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2009年11月29日

「信じる者は待つのです」 フィリピ3:12-4:1  荒瀬牧彦牧師(めぐみ教会)

 以前、朝山正治先生が「信仰っていうのはその大部分が『待つ』だ」といわれていて、最近になってようやくその意味がわかってきた気がする。我々はキリストによって救いを得ている。神の国は確かに我々のうちに始まっている。しかしまだ救われていない。我々は「御国を来らせたまえ」と日々祈る者であり、神の約束を信じて、みこころが全地になる完成の時を待ち望みつつ生きている者なのである。
待つことをやめさせようとする力は強い。「あなたは一体何を待ってるのか。そんな信仰、トクなことはないよ。目に見える結果がすぐ出る、もっと良いものが他にあるのでは」というささやきが聞えてくる。現世利益を保証する宗教というのは、ある意味、「うちはお待たせしませんよ!おトクですよ」というセールスに成功しているビジネスであって、それは待ち望み続けることを愚かな行為とみるのである。
 あなたは待っているか?待ち望むべきものを待ち望んでいるか。それとも、ただ時の中を流されているか・・・これは重要な問いである。同じように時間を過ごしているようでいて、何も待っていない者と待っている者は根本的に異なる。「彼らは・・・この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを待っています」。
「待つ」という行為は、ぼんやりと手をこまねいているということとは違う。パウロの姿に注目しよう。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。
 パウロのこの前傾姿勢から、我々は過去によってすべてを決定されてしまうものでなく、前から、未来から今をつくられるものだ、ということを覚えたい。我々はキリストによって捕らえられているがゆえに、キリストを捕らえようと前へ体を伸ばす。前にあるものが我々を形成する。もちろん、複雑な問題、悲しい事態には長くて重い歴史があって、その集積としての今があるということは否定できない。けれども、キリストにつながれ、キリストの命を受けているものは、過去によって身動きできないほどに支配されるのではないのだ。過去はキリストの十字架がおってくださったのだ。過去はもちろん重い。しかしなお我々はキリストゆえに新しく生きることを許されている。キリストに結ばれた者には確かに、未来からつくられるという次元があるのだ。
 「キリストは明日おいでになる」(『讃美歌21』244)は、過去と未来が交錯するような不思議な歌だ。しかしこの歌は、十字架と再臨の間を生きる我々の使命をよく表現しているように思う。「み子キリストは、いつの世にも/みどり子としておいでになる。/その約束を果たすために、/わたしたちをも用いられる。」
by higacoch | 2009-11-30 22:06 | フィリピ
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