むと、人々はイエス様の再臨を期待し、その日が遅いと考えて不満を募らせ、その信仰が揺らいでいました。そんな人々にペトロは、主が約束を忘れたとか、怠けておられるのではなく、「主は一人も滅びないで、皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるからだ」と語り、「神の日の来るのを待ち望み、またそれが来るのを早めるようにすべきです」と言っています。このことは、私たちが再臨の日を早めることができるということではありません。ここで言われていることは、一人も滅びないように、あなたがたが、救われる人のために祈り、神が願われているように励みなさいと言っているのです。
 現代でも聖書を持ち出して、終わりの日は何時何時来ると預言する新興宗教があります。終わりの日に期待を持たせ、信者に伝道を急がせ、強制したりしています。人間の側で終わりの日を設けて、偽りの希望を与えています。それは幻想です。
 私たちにとって大事なことは、新しい天と新しい地とを、神が、備えてくださることを待ち望みつつ、歩み続けることです。私たちは主を見上げて、主が祈り求めるように教えて下さった「御国が来ますように。御心が行われますように。」と祈り求め、一人でも救い主イエス様を信じて生きる者が起こされるようにと祈り求めることです。
 マルチン・ルターは言いました。「たとえ世界が明日終わるとしても、今日、私はリンゴの木を植える」と。それは、主にあって今日の務めをしっかりとなしていくということです。たとえ明日、世界が終わろうとも、明日に自分の命が絶たれようとも、希望を抱いて、神の国の完成である終わりの日を待ちつつ、生きていきましょう。
by higacoch | 2009-12-31 00:59 | ペトロ
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